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第3話 英雄扱いという厄災
しおりを挟む翌朝、エルドの村は異様な興奮に包まれていた。
昨夜の悪夢のような出来事――魔物の群れによる襲撃と、それをたった一人で撃退した農夫リオンの活躍は、一夜にして村人全員の知るところとなっていた。
夜明けと共に、村人たちは広場に集まってきた。
石畳に残された巨大な陥没痕。粉々に砕けた敷石。それは、リオンが振るった力の凄まじさを物語る物証だった。
だが、彼らの目に恐怖の色はなかった。
あるのは、熱病に浮かされたような「期待」と、救世主を見つけた「安堵」だった。
「リオンさんはどこだ?」
「まだ家だろうか」
「早くお礼を言わねば。……いや、これからのことも相談しなくては」
村長の家。居間には、村の有力者たちが詰めかけていた。
雑貨屋のトム、自警団長、そして教会の神父までがいる。
彼らは一様に紅潮した顔で、テーブルを囲んでいた。
「素晴らしいことじゃ!」
神父が声を張り上げた。
「あの『暁の剣』とかいう似非(えせ)勇者を叩き出し、魔物を追い払ったあの力……。間違いなく、神がお遣わしになった奇跡じゃよ!」
「ああ、そうだとも」
自警団長も強く頷く。
「俺たちの手には負えなかった魔物の群れを、一喝だけで退けたんだ。彼がいれば、もう騎士団の巡回なんて待つ必要はない。この村は安泰だ!」
そこにあるのは、純粋な感謝だけではなかった。
もっと利己的で、粘着質な依存心。
『強力な兵器を手に入れた』という打算。
彼らは無意識のうちに、リオンを「村の守護神」という新たな役割に嵌め込もうとしていた。
「村長、急いでリオンさんをここに呼ぶべきだ」
「そうだ、住む家をもっと立派なものに変えてやろう」
「食事も当番制にして、村全体で面倒を見るべきだ」
「報酬はどうする? 金はないが、娘を嫁にやってもいい」
善意という名の鎖が、次々と編み上げられていく。
彼らは気づいていない。
その思考こそが、昨夜のリオンが最も嫌悪し、勇者たちに向けて放った「システムに選ばれただけで、中身は空っぽ」という言葉の、もう一つの側面であることを。
勇者に依存する民衆。
それは、中身のない勇者システムを肥大化させる土壌そのものだ。
「……待て、みんな落ち着け」
村長だけが、浮かない顔で声を上げた。
彼は昨夜、リオンの背中を見ていた。あの冷ややかな拒絶の目を見ていた。
「リオンは……そういうのを嫌がるんじゃないか? あいつは、ただ静かに暮らしたいだけだと……」
「何を言ってるんですか村長!」
トムが身を乗り出した。
「あいつは俺を助けてくれたんですよ? 優しい男じゃないですか! 頼めばきっと、村のために力を貸してくれるはずです!」
「そうだそうだ! 力があるなら、使う義務がある!」
誰かが言った「義務」という言葉。
それが決定打だった。
そうだ、強い者は弱い者を守るべきだ。それはこの世界の常識だ。勇者制度が八十年かけて植え付けた、「持たざる者」たちの甘えの論理。
「よし、みんなで迎えに行こう!」
「リオンさんにお願いするんだ!」
熱狂は止まらない。
村人たちは雪崩を打って家を飛び出した。
村外れにある、リオンの小屋へと向かうために。
村外れの丘。
朝日が昇り、朝露に濡れた畑がキラキラと輝いている。
トマトの苗は青々と茂り、土は丁寧に耕されている。
だが、そこには主の姿はなかった。
「……リオン?」
先頭に立っていたトムが、声をかけた。
返事はない。
小屋の扉は半開きになっていた。
中を覗き込む。
簡素なベッド。古びたテーブル。壁にかかった錆びた鎌。
それだけだった。
生活感がない。まるで、最初から誰も住んでいなかったかのような空虚さ。
テーブルの上に、一枚の紙きれと、数枚の銅貨が置かれていた。
銅貨は、来月分の畑の借り賃だろうか。きっちりと計算された額だ。
紙きれには、走り書きで一言だけ。
『 畑は返す。あとは好きにしてくれ。 』
それだけ。
別れの言葉も、感謝の言葉も、行先すらも書かれていない。
ただの事務連絡。
ここに未練はないという、冷徹なまでの事実通達。
「な……なんでだ?」
トムが紙を握りしめた。
「なんで行っちまうんだよ……! 俺たちは、これからあいつに良くしてやろうと思ってたのに! 英雄として迎えてやろうと思ってたのに!」
「逃げたのか……?」
自警団長が呆然と呟く。
「勇者殺しの罪を恐れて? それとも、魔王の残党か何かだったから、正体がバレるのを恐れて?」
先ほどまでの熱狂が、急速に冷えていく。
代わりに湧き上がってきたのは、勝手な失望と、裏切られたという怒りにも似た感情だった。
「無責任じゃないか!」
「そうだ、力があるのに!」
「俺たちを見捨てるのか!」
自分たちの安全を保証してくれるはずの「道具」が消えたことへの不満。
村長は、その光景を見て、深く深いため息をついた。
(……ああ、そうか)
彼は理解した。
リオンが出て行った理由を。
彼は、勇者を恐れたわけでも、罪を恐れたわけでもない。
この「空気」を嫌ったのだ。
英雄として崇められ、期待され、義務を押し付けられる、この窒息しそうな空気を。
「……行くぞ、みんな」
村長は力なく言った。
「もう、ここには何もない。……あの男は、最初からいなかったんだ」
村人たちは、納得できないまま、ぶつぶつと不満を漏らしながら村へ戻っていく。
残されたのは、主を失った美しい畑だけ。
風が吹き抜け、トマトの葉がサワサワと揺れた。
それはまるで、リオンが残した最後の拒絶の音のように聞こえた。
同時刻。村から北へ十キロほど離れた街道。
リオンは一人、歩いていた。
荷物は肩にかけた小さな布袋一つ。中身は水筒と、数日分の干し肉だけだ。
街道を行き交う馬車や商隊とすれ違う。
誰も彼には注目しない。
ただの貧相な旅人。あるいは、仕事を求めて流浪する農夫。
その匿名性が、今のリオンには何よりも心地よかった。
「……やれやれ」
リオンは小さく息を吐き、空を見上げた。
雲ひとつない青空。
八十年前と変わらない空だが、その下に広がる世界は、ずいぶんと様変わりしてしまった。
昨夜の村人たちの視線。
あれは、毒だ。
悪意のある毒ではない。善意という糖衣に包まれた、依存という猛毒。
かつて、魔王を倒した直後の王都でも、同じ目で見られた。
『次はどうするんですか?』
『どこの国に仕えるんですか?』
『私たちのために、その力を使ってくれますよね?』
英雄とは、個人の名前ではない。
社会にとって都合のいい「機能」の名前だ。
一度その役割を背負わされれば、死ぬまで降りることは許されない。
だからリオンは、あの時姿を消した。
そして今回も、逃げ出した。
「トマト、もうすぐ収穫だったんだがな」
リオンは苦笑し、道端の小石を蹴った。
未練がないと言えば嘘になる。
土作りから始めて三年。ようやく味が乗ってきたところだった。
だが、あのまま村に居れば、確実に「勇者」という檻に入れられていた。
『守護神リオン』として祀り上げられ、来る日も来る日も村を守るために力を振るい、感謝され、縛られる日々。
それは彼にとって、死よりも恐ろしい「停滞」だった。
「……次は、もっと北へ行くか」
地図はない。
だが、風の匂いで分かる。北の方角、旧帝国の跡地あたりなら、まだ人が少なく、制度の目も届きにくいかもしれない。
痩せた土地でもいい。岩だらけの荒れ地でもいい。
静かに鍬(くわ)を振るえるなら、それでいい。
リオンは足を速めた。
背後から、何かが追いかけてくる気配がしたからだ。
それは魔物でも追っ手でもない。
「噂」だ。
風に乗って広がる、勇者殺しの農夫の噂。
それが自分の足に絡みつく前に、少しでも遠くへ行かなければならない。
だが、リオンはまだ知らない。
この世界において、システムの外側にいること自体が、最大の罪であるということを。
そして、彼の逃避行が、結果として世界そのものを揺るがす「大きな歪み」を生み出し始めていることを。
街道の先には、王国の関所が見えていた。
巨大な城壁には、誇らしげに『勇者募集中』の垂れ幕がかかっている。
システムは、どこまでも彼を追いかけてくる。
リオンは帽子を目深にかぶり直し、無言で歩みを進めた。
その足跡には、確かな「重み」が刻まれていたが、それに気づく者はまだ誰もいなかった。
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