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Hallelujah
しおりを挟む青野鷹文、28歳。
俺の最近の楽しみは、何を隠そう、銭湯である。
銭湯はいい。本当に、いい。
俺の住むアパート周辺は大学密集地で、貧乏学生(♂)がわんさかと住んでいて、築年数だけは無駄に長い物件が多い。
シャワー付きとは名ばかりで、給湯が不安定な部屋も珍しくなく、結果として近所の銭湯が“第二の風呂場”みたいな扱いになっていた。
ピーク時の21時頃を見計らって、我が家のボロアパートの目と鼻の先にある「富士の山銭湯」を訪れると、なんと、まあ素敵!
創業昭和10年というその古びた銭湯は、目の保養になる若い男の肉体で溢れ返っているのだ。
そして今日も俺は、その肉体美を目当てに、鼻歌交じりに富士の山銭湯へ向かっているのだった。
「いらっしゃい。青野さん、今日も時間通りだね」
俺の性癖を知らない番台の気のいいオジちゃんは、今ではすっかり顔馴染みとなっている俺に明るく声を掛けてくれる。
「うん。相変わらずこの時間は賑わっているね。大盛況じゃない、オジちゃん」
「この時間帯は学生さんが多いからねぇ。だけど少し時間をずらせばガラガラだよ?」
「俺も仕事が忙しくってさ。この時間帯にしか来れないんだ、仕方無いよ。ま、入れるだけマシと思わなくちゃね」
俺はわざと困ったような表情を作り、ポケットからジャラジャラと小銭を取り出してから、シャンプー代込みの料金をオジちゃんに手渡す。
「そうなの? 大変だねえ、青野さんも。けど、この不況のご時世だ。仕事があるだけマシってもんさ。俺なんざこれでも数年前までは肩で風を切る有能な企業戦士だったんだぜ? 勤めてた会社が、再編だなんだであっという間に消えちまってね。今じゃ実家の銭湯の手伝いに落ち着いちまったのさ。青野さんも俺みたくならねえように、精々、今のうちに頑張っておくんだよ」
不精ひげがもっさりと生えたオジちゃんは、のどちんこが丸見えになるまで大きく口をあけて、カッカッカッとさも愉快そうに笑った。
そして、お釣りを返してくれると、「風呂上がりに冷蔵庫から勝手にフルーツ牛乳を一本取って飲んで帰んなよ」とも言ってくれた。
瓶のフルーツ牛乳も今じゃ珍しいらしいが、ここではまだまだ現役だ。キャッシュレス決済非対応、という張り紙が番台に貼ってあるのも、この銭湯らしい。
オジちゃんは本当にいい人だった。口が悪くて外見はむさ苦しいが、とても優しくて親切な人だ。
(ありがとう、オジちゃん。でも、嘘ついてゴメンね)
俺はオジちゃんと手を振りながら別れてから、少々興奮気味に脱衣場に向かった。
そこはまるで、この世のパラダイスだ。
見渡す限り、男・男・男。
しかも、裸の山。
中にはもう使い物にならんだろうヘロヘロお爺ちゃん軍団や、おいおいと突っ込みが入るような小太りメガネオタク君もちらほらと混ざっていたりもするが、密度的には若くてイキの良い、ヨダレもののお兄ちゃんの方がダントツに多い。
そして、彼等は今日もやはり、その瑞々しい肉体を惜しげも無く白日の下に晒しているのだ。
ああ、俺、男に生まれて良かったよ。
ありがとう、神様。
ありがとう、仏様。
俺は脱衣場のなるべく目立たない隅っこのロッカーを陣取り、この幸せな境遇をしみじみと噛み締めていた。
そして半勃ちになった腰回りをタオルで隠すと、更なる天国へと向かうべく足を踏み出したのだった。
少々、立て付けの悪い曇りガラスの扉を思い切って引くと、一瞬白い湯気に包まれて視界が閉ざされる。
しかし徐々にその薄暗がりの世界に慣れ出すと、目に飛び込んでくるのは生まれたてのあられもない姿の男達ばかり。
タオルで防御されている俺のものは、半勃ちを通り越えて一気に戦闘態勢、いつでも来いな状態だ。
ブラブラ、ブラブラ、揺れるペニスを横目にしながら、「こいつは形が良い」「こいつは包茎だから惜しい」などと、俺は毎日の楽しみであるペニスのランク付けに夢中になっていた。
そして高得点を獲得した自分好みの男を見つけてはそっと近付き、今夜のオカズにと、そいつのモチモノを目に焼き付けることを決して忘れない。
(ああ、なんて素敵なんだ。これが幸せってやつ……)
そして俺は、本日二度目の幸せを存分に味わっていた。
自分が、男にしか欲望を感じない=ゲイであると自覚してから、かれこれ十数年が経とうとしていた。
だからと言って、そうそう自分の周囲に同じ性癖の持ち主がいるはずもなく、いまだに俺は童貞であり、かつ後ろの処女を、不本意ながらも後生大事に守り続けていた。
ただし、俺も28年はしっかり生きている。
ネット記事や匿名掲示板、動画サイトなんかで断片的にでも知識をかき集めてきた。
実践を伴わないが、そういった知識だけは百戦錬磨並みの強者だった。
過去に一度だけ、いわゆるハッテン場と呼ばれる場所に足を運んだことがあったが、声を掛けられた途端に恐ろしくなって一目散に逃げ出していた。
その結果として俺の性格上、誰とでも寝ることが出来る訳じゃないということがわかった。
初めてだからということも関係あるのだろうが、いくら自分好みの男であっても、見ず知らずの男と寝るのは恐怖が先に立ち、そこから進むことが躊躇われていた。
そうこうして年月が流れ、相も変わらず俺の身体は男を知らずにいた。
そのくせ男の身体を想って、毎晩手淫で自らを慰めていた。
すでに28年と言う長い月日のうちに、俺の中には諦めというものが芽生えてしまっていた。
俺に足りないものはちょっとした思い切りと一歩を踏み出す勇気なのだろうと、俺自身、重々に承知していたのだが、その踏ん切りが未だに付かずにいるのだ。
客のピークを過ぎ、徐々に人影がまばらになってきた頃。
湯船に浸かっていた俺の頭も、すっかり熱気に当てられボンヤリとしていた。
これ以上いると、マジで逆上せるかも。
オジちゃんの言葉に甘えてフルーツ牛乳でも失敬するかと、腰を上げかけた時、ふとひとりの男が目に入ってきた。
その男はシャワーのコックを掴んで、頭からザバザバと勢い良くシャワーを被っていた。
(へえ…、なかなかいい体型してんじゃん)
腕の太さや背中から腰にかけてのライン。
脚の長さと引き締まってきゅっと上向いた尻などは、今日一番の合格点だ。
湯気に邪魔されて見えにくくはあるが、少々小振りながらも、その股の間にあるものはなかなか立派なものと見受けられた。
しかし生憎下を向いているため、そのご尊顔は拝むことは出来ない。
(もう少し近くで見てみよっかな~)
俺は周囲から不自然に映らない程度に、彼との間合いを徐々に詰めると、彼の隣りのスペースを素早く奪うことに成功した。
合格点の彼は無心に髪を洗っていた。
その度に力なく揺れるペニスと袋がなんとも可愛らしい。
肌は浅黒くつややかで、水を弾き飛ばすほど張りがあり、なんとも言えず艶かしかった。
そしてすんなりと伸びた手足はしなやかで、とにかく目を見張るほど長い。
おまけに綺麗な筋肉がついているところを見れば、どうやらスポーツをしているらしかった。
シャンプーの泡を豪快に周囲に撒き散らしながら洗う大雑把なところも何だか男らしいし。
股間のモノを隠そうともせず、堂々と周囲に見せつけている(?)所なども、俺的にとっても好印象だ。
何から何までいい感じ。
そいつは、実に俺好みの男だった。
(ああ、堪んないな。この胸の、この分厚さ)
(形良い、長さ良い、太さ良い、申し分なし! 色はどうだ、重さはどうなんだ?)
(触りてえ、扱きてえ、咥えてえッ!)
彼が腕を動かす度に肩や腕の筋肉が隆起する様を、俺は時間を掛けてゆっくり身体を洗いながら眺めていた。
見れば見るほど彼は俺の理想の男に一歩、また一歩と近付き、俺はタオルの下に隠れているワガママ息子が徐々に精力を漲らせていくのを感じていた。
そして、その彼が余りにも周囲を気にしないので、いつしか俺の方も気分が鷹揚になっていた。
横目でこっそり盗み見ていたはずが、彼が気づかないことを良いことに、今では血眼で覗き込む様にしっかり彼を……いや、彼のモチモノを目測、分析していた。
しかし普通、ここまで明け透けに見られれば、誰だってその気配に気が付くはずなのに、よっぽどその彼は鈍感なのか、それともわざと気付かない振りをしているのか。彼は俺を振り返ることもないし、顔をあげることさえもしない。
そうすると、俺はだんだんと彼の顔に興味が湧いてきた。
(身体やイチモツがいくら良くったって、顔が余りにもブサイクじゃエッチする度に萎えるってもんだよなあ。でもこいつ、マジでイケてなかったらどうしよう。折角、俺の理想の身体を持っているっていうのに、そりゃないよなぁ…)
30%の期待と、70%の不安が複雑に入り混じる。
(見たくない。でも、見てみたい!!)
(いや、でも…ああ、でも~……)
そんな迷いが足を引っ張り、俺は腰を上げるのが遅れてしまった。
逃げよう、と決めたその寸前に、遂に頭を洗い終えた彼が勢い良く顔を上げてしまったのだ。
もちろん、俺には彼の顔がバッチリ目に入っていた訳で。
その時、俺が思ったのは。
(あ゛……)
で、あり。
そして、次に思ったのは、
(うわぁ、滅茶苦茶イイ男じゃん……)
だった。
男は、かなりの至近距離にいた俺を、驚いた様に見ていた。
水に濡れて額に張りついた短めの前髪から雫がポタポタと流れ落ちて、それが目に入ってしまったのか、大きな手の平で乱暴に目元を拭った。
そして、もう1度、俺を見る。
一方、その時の俺はと言えば、言葉を無くして、彼の顔に見惚れてしまっていた。
理想の体型と理想の顔を持つ男が、こんな辺鄙な寂びれた銭湯という場所に存在していた。
これを奇跡と言わずして、なんと言うんだ?
こういうのを運命の出会いって言うんじゃないの?
俺の頭の中では、祝福の鐘がゴーンゴーンゴーンと鳴り響いていた。
しばしの間、俺達は双方見詰め合っていた。
そしてその沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。
「……ぼうっとして、湯あたりでもしたのかい? 青野さん」
彼は、俺の顔の前で手の平をヒラヒラ振って見せた。
「いえ、そんなことはないです」
俺は慌てて否定する。
「そうかい? 顔がえらく赤いし、本当に大丈夫なのかい? 風呂好きなのはよくわかるけど、あんまり長湯をするのは返って身体に良くないんだよ」
「あ、はい。すみません……」
俺が深深と頭を下げて謝ると、彼は大らかな笑い声を上げて、「フルーツ牛乳が程好く冷えた頃だろうし、逆上せてぶっ倒れる前に早く上がるんだよ」と、俺の頭をグシャグシャと濡れた手の平で掻き雑ぜた。
そしてヨイショという掛け声と共に立ち上がり、ノッソノッソと巨体を揺らしながら脱衣場の方角へ消えて行ってしまった。
惚けながら彼の背中を見送ってから、しばし俺の中で空白の時間が流れる。
そして。
(ん?)
ようやく俺の中で疑問が湧いてきた。
(……今のって、なに?)
今の?
今の……? え?
……………。
え? え? ええ? えええ? えええええ―――――ッ?!
見覚えの無い身体。
見覚えの無い顔。
それでも、その声と、間の取り方だけは、嫌というほど知っていた。
最近は妄想以外に使うことのなくなった煩悩まみれの脳味噌は、28年間の記憶のページを物凄い勢いで捲っていく。
そこで一致する人物は、やっぱりたった一人だけ。
まさかという気持ちで、俺は彼の消えて行った場所へと走る。
そして勢い良く開けた脱衣場のガラス戸の傍らで、俺は目的の背中を捕まえることに成功した。
「オジちゃんッ」
そう。
俺の記憶に間違いが無ければ。
彼は、あの、オジちゃん、であり……。
で、もって。
「おう、青野さん。どうしたんだい、血相変えて。やっぱり、逆上せちまったのかい?」
彼は手の平を振りながら、俺を振り返る。
俺の希望空しく、それはまさしく。
(ビ、ビンゴ……)
だったわけで、あり。
その時の俺は、まさしく、こんなのアリ? な状態だった。
「いったい、どうしたよ、青野さん。早く着替えねえと、今度は湯冷めして風邪引いちまうぜ?」
オジちゃんは相変わらず股間のモノを、プラン、プラン、とさせたままで、デカデカと「崎田酒屋」とネームの入ったタオルでゴシゴシ頭を拭っていた。
そのタオルは3日前に近くの商店街で行われた福引き5等の景品だった。
俺も持っているからよく知っている。
そして、さっきまで番台に座っていたオジちゃんが、そのタオルを首に掛けていたのも覚えている……、
て、ことは、だな。
どう考えても。この人は、あの、オジちゃんであるわけでして。
でもって。
俺の、理想の、男……。
俺が勝手にオジちゃんと呼んでいた、その人物は間近で見れば随分と若かった。
俺はてっきり、40をとっくに過ぎたオッサンかと思っていた。
番台に座っていたオジちゃんは、そう見えても全くおかしくない風体だったのだ。
しかし、今、目の前で爽やかな笑顔を浮かべる彼はおそらくは20代、いったとしても、30代の前半だろうと思われた。
「オ、オ、オ、オジちゃん。ひ、ひ、ひげ、ひげはどうしたのッ」
そう。
まず、今のオジちゃんにはひげがない。
あの、一見すると熊男にも見えかねない、もさもさと生えていたあの顎ひげが、ないのだ。
あのひげにまんまと騙されて、俺は自分の理想とする男がこんなに傍にいながら、長いこと見逃してしまっていたのだ。
くそう、恨めしいぞ、オジちゃん!
オジちゃん(いや、もしかすると俺がオジちゃんと呼ぶのは、かなり失礼なのではないだろうか? でも俺は彼の名前を知らないので、やっぱりオジちゃんと呼ぶしかないのだ……)は、ちょっと考える様に首を傾げてから、「ああ、そうか」とポンと手を叩いた。
「そう言えば、さっき大方1年ぶりくらいにヒゲを剃ったんだっけなあ。どうりで、仲の良いお客さんに声を掛けても、変な顔をされると思ったんだよ」
と、何だかしたり顔で、ふんふんと頷いている。
そりゃ、そうだろうよ……。
俺だって、驚いたよ。
まさか、あのたわしのようなヒゲの下に、こんな素ン晴らしい造りの彫刻顔が隠れていようとは、誰も気付きはしなかっただろうし。
おまけに毎日着ている小汚い半纏(丹前なんて恰好良い響きのものじゃない)の下に、こんな逞しい身体を隠し持っていたなんて。
そりゃあ、オジちゃん、卑怯ってもんじゃないか。
しかし、見れば見るほど、オジちゃんはイイ男だった。
感心するくらいに鍛えられた身体は垂涎ものだし。
俺より頭一つ分デカイ長身なうえに。
なんつう位置に腰があるんだ。スゲエ、脚長ッだし。
そして、どうしても目の行ってしまうアソコは……。
(ほ、ほ、欲しいぃぃ~~~~~~~ッ!!)
と、身悶えてしまうくらいで。
ああ、難癖の付けようが無いイケメンって言うのは、こういう人のことを言うのね、と、俺は妙に納得。
でも。
「青野さん、早く着替えた方がいいんじゃないのかい? 本当に風邪引いちまったら洒落にならねえ」
この、オヤジ口調はどうにかならないものなのか。
折角の美形が台無しなんだけど……。
「ねえ、オジちゃん」
俺は、オジちゃんから「早く拭け拭け」、と手渡されたタオルで冷え始めた身体を拭う。
「ん? なんだい?」
オジちゃんも俺が身体を拭き始めたのを見て、ようやく自分も着替えを再開した。
「オジちゃん、名前なんて言うの?」
「俺の名前?」
「オジちゃんさあ、もしかして、結構若いんじゃない? 俺、オジちゃん、オジちゃんって呼んでたけど、それってもしかしてかなり傷ついてたんじゃない?」
俺は頭にタオルを被り、恐る恐るオジちゃんの顔を覗きこむ。
オジちゃんは、そんな俺をじぃ~っと見ながら、しばし何かを考え込んだ。
「まあ、ちょっとは、ね」
「あ、やっぱり……」
一気に、どよんと気持ちが暗くなる。
「でも、あんなヒゲ面だった訳だし、元々喋り方がこんなだからねえ。昔からよく年寄りに間違えられてたから、別に気にしなくてもいいんだよ」
「でもさあ。俺のほうが気にするんだけど」
いや、実を言うと。
ただ、オジちゃんの名前が知りたいってのもあったりするんだけど。
オジちゃんは無地のトランクスの上にグレーのスウェットを履き、そして黄ばみ始めた白いTシャツに腕を通してから、紺地に赤のチェックが入った半纏を羽織った。
すると、さっきまで番台にいたオジちゃんと全く同じ姿が出来上がった。
……はあ、やっぱり彼は、紛れもなくあのオジちゃんだったのだと、しみじみ実感する。
「じゃあね、青野さんの名前も教えてくれるかい?」
「え? 俺?」
「俺はね、藤山大地。ウチの銭湯の名前の富士じゃないんだよ。藤の花の藤、で、山は一緒ね。店の名前はうちの死んだ爺ちゃんがもじって付けた名前だから。で、大地は、地面の、大地。これからはオジちゃんて呼ぶのはやめて、大地って呼んでくれればいいから」
オジちゃんは……いや、大地さんは自分の大きな手の平に、これまた極太な指でもって1文字1文字丁寧に、漢字を書きながら説明してくれる。
「へえ、凄い。ぴったりの名前じゃん」
良い意味にも、悪い意味にも、ぴったり……。
俺は胸の内でそう呟いた。
「そう?」
藤山さんはちょっとだけ頬を紅く染めて、今度は君の番だよ、と名前を尋ねてきた。
「青野鷹文。青野は、青色の青で、野は野原の野。鷹は鳥の、鷹ね。文は手紙の文」
「年は?」
「28」
「え?青野さん、28だったの?」
「オジちゃ……じゃなくて、大地さんは?」
「25。来月、26になるけどね」
「げ」
冗談だろ、と思ったのに、顔に出た。
大地さんは苦笑しながら、まず着替えてきてから話の続きをしようよ、と俺の肩をポンポンと叩いた。
そして俺は自分がまだ腰にタオルを巻いただけの情けない姿であったことを思い出した。
「うわ。恥ずかし…」
俺が大慌てで踵を返した、その時。
「俺的には、そのままの方が嬉しいんだけどね」
という声が背中越しに聞こえたような気がした。
え? と、振り向いた時には、すでに大地さんは番台に向かって歩いて行っている所だった。
(俺の聞き間違いだよな、きっと……)
妄想し過ぎているかも、と少々自分に対して心配になりつつ、俺は急いでロッカーに向かった。
番台に上がった大地さんから、冷えたフルーツ牛乳の瓶を「はい」と手渡され、俺はありがたくそれを頂戴した。
ところどころに煙草の焦げ跡が残る、木製の鄙びた番台に凭れかかり、俺はその瓶を口に運ぶ。
一気に飲み干すと、火照った体の奥まで冷たさが染み渡った。汗をかいた後に飲むフルーツ牛乳は、やはり格別だ。
最近は番台を撤去する銭湯も多いが、ここはまるで「最後の下町銭湯」を自称するかのように、あえて昔ながらの姿を残している。
色褪せた木材、年季の入った造り、そのすべてがこの場所の時間を物語っていた。
彼が言っていた通り、二十一時のピークを過ぎた富士の山銭湯には、がらんとした物寂しい空気が漂っている。
それでもちらほらと若いお兄ちゃんたちの姿はあるのだが、今の俺には、彼らの脱衣する様子を目にしても、数時間前のような高揚感は微塵も湧いてこなかった。
賑わいが引いた湯上がりの空気と同じように、胸の奥もすっかり静まり返っていた。
(それより、番台にいるこの人と話をしている方がよっぽどドキドキする……)
こりゃ、重症でしょう。
マジで、好きになっちゃったのでしょう。
恋の自覚は、実に呆気ない。
この人のことを好きなのかな?、と考え始めると、まるで自己暗示にかかったように相手の一挙手一投足が気になってくる。
オヤジ言葉が若干気にはなるけれど、結局のところは”痘痕も笑窪”というもの。
(大地さんに惚れちゃった)
が、最終的な結論だ。
そして最終的な目標は、もちろん。
(大地さんを、落としたい)
そう思った時点で、もう手遅れだった。
「明日も来るんだろう? 青野さん」
こうやって聞いてくるあたり、大地さんも俺のこと気に掛けてくれてるのかなって感じだし。
全然、脈無しってことはないと、思う。たぶん。
「うん。また来るよ。明日は、ちょっと時間をずらしてね」
「じゃあ、俺と入ろうか」
番台から身体を乗り出して、大地さんは笑う。
「うん。いいね。一緒に入ろう」
何気なく言ったつもりが、声が歓喜に震えているのに、大地さんは気がついただろうか。
ああ、胸がドキドキ。
明日が本当に待ち遠しいよ。
「じゃあ、また明日」と手を振りながら大地さんと別れ、富士の山銭湯の藍染め暖簾をくぐると、急激に押し寄せてきた冷たい外気に思わず身が竦んでしまった。
だけど、ほわほわ胸の奥だけは温かかくて、なんだか少しくすぐったかった。
長かった28年の月日も、この日のためのプレリュードだったと思えば何てことはない。
腕に抱えた洗面器の中の石鹸が歩く度にカラカラ、カラカラ小さく鳴っていたから、思わず、「あなたはもう忘れたかしら~」なんて、昔じいちゃんがよく口ずさんでいた昭和の歌を口ずさんでしまった。
俺はとにかくご機嫌だった。
そして、お空のお星様に向かって青春満喫小僧みたいに叫んでみたくなった。
神様、大好き――――――ッって。
もちろん、そんなことが出来る訳ないから、胸の内で、こっそり言ってみたりして。
ああ、俺、真剣に生きてて良かったよ。
本当に神様。
あなたに感謝、感謝だ。
(END)
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