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エピソード28 不吉な言葉

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〈エピソード28 不吉な言葉〉

 プールで遊び尽くした勇也たちは、日も傾いてきたので上八木アクアランドを後にすると帰宅の途についていた。

 勇也の体には程よい疲労感が滲んでいる。

 でも、朝の時のような耐え難い激痛に襲われることはなかったし、やはり、神気による反動はもうなくなっている。

 一方、イリアは疲れた様子など全く見せずに涼しい顔をしていた。その横顔からは何とも言えない強壮ぶりを垣間見ることができるし。

 あの、運動神経が抜群の武弘ですら隠しきれない疲労の色を見せているというのに。

 プールにいた時から疲れを見せていた雫なんて今にも倒れないか心配になるような顔をしている。

 ま、雫に何かあれば全員でフォローしよう。

 そんなこんなで、自宅のある方向が完全に別になる交差点までやって来ると、勇也は今日という日を名残惜しむように口を開く。

「今日は本当に楽しかったよ。最近、心が晴れない日が多かったから、良い気分転換になった」

 そう言って、勇也は腕を上に掲げて大きく伸びをした。

 すると、溜まった疲れが逃げるように消えていくのを感じたし、癒しのスペシャリストのネコマタがいれば筋肉痛になってもヘッチャラだろう。

 その代わり、饅頭を買うお金は消費させられるが、そこは出し惜しみをしても仕方がない。

「そうか。ま、夏休みはまだまだ長いし、今度は別のレジャー施設に遊びに行こう。その時に無料になるチケットがあるかどうかは分からんがな」

 武弘はサラサラとした前髪を微風に靡かせながら言った。

 うーん、やっぱり鼻につく奴だな。

 でも、今日という日をプレゼントしてくれた武弘には感謝の念が尽きない。

 雫だけだったら絶対に自分を誘ってプールに行くなんていう甘酸っぱい展開にはならなかっただろうし。

 それだけに、武弘の気の利いた親切心のようなものには頭が下がるばかりだったし、結局、持つべきものは友達だという言葉に尽きる。

 そんなことを考えていると、イリアが面映ゆそうな顔で口を開く。

「宮雲さん、信条君、今日は私のような部外者に等しい者を誘ってくれてありがとうございました。私、友達とか全然いないし、学校にも行けないから、ご主人様とお二人の関係には軽く嫉妬していたんです」

 イリアの告白を聞いた勇也は辺りの景色が急に色彩を失ったように感じてしまった。

 いつも天真爛漫なイリアの心にも、やはり負の感情が芽生えるような時はあったんだな。イリアも精神的な面では超人ではいられないようだし、そこら辺は察してやろう。

「そ、そうなの?」

 プールで遊んでいた時もことあるごとに羨望の眼差しでイリアを見ていたような雫は胸の辺りに手を添えながら尋ねる。

「はい。私の知らないところで仲良くされて、ご主人様を奪われてしまうんじゃないかと卑屈に考えてもいました。だから、歯切れの悪いことしか言えなかったんだと思います。ホント、臆病でした」

 前に見せたイリアの魚の小骨が引っかかっているような態度はそのせいだったのか。ようやくモヤモヤしていたものがスッキリした。

 とにかく、イリアにも普通の女の子らしい感情は備わっているようだし、それは良い形で発露していけたらなと思う。

「そういうことを考えちゃう時はあるよね。私も同じようなものだよ」

 雫は共感したように言って微笑する。雫もイリアとは何か通じ合うものがあるのかもしれないな。

「そうですか。でも、今日はご主人様以外の人とも接してみて良かったと思いました。何だか心が温かくなりましたし、この気持ちは大事にしたいと思います」

 イリアは両手の指を組むと、俯き加減だった顔を上げて晴れ晴れとした笑みを浮かべた。

「そう言ってくれると嬉しいな。私、イリアさんと友達になりたいよ」

 雫にしては積極的な言葉だったが、不思議と違和感のようなものはなく、むしろ自然な流れのように感じられた。

 ちなみに、雫も武弘もイリアの発するご主人様という呼び方については、一切、追及してこなかった。

 二人とも腹の探り合いは、楽しい気分を阻害するだけだと思って控えてくれたのだろう。

 これが本当の友達というやつだ。

「ありがとうございます。では、今日からこの私と宮雲さんは友達ということで良いですね?」

 イリアは早業のように雫の手を取って握ると屈託なく笑う。あざといが雫なら許してもらえる行動だな。
 素直じゃない自分だったら、ぶっきらぼうな態度を取ってしまっただろうが。

「うん」

 雫もまるで菩薩のような優しげな微笑を浮かべながら頷いた。

「仲良きことは美しきことかな、だな。女の友情は脆いと言うが、俺はそんな言葉は眉唾物だと思っているぞ」

 武弘の言う通りだと思うし、雫とイリアの友情は末永く続きそうだ。

「俺も同じだな。心の在り方さえ間違えなければ、何事も不変ではいられないなんて言葉はただの言い訳になるのさ」

 勇也は自分でも青臭いことを言っているなと思い、その羞恥心を隠すように肩を竦めて見せた。

「勇也のくせに哲学的なことを言うではないか。この暑さで頭の思考回路がおかしくなってしまったか?」

 武弘はわざと軽口を叩いて場の空気を解そうとしているようだった。この気配りの良さは見習いたい。

「うるさいな。俺だって色々と考えているし、夏休み明けのテストじゃ必ずお前に一教科くらいは勝って見せるからな」

 勇也はまたしてもその場の勢いで喧嘩を吹っ掛けるようなことを言ってしまい、すぐに自戒する。いつまでも武弘に手玉に取られるのは癪だし、もっと毅然としなければ。

「それは面白いし、こちらも受けて立とう。その代わり負けた時の代償は、この前の期末テストより重くさせてもらうからな」

 プレミアムハンバーグよりも高い物というと、やっぱり、ステーキか。

「望むところさ」

 勇也は売り言葉に買い言葉の応酬をして、最後に溜飲が下がったような笑みを浮かべた。

 その後、何とも清々しい気持ちで武弘と雫と別れた勇也はイリアと一緒にまっすぐ自宅に帰ろうとする。

 イリアとの泳ぎの競争では、イリアのぶっちぎりの勝利で終わったし、今日の夕食は約束通り出前の寿司を取ろう。

 痛い出費ではあるが、あまりケチケチしても人生がつまらなくなるだけだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、曲がり角で出会い頭にどこかで見たことがある人物と鉢合わせする。

 この邂逅には勇也も懐かしい気分を味わうことになった。

「あなたは上八木イリアさんではないですか。こんなところで会うとは奇遇ですし、今日もまた一段と輝いていらっしゃいますね」

 暑苦しそうなローブを羽織り、フードを目深に被った男性がにこやかな笑みを浮かべながら言った。

 それを見て勇也も心がざわつくのを感じながら声を漏らす。

「あなたは……」

 勇也の記憶が確かなら、初めてイリアがこの町のPRをした時に道端で出会った男性だった。その時は道を尋ねられるだけだったが、今度は何だ?

「この前は中央広場に行く道を教えてくれてありがとうございました。おかげで迷わなくて済みました」

 勇也に向かってお礼を言った男性はこの暑さだというのに汗一つ掻いていなかった。外国人は自分とは発汗の性質が異なるのだろうか。

 いや、もしかしたらこの男性は……。

「いえいえ」

 勇也は謙虚に首を振って見せる。

 別に教えなくても余程の方向音痴でなければ中央広場には辿り着けただろうし、改めて感謝されるほどのことはしていない。

「イリアさんの目覚ましいご活躍も動画で拝見させてもらいましたよ。この町のPR活動は実に楽しそうですね」

 感銘を受けたように言った男性は絵に描いたような温厚さを見せる。

 不審な人物ではあるが、その言葉には清流のような響きがあるし、こちらに対する敵意も感じられなかった。

 悪い人物ではないと祈りたい。

「楽しいですよ。私、この町のことが大好きですから、自然と演技にも熱が籠っちゃうんです。それがたくさんの人の心を動かせたのなら言うことはありませんし、感無量ですね」

 そう口早に言ったイリアの笑顔には一点の曇りもなかった。上八木市の女神としての自負がその顔からは滲み出ている。
 それは前向きで、良い心の傾向と言えた。

「なるほど。この町の女神としては、素晴らしい心がけです。私の配下の者たちにも見習わせたいくらいですよ」

 男性は虚空を見詰めるような目をしながら辟易したように息を吐いた。

 その顔には死期が近い老人が持つような諦念さがあるし、本物の老人でもこんな長久の歳月のようなものを感じさせる顔はできないのではないか。

 そう思った勇也はこの男性は見かけ以上に年を食っているのではないかと推測する。

「配下?」

 聞きなれない言葉にイリアがオウム返しをしながら半眼になる。言葉尻を捉えた勇也もその言葉の意味を勘繰った。

「いえ、こちらの話です」

 男性は取り繕うような笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「もっとも、イリアさんと全く関係のない話ではないですし、ここで語らずともいずれ分かる時が来るでしょう」

「はあ」

 男性の意味深な言葉にイリアは要点が掴めないような顔をする。それは勇也も同じで、頻りに眉を顰めていた。

 一方、男性は見事なアルカイック・スマイルを浮かべながら、晴れやかな声を紡ぐ。

「では、この前のお礼に一つ良いことを教えてあげましょう」

「何ですか?」

「もし、この町で神が頻繁に生まれるのを止めたいというのであれば、この町の各所にあるモニュメントを破壊しなさい。そうすれば事は済みます」

 男性は背筋にゾクリと悪寒が走るような話をさも世間話の延長線上のような口調で言った。

 なので、勇也もすぐには言葉の意味が掴めず、思わず鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまう。
 それから、この男性はやはりただの外国人ではないと頭の中で警戒音が喧しく鳴るのを感じる。

 恙なく終わろうとしていた一日に急に不吉な影が差し込んできた。

「えっ!」

 イリアもそのあまりにも唐突な話にビクッと身を震わせた。

「突然の話で困惑するのも無理はないですね。ですが、それが今、必要とされていることなのです」

 男性の声には得体の知れない自信が宿っていた。

「あなたは……」

 イリアはまるで追い縋るような声を発する。が、男性はその声をヒラリとかわして見せるような顔をする。

 勇也も男性を捕まえるような言葉は吐き出せなかった。ただ、自分の動悸が荒波のように激しくなるのは感じていた。

「では、また会いましょう、上八木イリアさん。次もまた良き出会いであることを祈っていますよ」

 そう洒脱さを感じさせるように言うと、男性の体がいきなり黒い霧のようなものに包まれる。そして、黒い霧が霞むようにして消えると、そこに男性の姿は影も形もなかった。

 まるで、最初からそこには誰もいなかったかのような一切の痕跡を残さないような消え去り方だ。

 もし、テレポートでもしたというのなら、かなり侮れない力の持ち主だな。

 ここで出会ったのも偶然ではないだろうし、自分たちはどこかから見張られていたのか? ひょっとして、あの男性は千里眼でも持っているんじゃ……。

 二人きりになった勇也とイリアはその場に立ち尽くしながら、男性が消え去った場所をいつまでも穴が開くように見詰めた。
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