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第6話 薪窯の声と、涙色のパン
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レオン・ブランシュールに突きつけられた課題、「食えるパンを一つでも焼いてみせろ」。それは、今のフィオナにとってエベレスト登頂にも等しい難題だった。しかし、彼女の瞳には、怯えよりも静かな闘志が燃えていた。
埃まみれの自分の店に戻ると、フィオナはまず、あの古びた薪窯の前に立った。まるで気難しい巨人のように鎮座するそれに、彼女はそっと手を触れる。
「お願い。私に力を貸してちょうだい」
独り言ちるフィオナを、ルーカスとマルセルは心配そうに見守っていた。
それからの数日間は、まさに薪窯との格闘だった。マルセルがどこからか調達してきた良質な薪を使い、まずは安定した火力を得ることから始めた。温度計などという便利なものはない。フィオナは、窯の扉の隙間から見える炎の色、薪のはぜる音、そして窯の壁に手をかざして感じる熱で、内部の温度を推し量ろうと試みた。何度も顔や手に火傷を作りながら、少しずつ、本当に少しずつではあるが、窯の癖を掴んでいく。
並行して、パン生地の改良も続けた。これまでの失敗ノートを隅から隅まで見返し、小麦粉と水の配合、酵母の量、発酵時間を徹底的に記録し、変えていく。
「今日のパンは…うん、昨日よりは石っぽくない。ただ、味が…無だ」
ルーカスは、毎日のように焼き上がる(そして大抵は食べられない)試作品の「毒味役」を健気に買って出てくれた。彼の率直すぎる、しかしどこかユーモラスな感想が、張り詰めがちなフィオナの心を和ませる。
「これは…噛み切れない。フィオナ、君はパン屋ではなく、革製品の職人を目指しているのか?」
「いい加減にしなさい、ルーカス!」
そんなやり取りも、日常になりつつあった。
マルセルは、フィオナの体調を気遣い、栄養のある食事を用意し、時には「お嬢様、少しお休みになりませんと、お体が持ちません」と諌めた。そして、彼女が必要とするであろう情報を、さりげなく集めてきては報告する。その冷静で的確なサポートが、どれほどフィオナの助けになっていたことか。
しかし、何度繰り返しても、「食えるパン」には程遠い。焦げたり、生焼けだったり、膨らまなかったり、酸っぱすぎたり。まるで、パンの神様に見放されているかのようだった。
(やはり、私には無理なのかしら……)
疲労と焦りが募り、心が折れそうになった夜。工房の隅でうたた寝をしてしまったフィオナは、夢を見た。
それは、前世の記憶。
小麦粉の舞う、温かい光に満ちたパン工房。師匠らしき人物の、皺だらけだが優しい手が、生地を慈しむようにこねている。具体的な言葉はない。だが、生地の手触り、酵母が息づく微かな香り、焼き上がりのパンが奏でる軽やかな音…そういった感覚的なイメージが、鮮明に脳裏に焼き付いた。
夢から覚めたフィオナは、何かに導かれるように、再び小麦粉の前に立った。
いつもと同じように生地をこね始める。だが、その日は何かが違った。
ふと、手のひらに伝わる生地の感触が、まるで生き物のように感じられたのだ。それは、ただの粉と水の塊ではない。呼吸をし、変化し、そして「こうしてほしい」と囁きかけてくるような……。
(この感触……夢で見た、あの手に近いかもしれない)
フィオナは、思考を止めた。ただ、手のひらの感覚に全神経を集中させる。生地が求めるままに、優しく、しかし力強くこねていく。発酵させる時間も、これまでの記録ではなく、生地の膨らみ具合、香り、指で押した時の弾力で判断した。
そして、いよいよ薪窯へ。
炎と対話するように薪をくべ、窯の温度を肌で感じ取る。生地を窯に入れる瞬間、フィオナは祈るような気持ちだった。
長い、長い時間に感じられた。窯の前から一歩も動かず、じっとその時を待つ。
やがて、窯の中から、これまでとは明らかに違う香りが漂ってきた。
焦げ臭くない。酸っぱくもない。それは、素朴で、力強く、そしてどこまでも優しい、小麦そのものの香りだった。
フィオナは震える手で、窯からパンを取り出した。
それは、不格好な丸いパンだった。貴族の食卓に上るような洗練されたものではない。しかし、表面は美しい黄金色に輝き、ところどころ力強く割れて、中の白い生地が顔を覗かせている。
ゴクリと唾を飲み込み、フィオナはそのパンを、恐る恐る二つに割った。
湯気と共に立ち上ったのは、まさしく「パンの香り」。そして、断面には、不揃いながらも確かな気泡がいくつも開いていた。
震える指で、ひとかけらちぎって口に運ぶ。
外側はカリッと香ばしく、中は驚くほどしっとりとして、噛みしめると、素朴だがしっかりとした小麦の甘みが、じんわりと口の中に広がった。
それは、決して完璧なパンではなかったかもしれない。
だが、間違いなく、「食べられる」パンだった。いや、それ以上の……。
「……焼けた」
フィオナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「本当に……パンが、焼けた……!」
それは、安堵の涙か、喜びの涙か。あるいは、その両方か。
声を上げて泣きじゃくりたい衝動を抑え、フィオナは、その涙色のパンを、両手で大切そうに抱きしめた。
その時、店の扉がそっと開き、ルーカスとマルセルが顔を覗かせた。彼らは、部屋に満ちる芳しい香りと、涙を流しながらもどこか晴れやかな表情のフィオナを見て、全てを察したようだった。
「フィオナ……もしかして……」
ルーカスが息を呑む。
フィオナは、涙で濡れた顔を上げ、それでも精一杯の、ほんの少しだけ歪んだ笑顔のようなものを見せた。
「ええ……見て。私の、初めてのパンよ」
それは、長いトンネルの先に見えた、確かな光。
フィオナ・ヴィルヘルムが、パン職人として、本当の意味で産声を上げた瞬間だった。
埃まみれの自分の店に戻ると、フィオナはまず、あの古びた薪窯の前に立った。まるで気難しい巨人のように鎮座するそれに、彼女はそっと手を触れる。
「お願い。私に力を貸してちょうだい」
独り言ちるフィオナを、ルーカスとマルセルは心配そうに見守っていた。
それからの数日間は、まさに薪窯との格闘だった。マルセルがどこからか調達してきた良質な薪を使い、まずは安定した火力を得ることから始めた。温度計などという便利なものはない。フィオナは、窯の扉の隙間から見える炎の色、薪のはぜる音、そして窯の壁に手をかざして感じる熱で、内部の温度を推し量ろうと試みた。何度も顔や手に火傷を作りながら、少しずつ、本当に少しずつではあるが、窯の癖を掴んでいく。
並行して、パン生地の改良も続けた。これまでの失敗ノートを隅から隅まで見返し、小麦粉と水の配合、酵母の量、発酵時間を徹底的に記録し、変えていく。
「今日のパンは…うん、昨日よりは石っぽくない。ただ、味が…無だ」
ルーカスは、毎日のように焼き上がる(そして大抵は食べられない)試作品の「毒味役」を健気に買って出てくれた。彼の率直すぎる、しかしどこかユーモラスな感想が、張り詰めがちなフィオナの心を和ませる。
「これは…噛み切れない。フィオナ、君はパン屋ではなく、革製品の職人を目指しているのか?」
「いい加減にしなさい、ルーカス!」
そんなやり取りも、日常になりつつあった。
マルセルは、フィオナの体調を気遣い、栄養のある食事を用意し、時には「お嬢様、少しお休みになりませんと、お体が持ちません」と諌めた。そして、彼女が必要とするであろう情報を、さりげなく集めてきては報告する。その冷静で的確なサポートが、どれほどフィオナの助けになっていたことか。
しかし、何度繰り返しても、「食えるパン」には程遠い。焦げたり、生焼けだったり、膨らまなかったり、酸っぱすぎたり。まるで、パンの神様に見放されているかのようだった。
(やはり、私には無理なのかしら……)
疲労と焦りが募り、心が折れそうになった夜。工房の隅でうたた寝をしてしまったフィオナは、夢を見た。
それは、前世の記憶。
小麦粉の舞う、温かい光に満ちたパン工房。師匠らしき人物の、皺だらけだが優しい手が、生地を慈しむようにこねている。具体的な言葉はない。だが、生地の手触り、酵母が息づく微かな香り、焼き上がりのパンが奏でる軽やかな音…そういった感覚的なイメージが、鮮明に脳裏に焼き付いた。
夢から覚めたフィオナは、何かに導かれるように、再び小麦粉の前に立った。
いつもと同じように生地をこね始める。だが、その日は何かが違った。
ふと、手のひらに伝わる生地の感触が、まるで生き物のように感じられたのだ。それは、ただの粉と水の塊ではない。呼吸をし、変化し、そして「こうしてほしい」と囁きかけてくるような……。
(この感触……夢で見た、あの手に近いかもしれない)
フィオナは、思考を止めた。ただ、手のひらの感覚に全神経を集中させる。生地が求めるままに、優しく、しかし力強くこねていく。発酵させる時間も、これまでの記録ではなく、生地の膨らみ具合、香り、指で押した時の弾力で判断した。
そして、いよいよ薪窯へ。
炎と対話するように薪をくべ、窯の温度を肌で感じ取る。生地を窯に入れる瞬間、フィオナは祈るような気持ちだった。
長い、長い時間に感じられた。窯の前から一歩も動かず、じっとその時を待つ。
やがて、窯の中から、これまでとは明らかに違う香りが漂ってきた。
焦げ臭くない。酸っぱくもない。それは、素朴で、力強く、そしてどこまでも優しい、小麦そのものの香りだった。
フィオナは震える手で、窯からパンを取り出した。
それは、不格好な丸いパンだった。貴族の食卓に上るような洗練されたものではない。しかし、表面は美しい黄金色に輝き、ところどころ力強く割れて、中の白い生地が顔を覗かせている。
ゴクリと唾を飲み込み、フィオナはそのパンを、恐る恐る二つに割った。
湯気と共に立ち上ったのは、まさしく「パンの香り」。そして、断面には、不揃いながらも確かな気泡がいくつも開いていた。
震える指で、ひとかけらちぎって口に運ぶ。
外側はカリッと香ばしく、中は驚くほどしっとりとして、噛みしめると、素朴だがしっかりとした小麦の甘みが、じんわりと口の中に広がった。
それは、決して完璧なパンではなかったかもしれない。
だが、間違いなく、「食べられる」パンだった。いや、それ以上の……。
「……焼けた」
フィオナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「本当に……パンが、焼けた……!」
それは、安堵の涙か、喜びの涙か。あるいは、その両方か。
声を上げて泣きじゃくりたい衝動を抑え、フィオナは、その涙色のパンを、両手で大切そうに抱きしめた。
その時、店の扉がそっと開き、ルーカスとマルセルが顔を覗かせた。彼らは、部屋に満ちる芳しい香りと、涙を流しながらもどこか晴れやかな表情のフィオナを見て、全てを察したようだった。
「フィオナ……もしかして……」
ルーカスが息を呑む。
フィオナは、涙で濡れた顔を上げ、それでも精一杯の、ほんの少しだけ歪んだ笑顔のようなものを見せた。
「ええ……見て。私の、初めてのパンよ」
それは、長いトンネルの先に見えた、確かな光。
フィオナ・ヴィルヘルムが、パン職人として、本当の意味で産声を上げた瞬間だった。
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