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劇団編
【Day.4】萌芽
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澄み渡る初夏の空。これはもう絶好のダービー日和といっていいだろう。
……だというのに、レオナルドの纏う空気は雨が降り出す直前のそれよりもずっと重苦しいものだった。
「まだ彼女に断られたのを根に持っているのか?」
観覧席で出会った友人、ユリウスは開口一番そう言った。すっかり呆れ果てたって顔だ。
「見苦しいぞ、いつまでも引きずっているなんて」
恋も知らない男はこれだから!
「ユリウス、キミにはわかるまいよ。僕のこの、狂おしいほどの胸の痛みなんてものは」
「まぁ、わかりたくもないが」
涼しい顔でさらりと受け流す男はまったくもって友だちがいのないヤツだ。こっちは真剣に悩んでいるのに……。と、レオナルドは膨れっ面。とても社交界にはお見せできない顔のまま、ターフを見下ろした。
グランドスタンドからは走路一帯を眺めることが出来た。もちろん、下方に位置する観客席も。
それ自体が大きな生き物のような人の波を眺めやり、けれど自身がただ一人の女性を探していることに気づいて、また溜め息をつく。……こんなところから見つけられるはずもないし、見つけたところでどうしようもないというのに。
メイベルをダービーに誘ったのは月の始め頃。約束を取りつけるのに遅い時期ではなかった。だが結果はこの通り。『先約があるの』と断りの言葉を紡いだ彼女は少し申し訳なさそうだった。それだけが救いといえよう。
遅きに失したのだ。今回は相手が悪かった。いや、誰に誘われたかまでは聞かなかったが、相手など容易に想像がつく。いつもいつも自分の先をいく男。──レオナルドはまたしてもリチャードに敗北したのだ。
「くそ……リチャードのヤツめ……!次は負けないからな……!」
「口が悪いぞ、レオナルド」
「キミは口煩い家庭教師か」
観覧席に誰かが向かってくる。ドレス姿の女性。横目でその顔を見定めて、そして彼女でないことを知って、また落胆する。その繰り返し。
「……お前は、本当に彼女のことが好きなのか?」
レオナルドは隣を見た。
ユリウス・レンジャー。寄宿学校時代からの友人で、機械いじりが趣味の堅物な男。社交界でもご令嬢がたとは事務的なやり取りをしているところしか見たことがない。
そんな男が自分から『恋』の話を振ってくるなんて!
「驚いた。キミの口からそんな話題が飛び出すとはね。さては今日のレース、一番人気が飛ぶな」
「茶化すな。俺は真剣に聞いてる」
「聞いてどうする?キューピッドにでもなってくれるのかい?」
「俺は……」
ユリウスは言い淀む。少しだけ言いづらそうに。そんな友人をレオナルドはずっと見ていた。珍しいこともあるな、とどこか遠くで思いながら。
「俺は、幸せになってほしいと思ってる」視線が交わる。生真面目な、鳶色の瞳。「彼女のことも、……お前のことも」
「リチャードは申し分のない男だ。何事においても誠実だし、議員としても爵位を持つものとしても充分な能力がある。……彼なら、口さがない連中からも彼女を守れるだろう」
「だから身を引けって?わかってないなぁ、ユリウスくんは。恋とはそう簡単なものじゃないのさ」
「確かに俺はその手のことに疎い。が、相手を思いやる気持ちだとは理解している。だからこう言ってるんだ。身を引くこともひとつの愛なんじゃないか?、と」
正論だった。恐らく、世間一般の常識と照らし合わせてみれば。
ユリウスは常識人らしく、諭す調子で続けた。
「もう一度聞く。……お前は彼女に恋をしているのか?胸を張って、そうだと言えるのか?」
「…………」
そうだ、と言えたらよかった。僕は彼女を──メイベル・ロックウェルを愛してる。そう言ったら、ユリウスだって納得したろう。
けれど言えなかった。それが答えだった。リチャードのあの目、メイベルのことを語る時のあの熱を帯びながらも優しさの滲む目を思い出してしまえば、彼と同じ気持ちを彼女に向けているとはとても言えなかった。
リチャードが恋をしているというなら──彼のあの熱病に侵された目が恋の証だというなら──レオナルドは恋なんて知らない。愛し方なんて今まで一度たりとも学んだことがない。
つまるところ、これまで経験してきたことはすべて真似事だった。そう、今ならわかる。好きだと言われたから、愛していると答えてきた。それだけだった。その言葉に籠められた意味も、想いも、本当のところはなんにもわかっちゃいなかったのだ。
──けれど、それでも。
「……それでも嫌なんだ。彼女の側にいたい。リチャードには渡したくない。僕のことを好きになってほしい」
そしたら僕も、ようやく自分を好きになれそうな気がするから。
「それは子供の癇癪みたいなものじゃないのか?お気に入りのものを他人に取られたくない、ただそれだけの……」
「知らないよ、僕は知らない。でも渡したくないんだからしょうがないじゃないか。それでも我慢しろって言うのかい?」
これじゃ駄々をこねる幼子と同じだ。ユリウスの言い分を肯定するのと同じこと。……そう理解していても、他に言いようがなかった。
ユリウスはまだ言葉を重ねようとした。何事かを言いかけ、けれど躊躇いに口を閉ざした。そして最後には「そうか」とだけ相槌を打った。そうか、──それなら仕方ない。
「他人である俺が、これ以上口を出すことじゃないな」
そのまま。そのまま彼は押し黙った。物思いに耽る眼差しで遠くに目を馳せた。その行方を、レオナルドは追わなかった。
深い沈黙だった。長さではない。深い深い──意味のある沈黙。
レオナルドは首を振る。まったく、らしくないぞ。
「なぁユリウス、パドックを見に行かないか?」
「……そうだな」
気まずさを覚えたのはユリウスも一緒だったらしい。ホッとした様子で頷いたのを見て、レオナルドもまた表情を和らげた。
気分転換になればいい。そう思ったが故の何気ない提案。しかし幸か不幸か、パドックが見えてきた辺りで、レオナルドは見つけてしまった。
陽を溶かした黄金の髪に、海を模した蒼色の目。そして、視線が絡まる。
「レオナルドさま?」
これで素通りするわけにはいかなくなった。たとえ彼女の隣にいるのが憎き宿命のライバルであろうとも──いや、だからこそ背中を向けるわけにはいかなかった。
レオナルドは笑みを作る。晴天の下、輝きを増す太陽に相応しい、満面の笑みを。
「やあ、メイベル!会えて嬉しいよ。この人混みの中でキミを見つけられるとは……運命という言葉にも真実味が増してきたと思わない?」
「あいかわらずね、あなたって人は」
メイベルはおかしそうに笑う。レオナルドの言葉なんてちっとも信じていないって顔で。
でもそれはレオナルドだって同じだ。他ならぬレオナルド自身が運命なんてもの信じちゃいなかった。この世界にあるのはそんなお伽噺みたいなものじゃない。生まれた時から定められているのは属する世界だとか果たすべき役割だとか、そんなつまらないものだけ。
いつかは親が決めたどこかの令嬢と契約じみた結婚をすることになるのだろう。そしてそれは遠くない未来のことだった。
──まったく、ヘドが出る。
「馬券はもう買った?」
「いいえ、まだ。パドックを見てからにしようと思って。あなたは?」
「僕もこれからなんだ。馬主としては自分のとこの馬を応援するべきなんだろうけど、勝負するからにはやっぱり勝ちたいからね」
片目を瞑ると、リチャードの手がメイベルの肩を抱いた。さりげなさを装っているけどバレバレだ。険のある眼差しが警戒心の高さを物語っていた。
まぁ、まったく相手にされないよりはマシか。ともすると引き攣りそうになる口元に力を入れて、レオナルドは笑い続ける。気に食わない。腹立たしい。今すぐその手を払い落としてやりたい──けど、我慢だ。隣にいる親友の視線が痛い。
レオナルドはパドックに目をやった。
小さな敷地の中を周回するのは、装備を整えた馬たち。栗毛に鹿毛、芦毛……どの馬も仕上がりは上々。艶やかな毛並みが目の前を通りすぎていく。
しかし、この中で一頭を選ぶとするのなら──
「……サーヴィストだな」
口を開いたのはレオナルドではない。同じ馬を見ていた、リチャードだった。
「体重の増減も少ないし、トモにも張りがある。それに歩様も落ち着いているから、いいタイムが出せそうだ」
「そうなのですか?わたくしには何がなんだか……。どの馬もきれいな毛並みで、そちらにばかり気をとられてしまいますわ」
「慣れればこのくらいのことはすぐ見分けがつくようになるよ」
褒められ、満更でもないって顔。相好を崩すリチャードを、メイベルの頭越しに見てしまって、レオナルドは内心毒づく。
──まったく、まったく!なんなんだそのだらしなく緩みきった顔は!たかがその程度の賛辞で喜べるなんておめでたいこと!
「やれやれ。わかってないな、卿は」
………………
「……なんだと?」
内心で留めておくつもりが、気づけば嫌みったらしい声が洩れ出ていたらしい。取り繕うことを忘れたリチャードの低い声が、じろりとレオナルドににじり寄る。
しまった、しまった。大人げなかったな。……なんて、反省はしてみるけど、『ざまぁみろ』ってのが本音。そう易々と二人の世界にさせてたまるか。
後ろで友人が額を押さえているのがわかったけど、レオナルドのよく回る口はもう止まらない。
「だってそうじゃないか。2000ギニーステークス……クラシックの第一冠を手にしたカークコネルだってこのダービーには参戦してるんだよ?既に実績のある彼を選択肢に入れないのは些か早計なんじゃない?」
「確かにカークコネルはいい馬だ。前走も見事だった。だが距離適正の問題は無視できないと、俺は思う。2000ギニーとダービーでは距離がまるで違うのだから」
「おやおや、ご多忙の卿にとっては一年前のことなど昔話にすぎないようだね。つい昨年も2000ギニーとダービーで二冠を取った馬が出たばかりだというのに」
「それはラダスだから成し得た快挙であって、カークコネルにもサーヴィストにも関係のない話だ」
「ははぁ、なるほど。譲る気はないってわけだね」
飛び散る火花。一歩も譲らぬ構えの両者。
となれば、やることはひとつ。
レオナルドとリチャード、二人はほぼ同時にメイベルを見た。
「キミはどっちが勝つと思う?やっぱり戦績がある方だよね?」
「いや、実際にこの目で見たもの、直感を信じるべきだろう。メイベル嬢、どうかあなたには心のまま選んでほしい」
「え?あの、話が見えないのですが……」
「そもそもわたくしに馬を見る目はないのですし……」とメイベルは困った様子。眉を下げ、思案の表情。その果てに。
「……それならわたくしは、サーヴィストに賭けることに致しますわ」
「それはどうして……」
「だってどの馬が勝つかなんて、わたくしにはわかりませんもの。それならリチャードさまと同じ馬を応援して、勝った時には共に喜び、負けた時には共に悔しがる……。せっかくお誘いいただけたんですもの、その方がずっと楽しいとわたくしは思いますから」
「メイベル嬢……」
微笑み合うふたり。……完敗だった。ここで食い下がることほど惨めなものはないだろう。
レオナルドは唇を噛んだ。胸がモヤモヤするのは反論の語がつっかえているせいだ。
「……レオナルド、」
「ユリウス、慰めはいらないよ」
友人が気遣わしげな声をはね除けて、レオナルドは笑う。道化を演じ続ける。
「まぁいいさ。結果はすぐにわかる。カークコネルかサーヴィストか……、勝負だよ、リチャード」
「あぁ、望むところだ」
悔しくなんかない。だってこんなの慣れっこだ。
ずっとずっと……寄宿学校時代から、どうしたって敵わなかった。どうして勝てないんだって、親にも散々嘆かれてきた。それすら当たり前になって、大学を出る頃には何も言われなくなった。その時の惨めさに比べれば、こんなのへでもない。ひとつ黒星が増えたところで、今さら痛くも痒くもない。
──なんて、
「──うそだ」
二人と別れてから、虚勢は容易く剥がれ落ちた。笑みは消え、歪んだ顔を手のひらで覆った。誰にも見られたくなかったし、見たくなかった。
悔しかった。どうして僕じゃだめなんだろう?どうして彼女までも僕を選んではくれないんだろう?何も手にしてこなかったから、いつも二番手に甘んじてきたから……だからまた、取り零してしまうんだろうか。自分は一生、リチャードに敵わないんだろうか。彼女すらもうしなって、いつかはそのことにすら諦めがつくようになるのだろうか。
──そんなのいやだ。
レオナルドは紙くずになった馬券を握り潰した。
「知らなかったよ、自分がこんなに負けず嫌いだったなんて」
うねる歓声。両手を挙げる者、或いは肩を落とし項垂れる者。熱気に包まれていたのは、特別観覧席も同じだった。皆が皆、レースの行く末に一喜一憂していた。
一番に入線したのはサーヴィストだった。レースは混戦の模様を呈していたが、見事な末脚を披露してくれた馬に盛大な拍手が送られた。勝敗は決したのだ。一着はサーヴィストで、カークコネルは三着に終わった。それが今年のダービーの結末だった。
けれど終わったのはひとつのレースに過ぎないのだ、とレオナルドは己に言い聞かせた。ダービーは終わった。でもこれから何度だってチャンスはある。何度だって……自分が諦めさえしなければ。
「決めたよ、ユリウス。僕は諦めない。諦めることに、これ以上慣れてしまいたくはない。この気持ちが恋のように清らかだとも、愛のように優しいものだとも思わないけど、それでも僕は」
くしゃくしゃになった馬券を広げて、折り目を伸ばした。
帰ったらこいつを書斎にでも貼り出そう。そう、レオナルドは思う。これはもうただの紙くずなんかじゃない。今日という日の、決意の証だ。
「愚かだと思うだろう?」
「……いいや。その方がずっとお前らしい」
何もかも諒解した。そういった顔で、親友は首を振る。彼にはもう、レオナルドを止める意思はないようだった。
……だというのに、レオナルドの纏う空気は雨が降り出す直前のそれよりもずっと重苦しいものだった。
「まだ彼女に断られたのを根に持っているのか?」
観覧席で出会った友人、ユリウスは開口一番そう言った。すっかり呆れ果てたって顔だ。
「見苦しいぞ、いつまでも引きずっているなんて」
恋も知らない男はこれだから!
「ユリウス、キミにはわかるまいよ。僕のこの、狂おしいほどの胸の痛みなんてものは」
「まぁ、わかりたくもないが」
涼しい顔でさらりと受け流す男はまったくもって友だちがいのないヤツだ。こっちは真剣に悩んでいるのに……。と、レオナルドは膨れっ面。とても社交界にはお見せできない顔のまま、ターフを見下ろした。
グランドスタンドからは走路一帯を眺めることが出来た。もちろん、下方に位置する観客席も。
それ自体が大きな生き物のような人の波を眺めやり、けれど自身がただ一人の女性を探していることに気づいて、また溜め息をつく。……こんなところから見つけられるはずもないし、見つけたところでどうしようもないというのに。
メイベルをダービーに誘ったのは月の始め頃。約束を取りつけるのに遅い時期ではなかった。だが結果はこの通り。『先約があるの』と断りの言葉を紡いだ彼女は少し申し訳なさそうだった。それだけが救いといえよう。
遅きに失したのだ。今回は相手が悪かった。いや、誰に誘われたかまでは聞かなかったが、相手など容易に想像がつく。いつもいつも自分の先をいく男。──レオナルドはまたしてもリチャードに敗北したのだ。
「くそ……リチャードのヤツめ……!次は負けないからな……!」
「口が悪いぞ、レオナルド」
「キミは口煩い家庭教師か」
観覧席に誰かが向かってくる。ドレス姿の女性。横目でその顔を見定めて、そして彼女でないことを知って、また落胆する。その繰り返し。
「……お前は、本当に彼女のことが好きなのか?」
レオナルドは隣を見た。
ユリウス・レンジャー。寄宿学校時代からの友人で、機械いじりが趣味の堅物な男。社交界でもご令嬢がたとは事務的なやり取りをしているところしか見たことがない。
そんな男が自分から『恋』の話を振ってくるなんて!
「驚いた。キミの口からそんな話題が飛び出すとはね。さては今日のレース、一番人気が飛ぶな」
「茶化すな。俺は真剣に聞いてる」
「聞いてどうする?キューピッドにでもなってくれるのかい?」
「俺は……」
ユリウスは言い淀む。少しだけ言いづらそうに。そんな友人をレオナルドはずっと見ていた。珍しいこともあるな、とどこか遠くで思いながら。
「俺は、幸せになってほしいと思ってる」視線が交わる。生真面目な、鳶色の瞳。「彼女のことも、……お前のことも」
「リチャードは申し分のない男だ。何事においても誠実だし、議員としても爵位を持つものとしても充分な能力がある。……彼なら、口さがない連中からも彼女を守れるだろう」
「だから身を引けって?わかってないなぁ、ユリウスくんは。恋とはそう簡単なものじゃないのさ」
「確かに俺はその手のことに疎い。が、相手を思いやる気持ちだとは理解している。だからこう言ってるんだ。身を引くこともひとつの愛なんじゃないか?、と」
正論だった。恐らく、世間一般の常識と照らし合わせてみれば。
ユリウスは常識人らしく、諭す調子で続けた。
「もう一度聞く。……お前は彼女に恋をしているのか?胸を張って、そうだと言えるのか?」
「…………」
そうだ、と言えたらよかった。僕は彼女を──メイベル・ロックウェルを愛してる。そう言ったら、ユリウスだって納得したろう。
けれど言えなかった。それが答えだった。リチャードのあの目、メイベルのことを語る時のあの熱を帯びながらも優しさの滲む目を思い出してしまえば、彼と同じ気持ちを彼女に向けているとはとても言えなかった。
リチャードが恋をしているというなら──彼のあの熱病に侵された目が恋の証だというなら──レオナルドは恋なんて知らない。愛し方なんて今まで一度たりとも学んだことがない。
つまるところ、これまで経験してきたことはすべて真似事だった。そう、今ならわかる。好きだと言われたから、愛していると答えてきた。それだけだった。その言葉に籠められた意味も、想いも、本当のところはなんにもわかっちゃいなかったのだ。
──けれど、それでも。
「……それでも嫌なんだ。彼女の側にいたい。リチャードには渡したくない。僕のことを好きになってほしい」
そしたら僕も、ようやく自分を好きになれそうな気がするから。
「それは子供の癇癪みたいなものじゃないのか?お気に入りのものを他人に取られたくない、ただそれだけの……」
「知らないよ、僕は知らない。でも渡したくないんだからしょうがないじゃないか。それでも我慢しろって言うのかい?」
これじゃ駄々をこねる幼子と同じだ。ユリウスの言い分を肯定するのと同じこと。……そう理解していても、他に言いようがなかった。
ユリウスはまだ言葉を重ねようとした。何事かを言いかけ、けれど躊躇いに口を閉ざした。そして最後には「そうか」とだけ相槌を打った。そうか、──それなら仕方ない。
「他人である俺が、これ以上口を出すことじゃないな」
そのまま。そのまま彼は押し黙った。物思いに耽る眼差しで遠くに目を馳せた。その行方を、レオナルドは追わなかった。
深い沈黙だった。長さではない。深い深い──意味のある沈黙。
レオナルドは首を振る。まったく、らしくないぞ。
「なぁユリウス、パドックを見に行かないか?」
「……そうだな」
気まずさを覚えたのはユリウスも一緒だったらしい。ホッとした様子で頷いたのを見て、レオナルドもまた表情を和らげた。
気分転換になればいい。そう思ったが故の何気ない提案。しかし幸か不幸か、パドックが見えてきた辺りで、レオナルドは見つけてしまった。
陽を溶かした黄金の髪に、海を模した蒼色の目。そして、視線が絡まる。
「レオナルドさま?」
これで素通りするわけにはいかなくなった。たとえ彼女の隣にいるのが憎き宿命のライバルであろうとも──いや、だからこそ背中を向けるわけにはいかなかった。
レオナルドは笑みを作る。晴天の下、輝きを増す太陽に相応しい、満面の笑みを。
「やあ、メイベル!会えて嬉しいよ。この人混みの中でキミを見つけられるとは……運命という言葉にも真実味が増してきたと思わない?」
「あいかわらずね、あなたって人は」
メイベルはおかしそうに笑う。レオナルドの言葉なんてちっとも信じていないって顔で。
でもそれはレオナルドだって同じだ。他ならぬレオナルド自身が運命なんてもの信じちゃいなかった。この世界にあるのはそんなお伽噺みたいなものじゃない。生まれた時から定められているのは属する世界だとか果たすべき役割だとか、そんなつまらないものだけ。
いつかは親が決めたどこかの令嬢と契約じみた結婚をすることになるのだろう。そしてそれは遠くない未来のことだった。
──まったく、ヘドが出る。
「馬券はもう買った?」
「いいえ、まだ。パドックを見てからにしようと思って。あなたは?」
「僕もこれからなんだ。馬主としては自分のとこの馬を応援するべきなんだろうけど、勝負するからにはやっぱり勝ちたいからね」
片目を瞑ると、リチャードの手がメイベルの肩を抱いた。さりげなさを装っているけどバレバレだ。険のある眼差しが警戒心の高さを物語っていた。
まぁ、まったく相手にされないよりはマシか。ともすると引き攣りそうになる口元に力を入れて、レオナルドは笑い続ける。気に食わない。腹立たしい。今すぐその手を払い落としてやりたい──けど、我慢だ。隣にいる親友の視線が痛い。
レオナルドはパドックに目をやった。
小さな敷地の中を周回するのは、装備を整えた馬たち。栗毛に鹿毛、芦毛……どの馬も仕上がりは上々。艶やかな毛並みが目の前を通りすぎていく。
しかし、この中で一頭を選ぶとするのなら──
「……サーヴィストだな」
口を開いたのはレオナルドではない。同じ馬を見ていた、リチャードだった。
「体重の増減も少ないし、トモにも張りがある。それに歩様も落ち着いているから、いいタイムが出せそうだ」
「そうなのですか?わたくしには何がなんだか……。どの馬もきれいな毛並みで、そちらにばかり気をとられてしまいますわ」
「慣れればこのくらいのことはすぐ見分けがつくようになるよ」
褒められ、満更でもないって顔。相好を崩すリチャードを、メイベルの頭越しに見てしまって、レオナルドは内心毒づく。
──まったく、まったく!なんなんだそのだらしなく緩みきった顔は!たかがその程度の賛辞で喜べるなんておめでたいこと!
「やれやれ。わかってないな、卿は」
………………
「……なんだと?」
内心で留めておくつもりが、気づけば嫌みったらしい声が洩れ出ていたらしい。取り繕うことを忘れたリチャードの低い声が、じろりとレオナルドににじり寄る。
しまった、しまった。大人げなかったな。……なんて、反省はしてみるけど、『ざまぁみろ』ってのが本音。そう易々と二人の世界にさせてたまるか。
後ろで友人が額を押さえているのがわかったけど、レオナルドのよく回る口はもう止まらない。
「だってそうじゃないか。2000ギニーステークス……クラシックの第一冠を手にしたカークコネルだってこのダービーには参戦してるんだよ?既に実績のある彼を選択肢に入れないのは些か早計なんじゃない?」
「確かにカークコネルはいい馬だ。前走も見事だった。だが距離適正の問題は無視できないと、俺は思う。2000ギニーとダービーでは距離がまるで違うのだから」
「おやおや、ご多忙の卿にとっては一年前のことなど昔話にすぎないようだね。つい昨年も2000ギニーとダービーで二冠を取った馬が出たばかりだというのに」
「それはラダスだから成し得た快挙であって、カークコネルにもサーヴィストにも関係のない話だ」
「ははぁ、なるほど。譲る気はないってわけだね」
飛び散る火花。一歩も譲らぬ構えの両者。
となれば、やることはひとつ。
レオナルドとリチャード、二人はほぼ同時にメイベルを見た。
「キミはどっちが勝つと思う?やっぱり戦績がある方だよね?」
「いや、実際にこの目で見たもの、直感を信じるべきだろう。メイベル嬢、どうかあなたには心のまま選んでほしい」
「え?あの、話が見えないのですが……」
「そもそもわたくしに馬を見る目はないのですし……」とメイベルは困った様子。眉を下げ、思案の表情。その果てに。
「……それならわたくしは、サーヴィストに賭けることに致しますわ」
「それはどうして……」
「だってどの馬が勝つかなんて、わたくしにはわかりませんもの。それならリチャードさまと同じ馬を応援して、勝った時には共に喜び、負けた時には共に悔しがる……。せっかくお誘いいただけたんですもの、その方がずっと楽しいとわたくしは思いますから」
「メイベル嬢……」
微笑み合うふたり。……完敗だった。ここで食い下がることほど惨めなものはないだろう。
レオナルドは唇を噛んだ。胸がモヤモヤするのは反論の語がつっかえているせいだ。
「……レオナルド、」
「ユリウス、慰めはいらないよ」
友人が気遣わしげな声をはね除けて、レオナルドは笑う。道化を演じ続ける。
「まぁいいさ。結果はすぐにわかる。カークコネルかサーヴィストか……、勝負だよ、リチャード」
「あぁ、望むところだ」
悔しくなんかない。だってこんなの慣れっこだ。
ずっとずっと……寄宿学校時代から、どうしたって敵わなかった。どうして勝てないんだって、親にも散々嘆かれてきた。それすら当たり前になって、大学を出る頃には何も言われなくなった。その時の惨めさに比べれば、こんなのへでもない。ひとつ黒星が増えたところで、今さら痛くも痒くもない。
──なんて、
「──うそだ」
二人と別れてから、虚勢は容易く剥がれ落ちた。笑みは消え、歪んだ顔を手のひらで覆った。誰にも見られたくなかったし、見たくなかった。
悔しかった。どうして僕じゃだめなんだろう?どうして彼女までも僕を選んではくれないんだろう?何も手にしてこなかったから、いつも二番手に甘んじてきたから……だからまた、取り零してしまうんだろうか。自分は一生、リチャードに敵わないんだろうか。彼女すらもうしなって、いつかはそのことにすら諦めがつくようになるのだろうか。
──そんなのいやだ。
レオナルドは紙くずになった馬券を握り潰した。
「知らなかったよ、自分がこんなに負けず嫌いだったなんて」
うねる歓声。両手を挙げる者、或いは肩を落とし項垂れる者。熱気に包まれていたのは、特別観覧席も同じだった。皆が皆、レースの行く末に一喜一憂していた。
一番に入線したのはサーヴィストだった。レースは混戦の模様を呈していたが、見事な末脚を披露してくれた馬に盛大な拍手が送られた。勝敗は決したのだ。一着はサーヴィストで、カークコネルは三着に終わった。それが今年のダービーの結末だった。
けれど終わったのはひとつのレースに過ぎないのだ、とレオナルドは己に言い聞かせた。ダービーは終わった。でもこれから何度だってチャンスはある。何度だって……自分が諦めさえしなければ。
「決めたよ、ユリウス。僕は諦めない。諦めることに、これ以上慣れてしまいたくはない。この気持ちが恋のように清らかだとも、愛のように優しいものだとも思わないけど、それでも僕は」
くしゃくしゃになった馬券を広げて、折り目を伸ばした。
帰ったらこいつを書斎にでも貼り出そう。そう、レオナルドは思う。これはもうただの紙くずなんかじゃない。今日という日の、決意の証だ。
「愚かだと思うだろう?」
「……いいや。その方がずっとお前らしい」
何もかも諒解した。そういった顔で、親友は首を振る。彼にはもう、レオナルドを止める意思はないようだった。
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※20260116執筆中の連載作品のショート版です。
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2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
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