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第10話 戻るべき場所へと……
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「でかした。浅葱」
「よう頑張ったえ」
産湯のあと〝おくるみ〟にくるまれた双子の赤ん坊を、重右衛門とお信が大事そうに抱く。
「お嬢はんは産後の体どすよってに、大事とって寝とかなあきまへんえ」
お峰が、床から離れようとする浅葱に無理矢理、大布団を掛ける。
「壬生から戻った浅葱は一月余りも惚けたままやったさかい、えらい心配したもんやが。良かった。良かった」
目尻を下げた重右衛門のいかつい顔が、息の掛かるほど目の前に迫ってきた。
たった一本だけ剃り残された顎の髭が目立っている。
「おおきに」
浅葱は小さく頷いて重右衛門に笑みを返した。
己の心の変貌ぶりが心地よかった。
今朝、うちは突然、赤子の泣き声で目ぇ覚ました。
なんでかわからんけど、両隣で泣く双子の赤子が、うちと葛山さまの子ぉやと、すぐわかったえ。
浅葱には自然な流れに感じられた。
生まれてこのかたずっと抱えていた〝胸の中の空洞〟も今は満たされている。
同時に『浅太郎はもうどこにもいない』と確信した。
「生まれたときから、ちゃんと男の子と女の子や」
「浅葱のときは、おなごになったり男になったり、くるくる入れ替わるさかいに、うちらはどないしよかと気を揉んだものやなあ。あんた」
重右衛門とお信は顔を見合わせ、年輪を重ねた夫婦らしい笑みを交わし合った。
「けど、誰のお子どすやろか。土方さまどっしゃろか。沖田さまちゅうことはおへんと思いますけど」
お峰が見当違いな見立てを口にしながら目を輝かせた。
重右衛門とお信、お峰は揃って、〝一夜にして授かった赤子が浅葱の子である不可思議〟を自然に受け入れていた。
「見世の者やら世間さまには、どないに説明したらよろしおすやろな」
お峰が右手の指先を畳について前に身を乗り出した。
「早ぅ考えんとあきまへんなあ」
お信は袖で目頭を押さえた。
「浅葱は細い体なもんでふくれた腹が目立たんかったとでも言い繕うしかおへんえ」
重右衛門らは楽しい悪戯を企む子供のように額を付き合わせた。
「うちのときかて『腹が目立たん質で周りの誰も気付かんかった』いうて誤魔化し通しましたどすやろ。心配おへんえ」
お信は今まで見た験しのない満面の笑みで、片目をつぶって見せた。
「ほな。うちは乳母はんを探しに、あちこち当たってきまっさ」
お峰は着物の裾を引く音も小気味よく、いそいそ、浅葱の部屋を後にした。
「名前を考えんといかんな」
「ほんまに浅葱と浅太郎が赤子のときと瓜二つどす」
「いやいや見知った誰ぞにも似ているような……」
重右衛門とお信の語らいは尽きそうもなかった。
野分でも近づいているのか。
廊下に面した障子が風でがたがたと鳴った。
雨の匂いが部屋のうちにも流れ込む。
大布団の掛かった足下から寒気が這い上り、瞼が重くなった。
「眠となったさかい、一人にしてんか」
浅葱の言葉にお信が「ゆっくり休むんえ」と大布団を掛け直してくれた。
重右衛門とお信は、それぞれの胸に宝物のように赤子を抱きながら、そろりそろりと部屋を出ていく。
襖がそっと閉められる密やかな音を聞きながら、浅葱は心地良い眠りに就いた。
***************
「やっぱし気になるやおへんか」
「うちもなんや落ち着かへん気持ちどす」
気持ち良さそうに眠る赤子を上女中たちに預けるや、重右衛門とお信は、浅葱の部屋に取って返した。
朝早いというのに、空は暗さを増していく。
黒い雲が飛ぶように流れていた空は、野分の様相を呈し始めた。
渡り廊下に雨が吹き込む。
庭の枝折り戸がばたばたと音を立てる。
「浅葱は、もともと生人形から人に変じた〝人ならぬもの〟どすさかいにな」
後ろを歩くお信の言葉に、重右衛門は、
「なあに。大丈夫。わしらが慌てて部屋に戻ったら、浅葱は『せっかく寝付いたとこやったのに、目が覚めてしもたやおへんか』て、文句を垂れるに違いおへんがな」
返答しながらも、曲がりくねった廊下を駈ける重右衛門の足は速まった。
見る間に風が強まり、雨足が激しくなった。
浅葱の部屋の前で男衆が、横殴りに吹き込む雨風に抗しながら、雨戸を戸袋から次々に引っ張り出している。
「静かに閉めんかいな。浅葱は寝てるんやで」
雨戸を勢いよく閉め始めた男衆を小声で叱りつけた。
風雨が雨戸を容赦なく叩く。
「浅葱……。寝てるんか」
猫撫で声で問い掛けながら、静かに障子を開けた。
「あ、あかん」
敷居を跨いだ重右衛門の足先がぴたりと止まった。
浅葱は先ほどと同じ様子で目を閉じ、重ねられた布団を背にしていた。
掛けられた大布団は寸分も動いていない。
「浅葱は人形に戻ったんや」
確認するように口に出して呟いた。
「浅葱。浅葱」
立ち尽くす重右衛門の脇を、一足遅れてやってきたお信がすり抜け、倒れ込むように浅葱に取りすがった。
「浅葱。浅葱。なんでや。なんでや。起きんかいな」
お信は人形と化した浅葱の体を力いっぱい揺すった。
「男とおなごの赤ん坊を置き土産にして人形に戻るて……。なんちゅう親孝行な子ぉなんや」
重右衛門は人形の顔を両の手で挟んで頬擦りした。
指の腹で触れると、胡粉で仕上げられた人形の肌は冷たく、つるりとして滑らかだった。
「思えば不思議な因縁やった」
重ねた布団に人形を寄りかからせると、人形はくたりと首を垂れた。
「いつかこんな日が来るてわかってたやないか。元の姿に戻っただけや。なんも悲しゅうなんかおへんがな。『かぐや姫に去られた翁媼』より、子が残されたぶん、なんぼ幸せか知れへん。なあ、お信」
重右衛門はお信の肩を抱いた。
お信の暖かさが指に伝わってくる。
お信に手を触れんようになって十数年になると、重右衛門は改めて気付いた。
「お高に、誰ぞ、ええ亭主を世話せなあかんな」
小声で呟いた言葉に、お信がすかさず、
「うちの男衆の庄吉はどないどすか。こまい店でも持たせたらよろしおす」と応じた。
お信は丸髷に挿した鼈甲の櫛を抜いて、人形の髪を丁寧に梳き始めた。
「人形やったから、もともと男の体でも女の体でもおへんかった。そやから人に変じても『男になろか、おなごになろか』て、迷うたのどすやろなあ。可哀想に」
「ほんまになあ」
重右衛門はお信のすぐ隣に胡座を掻いた。
「人形に戻ってしまうかわからへんと思えば、気が気でなかったもんや。いつ別れが来るとも知れん子やと思うと不憫で甘やかしてばっかししてしもたが……」
重右衛門の言葉を、お信が優しく引き取った。
「今度の赤子は二人して大事に育てまひょ。けど……。躾は厳しゅうせなあきまへんなあ。我が儘放題に育てたら、子供は満足ちゅう言葉を知らんように育ちます。却って不幸になりますよってにな」
お信は目を赤くしながらも、華やいだ声で笑った。
「そちらの男の子が浅太郎で、こちらの女の子が浅葱どす」
重右衛門は、遙々、熊本から駆けつけた松井喜三郎に、双子の赤子を対面させた。
赤ん坊はお七夜もとっくに過ぎ、すくすく育っている。
重右衛門は桐の箱に納められた人形に目をやりながら、
「この子が事情を知ったら人形に戻るのと違うかと怖かったもので……。嘘を吐いてしもて堪忍しとくれやす」
重右衛門は喜三郎に向かって深々と頭を下げた。
「悪いのは私です。活計のためとはいえ、手放さねば良かったのですから」
喜三郎は飲みかけの茶を、静かに茶托に置いた。
「我が子にこうして十五年ぶりに再会させていただいただけで、感謝致しておりますよ」
喜三郎は丁寧に礼を返した。
「さぞ事情がおありどしたのやろ。ゆっくり聞かせて欲しおます」
重右衛門は喜三郎に水を向けた。
人形は、今や浅葱でも浅太郎でもなかった。
重右衛門は呼びかけるべき名前まで失ってしまった。
人形を手元に置いておきたいと思うものの見るたび辛くなる。
喜三郎に返すべきか否か。
重右衛門は心を決めかねていた。
「私は見せ物小屋の太夫元に頼まれて赤子の人形を作りました。自分で申すのもなんでございますが、会心の作に仕上がりました。大いに未練があったのですが、興行の日も迫っておりましたから、断腸の思いで渡しました」
喜三郎はいったん言葉を切って、人形の箱の傍らに座り直した。
「手放してすぐ『あれだけ真に迫る人形はもう一生掛かっても作れない』と後悔致しました」
喜三郎は重右衛門夫婦に語るというより、箱のうちで眠る人形に向かって話し始めた。
「思い余った私はね。四条河原の小屋を訪ねたのだが『夜泣きして皆が恐ろしがるので虚無僧に供養を頼んだ』というじゃないか。……一心院をはじめ、あちこちの神社仏閣を訪ね回ったものの、供養のため持ち込まれた形跡は何処にもなくってね。諦めるよりほかはなかったんだ」
喜三郎の目は、人形との間を糸で固定されたように、我が子から離れない。
「その後、私は〝生人形〟の名で成功をおさめたもので、日々の仕事に忙殺されてしまってねえ」
ここまで語って、喜三郎は再び重右衛門に目を戻した。
「で……今になって、どうしても我が子を探し出したくなった次第です」
重右衛門は喜三郎の執念に息苦しさを感じた。
「ほんで、とうとう安藤さまを見つけ出さはって、うちに訪ねて来はったわけどすか」
お信がはんなりと言葉を挟んだ。
「まさか、このように成長をしていたとは、思いも及ばぬことでございました」
今にも動き出しそうな人形の髪に、喜三郎はそっと手を触れた。
「人形の胴は〝提灯胴〟といって空洞です。空洞の胸に魂が宿って人のように成長したとは、人智を超えた神仏のなせるわざでございましょうか」
喜三郎は何度も人形の髪や頬を愛しげに撫でた。
重右衛門の太い丸太のような腕に抱かれた赤子の浅葱が、突然、大きなあくびをした。
張り詰めた重右衛門の心の糸が緩んだ。
重右衛門はとびきりの猫撫で声で、
「ほんまのお父はんのとこへ戻るか?」と、箱の中の人形に呼びかけた。
人形の口元が薄く開いて、ほんの少し微笑んだ。
瞬きしてもう一度しっかり見直すと、口は閉じられたままだった。
だが、笑みだけ口元に残っている。
「うちらはほんまもんの〝ややこ〟を授かったんや。人形は、生みの親の喜三郎はんに返すのが、やっぱり本筋どす」
重右衛門は決断を口にした。
「人形には人形のおるべき場所があるのや。なあ、お信。そないに思わんか」
唇を震わせるお信に向き合った。
「喜三郎はんのお子を、うちらは長いこと貸してもろてた、ちゅうことどすな」
お信は泣き笑いの顔を袖で被った。
「ありがとうございます。ありがとう存じます」
喜三郎は深々と頭を垂れた。
「世の人が見せ物小屋を必要とする穏やかな世が来れば、この子を観音像として仕上げて、皆様にご覧いただこうと思います」
畳に額を押しつけたまま、喜三郎は容易に頭を上げようとはしなかった。
「観音さまとなれば男もおなごもおへんもんなあ。まさにこの子は観音さまどす」
重右衛門は、ぽんと膝を打った。
胸にしっかと抱いた浅葱が、驚いたように丸い目で重右衛門の角張った顔を見上げた。
************
明治四年、松井喜三郎は江戸浅草で『西国三十三ヶ所観音霊験記』と銘打った興行を行った。
大人気を博した生き形の興行は五年の長きに及んだ。
とりわけ出色の出来は、三十三場面目の『谷汲観音像』だった。
今にも歩み出しそうに佇む姿は、男でも女でもない不可思議な魅力と清澄さを湛え、客が思わず知らず手を合わせたという。
了
「よう頑張ったえ」
産湯のあと〝おくるみ〟にくるまれた双子の赤ん坊を、重右衛門とお信が大事そうに抱く。
「お嬢はんは産後の体どすよってに、大事とって寝とかなあきまへんえ」
お峰が、床から離れようとする浅葱に無理矢理、大布団を掛ける。
「壬生から戻った浅葱は一月余りも惚けたままやったさかい、えらい心配したもんやが。良かった。良かった」
目尻を下げた重右衛門のいかつい顔が、息の掛かるほど目の前に迫ってきた。
たった一本だけ剃り残された顎の髭が目立っている。
「おおきに」
浅葱は小さく頷いて重右衛門に笑みを返した。
己の心の変貌ぶりが心地よかった。
今朝、うちは突然、赤子の泣き声で目ぇ覚ました。
なんでかわからんけど、両隣で泣く双子の赤子が、うちと葛山さまの子ぉやと、すぐわかったえ。
浅葱には自然な流れに感じられた。
生まれてこのかたずっと抱えていた〝胸の中の空洞〟も今は満たされている。
同時に『浅太郎はもうどこにもいない』と確信した。
「生まれたときから、ちゃんと男の子と女の子や」
「浅葱のときは、おなごになったり男になったり、くるくる入れ替わるさかいに、うちらはどないしよかと気を揉んだものやなあ。あんた」
重右衛門とお信は顔を見合わせ、年輪を重ねた夫婦らしい笑みを交わし合った。
「けど、誰のお子どすやろか。土方さまどっしゃろか。沖田さまちゅうことはおへんと思いますけど」
お峰が見当違いな見立てを口にしながら目を輝かせた。
重右衛門とお信、お峰は揃って、〝一夜にして授かった赤子が浅葱の子である不可思議〟を自然に受け入れていた。
「見世の者やら世間さまには、どないに説明したらよろしおすやろな」
お峰が右手の指先を畳について前に身を乗り出した。
「早ぅ考えんとあきまへんなあ」
お信は袖で目頭を押さえた。
「浅葱は細い体なもんでふくれた腹が目立たんかったとでも言い繕うしかおへんえ」
重右衛門らは楽しい悪戯を企む子供のように額を付き合わせた。
「うちのときかて『腹が目立たん質で周りの誰も気付かんかった』いうて誤魔化し通しましたどすやろ。心配おへんえ」
お信は今まで見た験しのない満面の笑みで、片目をつぶって見せた。
「ほな。うちは乳母はんを探しに、あちこち当たってきまっさ」
お峰は着物の裾を引く音も小気味よく、いそいそ、浅葱の部屋を後にした。
「名前を考えんといかんな」
「ほんまに浅葱と浅太郎が赤子のときと瓜二つどす」
「いやいや見知った誰ぞにも似ているような……」
重右衛門とお信の語らいは尽きそうもなかった。
野分でも近づいているのか。
廊下に面した障子が風でがたがたと鳴った。
雨の匂いが部屋のうちにも流れ込む。
大布団の掛かった足下から寒気が這い上り、瞼が重くなった。
「眠となったさかい、一人にしてんか」
浅葱の言葉にお信が「ゆっくり休むんえ」と大布団を掛け直してくれた。
重右衛門とお信は、それぞれの胸に宝物のように赤子を抱きながら、そろりそろりと部屋を出ていく。
襖がそっと閉められる密やかな音を聞きながら、浅葱は心地良い眠りに就いた。
***************
「やっぱし気になるやおへんか」
「うちもなんや落ち着かへん気持ちどす」
気持ち良さそうに眠る赤子を上女中たちに預けるや、重右衛門とお信は、浅葱の部屋に取って返した。
朝早いというのに、空は暗さを増していく。
黒い雲が飛ぶように流れていた空は、野分の様相を呈し始めた。
渡り廊下に雨が吹き込む。
庭の枝折り戸がばたばたと音を立てる。
「浅葱は、もともと生人形から人に変じた〝人ならぬもの〟どすさかいにな」
後ろを歩くお信の言葉に、重右衛門は、
「なあに。大丈夫。わしらが慌てて部屋に戻ったら、浅葱は『せっかく寝付いたとこやったのに、目が覚めてしもたやおへんか』て、文句を垂れるに違いおへんがな」
返答しながらも、曲がりくねった廊下を駈ける重右衛門の足は速まった。
見る間に風が強まり、雨足が激しくなった。
浅葱の部屋の前で男衆が、横殴りに吹き込む雨風に抗しながら、雨戸を戸袋から次々に引っ張り出している。
「静かに閉めんかいな。浅葱は寝てるんやで」
雨戸を勢いよく閉め始めた男衆を小声で叱りつけた。
風雨が雨戸を容赦なく叩く。
「浅葱……。寝てるんか」
猫撫で声で問い掛けながら、静かに障子を開けた。
「あ、あかん」
敷居を跨いだ重右衛門の足先がぴたりと止まった。
浅葱は先ほどと同じ様子で目を閉じ、重ねられた布団を背にしていた。
掛けられた大布団は寸分も動いていない。
「浅葱は人形に戻ったんや」
確認するように口に出して呟いた。
「浅葱。浅葱」
立ち尽くす重右衛門の脇を、一足遅れてやってきたお信がすり抜け、倒れ込むように浅葱に取りすがった。
「浅葱。浅葱。なんでや。なんでや。起きんかいな」
お信は人形と化した浅葱の体を力いっぱい揺すった。
「男とおなごの赤ん坊を置き土産にして人形に戻るて……。なんちゅう親孝行な子ぉなんや」
重右衛門は人形の顔を両の手で挟んで頬擦りした。
指の腹で触れると、胡粉で仕上げられた人形の肌は冷たく、つるりとして滑らかだった。
「思えば不思議な因縁やった」
重ねた布団に人形を寄りかからせると、人形はくたりと首を垂れた。
「いつかこんな日が来るてわかってたやないか。元の姿に戻っただけや。なんも悲しゅうなんかおへんがな。『かぐや姫に去られた翁媼』より、子が残されたぶん、なんぼ幸せか知れへん。なあ、お信」
重右衛門はお信の肩を抱いた。
お信の暖かさが指に伝わってくる。
お信に手を触れんようになって十数年になると、重右衛門は改めて気付いた。
「お高に、誰ぞ、ええ亭主を世話せなあかんな」
小声で呟いた言葉に、お信がすかさず、
「うちの男衆の庄吉はどないどすか。こまい店でも持たせたらよろしおす」と応じた。
お信は丸髷に挿した鼈甲の櫛を抜いて、人形の髪を丁寧に梳き始めた。
「人形やったから、もともと男の体でも女の体でもおへんかった。そやから人に変じても『男になろか、おなごになろか』て、迷うたのどすやろなあ。可哀想に」
「ほんまになあ」
重右衛門はお信のすぐ隣に胡座を掻いた。
「人形に戻ってしまうかわからへんと思えば、気が気でなかったもんや。いつ別れが来るとも知れん子やと思うと不憫で甘やかしてばっかししてしもたが……」
重右衛門の言葉を、お信が優しく引き取った。
「今度の赤子は二人して大事に育てまひょ。けど……。躾は厳しゅうせなあきまへんなあ。我が儘放題に育てたら、子供は満足ちゅう言葉を知らんように育ちます。却って不幸になりますよってにな」
お信は目を赤くしながらも、華やいだ声で笑った。
「そちらの男の子が浅太郎で、こちらの女の子が浅葱どす」
重右衛門は、遙々、熊本から駆けつけた松井喜三郎に、双子の赤子を対面させた。
赤ん坊はお七夜もとっくに過ぎ、すくすく育っている。
重右衛門は桐の箱に納められた人形に目をやりながら、
「この子が事情を知ったら人形に戻るのと違うかと怖かったもので……。嘘を吐いてしもて堪忍しとくれやす」
重右衛門は喜三郎に向かって深々と頭を下げた。
「悪いのは私です。活計のためとはいえ、手放さねば良かったのですから」
喜三郎は飲みかけの茶を、静かに茶托に置いた。
「我が子にこうして十五年ぶりに再会させていただいただけで、感謝致しておりますよ」
喜三郎は丁寧に礼を返した。
「さぞ事情がおありどしたのやろ。ゆっくり聞かせて欲しおます」
重右衛門は喜三郎に水を向けた。
人形は、今や浅葱でも浅太郎でもなかった。
重右衛門は呼びかけるべき名前まで失ってしまった。
人形を手元に置いておきたいと思うものの見るたび辛くなる。
喜三郎に返すべきか否か。
重右衛門は心を決めかねていた。
「私は見せ物小屋の太夫元に頼まれて赤子の人形を作りました。自分で申すのもなんでございますが、会心の作に仕上がりました。大いに未練があったのですが、興行の日も迫っておりましたから、断腸の思いで渡しました」
喜三郎はいったん言葉を切って、人形の箱の傍らに座り直した。
「手放してすぐ『あれだけ真に迫る人形はもう一生掛かっても作れない』と後悔致しました」
喜三郎は重右衛門夫婦に語るというより、箱のうちで眠る人形に向かって話し始めた。
「思い余った私はね。四条河原の小屋を訪ねたのだが『夜泣きして皆が恐ろしがるので虚無僧に供養を頼んだ』というじゃないか。……一心院をはじめ、あちこちの神社仏閣を訪ね回ったものの、供養のため持ち込まれた形跡は何処にもなくってね。諦めるよりほかはなかったんだ」
喜三郎の目は、人形との間を糸で固定されたように、我が子から離れない。
「その後、私は〝生人形〟の名で成功をおさめたもので、日々の仕事に忙殺されてしまってねえ」
ここまで語って、喜三郎は再び重右衛門に目を戻した。
「で……今になって、どうしても我が子を探し出したくなった次第です」
重右衛門は喜三郎の執念に息苦しさを感じた。
「ほんで、とうとう安藤さまを見つけ出さはって、うちに訪ねて来はったわけどすか」
お信がはんなりと言葉を挟んだ。
「まさか、このように成長をしていたとは、思いも及ばぬことでございました」
今にも動き出しそうな人形の髪に、喜三郎はそっと手を触れた。
「人形の胴は〝提灯胴〟といって空洞です。空洞の胸に魂が宿って人のように成長したとは、人智を超えた神仏のなせるわざでございましょうか」
喜三郎は何度も人形の髪や頬を愛しげに撫でた。
重右衛門の太い丸太のような腕に抱かれた赤子の浅葱が、突然、大きなあくびをした。
張り詰めた重右衛門の心の糸が緩んだ。
重右衛門はとびきりの猫撫で声で、
「ほんまのお父はんのとこへ戻るか?」と、箱の中の人形に呼びかけた。
人形の口元が薄く開いて、ほんの少し微笑んだ。
瞬きしてもう一度しっかり見直すと、口は閉じられたままだった。
だが、笑みだけ口元に残っている。
「うちらはほんまもんの〝ややこ〟を授かったんや。人形は、生みの親の喜三郎はんに返すのが、やっぱり本筋どす」
重右衛門は決断を口にした。
「人形には人形のおるべき場所があるのや。なあ、お信。そないに思わんか」
唇を震わせるお信に向き合った。
「喜三郎はんのお子を、うちらは長いこと貸してもろてた、ちゅうことどすな」
お信は泣き笑いの顔を袖で被った。
「ありがとうございます。ありがとう存じます」
喜三郎は深々と頭を垂れた。
「世の人が見せ物小屋を必要とする穏やかな世が来れば、この子を観音像として仕上げて、皆様にご覧いただこうと思います」
畳に額を押しつけたまま、喜三郎は容易に頭を上げようとはしなかった。
「観音さまとなれば男もおなごもおへんもんなあ。まさにこの子は観音さまどす」
重右衛門は、ぽんと膝を打った。
胸にしっかと抱いた浅葱が、驚いたように丸い目で重右衛門の角張った顔を見上げた。
************
明治四年、松井喜三郎は江戸浅草で『西国三十三ヶ所観音霊験記』と銘打った興行を行った。
大人気を博した生き形の興行は五年の長きに及んだ。
とりわけ出色の出来は、三十三場面目の『谷汲観音像』だった。
今にも歩み出しそうに佇む姿は、男でも女でもない不可思議な魅力と清澄さを湛え、客が思わず知らず手を合わせたという。
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嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
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