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第1話 畑を耕す男
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世界の片隅にあるその村は、まるで時代の濁流から取り残された澱(おり)のような場所だった。
北に広がる「嘆きの山脈」からの吹き下ろしが強く、作物は育ちにくい。魔物の脅威も少なくはないが、中央の王都から派遣される騎士団が顔を出すには遠すぎる。
だからこの村、「エルド」の住人たちは、自分たちの身を自分たちで守る術(すべ)を心得ているはずだった。
少なくとも、あの「システム」が世界を覆い尽くすまでは。
昼下がりの酒場『赤煉瓦亭』。
客の入りは疎らで、店内に充満するのは安いエールの酸っぱい匂いと、煮込み料理の湯気、そしてどこか浮ついた熱を帯びた噂話だけだった。
「聞いたか? 王都の『蒼天の勇者』様が、また大迷宮を攻略したらしいぞ」
「へえ! 先月召喚されたばかりの若造だろう? すげえもんだな」
「なんでも、固有スキルが『天候操作』だとよ。指先一つで雷を落とすんだと」
「そりゃあ豪快だ。俺たちみたいな一般人には想像もつかねえな」
木製のテーブルを囲む男たちが、ジョッキを片手に笑い合う。
彼らの表情にあるのは、純粋な称賛ではない。自分たちは何もせずとも、誰か特別な人間が世界を都合よく救ってくれるという、甘ったれた安心感だ。
勇者召喚。
かつて魔王を討つために生み出されたその奇跡は、今や国家公認のインフラとなり、民衆にとっては最高の娯楽となっていた。異世界から呼ばれた若者たちが、派手な衣装と理不尽な力を身に纏い、魔物を蹴散らす。その姿に人々は酔い、思考を停止させる。
それは、世界全体に蔓延する麻薬のようなものだった。
そんな喧騒から離れた店の隅。
一番奥の席で、男が一人、突っ伏して寝ていた。
年齢は二十代半ばだろうか。伸び放題の黒髪は手入れされておらず、着ているシャツも土汚れが目立つ。テーブルには飲み干されたジョッキが一つだけ。
リオンという名のその男は、村人たちから「覇気のない流れ者」として認知されていた。
三年前、ふらりと村に現れ、村外れの荒れ地を買い取って畑を耕し始めた。だが、精を出すのは午前中だけで、午後はこうして酒場で死んだように眠るか、ぼんやりと空を眺めていることが多い。
腕っ節は強そうだが、村の自警団に入ろうとしない。
無害だが、役にも立たない男。それがリオンへの評価だった。
「……おい、リオン。起きろ。邪魔だ」
店主の親父が、濡れた布巾でテーブルを叩く。
リオンはのろりと顔を上げた。眠そうな黒い瞳が、焦点の合わない様子で店主を見る。
「……もう閉店か?」
「まだ昼だ。だがな、お前がそこで寝てると陰気臭いんだよ。他の客の酒が不味くなる」
「そいつは悪いな」
リオンは悪びれる様子もなく、欠伸(あくび)を噛み殺しながら立ち上がった。
懐から数枚の銅貨を取り出し、テーブルに置く。釣りはいらない、と言うほどの額ではない。きっちり定価分だ。
「帰って畑でも見てくるよ」
「ああ、そうしてくれ。……まったく、若いのにしけたツラしやがって」
店主の悪態を背中で受け流し、リオンは重い木扉を押し開けた。
外に出た瞬間、冷たい風が頬を打つ。
リオンは眩しそうに目を細め、空を見上げた。
雲ひとつない青空。だが、その青さはどこか作り物めいて見えた。
「……平和ボケだな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その声は、酒場の客たちの浮ついた声とは違い、鉛のように重く、そして乾いていた。
リオンが村外れの自宅へ戻ろうと、メインストリートを歩いていた時のことだ。
村の入り口付近が、にわかに騒がしくなった。
蹄鉄(ていてつ)の響く音。豪奢な馬車の車輪が砂利を噛む音。そして、我が物顔で威圧するような男たちの声。
村人たちが道を空け、ざわめきが波紋のように広がる。
「勇者様だ! 勇者様がいらっしゃったぞ!」
誰かの叫び声に、リオンの足が止まった。
少しだけ眉を寄せ、ため息をつく。
(……またか)
この世界には、二種類の勇者がいる。
異世界から召喚された「本物」と、現地の才能ある者が認定を受けた「職業勇者」。
どちらにせよ、リオンにとっては厄介ごとでしかない。
関わらないのが一番だ。そう判断して路地裏へ入ろうとした瞬間、甲高い怒声が響いた。
「おい! 何をしている、その汚い手を離せ!」
見れば、豪奢な銀の鎧に身を包んだ三人の男たちが、荷馬車の前で老人を取り囲んでいた。
老人は村で雑貨屋を営むトムだ。商品の入った木箱を抱えたまま、地面に尻餅をついている。
勇者一行の先頭に立つ男――金髪を撫で付け、腰に不釣り合いなほど巨大な長剣を下げた優男が、トムを見下ろして鼻を鳴らした。
「我々の馬車が通るのだぞ? さっさと道を空けんか、愚民が」
「も、申し訳ございません……足腰が弱っておりまして……」
「言い訳など聞いていない。我々は北の魔物討伐へ向かう途中だ。世界のために戦う我々の時間を、貴様のような老いぼれが奪うなど万死に値する」
男の言葉には、微塵の疑いもなかった。
自分は正しい。自分は偉い。自分は選ばれた存在だ。
その傲慢さは、彼個人の性格というよりは、この世界のシステムそのものが彼に植え付けた病理に見えた。
男の胸には、教会が発行した『勇者ランセンス』の銀バッジが輝いている。
召喚勇者ではない。現地の職業勇者だ。
彼らにとって勇者とは「階級」であり、守るべき対象であるはずの民衆は、自分たちに奉仕すべき「下の者」でしかない。
「おい、その木箱。中身はなんだ?」
取り巻きの一人が、トムの抱える箱を覗き込む。
「果物か。ちょうどいい、喉が渇いていたんだ。徴収しよう」
「そ、そんな! これは王都へ出荷する大事な商品で……」
「黙れ。勇者への献上は名誉なことだぞ?」
取り巻きがトムの手から箱を強引に奪い取ろうとする。トムは必死に抵抗するが、鍛えられた勇者に敵うはずもない。
突き飛ばされ、トムが悲鳴を上げる。
木箱が宙を舞い、中のリンゴが泥道に散らばった。
「ああ……!」
トムが絶望の声を上げる。
周囲の村人たちは、怯えて遠巻きに見ているだけだ。誰も助けに入ろうとしない。
逆らえばどうなるか。彼らは「勇者」という権威に怯え、思考を停止している。
勇者のリーダー格が、転がったリンゴを銀のブーツで踏み潰した。
グシャリ、と嫌な音が響く。
「ふん、泥がついたな。これでは食えん」
男は汚いものを見る目でトムを睨みつけ、腰の剣に手をかけた。
「我々の公務を妨害し、さらには不快な思いをさせた罪……。この場で裁いてやろうか?」
「ひっ……お、お助けを……!」
剣が抜かれる。
鈍く光る刃が、老人の首筋に向けられた。
村人たちが息を呑む。
誰もが目を背けようとした、その時だ。
「……リンゴ、もったいないな」
場違いなほど平坦な声が、静寂を破った。
勇者たちが動きを止める。
視線の先には、一人の男が立っていた。
土汚れのついたシャツ。眠そうな目。手には何も持っていない。
リオンだった。
「あ?」
勇者のリーダーが、不快げに顔を歪める。
「なんだ貴様は。我々の神聖な裁きの最中だぞ」
「裁きねぇ……。ただのいじめにしか見えないが」
リオンはあくび混じりに言いながら、ゆっくりと歩み寄る。
その足取りには、警戒心も敵意もない。まるで自宅の庭を散歩するような無防備さだ。
「爺さんをいじめて、リンゴを潰して、それが勇者の仕事か? ずいぶんと暇なんだな」
「き、貴様……!」
勇者の顔が朱に染まる。
プライドの塊である彼らにとって、これ以上の侮辱はない。
「我々はランクC、『暁の剣』だぞ! その口の利き方、タダで済むと思うなよ!」
「ランクとかどうでもいいからさ。……その汚い足、退けてくれないか。まだ食えるかもしれないだろ」
リオンは勇者の足元を指差した。
ブチリ、と何かが切れる音がした。
勇者が激昂し、剣を振り上げる。
「死ね! 無礼者が!!」
スキル発動の予備動作。
剣身が青白く発光する。勇者に与えられた「システム」の恩恵、身体強化と剣技補正だ。
一般人なら反応すらできない速度で、鉄の塊がリオンの頭蓋を砕く――はずだった。
ドンッ。
鈍い音が響き、勇者の身体が「く」の字に折れ曲がった。
剣を振り下ろすより速く、リオンが懐に入り込んでいた。
何をしたのか、誰にも見えなかった。
ただ、リオンが半歩踏み出し、軽く右手を突き出した。それだけだ。
たったそれだけの動作が、システムに守られた勇者の腹部を深々とえぐっていた。
「が、は……っ!?」
勇者の口から泡が漏れる。
白目を剥き、膝から崩れ落ちる。
鎧の上から放たれた衝撃は、内臓を揺らし、意識を刈り取るのに十分だった。
「な……!?」
残りの二人が言葉を失う。
何が起きたのか理解できない。
彼らの認識では、この男は「村人A」だ。レベルもステータスも低いはずの、背景の一部だ。
それが、なぜ一撃で?
「て、手品か!? 何か汚い手を使いやがったな!」
一人が槍を構え、もう一人が詠唱を始める。
「ウィンド・カッター!」
魔法使いの勇者が叫ぶと同時に、真空の刃がリオンに襲いかかる。
リオンは動かない。
避けるまでもない、と言わんばかりに、飛来する風の刃を「手で払った」。
パァン、と乾いた音がして、魔法が霧散する。
「は……?」
魔法使いが呆然とする。
魔法防御? いや、障壁のエフェクトはなかった。ただの素手だ。素手で魔法を叩き落としたのだ。
「物理で……消した……?」
驚愕する彼らの目前まで、いつの間にかリオンが迫っていた。
気配がない。殺気もない。
ただ、そこに「圧倒的な質量」が移動してきたような圧迫感。
「お前らの魔法も技も、上っ面だけだ」
リオンの声が、耳元で囁かれる。
「土台がねえから、簡単に崩れる」
次の瞬間、視界が反転した。
槍使いは足を払われて宙を舞い、地面に叩きつけられる。
魔法使いは襟首を掴まれ、ゴミ袋のように放り投げられた。
数秒。
ほんの数秒の出来事だった。
三人の勇者が、泥にまみれて呻いている。
その中心に、リオンは立っていた。
息一つ乱れていない。構えすらとっていない。
ただ、泥のついたリンゴを拾い上げ、服で軽く拭って齧(かじ)っただけだ。
「……うん、まだ食える」
静寂。
村人たちも、助けられたトムも、声を出せない。
目の前の光景が信じられなかった。
あの「勇者」が、たった一人の農夫に、子供扱いされて転がされている。
リオンは倒れた勇者たちを一瞥もしない。
トムに手を貸し、立たせる。
「大丈夫か、爺さん」
「あ……あ、ああ……リオン、お前、今の……」
「転んだみたいだな、彼ら。道が悪かったんだろう」
白々しい嘘を吐き、リオンはリンゴをもう一口齧った。
倒れたリーダー格の男が、震える手で地面を這う。
涙目でリオンを見上げ、掠れた声で言った。
「あ、あり得ない……俺のレベルは、30だぞ……。この辺境で、負けるはずが……」
「レベル?」
リオンは足を止め、振り返らずに言った。
「そんなもん、畑の肥料にもなりゃしない」
それだけ言い残し、リオンは歩き出した。
ざわめきが戻り始める背後で、彼は小さく肩を回す。
(……体が鈍ってるな)
かつて世界を救い、すべての理を知る「最初の勇者」。
その男は、今やただの農夫として、午後の畑仕事へと戻っていくのだった。
北に広がる「嘆きの山脈」からの吹き下ろしが強く、作物は育ちにくい。魔物の脅威も少なくはないが、中央の王都から派遣される騎士団が顔を出すには遠すぎる。
だからこの村、「エルド」の住人たちは、自分たちの身を自分たちで守る術(すべ)を心得ているはずだった。
少なくとも、あの「システム」が世界を覆い尽くすまでは。
昼下がりの酒場『赤煉瓦亭』。
客の入りは疎らで、店内に充満するのは安いエールの酸っぱい匂いと、煮込み料理の湯気、そしてどこか浮ついた熱を帯びた噂話だけだった。
「聞いたか? 王都の『蒼天の勇者』様が、また大迷宮を攻略したらしいぞ」
「へえ! 先月召喚されたばかりの若造だろう? すげえもんだな」
「なんでも、固有スキルが『天候操作』だとよ。指先一つで雷を落とすんだと」
「そりゃあ豪快だ。俺たちみたいな一般人には想像もつかねえな」
木製のテーブルを囲む男たちが、ジョッキを片手に笑い合う。
彼らの表情にあるのは、純粋な称賛ではない。自分たちは何もせずとも、誰か特別な人間が世界を都合よく救ってくれるという、甘ったれた安心感だ。
勇者召喚。
かつて魔王を討つために生み出されたその奇跡は、今や国家公認のインフラとなり、民衆にとっては最高の娯楽となっていた。異世界から呼ばれた若者たちが、派手な衣装と理不尽な力を身に纏い、魔物を蹴散らす。その姿に人々は酔い、思考を停止させる。
それは、世界全体に蔓延する麻薬のようなものだった。
そんな喧騒から離れた店の隅。
一番奥の席で、男が一人、突っ伏して寝ていた。
年齢は二十代半ばだろうか。伸び放題の黒髪は手入れされておらず、着ているシャツも土汚れが目立つ。テーブルには飲み干されたジョッキが一つだけ。
リオンという名のその男は、村人たちから「覇気のない流れ者」として認知されていた。
三年前、ふらりと村に現れ、村外れの荒れ地を買い取って畑を耕し始めた。だが、精を出すのは午前中だけで、午後はこうして酒場で死んだように眠るか、ぼんやりと空を眺めていることが多い。
腕っ節は強そうだが、村の自警団に入ろうとしない。
無害だが、役にも立たない男。それがリオンへの評価だった。
「……おい、リオン。起きろ。邪魔だ」
店主の親父が、濡れた布巾でテーブルを叩く。
リオンはのろりと顔を上げた。眠そうな黒い瞳が、焦点の合わない様子で店主を見る。
「……もう閉店か?」
「まだ昼だ。だがな、お前がそこで寝てると陰気臭いんだよ。他の客の酒が不味くなる」
「そいつは悪いな」
リオンは悪びれる様子もなく、欠伸(あくび)を噛み殺しながら立ち上がった。
懐から数枚の銅貨を取り出し、テーブルに置く。釣りはいらない、と言うほどの額ではない。きっちり定価分だ。
「帰って畑でも見てくるよ」
「ああ、そうしてくれ。……まったく、若いのにしけたツラしやがって」
店主の悪態を背中で受け流し、リオンは重い木扉を押し開けた。
外に出た瞬間、冷たい風が頬を打つ。
リオンは眩しそうに目を細め、空を見上げた。
雲ひとつない青空。だが、その青さはどこか作り物めいて見えた。
「……平和ボケだな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その声は、酒場の客たちの浮ついた声とは違い、鉛のように重く、そして乾いていた。
リオンが村外れの自宅へ戻ろうと、メインストリートを歩いていた時のことだ。
村の入り口付近が、にわかに騒がしくなった。
蹄鉄(ていてつ)の響く音。豪奢な馬車の車輪が砂利を噛む音。そして、我が物顔で威圧するような男たちの声。
村人たちが道を空け、ざわめきが波紋のように広がる。
「勇者様だ! 勇者様がいらっしゃったぞ!」
誰かの叫び声に、リオンの足が止まった。
少しだけ眉を寄せ、ため息をつく。
(……またか)
この世界には、二種類の勇者がいる。
異世界から召喚された「本物」と、現地の才能ある者が認定を受けた「職業勇者」。
どちらにせよ、リオンにとっては厄介ごとでしかない。
関わらないのが一番だ。そう判断して路地裏へ入ろうとした瞬間、甲高い怒声が響いた。
「おい! 何をしている、その汚い手を離せ!」
見れば、豪奢な銀の鎧に身を包んだ三人の男たちが、荷馬車の前で老人を取り囲んでいた。
老人は村で雑貨屋を営むトムだ。商品の入った木箱を抱えたまま、地面に尻餅をついている。
勇者一行の先頭に立つ男――金髪を撫で付け、腰に不釣り合いなほど巨大な長剣を下げた優男が、トムを見下ろして鼻を鳴らした。
「我々の馬車が通るのだぞ? さっさと道を空けんか、愚民が」
「も、申し訳ございません……足腰が弱っておりまして……」
「言い訳など聞いていない。我々は北の魔物討伐へ向かう途中だ。世界のために戦う我々の時間を、貴様のような老いぼれが奪うなど万死に値する」
男の言葉には、微塵の疑いもなかった。
自分は正しい。自分は偉い。自分は選ばれた存在だ。
その傲慢さは、彼個人の性格というよりは、この世界のシステムそのものが彼に植え付けた病理に見えた。
男の胸には、教会が発行した『勇者ランセンス』の銀バッジが輝いている。
召喚勇者ではない。現地の職業勇者だ。
彼らにとって勇者とは「階級」であり、守るべき対象であるはずの民衆は、自分たちに奉仕すべき「下の者」でしかない。
「おい、その木箱。中身はなんだ?」
取り巻きの一人が、トムの抱える箱を覗き込む。
「果物か。ちょうどいい、喉が渇いていたんだ。徴収しよう」
「そ、そんな! これは王都へ出荷する大事な商品で……」
「黙れ。勇者への献上は名誉なことだぞ?」
取り巻きがトムの手から箱を強引に奪い取ろうとする。トムは必死に抵抗するが、鍛えられた勇者に敵うはずもない。
突き飛ばされ、トムが悲鳴を上げる。
木箱が宙を舞い、中のリンゴが泥道に散らばった。
「ああ……!」
トムが絶望の声を上げる。
周囲の村人たちは、怯えて遠巻きに見ているだけだ。誰も助けに入ろうとしない。
逆らえばどうなるか。彼らは「勇者」という権威に怯え、思考を停止している。
勇者のリーダー格が、転がったリンゴを銀のブーツで踏み潰した。
グシャリ、と嫌な音が響く。
「ふん、泥がついたな。これでは食えん」
男は汚いものを見る目でトムを睨みつけ、腰の剣に手をかけた。
「我々の公務を妨害し、さらには不快な思いをさせた罪……。この場で裁いてやろうか?」
「ひっ……お、お助けを……!」
剣が抜かれる。
鈍く光る刃が、老人の首筋に向けられた。
村人たちが息を呑む。
誰もが目を背けようとした、その時だ。
「……リンゴ、もったいないな」
場違いなほど平坦な声が、静寂を破った。
勇者たちが動きを止める。
視線の先には、一人の男が立っていた。
土汚れのついたシャツ。眠そうな目。手には何も持っていない。
リオンだった。
「あ?」
勇者のリーダーが、不快げに顔を歪める。
「なんだ貴様は。我々の神聖な裁きの最中だぞ」
「裁きねぇ……。ただのいじめにしか見えないが」
リオンはあくび混じりに言いながら、ゆっくりと歩み寄る。
その足取りには、警戒心も敵意もない。まるで自宅の庭を散歩するような無防備さだ。
「爺さんをいじめて、リンゴを潰して、それが勇者の仕事か? ずいぶんと暇なんだな」
「き、貴様……!」
勇者の顔が朱に染まる。
プライドの塊である彼らにとって、これ以上の侮辱はない。
「我々はランクC、『暁の剣』だぞ! その口の利き方、タダで済むと思うなよ!」
「ランクとかどうでもいいからさ。……その汚い足、退けてくれないか。まだ食えるかもしれないだろ」
リオンは勇者の足元を指差した。
ブチリ、と何かが切れる音がした。
勇者が激昂し、剣を振り上げる。
「死ね! 無礼者が!!」
スキル発動の予備動作。
剣身が青白く発光する。勇者に与えられた「システム」の恩恵、身体強化と剣技補正だ。
一般人なら反応すらできない速度で、鉄の塊がリオンの頭蓋を砕く――はずだった。
ドンッ。
鈍い音が響き、勇者の身体が「く」の字に折れ曲がった。
剣を振り下ろすより速く、リオンが懐に入り込んでいた。
何をしたのか、誰にも見えなかった。
ただ、リオンが半歩踏み出し、軽く右手を突き出した。それだけだ。
たったそれだけの動作が、システムに守られた勇者の腹部を深々とえぐっていた。
「が、は……っ!?」
勇者の口から泡が漏れる。
白目を剥き、膝から崩れ落ちる。
鎧の上から放たれた衝撃は、内臓を揺らし、意識を刈り取るのに十分だった。
「な……!?」
残りの二人が言葉を失う。
何が起きたのか理解できない。
彼らの認識では、この男は「村人A」だ。レベルもステータスも低いはずの、背景の一部だ。
それが、なぜ一撃で?
「て、手品か!? 何か汚い手を使いやがったな!」
一人が槍を構え、もう一人が詠唱を始める。
「ウィンド・カッター!」
魔法使いの勇者が叫ぶと同時に、真空の刃がリオンに襲いかかる。
リオンは動かない。
避けるまでもない、と言わんばかりに、飛来する風の刃を「手で払った」。
パァン、と乾いた音がして、魔法が霧散する。
「は……?」
魔法使いが呆然とする。
魔法防御? いや、障壁のエフェクトはなかった。ただの素手だ。素手で魔法を叩き落としたのだ。
「物理で……消した……?」
驚愕する彼らの目前まで、いつの間にかリオンが迫っていた。
気配がない。殺気もない。
ただ、そこに「圧倒的な質量」が移動してきたような圧迫感。
「お前らの魔法も技も、上っ面だけだ」
リオンの声が、耳元で囁かれる。
「土台がねえから、簡単に崩れる」
次の瞬間、視界が反転した。
槍使いは足を払われて宙を舞い、地面に叩きつけられる。
魔法使いは襟首を掴まれ、ゴミ袋のように放り投げられた。
数秒。
ほんの数秒の出来事だった。
三人の勇者が、泥にまみれて呻いている。
その中心に、リオンは立っていた。
息一つ乱れていない。構えすらとっていない。
ただ、泥のついたリンゴを拾い上げ、服で軽く拭って齧(かじ)っただけだ。
「……うん、まだ食える」
静寂。
村人たちも、助けられたトムも、声を出せない。
目の前の光景が信じられなかった。
あの「勇者」が、たった一人の農夫に、子供扱いされて転がされている。
リオンは倒れた勇者たちを一瞥もしない。
トムに手を貸し、立たせる。
「大丈夫か、爺さん」
「あ……あ、ああ……リオン、お前、今の……」
「転んだみたいだな、彼ら。道が悪かったんだろう」
白々しい嘘を吐き、リオンはリンゴをもう一口齧った。
倒れたリーダー格の男が、震える手で地面を這う。
涙目でリオンを見上げ、掠れた声で言った。
「あ、あり得ない……俺のレベルは、30だぞ……。この辺境で、負けるはずが……」
「レベル?」
リオンは足を止め、振り返らずに言った。
「そんなもん、畑の肥料にもなりゃしない」
それだけ言い残し、リオンは歩き出した。
ざわめきが戻り始める背後で、彼は小さく肩を回す。
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