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どうやら私は殺される運命のようです
しおりを挟む夜より深い──深い色の黒衣が、夜風に翻る。
それを見た瞬間、『あぁ、私は死ぬんだな』と九条泉は悟った。
ずっと前からわかっていた。いつか私を殺すひと、それは目の前の彼だ。フードを目深に被った、黒い影。夜の闇に溶けるそのひとに殺されるのだと、ずっと昔から──それこそ生まれる前からわかっていた。
ただこの時まで忘れてしまっていただけで、運命は変えることなどできないのだ。
泉はすべてを諒解し、黒衣の男を受け入れた。彼が自宅に足を踏み入れるのを。その手が自分へと伸ばされるのを。己の首をぐぅっと締め上げるのを、諦念に満ちた目で眺めた。
「……すまない」
馬乗りになった男がはじめて口を開く。
すまない。そう謝るくせ、両手にこもる力はちっとも緩まない。
謝るくらいならやめればいいのに。泉は遠のく意識の中で思う。私よりもずっと苦しそうな声をしているのに。なのにどうしてこのひとは私を殺すんだろう。
その問いに答えるかのように、男の口が開く。
「君が他の誰かに殺されてしまうくらいなら、いっそ」
意識が夜に溶ける一瞬、泉が嗅いだのは龍脳の清らかな香りだった。
その日もいつもと変わらない、平凡な朝を迎えたはずだった。
いつも通りの時間に目覚め、いつも通り幼馴染みにモーニングコールをして、いつも通り自宅まで彼を迎えにいく。
そんなルーチンワークをこなす中で、九条泉は「あれ?」と首を傾げた。
「なんかこれ、すっごく見覚えがあるような……」
いつもの通学路を歩いていると、前方で車が事故を起こしていた。どうやらガードレールに突っ込んでしまったらしい。運転手らしき男性と警察が何やら話し込んでいる。
その光景に、泉はデジャヴを感じた。
……つい最近も同じものを見たような、そんな気がする。
その感覚は、幼馴染みの家に着く頃には一層色濃いものになっていた。犬のフンを踏みかけたり、電信柱にぶつかりかけたり、どんくさいのはいつものことだけれど、それにしたって今日はひどい。ひどい、既視感を覚える。
幼馴染みの住むマンションの前、鞄を手に泉は思考を巡らす。車の事故、犬のフン、電信柱。それらひとつひとつは些細なこと。
──でもそれが連続して起こったなら?
泉は昨日のことを思い出そうとする。昨日のことを、一昨日のことを、それより前のことを──それはずっとずっと昔のことかもしれないが、何らかのきっかけはあったはず。
不連続な意識を必死で繋ぎ止め、泉は記憶を辿る。すると特別印象に残っている出来事が、泉の中に残る。
時期外れの転校生、市内で起こっている連続失踪事件、それから、それから、──宵闇に現れるという、殺人鬼のうわさ。
風に翻る黒衣が、泉の脳裏によみがえる。
「……あっ!」
その瞬間、泉は思い出した。
自分が幾度となく殺人鬼の手にかかったことを。──彼に殺されるのが、今晩であることを。
「ど、どうしよう……」
「なに慌ててんだよ、泉?」
「誠くん、」
間の悪いことに、幼馴染みがやって来てしまった。幼馴染みであり、同級生であり、……ちょっぴり気になる男の子。
夢見がちな泉が『王子様だったらいいのに』と密かに思っていた少年は、いつもと変わらない呑気な顔で泉を揶揄う。
「どうせ忘れ物でもしたんだろ。泉はどんくさいからな」
それはいつもと変わらない軽口だった。いつもなら泉は怒って、拗ねて、彼の軽い謝罪を『仕方ないなぁ』と受け入れる。そう、いつもなら。
でも今朝は違った。泉にとって重要なのは自分を殺す死神のこと。その上、よみがえった記憶は他にも多くのことを泉に教えてくれた。
「……ごめんね、誠くん。先に行ってて」
「お、おいっ!」
呼び止める声に構わず、泉は駆け出す。幼馴染みは追ってこない。……それはそうだろう。だって泉は、彼にとっての唯一じゃない。それを思い出して、目の奥が熱くなる。
幾度となく繰り返された時間。繰り返される一週間の中で、彼が選ぶのは泉だけじゃなかった。彼は他にも幾人かの女の子たちと関係を持った。時期外れの転校生や、学園のアイドル、不思議な言動の後輩、……そういった女の子たちの中からひとりを選び、そしてまた違う一週間を繰り返す。
──泉の死によって。
彼が正しい選択肢を選ばない限り、これから先も泉は死に続けるのだ。
「つまり、これって《死にゲー》……?」
走り続け、やがて自然と足が止まる。人気の少ない河川敷、ふらりと階段に腰かけたところで、泉はとある答えに辿り着く。
死にゲー──即ちそれは、死を繰り返すことで正解を導き出すゲーム。そういうものの存在は、少々オタク気質な兄から聞き及んではいた。
今回で言うなら解答者は誠であり、ゲームオーバーは泉の死である。誠にその自覚はないのだろうが、彼が選択肢を誤り続けた結果が《いま》なのだ。
「でもどうして私が殺されるんだろう……?」
膝を抱えて溜め息をひとつ。
己の死と幼馴染みの移り気な心いう衝撃のために、他のことへ考えが回っていなかった。けれど、これは重要な問題だ。どうして一般人の自分が殺されなくちゃいけないのか。どうして自分が死ぬと、また新しい一週間がやって来るのか。
あの殺人鬼は、何かヒントのようなものを言っていなかっただろうか──?
「……こんなところで何してるの、九条さん」
またしても思考を阻む声。けれど幼馴染みのそれとは違い、この声には泉を案じる柔らかな気配が感じられた。
振り仰ぐ泉の視線の先、和やかな秋の光のもと立っているのは憂いがちな瞳の青年。泉が所属している生徒会の長であり、女子生徒の憧れを一心に集めているひと。
泉にとっても尊敬する先輩であったから、表情を緩めた。
「芳野先輩こそ。生徒会長がおさぼりなんていけないんですよ」
「さぼりじゃないよ。大事な後輩がつらそうにしてるんだから、先輩としては放っておけるわけないだろう?」
「……つらそう?」
「違うの?俺にはそう見えたけど」
さらりと言い当て、芳野薫は泉の隣に座った。
王子様みたいな顔をしているのに、意外。泉の方が『ハンカチを敷いた方がいいんじゃないかな』と不安になってしまう。同じ制服を着ているはずなのに、彼が身に纏うだけでどこか高貴なものに思えてくるから不思議だ。
そんな学園の王子様はその心まで清廉潔白にできているらしい。
「俺では君の力になれないかな」
そう言って、泉の顔を覗き込む。どこまでも澄み渡る、真っ直ぐな目で。見つめられると、幼馴染みにしたようにはね除けることはできなかった。
泉は視線をさ迷わせ、躊躇いがちに口を開く。
「あの、変な質問をしてもいいですか?」
「もちろん。何を聞かれたって笑わないし、誰にも口外しない。約束するよ、九条さん」
「……ありがとうございます、芳野先輩」
真面目な物言いに、泉の心は安らぐ。彼になら相談しても大丈夫。そう、直感した。
だから先程から気にかかっていた疑問を口にする。
「もしも、もしも人が人を殺すとして──その理由って、憎しみ以外に何があると思いますか?」
どうして殺されなければならないのか。……考えてみても、泉にはまったく心当たりがなかった。
では知らないうちに怒りを買ってしまったのだろうか?
そう思い、改めて振り返ってみたものの、それはそれで納得がいかない。あの殺人鬼からは憎悪の類いは感じられなかったのだ。
確かに《彼》は泉を絞め殺したけれど、けれどそのたびに『すまない』と謝る声を泉は聞いていた。だからどうしても《彼》に恨まれているとは思えなかった。
ならば何のために《彼》は泉を殺し続けるのか。
「……愛、じゃないかな」
しかし薫が口にしたのは予想だにしない言葉だった。
「愛、ですか?」
「うん、そうだよ」
目を瞬かせる泉の横で、薫は頷く。頷き、それから、どこか遠くへと目を馳せた。
「愛しているから。好きで好きでたまらなくて、どうしようもないほどに愛おしくて、その生も死も自分のものにしたいから──だから人は人を殺すんだよ」
彼は目を細める。
どこか遠く。その目が映すのは、けれど川の対岸ではない。その向こうに並ぶ住宅街でもなく、清々しい空の蒼でもなく。ここではないどこかに、彼は思いを馳せていた。
泉は。
彼の名前を呼ぼうとした。芳野先輩。そう、いつものように。呼ぼうとして、けれど言葉を失った。
──その眼差しが、あまりに悲しげだったから。
けれどそう思ったのはほんの一瞬のこと。
「……なんてね。そういう話ってよくあるだろう?ほら、『雨月物語』とか」
泉に視線を戻し、薫はちいさく笑ってみせる。
……冗談、だったのだろうか。泉があまりに深刻そうな顔をしているものだから、気を遣ってくれたのだろうか。
泉は「『吉備津の釜』ですね」と応じながら、思考を巡らせる。
……でも、それだけじゃない気がする。そう思ったものの、確たるものはない。ただなんとなく、引っ掛かりを覚えただけで。
「けど驚いたな。俺が言い出したことだけど、でも九条さんが幼馴染みの彼じゃなくて俺を相談相手に選んでくれるなんて」
「そ、それはその……」
「……ごめん、聞いちゃいけないことだったかな」
「いえ、ただ……すみません。なんだか混乱してて、」
泉は口ごもり、抱えた膝に視線を落とす。
感じていたはずの違和感はすっかり霧散。代わりに思考を占拠するのはよみがえったばかりの記憶。硬派だったはずの幼馴染みが様々な女の子に愛を囁く姿だった。
「……彼が悪いわけじゃないんです。変わっちゃったのはむしろ私のほう。私が、私が誠くんのこと信じられなくなっちゃったから……」
「九条さん……」
「なんて、ワケわかんないですよね。こんなこと、いきなり言われたって」
あはは、と乾いた笑いがこぼれる。こぼれて、後には沈黙だけが残った。
爽やかな風が吹き抜けていっても、泉の心は晴れない。痛んで、苦しくて、泣きたくなるほどに悲しくて、──それでも誠を憎むことはできなかったから、余計につらかった。
「ごめんなさい、先輩」鼻の奥がツンとする。力を入れていないと、決壊してしまいそう。
「先輩に言ったってしょうがないのに」
「……そんなことないよ」
え、と思う間もなく、泉の視界は真っ暗になった。その驚きは滲みかけた涙も引っ込んでしまうほど。
そしてその暗闇が薫の体であること、彼の胸に抱き締められているのだと知ったのは、龍脳の香りが鼻孔を擽ったためである。高貴さと清らかさを感じさせる匂い。彼が歩いた後にはいつもその残り香を感じることができた。
「芳野先輩……?」泉は困惑も露に薫を見上げる。
「話してくれないかな、九条さん。君を苦しめているもの、悲しませること、すべて。もちろん話せる範囲で構わないから」
すると、たちまち浴びせられるのは、慈愛に満ちた眼差し。柔らかな微笑と温かな手に包み込まれた。
「そんなっ、私、私は……こうして気にかけていただけるだけでも十分……」
「……やっぱり俺じゃ頼りない?」
「まさかっ!」
「それなら、ね?教えてほしいな」
にっこり。笑う姿には、つい一瞬前まで見せていた悲しげな様子は微塵も見受けられない。
優しいだけの先輩ではないのだ。思い知らされ、泉は言葉に詰まる。さすがは生徒会長。策略家な上に演技派とは。敵わないなぁ、と泉は思う。
本当に、敵わない。このことは誰にも話せない、頼れないと思っていたはずなのに。自分自身まだ信じきれていないのに。
なのに心の天秤は既に傾いていた。
「……すごく、荒唐無稽な話でも?」
「最初に言ったじゃないか。何を聞かされたって笑わないって。信じるよ。他でもない、九条さんの言葉なら」
「先輩……」
その言葉に背中を押され、泉は息を吸う。吸って、吐いて、呼吸を整えて。
それから、すべてを打ち明けた。今朝思い出したばかりの繰り返される死の記憶を、その原因が幼馴染みにあるのではないかと考えていることを。
祈るような気持ちで訥々と語ると、薫は何事か考えるように眉根を寄せた。
「……なるほど、それでさっきはあんな質問をしてきたんだね」
「信じて……くれるんですか?」
こんな馬鹿げた、妄想としか考えられない話を?
不安におののく胸を抑えて訊ねると、薫は「九条さん以外だったら信じなかったかもね」と冗談めかした調子で言った。
それはつまり、泉の言葉なら信じてくれるという意味で。
『真面目に生きてきてよかった』と泉は密かに涙ぐんだ。
そんなことくらいしか取り柄はないけれど、でもそのお陰で独りぼっちにはならずにすんだ。そしてそれは今の泉にとって何よりの救いでもあった。
「でも……そうか、そういうことなら一人になるのは危険だね。殺されるのはいつも君だけなんだろう?」
「はい、たぶん……。いえ、自分が死んだ後のことはわからないんですが」
「それもそうだね。まぁ九条さんが殺されたあとのことはどうでもいいよ。その後のことには興味ないから」
「はぁ……」
物騒なことを言うんだなぁ。
意外に思いつつ、曖昧に頷くと、「九条さんはどうしたい?」と問われた。
「どう、とは?」
「その極悪非道の殺人鬼をどうするのかって話。警察に突き出す?それとも半殺しにしてあげようか。二度と君に近づかせない、そう誓わせてもいいよ」
やっぱり物騒だ。どうしたら自分が生き残れるかしか考えていなかった泉にとってはまさしく青天の霹靂。警察だとか復讐だとか、そんなのは案のうちにも入っていなかった。
「え……っと、」
常識的に考えれば、警察を頼るのが一番だろう。その方法はこれから考えるとして、でも最善策はそれだ。それしかない。頭ではわかっている。
死をループさせられている。なんていうファンタジーな謎だって、その死を乗り越えさえすれば解決しなければならないということもない。謎は謎のまま、元の日常に帰ればいい。
──ほんとうに?
「……私、やっぱり知りたいです。どうして殺されなくちゃいけないのか、どうして私だったのか。恨みでも憎しみでもないなら、そのひとの話をちゃんと聞きたい。私を殺す以外に解決策はないのか、話してみたいです」
「殺人鬼に話なんて通じないかもしれないよ」
「そう……かもしれませんけど。いえ、普通に考えればバカげてるって自分でもわかっているんですが……」
けれどどうしてか、気になってしまう。知らなければならない、そんな気がして仕方がない。黒衣の男──顔もわからないそのひとのことが知りたい。どうしてそんな悲しそうな声で謝るのか、教えてほしい。
「それに芳野先輩が言ったみたいな理由なら……私の方こそ謝らなくちゃ。きっと私、知らないうちにそのひとのことを傷つけていたんじゃないかと思うんです」
「……優しいね、九条さんは」
「あはは、そんなのじゃないですよ」
「ううん、優しいんだよ。ずっと昔から優しくて、すぎるほどに優しいから──だから俺みたいなのに殺されちゃうんだ」
芳野薫は落ち着いた調子で言った。いつもと変わらない穏やかな声で、柔らかな微笑さえ浮かべて。
だから最初、泉は耳を疑った。
いったい何と聞き違えたんだろう。殺されちゃう、なんて。そんな物騒なこと、このひとが言うわけない。きっと冗談だよって、そう言って、笑って、
「冗談なんかじゃないよ」
ぐっ、と抱き寄せられる。腰を掴む手に力が籠る。逃げられない。抗えない。真剣な眼差しに、囚われる。
「何百年も昔から、俺は君だけを見てきた。ずっとずっと好きで、どうしようもないほどに愛おしくて、その生も死も自分のものにしたかったから、俺は君を殺してきた。だからたぶん、今回君を殺したのも俺だと思うよ」
「それ、は……」
熱っぽい声に、めまいがする。風の音さえも聞こえない。あんなに涼しかったはずの空気さえ、ちりちりと膚を焼く。
そんな中で、泉は必死に思考を巡らした。薫の言ったこと、単語のひとつひとつを噛み砕き、噛み締め、その意味を理解しようとする。
「それはつまり、いわゆる前世というやつですか?」
「そうなるね」
「でも私とは違って、【九条泉】を繰り返し殺した記憶はない、と……?」
「理解が早いね。さすが九条さん、そんなところも好きだよ」
「あ、ありがとうございます……?」
なんというか。
薫があまりに平然としているから、殺意が感じられないから、調子が狂う。危険だ、と本能が感じ取ってくれない。
本当にこのひとが犯人なの?
泉は頭の片隅で自問自答する。自白はとれたのに、未だに信じられない。衝撃がそれほど大きかったということだろうか。
……わからない。わからないけれど、でも、とりあえず今確認しなくちゃいけないことは、ただひとつ。
「それじゃあ、その……もう私を殺すのはやめていただけるんでしょうか……?」
おずおずと口を開く。
……と、薫は暫し思案したあとで、こう言った。
「君が、もう誰のものにもならないと誓ってくれるなら、……ね」
その微笑みの眩しさに──しかし瞳の奥で揺らめく炎に──あてられた泉にできたのは、残念ながら頷くことだけだった。
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