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第84話「愚者のハンドワーク③」
しおりを挟む五月二十九日(日)十四時十二分 埼京線・電車内
案の定、電車内は混みに混みあっていた。
すぐ隣に立つオヤジの吐息が当たる距離。
汗と汗が密着する蒸し暑さ。
まさしくすし詰め状態だ。
はっきり言って不快極まりないのだが、自身の存在、自身の正体を隠すのには都合が良い。
エーラの都合上、『パンドラの箱』が黒幕だった場合は『鍵』がこの電車に乗り合わせていることを隠すことは出来ないが、これだけ人がいれば、誰が『鍵』なのかを特定することは、かなり接近しなければ困難なはず。
接近されれば、俺が気付く。
エーラの目視はそれなりにできるようになった。
その者が“性癖”持ちかどうかを見極めることは今の俺にとっては造作もないことだ。
電車が出発してから既に十分ほどが経過し、武蔵浦和駅をつい先ほど通過した。
第八車両の端、第七車両入り口の扉前に陣取って周囲を警戒しているが、未だに不審な人物、一定量のエーラを纏った者の姿は確認できていない。
エーラは隠せない。
溢れ出るエーラの放出を抑制し、可能な限り体内に留めんとした(纏った)ところで、エーラの色は濃くなり、付近に聞こえる鳴動の音も大きくなる傾向がある(無論、エーラを感知できる者にしか聞こえないが)。
そして、その濃さ、鳴動の大きさは、その者のエーラ総量に比例する。
自身が能力者であることを隠すことはどうあがいても不可能だ。
唯一可能な手段としては、自慰実行による性的衝動の消費がある。
ある、が。
それによってエーラを完全に断ち切れるのは長くても二~三時間程度。
しかも、少しでも情欲が沸けばみるみるうちにエーラが充填されていく。
動き続ける電車の中、これから痴漢を行おうという者にはできない芸当であろう。
オナニーを見られるリスクもあるし。
仮に、オナニーを実行fできたとしても、ここに『鍵』がいる以上、『パンドラの箱」としては見過ごすわけにもいかないし、『パンドラの箱』ではない者、即ち、一般人であれば、なおのこと俺たちを警戒などしていないはず。
そして、三か月前からの痴漢犯罪の検挙数も考慮すると、黒幕がいるとしたら、必ず今も電車に乗っているということになる。
……のかな?
特段、頭がいいわけではないので、その辺はかなりアバウトな分析になってしまう。
若干の、いや、かなりの楽観的思考が加味されてる気もするが、考えるだけ無駄な徒労に終わりそうな気がするので、この辺でやめておこう。
みんなからの合図が未だ来ていない以上、俺の考えに何かしらの抜けがあり、俺も気付かないまま黒幕の接近を許している可能性だってないわけじゃないんだ。
それは最悪のケースと言っても過言ではないが、全然あり得る範囲内。想定されるリスク。
こういう時はむしろ、近くにいる前提で考えた方が良い。
新世界の神にでもなったつもりで、全てを警戒しなくては。
周囲の観察。
見えない敵への警戒。
しかしそれらを維持し続けるのは相当に神経を消耗する。
任務開始から二十分ほどが経過した頃には、早くも疲労が見え隠れし始めていた。
中々にキツイ。
そして、心的疲労と、初任務の緊張感が良い感じに解け始めてきたことへの気の弛みから、無意識にいつもの無関係な事を考える癖が出てきてしまっていた。
そういや、後金は今何をしているんだろうか。
あいつ一人だけ、現一年メンバーから任務に選ばれなかった。
俺たちは(少なくとも俺は)当然、今日の話を後金にはしなかったが、あいつはどこかその事に感づいているような空気を出していたな。
けれども、あいつは全くこの事に触れてこなかった。
どころか、一切の不満も持っていないように感じた。
あいつの能力は現場で働かせるような類のものではない。
万が一、今回黒幕を取り逃がした時、相手の情報を得て次の策を練る。
それを円滑に進められる能力だ。
だからこそ、切り札としてあいつには学校に残ってもらったのだろう。
相手にバレるわけにもいかないし。
後金自身、それを理解していたのかもしれない。
精神的な余裕。
それがなければ困難な判断だろう。
あいつはあいつで、かなりの経験を積んでるんだろうな。
そういえば、後金よりも今日ここにいるメンバーの能力の大半を俺は知らない。
知っているのは嵐山の能力のみ。
今後、連携が必要になる場面が訪れるかもしれないのに、完全に失敗した。
今からL●NEで訊こうにも、近くに黒幕が潜んでいる可能性を考えると、迂闊な真似はできないし、俺の正体を看破された上で携帯を奪われ、敵に操作されている可能性を向こうに考えさせてしまう恐れがある。
今、変に疑心暗鬼にさせるわけにもいかない。
これ以上下手なことはできない。
気にはなるが、後回しだ。
後金の事も考えれば、少なくとも戦闘が想定された今回の件に適した“性癖”なのだろうが……。
今回の件。
六百人以上が痴漢冤罪に巻き込まれたと思われるこの事件は、かなり特異で異常な事件だ。
だが、みんなの落ち着き様。
多分、この程度の任務は何度もこなしてきたのだろう。
俺も早く追いつかねば。
しかし、この程度、とは言ってもやはり異常なものは異常だ。
僅か三か月余りで千に届かない程の人数が痴漢冤罪、もしくは痴漢犯罪を起こしている。
そこまでの事件が起こっているにも関わらず、メディアなんかは一切騒ぎ立てない。
報道規制がかけられているのかもしれないが、埼京線の利用者数を考えれば、多くの一般人がこの異常事態に感づいているはずだ。
それでもネット掲示板ですらこの話題を扱っていない。
一体どうなっているのか。
そこまで考えた時、ようやく自分が自己世界に陥っていたことに気付き、丁度電車が十条駅に到着した。
電車に入ってくる人数は多いのに、電車を出て行く人数は少ない。
満員電車の嫌な法則を、いつも期待を裏切られる事実を知るのは、駅に到着する寸前の、ホームを窓から見た時だ。
今回も同じで、駅のホームには十人に届かない程度の人数が待機していたにも関わらず、電車を出ようと動いたのは僅かに一人。
その一人の人物が、なぜか異様に目についた。
横が首の下まで伸びている、光が当たった部分が淡く藍色に光る髪を持つ、少し気弱な印象を受ける少年。
その少年を見た瞬間、感じ取ったもの。
朝、歯を磨く時の感覚。
出かける前に、玄関でいつも行っていた習慣のような。
そう、まるで鏡を見ているかのような———
不意に、ポケットのスマホが振動する。
ハッと我に返り、不自然に思われないよう気を付けてスマホを取り出す。
グループL●NEに一件の着信が入っていた。
振動の長さから、恐らくはワン切りコール。
まりあ様からだった。
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