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無垢と笑えよサイコパス

無垢な笑顔(終)

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「クリスさんは、ポトスの街までどうやって来たんですか?」
「乗合馬車だよ。匿ってもらっていた集落で、雑用を請け負って小金を稼いだんだ。乗合馬車では一気にポトスまでは来られないから、途中の魔族の集落に何度か立ち寄ったよ。そのたびに細々した仕事を請け負って次の馬車代を稼いだんだ」
「へぇ。楽しそうな旅ですね。そこまで男前だと仕事には困らなかったでしょ」
「顔の造りが原因かどうかはわからないけれど、確かに仕事には困らなかったよ。厨房の皿洗いとか、農作業のお手伝いとか、書店の在庫整理とか、大概のことはやらせてもらったなぁ。とある竜族の集落では御宿の客引きを手伝ったんだけどね。滞在期限を伝えずにいたら、危うく永久就職させられるところだった」
「そうですか…」

 ビットとクリスが他愛のない会話を楽しむ場所は、王宮の1階に位置する応接室だ。白を基調とした部屋の中央には3人掛けのソファが3つ、コの字型に並べられている。ソファの中心にはガラス製のローテーブルが置かれており、磨き上げられた天板には4つのティーカップと菓子鉢が並べられていた。

「ビットは、最近何か変わった事はあった?」
「メレンちゃんが遊びに来ましたよ。もう1か月も前のことですけれど」
「メレンが?魔法研究所に来たの?」
「そうそう。キメラを見に来てくれたんです」
「そうなんだ…メレンも中々オタクだからねぇ」
「でもね、一番の旅の目的は僕とのデートです。メレンちゃん、楽しそうでしたよ。ポトスの街の有名どころは大体巡りましたからね。夕食まで一緒に食べてデートは大成功です。研究日程を調整して、また遊びに来てくれるみたいですよ。うふふ、僕達の将来は明るいなぁ」

 不気味な笑い声とともにビットは身体をくねらせる。親しい者達の近況が聞けて良かったと、クリスは満足げな面持ちだ。2人の研究員による和やかな茶会の傍らでは、さらに2人の青年が無言で茶を啜っていた。3人掛けのソファの右端に座るレイバックと、左端に座るゼータ。同じソファに座るはずなのに、2人の間には一言の会話もない。ソファの端々に身を寄せ互いに顔を背け合う様は、明らかに険悪な雰囲気だ。

 そもそもこの茶会の始まりは、ゼータがクリスを王宮に誘い込んだことであった。感動の再開を果たした2人は肩を寄せ合って正門の内側へと消え、後には地に付すレイバックとビットが残された。土下座から正座へと居住まいを直したビットは、いまだ満足に身体が動かない様子のレイバックを眺め、考えた。レイバックに肩を貸し王宮まで送り届けるべきか、それとも素知らぬ顔で帰宅すべきか。思案の末に、ビットは一国の主に恩を売ることを選んだのだ。
 ビットと、ビットに引き摺られるレイバックが王宮へと辿り着く頃には、ゼータとクリスはすでに応接室の中であった。魔法攻撃による機能障害から回復し、自らの脚で応接室へと立ち入ったレイバックに向けて、ゼータは一言。「あれ、来たんですか。黙って仕事に戻れば良かったのに」その一言により場は再び氷点下の温感となり、ビットは自らの選択をひたすらに悔いる。レイバックに恩など売らず、すぐに魔法研究所に帰れば良かった、と。

 茶会の初めこそレイバックのご機嫌取りに尽力していたビットであるが、数分と経たずに諦めた。レイバックの参加によりゼータの機嫌も急降下、ソファの右端と左端に腰かける2人は揃って口を閉ざしてしまったのである。残されたビットとクリスは、2人きりで和やかな茶会を開催する次第となったのだ。そして、現在に至る。

「それで、クリスさんはこれからどうするんですか?謝罪という目的は達成したんでしょ。ロシャ王国に帰るの?」
「帰らないよ。ポトスの街に身を置こうかと思っている」
「え、そうなの?何で?」
「ほら、僕検問所を通らずに首都リモラを出ちゃったじゃない。首都リモラの住人が検問所を通るときには、衛兵に身分証と外出申請書を提示する必要があるんだ。外出申請書に外出許可の判を押してもらって、首都リモラの住人は初めて壁の外に出られるというわけ」

 首都リモラは人の出入りに厳格な都市だ。全ての人の出入りは、東西南北に設けられた4つの検問所により厳しく管理されている。外部集落に住まう者が首都リモラに立ち入るときには、検問所に在籍する衛兵に身分証明書を提示し、立ち入りの理由を明確に説明する必要がある。買い物、知人との食事、など曖昧な理由は認められず、訪問予定の店の名前や知人の名前までを詳細に伝えなければならないのだ。武器の持ち込みは認められず、全ての人に等しく荷物の検閲が義務付けられている。立ち入りの理由が認められ、荷物の検閲を突破した者だけが、晴れて検問所を通過し首都リモラの内部へと立ち入る事ができるのだ。立ち入りに際しては検問所より「首都リモラ立入許可証」が発行され、退出の際にはその書面を衛兵へと返却する必要がある。なおドラキス王国からの視察員が検問所を通過した暁には、国家の要人であることを理由にこの過程は省略されている。
 そして立ち入りと同様に、首都リモラ住人の外出にも衛兵による審査が入る。審査と言っても前者ほどの厳格さはなく、身分証明書と外出申請書の提示のみで済まされる。余程大掛かりな荷物でなければ、手荷物の検閲もない。そして検問所において、外出申請書に外出許可の判を押された首都リモラの住人は、外部での自由な活動が許されるのだ。だが例え外出の理由が久しぶりの帰省であったとしても、気を抜き外出申請書を失くしてはいけない。再び首都リモラの内部へと立ち入るときには、外出許可の判を押された外出申請書を提示する必要があるからだ。そして非正規の方法で首都リモラを出たクリスは、この外出申請書を所持していない。原則に則れば、首都リモラの内部に立ち入ることは許されないのだ。
 以上が、紅茶をともに語られるクリスの説明である。

「じゃあクリスさんは、もう首都リモラには入れないんですか?外出申請書を持っていないから?」
「絶対に立ち入れない、ということではないんだけどね。里帰り途中に魔獣に襲われて、外出申請書も身分証も失くしてしまうという事故がないわけではないし。例えば事前にデュー宛に文を送って、研究員寮にある僕の入学書類一式を持参してもらえば、首都リモラに立ち入ることは十分に可能だよ」
「そうなの?じゃあそうすれば良いのに。何で帰らないんですか。お金がないから?僕、クリスさんの旅費くらい負担できますよ」
「うーん…帰国しないのには、また別に理由があるんだけどね…」

 言い淀むクリスは、険悪状態のレイバックとゼータに視線を向けた。

「地下室での出来事に触れるんだけど、ここで話して大丈夫かな?」
「別に良いですよ。今更隠すことなんてないですし」

 ゼータの即答に、クリスはそう、と言って笑う。
 地下室での出来事について、詳細な顛末を知る者はレイバックとゼータ、そしてクリスのみ。万が一国家間の不祥事となった場合に備え、意図的にビットの耳には入れていないのだ。しかしレイバックが殺意を持ってクリスに武器を向けたこと、そして証拠隠滅のため地下室に火を放ったことは、先ほど正門前でレイバックの口から語られている。事件の核心部がすでに明らかになっている以上、今更隠すことなど何もない。

「胸の傷が大方塞がった頃に、僕は当然魔導大学に戻ることを考えたんだ。でも先に言った通り、着の身着のままの僕が検問所を通過することは容易ではない。そこで考えたのが、出た場所から入っちゃおうってこと」
「出た場所って、地下室へと続く地下通路?」

 疑問を口にしたビットだけではなく、レイバックもゼータも、クリスの話に興味津々だ。険悪な雰囲気は一時的になりを潜めている。

「そうそう。匿ってもらっていた集落が、地下通路の出口のすぐ傍だったんだよ。もちろん地下通路の存在を集落の住民は知らない。僕だってカビだらけの地図片手に地下通路を探索していなければ、今回無事出口までは辿り着けなかったよ。本当、運がよかった」
「お裾分けいただきたいくらいの強運ですねぇ」
「そうでしょ。まぁ僕の強運の話は置いておいてね。検問所を通るのも大変だし地下室に直接戻っちゃえ、と安易に考えたんだよ。長期不在の理由は、里帰りの途中で魔獣に襲われたとでも説明しようかなと思って。良い具合に手の甲に傷もあるし、凶暴な魔獣に襲われ生死の境を彷徨っていたことにしよう、なぁんて適当な筋書きを思い描いていたんだけどね…」

 凶暴な魔獣、の言葉にゼータの顔には笑みが滲む。クリスが身の毛もよだつ凶暴な魔獣に襲われたことに間違いはない。ドラゴンに真正面から喧嘩を売り生き延びた人間など、世界広しと言えどもクリスの他には存在しないだろう。一国の主を凶暴な魔獣扱いするクリスの発言に、場の雰囲気はしばしのどやかとなる。しかし語り部であるクリスの表情は、安穏には程遠かった。でも、と続ける声は緊迫した空気に包まれている。

「2か月ぶりに立ち入った地下室は、何も変わっていなかった。逃げ出したときのまま。焼け焦げた家具も僕が流した血の跡も、全部そのままなんだ。一部布を掛けられている場所があったから、火災の後に人は立ち入ったんだろうね。立ち入って、全てをなかったことにした」

 のどかな雰囲気は一瞬にして緊迫とした。クリスの説話は、今まで誰も知り得なかった地下治験場の末路だ。メレンの証言から、地下治験場で起こった惨劇は隠蔽されたのだろうと想像はされた。しかし生き証人クリスの口から語られる地下室の惨状は、得も言われぬ生々しさに満ちていた。「一部布を掛けられている場所」それは「腐り果てた魔族の死体」を意味するのであろう。
 ソファの上で両膝を抱えていたゼータが、ぼそぼそと言葉を紡いだ。

「メレンは、クリスは国家の人間に殺されたのだと言っていました。アポロ国王の意志に背く研究に手を貸してしまったために、口封じをされたのだと。第3研究棟は、クリスが行方不明になったすぐ後に取り壊されたみたいですよ」
「そうみたいだね。地下室の内部は一通り散策したけれど、地上へと続く階段は閉ざされていたよ」
「そう…やっぱり」
「何かさ、どうでも良くなっちゃって。僕、結構頑張っていた方だと思うんだよね。国家のためとか大層なことは考えていなかったけど、結果的に汚れ仕事も請け負っていたじゃない。それをこの仕打ちかってさ。運良く生き延びて地下室から逃げられたから良いけれど、あのまま死んでいたらどうなっていたんだろう。行方不明という扱いで、閉ざされた地下室に捨て置かれていたのかって。そう感じずにはいられない光景だったよ、あそこは。死んだ後に何が残るとも思わないけれど、もうあの国のために尽くす気はなくなったな」

 クリスは尻ポケットに指先を入れ、煤けた紙切れを取り出した。ガラステーブルの上に放り出されたそれは、魔導大学の身分証だ。クリスの名前、生年月日、入学年月日、所属する学部学科名が記された身分証は、文字の半分が焼け焦げて読めなくなってしまっている。その身分証は、地下室から逃げ出すクリスが身に着けていた物ではない。傷が癒え再び地下室へと立ち入ったそのときに、灰殻の中から拾上げてきた物だ。灯りは途絶え音もなく、死臭に満ちた地下室の中。その場所に一人立ち尽くすクリスの姿を思えば心が痛む。何一つ拾い上げてはもらえなかったのだ。クリスが生きた痕跡は、灰とともに地下深く埋められた。
 幸運が幸運を呼び、クリスは命を繋いだ。しかし地下室に残された惨状は、一人の優秀な研究員を殺すのに十分な理由となったのだ。クリスの指先に弾き飛ばされた身分証は、ガラステーブルを滑りくずかごへと落ちる。ごみに塗れる身分証を拾い上げる者はいない。

「というわけで、今日この時を持って僕はポトスの街の住人になりました。不束者ですがよとしくお願いします」

 クリスはそう言うと、レイバックに向けて頭を下げた。応接室に立ち入って以降沈黙を守っていたレイバックは、数十分の時を経て久方振りに口を開く。

「ドラキス王国は人に出入りに寛容な国家だ。移住に当たり特別な手続きは必要がないから、住むというのであれば好きにすれば良い。しかしロシャ王国の国籍はどうなるんだ?行方不明のままでは不味いだろう」
「ロシャ王国では行方不明となった日から半年が経つと、自動的に国籍が抹消されるんです。国内での扱いとしては、死亡ということになります。つまりあと2か月もすれば、僕はロシャ王国では死人という扱いなんです」
「ああ…そうなのか」
「そして一度国籍が抹消されると同一人物としての回復はできません。もう一度ロシャ王国に住むとしたら、新しく移住者として籍を作らないといけないんです。不可能ではないですけれど、国籍と同時に魔導大学の籍も抹消されますから、もう首都リモラに住むことはできないでしょうね」

 二十余年暮らした故郷を捨てるというのに、クリスの表情は穏やかなものだ。これから先の生活が楽しみで仕方ない、という様子すら伺わせる。クリスの語る地下室の惨状は陰鬱さに満ちていたが、語り部の朗らかな様子は皆の心を軽くした。
 各々が紅茶を口にして、会話は一区切り。レイバックとゼータはソファの中央付近へと座る位置を変え、すっかりいつもの距離感である。菓子鉢から小さな焼き菓子を摘み上げるゼータの表情は穏やかなもので、「クリスの生存可能性について適切な報告を怠った」というレイバックの罪は許されたかに思われた。焼き菓子の端にリスのようにかじり付いたゼータは、クリス、と名を呼ぶ。

「ポトスの街に住むと言いますけれど、家と仕事に当てはあるんですか?」
「家探しも仕事探しもこれからだよ。今朝ポトスの街に到着したばかりだもの。とりあえず今夜は適当に宿を取るつもり。数日分の宿代なら道中で稼いできたからね」
「やりたい仕事はありますか?」
「理想を言えば研究職を続けたい気持ちはあるけどね。でもせっかく新天地に来たんだし、今までとは全く違う仕事をするのも楽しそう。指先を使う仕事は得意だし、職人街の工房で雇ってもらうというのも…」
「レイ」

 クリスの言葉を遮るようにして、ゼータはレイバックの名を呼んだ。黒の瞳と緋色の瞳は、およそ1時間ぶりにぶつかり合う。

「クリスを魔法研究所の研究員に推薦します。私の名で」
「は?」
「すぐに推薦書類を作って人事部に持っていきます。という事ですので、私はこれで」
「待て待て待て!」

 長居無用とばかりに立ち去ろうとするゼータの手首を、レイバックの左手のひらが捕らえた。突然歩みを止められたゼータ不愉快そうに顔を歪め、レイバックの拘束を振り払おうとする。

「何ですか。放してくださいよ」
「放せるわけがないだろう。クリスの雇用は許可できん」
「末端組織の人事の最終決裁者は、レイではないでしょう。魔法研究所に新たに人を雇い入れるというだけならば、人事部上級官吏の専決で済むはずです」
「それは…そうだが…」
「では問題はありませんね。被推薦者本人もいることですし、連れて行って許可印をもらってきます」

 有無を言わせぬ勢いでそう告げて、ゼータはクリスに向けて手招きをする。しかしクリスが手招きに応じるよりも早く、代わりに席を立った者はレイバックだ。不機嫌全開に仁王立ちし、ゼータの顔面を真正面から覗き込む。傍目に見れば、接吻でもするのかと疑われかねない距離感だ。

「危機意識が低すぎやしないか。監禁までされた男を自らの陣営に招き入れるなどと」
「監禁は国家機密を守ろうとした結果の行動でしょう。同じことが起こる可能性はありません」
「状況が悪化することはないと高を括った結果があれだろう。薬を盛られ手首を縛られ、まるで奴隷のような扱いだったじゃないか。過去を水に流そうとする心意気は結構だが、過去の過ちまで忘れてしまうとはお粗末な脳味噌だな。園庭の子猫に警戒心の抱き方を教わった方が良いんじゃないか?」

 接吻目前の距離で囁かれる言葉は、色気ではなく悪意に満ちていた。図星を付かれたゼータは一瞬言葉に詰まるが、しかしすぐに体制を立て直す。口の端を吊り上げ、忌まわしげに笑う。

「傍に置く男の選り好みをするなんて、うちの王様は妃に対して過干渉ですねぇ。聞くところによると魔導大学滞在中、妃に外出の誘いを断られて随分と拗ねていたらしいじゃないですか。傘立ての横にうずくまっていたとの証言が上がっていますよ」
「ぐ…」
「その後いくらか反省し、『俺はゼータを信用しているんだ』と格好良いことを宣っていたとも聞いています。親猫から離れられない子猫が随分と成長しましたね。結構なことです。でも残念ながら、うちの王様はこの4か月ですっかり赤子に逆戻りしてしまったようです。園庭の親猫にお乳でも貰ってきたら良いんじゃないですか?」 

 予想だにしない毒舌に、レイバックは酒樽で頭部を殴られたような表情である。毒舌を披露したゼータの表情も穏やかとは言い難い。額には青筋が浮き、握りしめた拳は小刻みに震えている。千年以上の時を研究員として過ごし、ドラキス王国の国政にも陰ながら貢献を果たしてきたゼータだ。奴隷と揶揄されることは許せても、己の脳味噌を卑下されることは許せない。
 一触即発の雰囲気の横では、クリスとビットが和やかな会話に興じていた。

「クリスさん。魔法研究所で働くことに意義はないんですか?」
「僕は嬉しい限りだけど」
「そうですか。生活棟があるから家を探す必要もないですよ」
「それは助かるなぁ」
「あ、丁度今ゼータさんが入っていた部屋が空いています。家具も日用品もそのままだから、今日にでも生活を始められますよ」

 ゼータの部屋に住めばいい。ビットの言葉は、レイバックの怒りに見事に油を注ぐ結果となった。怒髪衝天のレイバックは、ゼータの胸倉を掴み上げ吼える。

「地下室から助け出してやったのは誰だと思っている、恩知らずな奴だな!めそめそ泣いているところを探し当てて、甲斐甲斐しく慰めてやったのも俺だぞ!?」
「それを貴方が言いますか!?一言『生きている可能性もある』と言えばあの夜の涙はなかったんです。慰めてやった、だなんて恩着せがましい。全てレイの身勝手な判断が原因じゃないですか!」

 最早ただの痴話喧嘩である。胸倉を掴みあう男達は、互いに視線を外さぬまま一言。

「ビット、クリス。退出を」
「はい」

 王と王妃の連名で命ぜられてしまえば、庶民2人は黙って従う他にない。
 クリスとビットが応接室を退出するや否や、扉の内側からは肉を打つ鈍い音が聞こえてきた。続いて家具を返すような派手な物音。どうやら恐ろしいことが起こっているようだと、クリスとビットは顔を見合わせる。それから10秒と経たずに扉は開き、中からはゼータが単身歩み出た。衣服の胸元は乱れ、頬には痛々しい痣がある。右側の鼻腔からは出血があり、唇は切れて数か所から血が滲んでいる。王妃と言うには余りにも荒々しい風貌であるが、ゼータの表情は一時前とは異なり晴れやかなだ。

「クリス、行きますよ」
「はい」

 クリスはそれ以上何も言うことなく、ゼータの背に続いた。見知らぬ王宮の廊下に、一人取り残されるビットは不安げな表情だ。

「僕は待っていた方が良いですか?」
「任せますよ。暇を持て余すなら先に帰っても構いません。推薦状の決裁が下り次第私達も魔法研究所に向かいますから、先に行って皆に事情を説明してもらえると助かりますけれど」
「…それなら先に帰ります。リオンさんに、ゼータさんの私室の掃除をお願いしておきますよ」
「そう。よろしくお願いします」

 ゼータは颯爽と廊下を歩み去って行く。置いて行かれては大変とゼータの背に追い縋るクリスは、思い出したように歩みを止め振り返った。

「ビット、色々ありがとうね。また後で」
「はぁい。待っています」

 去りゆく2人の背を見送った後で、ビットはそっと応接室の扉を開けた。薄く開いた扉の隙間から部屋の内部を覗き見れば、ガラステーブルの脇にレイバックが倒れ込んでいる。左頬には痛々しい殴打跡があり、両方の鼻腔からは滝のような出血。茶器や菓子の類が床に散らばっているところを見るに、激しい殴打戦が繰り広げられたようだ。

「あの野郎…」

 憎悪に満ちた呟きは聞かなかったことにして、ビットは応接室の扉を閉めた。

***

 クリスが招き入れられた場所は、王宮の6階にある王妃の間だ。通常であれば王と王妃、専属侍女のカミラと、カミラに認められた数人の侍女しか立ち入ることは許されない。王妃の間の内装は贅沢の限りを極め、置かれている調度品の値段は庶民の想像を遥かに超える。うっかり手を触れたら大変なことだと、クリスは光沢のある青銅の花瓶を眺め下ろした。

「クリス。羽織を脱いでください」

 突然の命令に、クリスは反射的に麻素材の羽織を脱ぐ。一国の主と胸倉を掴み合うゼータの姿は、脳裏に深く焼き付けられている。とんでもない人物を手に入れようとしたものだと、今更になって己の愚行を悔いるのだ。
 羽織を脱ぎ捨てたクリスの姿を、ゼータはしげしげと眺めていた。襟もボタンもない紺色の丸首シャツに、膝下丈の綿ズボン。長身のクリスによく似合ってはいるが、公的な装いには程遠い。仕事着に関し明確な規定は置かれていない王宮内であるが、会議や来客の折には襟付きのシャツが好まれる。着用自由とされている王宮の官吏服も、男女問わず襟付きの白シャツが指定されているのだ。今のクリスの装いは、王宮内で人と会うには幾分不向きである。

「…やっぱり着替えた方が無難ですね。上級官吏にお目通しを願い出るのに、旅人の出で立ちでは印象が良くありません」
「そう?でも僕、着替えは持っていないよ」

 手ぶらを強調するように、クリスは両手のひらを身体の横に掲げて見せた。悩ましげなゼータは部屋の奥側へと歩いて行き、天井に届くほどの衣装タンスの扉を開ける。タンスの内側へと身体を突っ込み、あれこれ呟きながら衣服を漁る。しばらくしてクリスの元へと戻って来るゼータの手には、何の変哲もない白シャツが握られていた。

「これを着てみてください。手持ちの中では一番大きい物です」

 言われるがままに、クリスはシャツを受け取った。目の前で広げて見れば、やはりそれは何の変哲もない綿のシャツだ。真っ白な表地に薄青の裏地、丁寧に縫い付けられた7つの貝ボタン。王宮内で散見する官吏服とは造りが違うから、このシャツはゼータの私物のようだ。
 紺色の丸首シャツはそのままで、クリスは手渡された白シャツを羽織った。右腕を通し左腕を通し、下から4つのボタンを留めるまでは順調であった。しかしその先に進めない。上部3つのボタンが留められないのだ。ゼータとクリスは頭一つ分も背丈が違う。細身の部類のクリスであるが、2サイズも小さなシャツを着るのは至難の技だ。
 結局3つのボタンは留められなおまま、クリスはお手上げと息を吐いた。

「無理そう」
「ですよねぇ…どうしましょうか。レイの物を借りられれば間違いはないんですけれど、まだ拗ねているだろうから」

 クリスの雇用に否定的なレイバックが、お目通しのための白シャツを貸してくれるとは思えない。王宮内にはクリスと同程度の背丈の官吏も存在するが、見知らぬ他人に衣服を貸すというのも良い気はしないだろう。衣装室に行けば官吏服の在庫は置かれているが、未使用の品を勝手に拝借するのもいかがなものか。あれこれと悩むゼータは、やがて思い出したように声を上げた。「良い物があるじゃないですか」と向かう先は先ほどの衣装タンスだ。開け放したままのタンスに顔を差し入れ、取り出した物は中身のわからない平たい箱。金色の風呂敷に包まれたその箱を、クリスの胸へと押し付ける。

「これなら間違いなく着られます。私は推薦書類を用意しますから、クリスは着替えを済ませてしまってください」

 そう告げると、ゼータは再び部屋の奥側へと歩いて行った。向かう先は衣装タンスではなく、窓際に置かれた作業机だ。王妃の名に相応しい調度品の中で、その作業机だけが異質である。クリスの地下研究室にあった物と相違ない作業机は、たくさんの書物で溢れていた。山のように積み上げられた書物、開かれたままの書物、栞の挟まれた書物。新書と思われる小綺麗な書物もあれば、表紙の擦り切れた古書もあった。ゼータが書物塗れの作業机に座り込むのを眺めながら、クリスも床へと座り込む。塵一つ落ちていない絨毯の上で、金色の風呂敷を開く。

 風呂敷に包まれていた物は、蓋付きの桐箱だ。蓋の表面に細かな模様の刻み入れられたその箱は、素人目にも手の込んだ逸品であるとわかる。豪華な箱の内部にある物は、一体どのような豪華絢爛の衣装なのか。ガラス細工を扱うに等しい手つきで、クリスは桐箱の蓋を開けた。

「これ…」

 てっきり金布地のシャツが飛び出してくるものと思いきや、箱の中にあった物はこれといった特徴のない無地のシャツだ。ぴったりと折り畳まれた綿地のシャツには、飴色のボタンが縫い付けられている。どこか見覚えのあるボタンだ。クリスの呟きに、推薦書類の下書きを始めていたゼータははたとペンを止める。

「それクリスのシャツですよ。ほら、地下室にいるときに借りていた物です。血跡や泥汚れは全て綺麗に落としてありますから、お返しします」
「ああ…そうか。僕の」

 クリスはシャツの両肩部分を摘み上げ、目の前に大きく広げた。確かにそれはクリスのシャツであった。元々はリモラ駅で、3枚一組でお安くなっていた品を購入した物だ。2枚は普段着用に回し、1枚は未使用のままタンスの中にしまい込んでいた。ゼータが地下室へとやって来たときに、その未使用の1枚を貸し出したのだ。他にも未使用の衣類数枚を着替え用にと手渡していたが、惨劇の夜にたまたまゼータが着ていた衣服が、このシャツだったというわけだ。
 そんな物、とっくに捨てられていると思っていた。監禁という犯罪行為を働いた男の衣服など、例え借り物であったとしても後生大事にしまい込んでおく理由などない。返せる当てがあるならまだしも、ゼータはクリスを死亡したものと思い込んでいたのだ。なぜ、永劫返せるはずのない衣類を保管していたのだ。皺一つなく折り畳み、桐箱の中に入れ、クリスの髪色を思わせる黄金色の風呂敷に包みこんで。
まるで、大切な宝物のように。

「…ねぇ、ゼータってさ」
「クリス。その先を言ったら、推薦状に『王妃監禁経験有』と書き加えます」

 飛んできた強い語調に、クリスは大人しくはい、と返事を返した。

 すっかり着替えを終えたクリスは、ソファに座り込みゼータの作業が終わるのを待っていた。染み皺一つない麻のシャツはクリスの身体にぴったりと合い、桐独特の上品な香りが染みついている。桐箱の中にはシャツだけでなく、当時ゼータが身に着けていたクリスのズボンもしまい込まれていた。下着や靴下の類は流石に捨ててしまったようだが、シャツとズボンが残されていただけでも驚きだ。
 クリスは桐箱と風呂敷を膝の上に載せて、作業机に座り込むゼータの背中を眺めていた。かりかりかり、とペンが紙を走る小気味の良い音が響く。一定のリズムで揺れる背中を眺める内に、まだその背中に伝えていない言葉があることに気付く。

「ゼータ、ありがとう」

 筆記音がぴたりと止む。返事はない。

「身勝手な理由で酷いことをしたと、本当に反省している。正直、すげなく追い返されることも予想していたんだよ。『お前のような危険人物を国には置けん』ってさ。それを罵りの言葉一つなく受け入れてくれて、家と仕事の手配もしてくれるんだもの。感謝してもしきれない」
「貴重な魔導具の知識を無駄にしたとなっては、国家の著しい損失です。それに、危険人物は目の届くところに置いておくのが一番安心ですからね。この判断に私の感情は介入しておりません。理知的に合理的な判断を下したまでのことです」

 ゼータの答えは淀みない。感情の起伏は感じさせず、椅子に座り込んだままでは表情を伺うこともできない。しかしここに至るまでの全ての言動と行動が、ゼータの心の内を表しているようにも思われた。
―一言生きている可能性もある、と言えばあの夜の涙はなかったんです

 クリスは笑う。その笑みを見た者全てが、天使の微笑みだと息を吐く美しさで。

「これからもよろしく、ゼータ」



***
 クリスはレイバック、ゼータに続く本作3人目のメインキャラ。(もう一人は4章で登場します)なのに金髪というだけで目の色が決められていません。というのも当初の予定では、クリスは地下研究室でレイバックに殺されるはずだったから。2章は「いつかロシャ王国への魔族立ち入りが認められたときに、クリスの弔いにいこう」といった感じで終わる予定でした。でも物語を書き進めるうちに愛着が湧いてしまって、こうして仲間になりました。以降「クリスの目の色」についてはずっと考えているのですが、しっくりくる色がなくて未筆のままになっています。金髪といえば碧眼だけど、碧眼キャラは次章で登場させちゃうから…うーん。
 クリスは物語のラストまで末永く活躍します。本性サイコちゃんだけど、スイッチが入らなければ普通に良い人だからね。次はいつスイッチ入るのかな~とお楽しみにしていただければ幸いです。あと一応書いておきますと、ゼータの恋心がクリスに向くことはありません。ゼータ→クリスはあくまで友情。逆は…まぁおいおい。

 第3章はロシャ王国編完結章(短め)、第4章は4人目のメインキャラ登場章、第5章は物語一のド殺伐章…と続きますので、今後もお付き合いいただければ嬉しいです♪若干の未筆部分を残しながらも9割方は書ききっているので、あまりお待たせせずに完結できるかなと思います。
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