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七 ネズミの住処な葛飾北斎宅
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北斎宅は長屋の端家に位置していた。
路地に面した、表の腰高障子は、昼間から締め切ったままである。
裏手の枝折り戸を開けて猫の額ほどの庭に足を踏み入れた。
伸び放題になった雑草をかき分けて踏みしだいた。
脛に草がこすれて痒い。
袴をはかずに来た短慮を後悔した。
今宵は冷え込みが緩いため、庭に面した障子は開け放たれていた。
食べ物が腐った悪臭に混じって、何日も風呂に入らぬためと老齢ゆえの臭いが鼻を突く。
居酒屋で呑めぬ酒でも呷ってから家に戻り、さっさと寝てしまえば良かったと、たちまち後悔し始めた。
「相変わらずひどいありさまだな」
聞こえよがしにつぶやいたが、聞こえてくるのは、隣人のいびきばかりだった。
「人の住居というより、鼠の住み処だな」
改めて嫌味を言った。
北斎はもちろん、お栄も家事をいっさいしない。
食べ物は、近所の煮売り酒屋から届けさせていた。
食べ物を包んであった竹の皮が畳の上に散らかり、誰かが差し入れしてくれた重箱が空になったまま放置されている。
「そろそろ、この家から引っ越すころだな」
ひとりで言ってひとりで頷いた。
引っ越し魔な北斎は、いままでに五十回近く引っ越ししていた。
占星術、ことに四柱推命に凝っているからだったが、星の運行に合わせて良い方位をとるために転居するなど、崎十郎からすれば正気の沙汰ではなかった。
家財がほぼ皆無で、大八車に載せれば事足りるから気楽な引っ越しには違いなかったが。
家の中にごみが溜まり過ぎてどうにもならなくなったら、掃除をする代わりに引っ越しするといったところが本音ではないかと考えていた。
北斎とお栄は散らかった家の中で一心不乱に絵を描き続けている。
火影のもとで、ふたつの影がゆらゆらと揺れている。
黒ずんだ柱には蜜柑箱が釘付けされていた。
箱の中には妙見菩薩が祀られている。
北斎は、天空でただひとつ動かぬ北斗星を信仰していた。
北斗星の守り神は妙見菩薩で、妙見菩薩は長寿の象徴である。
九月下旬から四月上旬まで炬燵を愛用している北斎は、早々と出した炬燵にもぐり込んで、かたつむりのような姿で絵筆を動かしている。
目下、描きためている画は、絵手本として出版するための画だろう。
版下絵を集めて出版された『北斎漫画』が好評を博して以来、次々に絵手本を世に送り出していた。
絵手本は、もともと、習画に用いられる肉筆の手本だが、門人が多くなり過ぎていちいち肉筆本を与えられなくなったという事情があった。
お栄は、目を釣り上げて必死の形相で筆を走らせているかと思えば、描いたものを矯めつ眇がめつしながら、次の一筆を描きあぐねていたりする。
真剣の勝負と同じなのだ。
紙を相手に死闘を繰り広げている。
崎十郎が入り込む余地はなかった。
狭い庭のくさむらを晩秋の冷たい風が吹き抜けた。
お栄は顎がほんの少ししゃくれているので北斎に『顎』などと呼ばれている。
「おい顎、精が出るな」
できるだけ軽い口調で、お栄に向かって呼びかけた。
「能面男が来たか」
お栄が仏頂面でつぶやき、またも描きかけの画に視線を戻した。
崎十郎は表情に乏しいので画にしにくいらしい。
わじるしの中に登場させられるなど、とんでもないので、もっけの幸いだと思っていた。
お栄は関羽の画を描いていた。
関羽が碁を打ちながら、医者に右腕の手術をさせている。
滴る鮮血が目を惹く、女と思えぬ力強い構図だった。
「わじるしか美人画ばかり描いておると思うておったが……」
いまにも動き出しそうな関羽に息を吞んだ。
崎十郎の目からすれば、画は完璧にできあがっていたが……。
「どうもいけねえ。目が死んでらあ」
口の中でぶつぶつつぶやいたかと思うと、お栄は、惜しげもなくびりびり引き裂いて反古紙入れに放り込んだ。
駕籠に入らずに畳の上に落ちたが、拾う素振りはみせなかった。
おおらかで男性的な気性のお栄は、北斎を凌ぐ才能の持ち主と目されていた。
堤等琳の門人、南沢等明に嫁したが出戻って、妻を失ったばかりの北斎とふたりで暮らしていた。
(おふくろが亡くなってから、もう三月あまりか)
塵を避けながら家に上がると、棚の上に置かれたちっぽけな位牌に向かって手を合わせた。
お栄がいつも着ている黒襟のかかった古い着物は、母、お琴が着ていた古びた格子柄の袷だった。
北斎とお栄がその気になれば、いくらでも稼げる。
いや、現に実入りはかなりあるはずだったが、好きこのんでの極貧生活だった。
(画狂と所帯をもったおふくろは、どのように思っていたのであろうか)
北斎の画に魅せられて所帯をもったならば金の苦労も苦にならなかっただろうが、名声に釣られ、気づけば子をなして、やむなく所帯をもったとすれば、崎十郎のせいで不幸になったのだ。
考えると憂鬱になり、周りの者を不幸にする身勝手な北斎が憎く思えた。
(もう来るまいと思っていても、また来てしまう。自分でもわからぬところだ)
安らぐ気分になれない家だったが、堅苦しい加瀬家より気楽さがありがたかった。
崎十郎は、散らかったものを押し分けてどっかと腰をおろした。
北斎は一晩中、厠に立つこともなく、次々に画を描き続けた。
驚いたことに、崎十郎の来訪に気づいたのは、翌日も午近くなってからだった。
お栄が「食うか」と手渡してくれた握り飯を頬張っていると北斎が厠に立った。
こちらをちらりと見たものの、なんの表情も浮かべなかった。
「鉄蔵も食うか」
厠から戻った北斎に、お栄が固くなった昨日の握り飯を手渡したときだった。
「もうし」
表の腰高障子をとんとんと叩く音がした。
「おい、誰か来たぞ、お栄」
「放っておきなよ、兄貴。大事な用があるやつなら裏から廻ってくるさ」
北斎はもちろん、お栄も戸口に向かいそうになかった。
「津軽出羽守家中の者でござる。戸を開けてくだされ」
大名家の家中を名乗られては黙っていられない。
「おい、お栄、応対に出ぬか」
まだ握り飯を黙々と食っているお栄に声をかけた。
「屏風絵を頼むって話だろ。しつこいったらねえんだ。放っておけば帰っちまうさ」
お栄は、にべもなかった。
「お頼み申す。津軽出羽守家側用人を務めます、竹越采女でござる」
意地になって戸を叩き続け、大声で案内を乞うている。
ちなみに、津軽出羽守の上屋敷は本所二ッ目にあり、ここ本所相生町とは目と鼻の先だった。
「なんとかお頼み申す。会うてくだされ。少しでよいのじゃ」
生真面目そうな声は、しだいに憐れ味を帯びてきた。
「いくらなんでも失礼ではないか」
たまらなくなった崎十郎は、立ち上がって戸口に向かった。
路地に面した、表の腰高障子は、昼間から締め切ったままである。
裏手の枝折り戸を開けて猫の額ほどの庭に足を踏み入れた。
伸び放題になった雑草をかき分けて踏みしだいた。
脛に草がこすれて痒い。
袴をはかずに来た短慮を後悔した。
今宵は冷え込みが緩いため、庭に面した障子は開け放たれていた。
食べ物が腐った悪臭に混じって、何日も風呂に入らぬためと老齢ゆえの臭いが鼻を突く。
居酒屋で呑めぬ酒でも呷ってから家に戻り、さっさと寝てしまえば良かったと、たちまち後悔し始めた。
「相変わらずひどいありさまだな」
聞こえよがしにつぶやいたが、聞こえてくるのは、隣人のいびきばかりだった。
「人の住居というより、鼠の住み処だな」
改めて嫌味を言った。
北斎はもちろん、お栄も家事をいっさいしない。
食べ物は、近所の煮売り酒屋から届けさせていた。
食べ物を包んであった竹の皮が畳の上に散らかり、誰かが差し入れしてくれた重箱が空になったまま放置されている。
「そろそろ、この家から引っ越すころだな」
ひとりで言ってひとりで頷いた。
引っ越し魔な北斎は、いままでに五十回近く引っ越ししていた。
占星術、ことに四柱推命に凝っているからだったが、星の運行に合わせて良い方位をとるために転居するなど、崎十郎からすれば正気の沙汰ではなかった。
家財がほぼ皆無で、大八車に載せれば事足りるから気楽な引っ越しには違いなかったが。
家の中にごみが溜まり過ぎてどうにもならなくなったら、掃除をする代わりに引っ越しするといったところが本音ではないかと考えていた。
北斎とお栄は散らかった家の中で一心不乱に絵を描き続けている。
火影のもとで、ふたつの影がゆらゆらと揺れている。
黒ずんだ柱には蜜柑箱が釘付けされていた。
箱の中には妙見菩薩が祀られている。
北斎は、天空でただひとつ動かぬ北斗星を信仰していた。
北斗星の守り神は妙見菩薩で、妙見菩薩は長寿の象徴である。
九月下旬から四月上旬まで炬燵を愛用している北斎は、早々と出した炬燵にもぐり込んで、かたつむりのような姿で絵筆を動かしている。
目下、描きためている画は、絵手本として出版するための画だろう。
版下絵を集めて出版された『北斎漫画』が好評を博して以来、次々に絵手本を世に送り出していた。
絵手本は、もともと、習画に用いられる肉筆の手本だが、門人が多くなり過ぎていちいち肉筆本を与えられなくなったという事情があった。
お栄は、目を釣り上げて必死の形相で筆を走らせているかと思えば、描いたものを矯めつ眇がめつしながら、次の一筆を描きあぐねていたりする。
真剣の勝負と同じなのだ。
紙を相手に死闘を繰り広げている。
崎十郎が入り込む余地はなかった。
狭い庭のくさむらを晩秋の冷たい風が吹き抜けた。
お栄は顎がほんの少ししゃくれているので北斎に『顎』などと呼ばれている。
「おい顎、精が出るな」
できるだけ軽い口調で、お栄に向かって呼びかけた。
「能面男が来たか」
お栄が仏頂面でつぶやき、またも描きかけの画に視線を戻した。
崎十郎は表情に乏しいので画にしにくいらしい。
わじるしの中に登場させられるなど、とんでもないので、もっけの幸いだと思っていた。
お栄は関羽の画を描いていた。
関羽が碁を打ちながら、医者に右腕の手術をさせている。
滴る鮮血が目を惹く、女と思えぬ力強い構図だった。
「わじるしか美人画ばかり描いておると思うておったが……」
いまにも動き出しそうな関羽に息を吞んだ。
崎十郎の目からすれば、画は完璧にできあがっていたが……。
「どうもいけねえ。目が死んでらあ」
口の中でぶつぶつつぶやいたかと思うと、お栄は、惜しげもなくびりびり引き裂いて反古紙入れに放り込んだ。
駕籠に入らずに畳の上に落ちたが、拾う素振りはみせなかった。
おおらかで男性的な気性のお栄は、北斎を凌ぐ才能の持ち主と目されていた。
堤等琳の門人、南沢等明に嫁したが出戻って、妻を失ったばかりの北斎とふたりで暮らしていた。
(おふくろが亡くなってから、もう三月あまりか)
塵を避けながら家に上がると、棚の上に置かれたちっぽけな位牌に向かって手を合わせた。
お栄がいつも着ている黒襟のかかった古い着物は、母、お琴が着ていた古びた格子柄の袷だった。
北斎とお栄がその気になれば、いくらでも稼げる。
いや、現に実入りはかなりあるはずだったが、好きこのんでの極貧生活だった。
(画狂と所帯をもったおふくろは、どのように思っていたのであろうか)
北斎の画に魅せられて所帯をもったならば金の苦労も苦にならなかっただろうが、名声に釣られ、気づけば子をなして、やむなく所帯をもったとすれば、崎十郎のせいで不幸になったのだ。
考えると憂鬱になり、周りの者を不幸にする身勝手な北斎が憎く思えた。
(もう来るまいと思っていても、また来てしまう。自分でもわからぬところだ)
安らぐ気分になれない家だったが、堅苦しい加瀬家より気楽さがありがたかった。
崎十郎は、散らかったものを押し分けてどっかと腰をおろした。
北斎は一晩中、厠に立つこともなく、次々に画を描き続けた。
驚いたことに、崎十郎の来訪に気づいたのは、翌日も午近くなってからだった。
お栄が「食うか」と手渡してくれた握り飯を頬張っていると北斎が厠に立った。
こちらをちらりと見たものの、なんの表情も浮かべなかった。
「鉄蔵も食うか」
厠から戻った北斎に、お栄が固くなった昨日の握り飯を手渡したときだった。
「もうし」
表の腰高障子をとんとんと叩く音がした。
「おい、誰か来たぞ、お栄」
「放っておきなよ、兄貴。大事な用があるやつなら裏から廻ってくるさ」
北斎はもちろん、お栄も戸口に向かいそうになかった。
「津軽出羽守家中の者でござる。戸を開けてくだされ」
大名家の家中を名乗られては黙っていられない。
「おい、お栄、応対に出ぬか」
まだ握り飯を黙々と食っているお栄に声をかけた。
「屏風絵を頼むって話だろ。しつこいったらねえんだ。放っておけば帰っちまうさ」
お栄は、にべもなかった。
「お頼み申す。津軽出羽守家側用人を務めます、竹越采女でござる」
意地になって戸を叩き続け、大声で案内を乞うている。
ちなみに、津軽出羽守の上屋敷は本所二ッ目にあり、ここ本所相生町とは目と鼻の先だった。
「なんとかお頼み申す。会うてくだされ。少しでよいのじゃ」
生真面目そうな声は、しだいに憐れ味を帯びてきた。
「いくらなんでも失礼ではないか」
たまらなくなった崎十郎は、立ち上がって戸口に向かった。
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