上 下
5 / 21

05.婚約破棄はしない

しおりを挟む
 私とヴィンセント様が表面上の笑顔だけで見つめ合う中、瞳に涙を滲ませた公爵様が声を掛けてきた。

「レイナ嬢……本当にありがとう。なんとお礼を言えばいいのか……。やはり手紙の通り、優しい令嬢で安心したよ」

 あ……。公爵様、ちゃんと手紙読んでくれてたんだ。

 多忙を極めている人なのに、会った事も無い令嬢が一方的に送り付ける手紙を読んでくれていた。その事が嬉しくて胸が熱くなる。
 だけど私は公爵様にまだ挨拶をしていない事を思い出し、慌てて頭を下げた。

「公爵様、お初にお目にかかります。その節は何度も私達を救って下さり、本当にありがとうございました」
「いや、今回は私の方が救われた。どうか息子の事をよろしく頼みます」

 公爵様が深々と頭を下げて来たので、私もそれに負けじとこれでもかという程頭を下げた。

「こちらこそ、不束者ですがどうぞよろしくお願い致します!」

(え……。俺達、本当に婚約してしまったのか……?)

 脳内に響いた声は無視する事にした。

 長いお辞儀の末、体を持ち上げた私の隣からむせび泣く声が聞こえてきた。

 隣に視線を移すと――何故かお父様が泣いている。
 私が嫁に行く事がそんなに寂しいのだろうか。
 そんなお父様の姿に、少しだけ感動して視界が歪んだ。

「良かった……本当に良かった……。嫁の貰い手なんていないと思っていたからな。愛想が無くてがさつで可愛げが無い……取り柄と言えばその有り余った体力と筋力だろうが、そんな女を娶ってくれる人なんていないと思っていた……」

 私の感動は一瞬で裏切られた。涙も蒸発するかのごとく消え去った。
 本人は聞こえない様に言っているかもしれないけれど、人一倍耳の良い私にはハッキリと聞こえている。

 お父様……出来ればその事は心の中だけに留めておいてほしかった。
 お父様の心の声まで聞こえてきたのかと思ったわ。

 そんなお父様を宥める様に、公爵様が肩にポンっと手を置いた。
 もはや二人は他人ではない。これからは家族だとでも言う様に笑い合い、仲良さげな雰囲気が漂い出している。
 そんな父親達の思いとは裏腹に、予想外の展開に焦っている人物がここにいる。

(まずいな……。今まではこれでなんとか婚約回避出来ていたんだが……まさか本当に婚約してしまうなんて……どうすればいいんだ!?)

 切羽詰まった様なヴィンセント様の声が脳内に響く。

 なんでこの人はこんな方法を選んでいるのだろう。
 自分の価値をわざと落としてまで……。それで一番困るのは自分自身じゃないのだろうか。

 だけどそれは自業自得だとしても、私が何よりも許せないのは、その事で公爵様の心労を増やしているという事。

 公爵様を困らせる様な人は、息子であろうが放っておく訳にはいかない。
 女性を避ける為に子供を演じているのなら……それが通用しないと分かれば、もしかしたら彼は諦めて子供のふりをやめるかもしれない。
 それこそが一番の公爵様への恩返しになるのではないだろうか。

 そんな事を考えながら、ヴィンセント様に視線を移す。
 彼は口元に手をあて視線を地に落とし、真剣な表情で考え事をしている様子。

 ……やはり顔は良い。黙っていれば本当に完璧なまでの美男子だ。
 令嬢達が放っておけないのも頷ける。

 私の視線に気付いたのか、素の表情に戻っていた彼は咄嗟にお手本のような笑顔をその美しい顔に貼り付けた。

「う……うれしいなぁ! 君が僕の婚約者になってくれて! これからよろしくね! レイナちゃん!」

 心にもない事を嬉しそうに言うと、右手を私に差し出し握手を求めてきた。

(とりあえず、仕方ない。今だけだ。これからとことん醜態をさらして、絶対に婚約破棄したくなるような駄目人間になってみせよう)

 だからなんでそんな方法なのよ……? あなたがハッキリと断ればいいだけでしょ?
 だけどそちらがその気なら、私からも婚約破棄する気はない。
 その茶番劇にとことん付き合ってやろうじゃないの。

 私は大袈裟なほどニッコリと微笑み返すと、

「ええ。末永く、仲良くしましょうね。ヴィンセント様」

 差し出された手を取り、私達は握手を交わした。
 握り合うその手を、彼は楽しそうにブンブンと上下に激しく動かし始めたので、私は「ふん!」と手に力を込めてその動きを無理やり封じ込めた。

(なっ……動かない……! なんて馬鹿力なんだ!)
 
 どやかましいわ。

 そのまま私達は表面上は友好の握手を交わしながら、ニコニコと似たような笑みを浮かべて見つめ合った。

 そんな私達の本心など知る由も無く、二人の父親は嬉しそうな顔で私達を見つめては目に浮かぶ涙をハンカチで拭っていた。
しおりを挟む

処理中です...