簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

文字の大きさ
36 / 281
フィスカルボの諍乱

矛盾の人 4

しおりを挟む
 ノルシュトレームみずからが言ったとおり、たしかにオリーヴィアの恩に報いる提言だったと言えるだろう。もしもベアトリスが狭量きょうりょうな封建領主であったなら、ノルシュトレームはその場で命を奪われていたかもしれない。老哲学者の命をした提言によって、ベアトリスは自身の“敵対者”に対する理解をより深めることができたのだ。ひとことで敵対と言っても、その言葉が内包するものがいかに多様であるのかを。

 ベアトリスは思考に整理をつけ、食堂に戻ってきた。ノルシュトレームにいくつか質問がしたかったのだが、そこには老哲学者の姿はすでになく、かわりに見慣れぬ若い男が座っていた。たしか助手としてノルシュトレームに随行ずいこうしてきていた男だ。背は高いのにどことなく貧相な印象のあるその男は、ノルシュトレームのものらしき噛み跡のあるフィンカハムに反対側から噛みついていた。
「は、おうお」
 フィンカから口を離さずに挨拶らしき声を上げた若い男は、眉根にしわを寄せ立ち尽くすベアトリスを前にして、十分に咀嚼そしゃくししっかりとフィンカを味わい、飲み込んでからようやくまともな人語を発した。
「先生は、食うだけ食ってもう帰りました」
「そ、そう……」
「僕は助手をしていた、ステファン・ラーゲルフェルトと申します」
「……ラーゲルフェルト?」
 目の前の奇態きたいな男が名乗った姓名と、かつて法務省で名を馳せた能吏のうりの姓名が同じであることに気付くまで、ベアトリスはかなりの時間を要した。ベアトリスが頭の中で情報の伝達経路を必死でつないでいる間も、ラーゲルフェルトはテーブルの上のサンドイッチスモルゴスりんご酒シードルを黙々と口に押し込み続けていた。
「あなた、以前もしや法務省に……」
「あ、ご存知で」
「……本当にあのステファン・ラーゲルフェルトなの?」
「何ですかね、その『あの』には、ちょっとした毒のようなものを感じますね」
「あ……ごめんなさい」
 ラーゲルフェルトは軽い口調で、かつ迂遠うえんな言い回しをしてはいるが、ベアトリスの言葉に含まれる非礼を指摘した。どうやらこの男はいつも、表面的にはこんな調子で、だが失言や論理矛盾は見逃さず軽い口調で批判する、というのが常態であるらしかった。
「……ところで、なぜあなただけ残っているの?」
「はあ、僕はどうやらクビだそうで」
「そうなの」
 ベアトリスはこうして、ラーゲルフェルトを雇い入れることになった。
 ただ、初めから重要な役職を与えたわけではない。このときはとりあえず、食客しょっかくとしてローセンダール家に滞在させる、という待遇だった。彼の扱いに勿体もったいをつけたのは、目の前のしまりのない男が本当に「あの」ラーゲルフェルトなのか、見極める必要性を感じたからだ。時間や境遇が人の才を失わせる、ということも珍しい話ではない。
 滞在日数に比して幾何級数きかきゅうすう的に横柄おうへいさを逓増ていぞうさせるラーゲルフェルトに対し、ベアトリスは社会倫理書の解釈やノルドグレーン憲章の条文についての見解など、数々の質問を投げかけてみた。果たして彼はたしかに、かつての能吏ステファン・ラーゲルフェルトであった。
 ベアトリスが法務省時代のことを彼に尋ねると、提示された回顧録はなかなかに意外なものだった。彼に言わせれば、法務省での清廉せいれんな仕事ぶりは、私心のおもむくままに振る舞った結果だという。
「ただまあ、ちょっと教条きょうじょう的に過ぎましたかね。おかげで椅子を追われましたから」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

3回目の人生は、悪役令嬢を辞めて引きこもります~一歩も出ずに国を救ったら、なぜか「聖女」として崇められ最強の男たちが部屋を包囲してくる件~

放浪人
恋愛
公爵令嬢エリザベートは、1度目は悪役令嬢として断罪され処刑、2度目は改心して聖女となり国に尽くしたが過労死……という悲惨な最期を遂げた。 記憶を持ったまま3度目の人生が始まった瞬間、彼女は固く決意する。 「もう絶対に働きません! 今世は部屋から一歩も出ず、睡眠と趣味に命をかけます!」 最強の拒絶結界『絶対領域』で部屋に籠城し、婚約破棄イベントも夜会も全て無視して惰眠を貪ろうとするエリザベート。 しかし、彼女の「働きたくない」一心からの行動――適当な農業アドバイスや、安眠妨害への容赦ない迎撃――が、周囲には「国を憂う深慮遠謀」「慈愛に満ちた奇跡」として超好意的に解釈されてしまう!? ヤンデレ化した元婚約者の王太子、物理で愛を語る脳筋騎士団長、効率厨の隣国王子、さらには古代の引きこもり少年までをも巻き込み、事態は国家規模の大騒動へ。 部屋ごと空を飛んで戦場を浄化し、パジャマ姿で古代兵器を操り、地下牢をスイートルームに変えながら、エリザベートは究極の安眠を手に入れることができるのか? 塩対応すればするほど愛され、逃げれば逃げるほど伝説になる、最強引きこもり令嬢の勘違いドタバタ溺愛ファンタジー、ここに完結!

『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています

六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。 しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。 「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

転生皇女セラフィナ

秋月真鳥
恋愛
公爵家のメイド・クラリッサは、幼い主君アルベルトを庇って十五歳で命を落とした。 目覚めたとき、彼女は皇女セラフィナとして生まれ変わっていた——死の、わずか翌日に。 赤ん坊の身体に十五歳の記憶を持ったまま、セラフィナは新しい人生を歩み始める。 皇帝に溺愛され、優しい母に抱かれ、兄に慈しまれる日々。 前世で冷遇されていた彼女にとって、家族の愛は眩しすぎるほどだった。 しかし、セラフィナの心は前世の主・アルベルトへの想いに揺れ続ける。 一歳のお披露目で再会した彼は、痩せ細り、クラリッサの死を今も引きずっていた。 「わたしは生涯結婚もしなければ子どもを持つこともない。わたしにはそんな幸福は許されない」 そう語るアルベルトの姿に、セラフィナは決意する。 言葉も満足に話せない。自由に動くこともできない。前世の記憶を明かすこともできない。 それでも、彼を救いたい。彼に幸せになってほしい。 転生した皇女が、小さな身体で挑む、長い長い物語が始まる。 ※ノベルアップ+、小説家になろうでも掲載しています。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました

iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

処理中です...