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香華子の事情

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 橘香華子(たちばな・かけね)は机に突っ伏していた。

 友人である今井澄佳(いまい・すみか)が声をかける。
「今度はどしたん?」

 香華子は顔をあげた。
「おっさん、死んじゃった……」

「だれ……?」
 怪訝な顔をする澄佳に香華子は訴えた。
「わたしのおっさんだよ! ずっと見守ってきたのに!」

「ああ、あれか……」
 澄佳は憐れむような優しい目になって続けた。
「あんたの頭のなかで飼ってるおっさん。妄想の。キャラとかいう、あれか……」
「うん……」
「とりあえず、現実の誰かじゃなくてよかったと思うよ」
「現実よりだいじだよ! わたし、おっさんを見守ることを生きがいにいままで頑張ってこれたのに!」

 ぱっつん前髪の下で瞳が悲しげに潤んでいた。直線の前髪にポニーテール、眉毛は太め。
 そこはかとなくキラキラしている澄佳に比べて野暮ったい印象を受ける。
 香華子は妄想を主燃料にして現代を生き抜く乙女だった。

 マンガ、アニメ、小説と好きなものはいろいろ多かったが、
そのなかでも最も好きだったのは、自らが生み出した妄想の『おっさん』である。

 澄佳は呆れつつ聞いた。
「なんで死んじゃったの、おっさん。事故?」
「自殺。コタツに上半身つっこんで、中で練炭に火をつけたの」 
「予想外に凝った死に様だな」
「必ず死ねるようにって、お酒と睡眠薬も一緒に飲んだんだよ……」

 澄佳はため息をついた。
「これを機会に妄想は終わりにしてリアルのおっさんでもナンパしてみれば? いま独身も多いっていうし。あたしは不倫じゃなきゃなんでもいいと思う」
「イヤ! 外の男は怖い!」
「あんた本物の怖いおっさんたちに囲まれて暮らしてるじゃない」
「みんなは可愛いよ、わたしのおっさんには程遠いけど」
「おっさん、死んだあとどうなったの?」
「どうにもならないよ、死んだら終わりだよ!」
「つーかさ、あんたの頭の中のことなんだから自由自在でしょ? なんでそうなるの?」
「おっさんの設定を考えたのはわたしだし、状況は考えたりするけど、決定して行動するのはやっぱりおっさん自身なんだよ! キャラは生きてるんだよ!」
「その微妙なサジ加減がよくわからん」
 澄佳はしばらく首をひねったあと、ふっきれたように言った。
「帰ろ、アイス奢ってあげるから」
「うぅーん……」
 悩み顔のまま、香華子は澄佳の言葉に従った。

「ただいまー……」
 香華子は意気消沈の体で帰宅した。

 リビングで兄の哲史が迎えてくれる。
「おかえり。どうした、なんか元気ないけど」
「おにぃ……、あのね、おっさんが……」

 香華子は助けを求めるように、兄へ事の次第を説明する。
 余計な枝葉が付き、わりと長い時間が経過した。

 話を聞き終えて、哲史は飲んでいたティーカップをテーブルに置いた。
「なるほど。だいたい香華子はキャラをいじめすぎなんだよ。四十三歳でいままで恋人がいたこともなく童貞で、現在無職の借金まみれなんて、そりゃ人生どうでもよくなる。死にたくなるよ」
「だってみじめなおっさんかわいいんだもん。見てると癒やされるし、こんなおっさんも頑張って生きてるんだからわたしも頑張ろうって気になるし……」
「そんなんだから死んじゃうんだよ……。とりあえず、死ななかったことにするところから始めようか。自殺を試みたけど、死ななかったんだ、おっさんは……」
「え、どうやって……!?」
「練炭自殺だって百パーセント成功するわけじゃない。睡眠薬だって普段から飲んでいれば効き目も弱くなる。いいか、香華子……」
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