──緑に還る──

さくら乃

文字の大きさ
1 / 44

Prologue

しおりを挟む


 それは──ほんの一瞬のことだった。家族というものに恵まれなかった男が、やっと手に入れたささやかな幸せは、いとも容易く、砕け散った。
 その男が幸せな家庭を持つことは、の願いでもあった。


 たちばな冬馬とうまが、マンションの一室の前に立ち、数分が経った。指先はインターフォンの辺りを何度も彷徨うが、なかなか押すことができない。数日前は、エントランスで躊躇して帰った。今日はやっとここまで来ることができたというのに。

( いつまで、こうしているんだ )

 軽く舌打ちをする。一度大きく息を吐いて、インターフォンを押す。暫し待つが扉は開かない。
 いない筈はない。返事はなかったが、エントランスの自動ドアは開いたのだから。ノブに手をかける。手応えなく扉がひらく。
( …… あいた …… )

 一瞬躊躇ったが、静かに足を踏み入れた。細い廊下の、奥の部屋に進む。まだ陽の高い時刻だというのに、大きな窓はすべて蒼いカーテンで覆われ ── 仄暗い水の底を思わせた。

 ソファーに深く身を委ね、宙を見ている男がいた。いや、何かを見ているわけではない。その眼には何も映ってはいない。
 ただ、ぼんやりとしているだけだった ── あの時のように。


 ひと月前、石蕗いしぶき秋穂あきほの妻と幼い娘はこの世を去った。事故死だった。酒気帯び運転の車が、青信号を渡る二人を撥ね飛ばしたのだ。

 ── 黒い服の列。囁き。啜り泣き。

 その中で彼は、泣くでもなく、嘆くでもなく、ただぼんやりとしていた。それが余計に哀しみの深さを感じさせ、冬馬は遂に声をかけることができなかった。

「あき……?秋……穂?」
 躊躇いがちに頬に触れる。
( やつれたな…… )

 二十八の男にしては、線の細い、儚げな姿。
 頬に触れられ、初めて傍にいる男に気づく。秋穂はふんわりと微笑んだ。
「冬馬……来てくれたんだね」
 暫く声を出していなかったのか、少し掠れていた。
「ああ……遅くなって、ごめん」

 あの日から、ここに来るまでにひと月かかった。というより、最後にここを訪れてからは、もう一年以上過ぎている。

「お線香をあげさせてくれ」
 どこか気まずげに言う冬馬の顔を、秋穂はじっと見つめている。
「え……何……?お線香……?」
 軽く首を傾げ、それからハッとした表情をした。
「あ、ああ、そうだね、そうだった……。紗香さやか紗穂さほに……。ありがとう、きっと喜ぶ……」
 秋穂はソファーから動くことなく、視線だけでその場所を示した。
「──?」


  まるで、他人事のようなそっけなさに、冬馬は違和感を覚えた ──── 。
    
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ショコラとレモネード

鈴川真白
BL
幼なじみの拗らせラブ クールな幼なじみ × 不器用な鈍感男子

愛しているかもしれない 傷心富豪アルファ×ずぶ濡れ家出オメガ ~君の心に降る雨も、いつかは必ず上がる~

大波小波
BL
 第二性がアルファの平 雅貴(たいら まさき)は、30代の若さで名門・平家の当主だ。  ある日、車で移動中に、雨の中ずぶ濡れでうずくまっている少年を拾う。  白沢 藍(しらさわ あい)と名乗るオメガの少年は、やつれてみすぼらしい。  雅貴は藍を屋敷に招き、健康を取り戻すまで滞在するよう勧める。  藍は雅貴をミステリアスと感じ、雅貴は藍を訳ありと思う。  心に深い傷を負った雅貴と、悲惨な身の上の藍。  少しずつ距離を縮めていく、二人の生活が始まる……。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

ふれたら消える

明樹
BL
昊と青は仲の良い兄弟。いつもどこでも一緒だった。しかしある出来事を境に二人の心が離れてしまう…。

《完結》僕が天使になるまで

MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。 それは翔太の未来を守るため――。 料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。 遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。 涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。

僕がそばにいる理由

腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。 そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。 しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。 束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。 愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。

処理中です...