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無垢と笑えよサイコパス
地下治験場-1
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扉の開く音を聞いて、ゼータは読み耽っていた書物から顔を上げた。クリスが「視察員の講義に顔を出す」と言って地下研究室を出て行ってから早3時間半、ゼータは本棚にあった1冊の書物を読み終え、2冊目に突入したところであった。魔力を封じるための首輪、通称「魔封じの首輪」の影響で眠気と怠さは常に付きまとうが、椅子に座り書物を読み漁る分には然したる影響はない。
「ただいま」
「おかえり、早かったですね」
「講義が早く終わったんだ。ルーメンさんは講義を長引かせないことで有名だからね」
「特殊丸薬を作ったんですよね。私も参加したかったです」
「それなら今この場で魔導大学移籍を宣言すると良いよ。言質が取れたらすぐに馬車を手配して、教養棟に送って行ってあげる。今からなら午後の講義には間に合うよ」
「…嫌です」
クリスは笑い声をあげて、腕に掛けていた紙袋から2つのアルミ箱を取り出した。アルミ箱の一つは荷物と一緒に作業机の上に置かれ、もう一方はゼータに向かって差し出される。
「はい、お昼ご飯。お盆だと持ち運びが大変だから、お弁当箱に詰めてもらったんだ。まだ温かいからすぐに食べると良いよ」
「クリスは?」
「僕は皆の配膳を済ませてから」
クリスは実験用の石台に歩み寄る。一昨日ゼータが怪我の手当てを受けた石台の上には、今は一抱えもある大きな容器がいくつも置かれていた。その容器の中には残飯が入っていることをゼータは知っている。早朝ゼータがまだ布団の中にいる頃に、クリスはそれらの容器を台車に乗せて地下研究室へと持ち込んだのだ。「中央食堂で昨日の残飯を貰って来たんだ」とクリスは言った。説明を受けずとも残飯の行き先は想像がつく。地下牢に幽閉されている魔族と魔獣に食事の給仕を行うのだ。「調理員には何と説明をしているんですか?」と尋ねるゼータに対し、クリスは「普通に実験用の魔獣を飼育していると言ってあるよ。大きさには言及していない」と言って笑った。視察員の食事処である北部食堂の残飯は魔獣学部の厩舎に運ばれると言うから、魔獣を飼育するクリスが残飯を引き受けることは不自然ではないのだ。
容器の蓋を開けたクリスは、配膳用の仕切り皿に次々と料理を取り分けた。仕切り皿の数は全部で5枚、それぞれの料理の残飯量には差があるため、盛られる料理も皿により色合いが違う。例えばある皿は野菜が多めの健康食であるが、ある皿はがっつり肉系だ。
料理を盛り終えた5枚の仕切り皿を配膳車へと乗せたクリスは、次に大振りの餌入れを2つ石台の上に置いた。今まで手を付けずにいた右端の容器の蓋を開け、トングを使って残飯をよそう。容器の中身は過熱前の生肉の切れ端や魚のアラだ。これは魔獣用、とクリスが呟く。ゼータはまだ温かい弁当をつつきながら、無言で盛り付け作業を眺めていた。そしてクリスが全ての作業を終えたところで久方ぶりに口を開く。
「昨日分の残飯で、今日一日の食事を賄うということですよね。足りないことはないんですか?」
「足りないということは滅多にないかな。中央食堂は魔導大学一大きな食堂だからね。かなりの量の残飯が出るんだよ。でも万が一に備えて日持ちのする乾物や菓子類は常備しているよ。滅多に使わないから、僕のおやつになっちゃうことが多いんだけどね」
「魔獣の分は?それだけの肉だと足りないですよね」
「魔獣の餌は家畜用の飼料が主なんだ。生肉は僕が勝手にあげているだけ。毎日同じ飼料ばかりじゃ可哀そうかなと思って」
「へぇ…優しいんですね」
「そうでしょ。僕、魔獣は結構好きだからね」
ゼータとの会話もそこそこに、クリスは配膳車を押し地下研究室を出て行こうとする。地下牢に閉じ込められた5人と2匹に、本日の昼食を届けに行くのだ。ゼータは食べかけの弁当の蓋を閉じ、箸と共にテーブルの上に置いた。傷を負った右脚に気を遣いながら、配膳車を押すクリスの背を追う。
「クリス、私も行きます」
「え、食事の配膳に?」
「そうです。一度は見た場所なんだから、付いて行っても問題はないでしょう」
「うーん…でも見ていて気持ちの良いものではないよ?人を幽閉している現場なんて」
「彼らが罪人ということは十分理解しています。劣悪な環境で魔族が可哀そうだなどと喚いたりはしませんよ」
せっかく地下治験場という珍しい場所への滞在を余儀なくされているのだから、見られる物は見て帰ろう。安直な発想から給仕への同行を願い出たゼータであるが、クリスの眼差しは疑いに満ちている。クリスが食事の給仕に気を取られている間に、地上への脱出を図るのではないかと疑いを抱いているのだ。現在ゼータの地上脱出を拒む最たる要因は、地下研究室の強固な扉。扉の外に出てさえしまえば、脚を怪我している身とはいえ自力での脱出は不可能ではない。
クリスはしばらく考え込んでいたが、やがて良いことを思い付いたとばかりに笑顔を浮かべた。配膳車の傍を離れ、作業机へと向かう。足元の引出しをがさがさと物色する。そして再びゼータの元へと戻って来るクリスの手には、どこか見覚えのある革製のベルトと、同じ色合いの革紐が握られていた。
「配膳について来ると言うのなら、これを付けさせてもらうけど」
「…何ですか、これ」
「愛玩動物用の首輪だよ。魔獣を飼うなら使う機会があるかと思って、魔獣学部から貰って来たんだ。大丈夫、まだ新品だから」
「何が大丈夫なんですか?」
ゼータはクリスの手にある革の首輪を食い入るように見つめた。光沢のある黒革の首輪は、銀毛並みの魔獣の首に嵌まるのであればさぞかしよく映えるであろう。しかし最悪なことに、クリスはその首輪をゼータの首に嵌めるのだと言う。ゼータは愛玩動物のごとく首輪を嵌められた自身の姿を想像し、盛大に顔をしかめた。
「人として捨ててはならぬ最低限の尊厳が…」
「嫌なら別に良いよ。大人しくお留守番よろしくね」
交渉決裂とばかりに地下研究室を出て行こうとするクリス。ゼータの口から「待ってください」との言葉が飛び出すまでには、さほどの時間は要しなかった。
***
数分後、ゼータを従えたクリスは地下牢へと続く強固な扉をくぐる。配膳車を押すクリスの左手首には黒の革紐が絡められており、革紐の先端はゼータの首元へと長く伸びる。人として最低限の尊厳は捨てられない。数分前にそう言い放ったゼータの首元には、愛玩動物用の首輪がしっかりと嵌められていた。ここが人通りの多い魔導大学のメインストリートであったならば、道行く人々が好奇の眼差しを向けること間違いなしの光景である。
「…クリス。やっぱりこれは不味いですよ。変態的です」
「そう思うなら止めておけば良かったじゃない」
「だってずっと同じ部屋にいるというのも息が詰まるんですよ。本を読む以外にすることもないし」
「じゃあ多少の不自由は我慢するんだね。交渉途中で逃げられたら困るもの」
「交渉っていつ決着が着くんですか」
「さあ、いつになるだろうね。言っておくけど僕は魔導大学移籍の条件を譲るつもりはないよ。不服だと言うのなら、双方が納得できるようなより良い条件を提示するんだね。簡単に譲るつもりはないけれど、良い提案があれば柔軟に応じるよ」
良い提案ができるのならとっくにそうしている、ゼータが不満げに口を噤んだところで、2人の足は地下研究室から最も近い場所にある檻の前へと辿り着く。古びたランタンが照らす檻の内部には、錆びたパイプベッドと一揃いの机と椅子、そして衝立に仕切られた便所があった。牢屋の住人は獣人族と思しき容姿の青年だ。肩まで伸びた茶色の髪に、薄暗闇に光る金色の目が印象的である。青年の首には鈍く光る魔封じの首輪、そして例のごとく左足の膝から下がない。
「サンバンさん。昼食だよ」
ベッドに寝そべりく書物を捲っていた青年は、クリスの声掛けについと顔を上げた。「ああ、もうそんな時間か」乾いた唇が動く。クリスは配膳車の上からがっつり肉系の仕切り皿を取り上げ、鉄格子の前に座り込んだ。鉄格子の下部に、食事を差し入れるための配膳口が設けられているのだ。高さが10㎝にも満たない配膳口に仕切り皿を押し込んだクリスは、檻の前面に座り込んだまま言う。
「要望通り肉料理を多めにしておいたよ。また何かあったら言ってね」
青年の瞳が動く。力なく淀んだ瞳は、鉄格子から離れた場所に立つゼータを捉え、そしてすぐに逸らされた。「時計と、新しい書物を頼む」青年の言葉にクリスは頷き、次の檻に向かうべく配膳車に手を掛ける。最低限の要件を済ませ去り行く2つの背中を、檻の中の青年は虚ろな眼差しで見つめていた。
「さっきの人、サンバンさんという名前なんですか?」
ゼータは今しがた配膳を終えたばかりの檻を振り返り、尋ねた。いや、とクリスは首を横に振る。
「三番の檻に入れられているからサンバンさん。これから向かうのはナナバンさんの檻だよ」
「なんで名前を呼ばないんですか?」
「そういう命令だから。名前を呼ぶと彼らを一人の人として認識してしまう。彼らは被験者である以前に罪人だからね。食事配膳係の僕が罪人に感情移入して、逃亡の手助けをしたなんてことになったら一大事でしょ。彼らが地下牢に輸送されてくるときに、身体情報や経歴の資料を受け取るんだけど、名前の欄は黒塗りになっているんだよね」
「ロシャ王国内の刑事施設では、罪人を名前で呼ばないことは普通ですか?」
「…さぁどうだろう。刑事施設を訪れた経験がないから分からないや」
話すうちに通路の先にはナナバンさんの檻が見えてきた。クリスは檻の前に配膳車を止め、先ほどと同様配膳口から仕切り皿を差し込む。仕切り皿の料理は野菜多めの健康食だ。
「ナナバンさん。昼食だよ。量は控えめにしておいたから頑張って食べてね。他に何か必要な物はある?」
クリスの呼び掛けに、パイプベッドの上のナナバンさんが身動ぎをした。薄い毛布にくるまる者は、擦り切れた衣服をまとう若い女性だ。落ち窪んだ眼窩に痩せこけた頬、毛布から飛び出した両手足は哀れなほどに細い。骸骨のような風貌のその女性は、ゼータが地下牢に足を踏み入れて最初に目撃した人物だ。彼女のすすり泣く声を聞いて、ゼータは不穏な雰囲気の漂う地下牢に深く足を踏み入れた。
女性は配膳口から差し入れられた仕切り皿に視線を落とすが、すぐに皿を取りにくる様子はない。薄い毛布に身を包んだまま、色よく盛り付けられた仕切り皿とじっと見つめている。クリスは女性の返事を待ち辛抱強く配膳口の傍に座り込んでいたが、結局女性は口を開くことはおろか、まともに身動きすらしなかった。クリスは女性が言葉を返さないことを不快に感じた様子はなく、何事もなかったかのように配膳車に手を掛ける。行くよ、と声を掛けられて、ゼータは慌ててクリスの後を追う。
「ナナバンさんは病気ですか?随分痩せていましたけど」
ゼータは今しがた配膳を終えたばかりのナナバンさんの檻を振り返る。暇潰しに書物を捲り、受け答えもしっかりしていたサンバンさんとは異なり、ナナバンさんは酷く衰弱している印象を受けた。身体は痩せ細り目は虚ろ。明日の朝を迎えずに、布団の中で息絶えたとしても不思議ではない有様だ。クリスは「頑張って食べてね」と声を掛けていたから、恐らく長いことまともに食事を取れていないのだ。ならばその原因は彼女が病気を患っているためか、それとも地下牢生活に疲れ精神を病んでいるためか。あれこれと考えを巡らせるゼータであるが、クリスの答えはそのどの予想とも違うものであった。
「病気ではない。治験の影響だよ。1か月前に大規模な薬剤の治験があったんだけど、そのときの後遺症が残っているんだ」
「…後遺症?どんな薬剤ですか?」
「それは内緒。国家機密だよ」
「あんなに弱っていても治験場を出られないんですか?」
「出られない。後遺症の観察も治験の一環だから」
「そうですか…」
そんなものか、と呟きながら、ゼータは廊下の行く先を見つめた。目立った装飾のない無機質な通路で、目につく物は左右にずらりと並んだ鉄檻だ。ゼータは歩く途中に鉄檻の内部を覗き込む。そこに人の姿はない。机に椅子、ベッドに便所と一通りの生活家具は揃っているから、過去にそこで生活をしていた人がいることは確かであろう。この檻の主はどこへ行ったのか。定められた治験を終え、元いた刑事施設に戻されたのか。それとも治験の請負により刑期が短縮され、釈放されたのか。それはいくら考えたところで分かるはずもなかった。
「ただいま」
「おかえり、早かったですね」
「講義が早く終わったんだ。ルーメンさんは講義を長引かせないことで有名だからね」
「特殊丸薬を作ったんですよね。私も参加したかったです」
「それなら今この場で魔導大学移籍を宣言すると良いよ。言質が取れたらすぐに馬車を手配して、教養棟に送って行ってあげる。今からなら午後の講義には間に合うよ」
「…嫌です」
クリスは笑い声をあげて、腕に掛けていた紙袋から2つのアルミ箱を取り出した。アルミ箱の一つは荷物と一緒に作業机の上に置かれ、もう一方はゼータに向かって差し出される。
「はい、お昼ご飯。お盆だと持ち運びが大変だから、お弁当箱に詰めてもらったんだ。まだ温かいからすぐに食べると良いよ」
「クリスは?」
「僕は皆の配膳を済ませてから」
クリスは実験用の石台に歩み寄る。一昨日ゼータが怪我の手当てを受けた石台の上には、今は一抱えもある大きな容器がいくつも置かれていた。その容器の中には残飯が入っていることをゼータは知っている。早朝ゼータがまだ布団の中にいる頃に、クリスはそれらの容器を台車に乗せて地下研究室へと持ち込んだのだ。「中央食堂で昨日の残飯を貰って来たんだ」とクリスは言った。説明を受けずとも残飯の行き先は想像がつく。地下牢に幽閉されている魔族と魔獣に食事の給仕を行うのだ。「調理員には何と説明をしているんですか?」と尋ねるゼータに対し、クリスは「普通に実験用の魔獣を飼育していると言ってあるよ。大きさには言及していない」と言って笑った。視察員の食事処である北部食堂の残飯は魔獣学部の厩舎に運ばれると言うから、魔獣を飼育するクリスが残飯を引き受けることは不自然ではないのだ。
容器の蓋を開けたクリスは、配膳用の仕切り皿に次々と料理を取り分けた。仕切り皿の数は全部で5枚、それぞれの料理の残飯量には差があるため、盛られる料理も皿により色合いが違う。例えばある皿は野菜が多めの健康食であるが、ある皿はがっつり肉系だ。
料理を盛り終えた5枚の仕切り皿を配膳車へと乗せたクリスは、次に大振りの餌入れを2つ石台の上に置いた。今まで手を付けずにいた右端の容器の蓋を開け、トングを使って残飯をよそう。容器の中身は過熱前の生肉の切れ端や魚のアラだ。これは魔獣用、とクリスが呟く。ゼータはまだ温かい弁当をつつきながら、無言で盛り付け作業を眺めていた。そしてクリスが全ての作業を終えたところで久方ぶりに口を開く。
「昨日分の残飯で、今日一日の食事を賄うということですよね。足りないことはないんですか?」
「足りないということは滅多にないかな。中央食堂は魔導大学一大きな食堂だからね。かなりの量の残飯が出るんだよ。でも万が一に備えて日持ちのする乾物や菓子類は常備しているよ。滅多に使わないから、僕のおやつになっちゃうことが多いんだけどね」
「魔獣の分は?それだけの肉だと足りないですよね」
「魔獣の餌は家畜用の飼料が主なんだ。生肉は僕が勝手にあげているだけ。毎日同じ飼料ばかりじゃ可哀そうかなと思って」
「へぇ…優しいんですね」
「そうでしょ。僕、魔獣は結構好きだからね」
ゼータとの会話もそこそこに、クリスは配膳車を押し地下研究室を出て行こうとする。地下牢に閉じ込められた5人と2匹に、本日の昼食を届けに行くのだ。ゼータは食べかけの弁当の蓋を閉じ、箸と共にテーブルの上に置いた。傷を負った右脚に気を遣いながら、配膳車を押すクリスの背を追う。
「クリス、私も行きます」
「え、食事の配膳に?」
「そうです。一度は見た場所なんだから、付いて行っても問題はないでしょう」
「うーん…でも見ていて気持ちの良いものではないよ?人を幽閉している現場なんて」
「彼らが罪人ということは十分理解しています。劣悪な環境で魔族が可哀そうだなどと喚いたりはしませんよ」
せっかく地下治験場という珍しい場所への滞在を余儀なくされているのだから、見られる物は見て帰ろう。安直な発想から給仕への同行を願い出たゼータであるが、クリスの眼差しは疑いに満ちている。クリスが食事の給仕に気を取られている間に、地上への脱出を図るのではないかと疑いを抱いているのだ。現在ゼータの地上脱出を拒む最たる要因は、地下研究室の強固な扉。扉の外に出てさえしまえば、脚を怪我している身とはいえ自力での脱出は不可能ではない。
クリスはしばらく考え込んでいたが、やがて良いことを思い付いたとばかりに笑顔を浮かべた。配膳車の傍を離れ、作業机へと向かう。足元の引出しをがさがさと物色する。そして再びゼータの元へと戻って来るクリスの手には、どこか見覚えのある革製のベルトと、同じ色合いの革紐が握られていた。
「配膳について来ると言うのなら、これを付けさせてもらうけど」
「…何ですか、これ」
「愛玩動物用の首輪だよ。魔獣を飼うなら使う機会があるかと思って、魔獣学部から貰って来たんだ。大丈夫、まだ新品だから」
「何が大丈夫なんですか?」
ゼータはクリスの手にある革の首輪を食い入るように見つめた。光沢のある黒革の首輪は、銀毛並みの魔獣の首に嵌まるのであればさぞかしよく映えるであろう。しかし最悪なことに、クリスはその首輪をゼータの首に嵌めるのだと言う。ゼータは愛玩動物のごとく首輪を嵌められた自身の姿を想像し、盛大に顔をしかめた。
「人として捨ててはならぬ最低限の尊厳が…」
「嫌なら別に良いよ。大人しくお留守番よろしくね」
交渉決裂とばかりに地下研究室を出て行こうとするクリス。ゼータの口から「待ってください」との言葉が飛び出すまでには、さほどの時間は要しなかった。
***
数分後、ゼータを従えたクリスは地下牢へと続く強固な扉をくぐる。配膳車を押すクリスの左手首には黒の革紐が絡められており、革紐の先端はゼータの首元へと長く伸びる。人として最低限の尊厳は捨てられない。数分前にそう言い放ったゼータの首元には、愛玩動物用の首輪がしっかりと嵌められていた。ここが人通りの多い魔導大学のメインストリートであったならば、道行く人々が好奇の眼差しを向けること間違いなしの光景である。
「…クリス。やっぱりこれは不味いですよ。変態的です」
「そう思うなら止めておけば良かったじゃない」
「だってずっと同じ部屋にいるというのも息が詰まるんですよ。本を読む以外にすることもないし」
「じゃあ多少の不自由は我慢するんだね。交渉途中で逃げられたら困るもの」
「交渉っていつ決着が着くんですか」
「さあ、いつになるだろうね。言っておくけど僕は魔導大学移籍の条件を譲るつもりはないよ。不服だと言うのなら、双方が納得できるようなより良い条件を提示するんだね。簡単に譲るつもりはないけれど、良い提案があれば柔軟に応じるよ」
良い提案ができるのならとっくにそうしている、ゼータが不満げに口を噤んだところで、2人の足は地下研究室から最も近い場所にある檻の前へと辿り着く。古びたランタンが照らす檻の内部には、錆びたパイプベッドと一揃いの机と椅子、そして衝立に仕切られた便所があった。牢屋の住人は獣人族と思しき容姿の青年だ。肩まで伸びた茶色の髪に、薄暗闇に光る金色の目が印象的である。青年の首には鈍く光る魔封じの首輪、そして例のごとく左足の膝から下がない。
「サンバンさん。昼食だよ」
ベッドに寝そべりく書物を捲っていた青年は、クリスの声掛けについと顔を上げた。「ああ、もうそんな時間か」乾いた唇が動く。クリスは配膳車の上からがっつり肉系の仕切り皿を取り上げ、鉄格子の前に座り込んだ。鉄格子の下部に、食事を差し入れるための配膳口が設けられているのだ。高さが10㎝にも満たない配膳口に仕切り皿を押し込んだクリスは、檻の前面に座り込んだまま言う。
「要望通り肉料理を多めにしておいたよ。また何かあったら言ってね」
青年の瞳が動く。力なく淀んだ瞳は、鉄格子から離れた場所に立つゼータを捉え、そしてすぐに逸らされた。「時計と、新しい書物を頼む」青年の言葉にクリスは頷き、次の檻に向かうべく配膳車に手を掛ける。最低限の要件を済ませ去り行く2つの背中を、檻の中の青年は虚ろな眼差しで見つめていた。
「さっきの人、サンバンさんという名前なんですか?」
ゼータは今しがた配膳を終えたばかりの檻を振り返り、尋ねた。いや、とクリスは首を横に振る。
「三番の檻に入れられているからサンバンさん。これから向かうのはナナバンさんの檻だよ」
「なんで名前を呼ばないんですか?」
「そういう命令だから。名前を呼ぶと彼らを一人の人として認識してしまう。彼らは被験者である以前に罪人だからね。食事配膳係の僕が罪人に感情移入して、逃亡の手助けをしたなんてことになったら一大事でしょ。彼らが地下牢に輸送されてくるときに、身体情報や経歴の資料を受け取るんだけど、名前の欄は黒塗りになっているんだよね」
「ロシャ王国内の刑事施設では、罪人を名前で呼ばないことは普通ですか?」
「…さぁどうだろう。刑事施設を訪れた経験がないから分からないや」
話すうちに通路の先にはナナバンさんの檻が見えてきた。クリスは檻の前に配膳車を止め、先ほどと同様配膳口から仕切り皿を差し込む。仕切り皿の料理は野菜多めの健康食だ。
「ナナバンさん。昼食だよ。量は控えめにしておいたから頑張って食べてね。他に何か必要な物はある?」
クリスの呼び掛けに、パイプベッドの上のナナバンさんが身動ぎをした。薄い毛布にくるまる者は、擦り切れた衣服をまとう若い女性だ。落ち窪んだ眼窩に痩せこけた頬、毛布から飛び出した両手足は哀れなほどに細い。骸骨のような風貌のその女性は、ゼータが地下牢に足を踏み入れて最初に目撃した人物だ。彼女のすすり泣く声を聞いて、ゼータは不穏な雰囲気の漂う地下牢に深く足を踏み入れた。
女性は配膳口から差し入れられた仕切り皿に視線を落とすが、すぐに皿を取りにくる様子はない。薄い毛布に身を包んだまま、色よく盛り付けられた仕切り皿とじっと見つめている。クリスは女性の返事を待ち辛抱強く配膳口の傍に座り込んでいたが、結局女性は口を開くことはおろか、まともに身動きすらしなかった。クリスは女性が言葉を返さないことを不快に感じた様子はなく、何事もなかったかのように配膳車に手を掛ける。行くよ、と声を掛けられて、ゼータは慌ててクリスの後を追う。
「ナナバンさんは病気ですか?随分痩せていましたけど」
ゼータは今しがた配膳を終えたばかりのナナバンさんの檻を振り返る。暇潰しに書物を捲り、受け答えもしっかりしていたサンバンさんとは異なり、ナナバンさんは酷く衰弱している印象を受けた。身体は痩せ細り目は虚ろ。明日の朝を迎えずに、布団の中で息絶えたとしても不思議ではない有様だ。クリスは「頑張って食べてね」と声を掛けていたから、恐らく長いことまともに食事を取れていないのだ。ならばその原因は彼女が病気を患っているためか、それとも地下牢生活に疲れ精神を病んでいるためか。あれこれと考えを巡らせるゼータであるが、クリスの答えはそのどの予想とも違うものであった。
「病気ではない。治験の影響だよ。1か月前に大規模な薬剤の治験があったんだけど、そのときの後遺症が残っているんだ」
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「出られない。後遺症の観察も治験の一環だから」
「そうですか…」
そんなものか、と呟きながら、ゼータは廊下の行く先を見つめた。目立った装飾のない無機質な通路で、目につく物は左右にずらりと並んだ鉄檻だ。ゼータは歩く途中に鉄檻の内部を覗き込む。そこに人の姿はない。机に椅子、ベッドに便所と一通りの生活家具は揃っているから、過去にそこで生活をしていた人がいることは確かであろう。この檻の主はどこへ行ったのか。定められた治験を終え、元いた刑事施設に戻されたのか。それとも治験の請負により刑期が短縮され、釈放されたのか。それはいくら考えたところで分かるはずもなかった。
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