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第一章
6.コルティノーヴィス伯爵家の事情
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店を出たシルヴェリオは夜の王都を歩く。
宵闇が支配するこの時間は人通りが少なく静かなせいで、自分の足音が大きく感じられた。
「あの元調香師は、うちの領民だったのか……」
シルヴェリオはそっと溜息をつき、魔導士団の制服のポケットの中に入れていた一枚のメモ書きを取り出した。<気ままな妖精猫亭>で食事をしていた時、フレイヤの住まいを聞いたシルヴェリオに、パルミロがこのメモをくれたのだ。
メモにはフレイヤの実家が営む薬草雑貨店の名前と場所が書かれている。実を言うとパルミロもフレイヤが王都で借りている家の場所は知らないそうで、その代わりに彼女の実家の場所は聞いたことがあったから教えてくれたのだった。
フレイヤ・ルアルディの実家はコルティノーヴィス領の領主邸がある街、ロードンにあるらしい。そこは領主の息子であるシルヴェリオにとっても馴染みのある街だ。
「領地へ行くとなると、屋敷にいる姉上に話しておいた方が良さそうだな」
シルヴェリオには姉が一人いる。現コルティノーヴィス伯爵として領地を治めているヴェーラだ。彼女は前コルティノーヴィス伯爵とその正妻の間に生まれたため、腹違いの姉である。
幼い頃より聡明な彼女は領主になる前から商団を保有して成長させ、その手腕は家臣や他家の貴族、そして領民たちからも称賛されている。
シルヴェリオとヴェーラの仲はいいとも悪いとも言えない。シルヴェリオは物心がついた頃から自分が父親の愛人との間に生まれた子どもだと知りっており、ヴェーラに罪悪感を抱いていたため話しかけられなかった。
ヴェーラの方もシルヴェリオとの関りには消極的で、勉強に没頭しておりシルヴェリオとは食事の時間以外会わなかった。そうして二人は毎日顔を合わせていたものの、姉弟らしい交流はなく、お互いに他人行儀なまま大人になったのだ。
――シルヴェリオの産みの母親は、コルティノーヴィス伯爵家の屋敷で働いていたメイドだったらしい。彼女はシルヴェリオが生まれて間もなく彼をコルティノーヴィス伯爵家に渡し、その後は父親が用意した別邸に住んでいたそうだ。父親と産みの母親はそこで毎日会っていたらしい。
父親は不義理な人間だったが、シルヴェリオの義母――前コルティノーヴィス伯爵夫人は人格者だった。彼女はシルヴェリオが幼い頃から実の母親のように接してくれて優しかった。周囲の人間が父親とその愛人の話をしていても、義母は凛としていた。そんな彼女に、シルヴェリオは心を開いていた。
こうしてコルティノーヴィス伯爵家は内側にいくつもの傷を抱えていたが、家人たちはまるでそのような傷なんて最初からなかったかのように振舞ってきた。しかし、シルヴェリオが十四歳になる年に事態は一変した。父親と産みの母親が二人で乗っていた馬車が事故に遭い、二人ともこの世を去ったのだ。
もとよりシルヴェリオが爵位の継承権を放棄していたため、父親の亡き後はヴェーラが爵位を継いだ。彼女は父親の葬儀を速やかに済ませると速やかに領地の仕事に着手し、他家がつけ入る隙も与えずにコルティノーヴィス伯爵家を維持した。その間に義母はみるみるうちに衰弱して寝たきりの状態になってしまい――翌年には夫の後を追うようにこの世を去ったのだった。
義母を診た治癒師の話によると、彼女は心労により衰弱したらしい。体の病や傷ならともかく、心の病や傷は魔法では治せない。
その後、ヴェーラと共に義母の部屋を掃除したメイドの話によると、義母の部屋からは夫に宛てた手紙が大量に見つかったそうだ。彼女は結婚してから欠かさずに夫に手紙を書いていた。たとえそれが、彼に届かないものだとしても、彼への想いを丁寧に綴っていたと聞いた。
どうしてあのような人間を愛せたのだろうかと、シルヴェリオは困惑した。
父親と義母は政略結婚だったと聞いており、義母も父親と同じように貴族の義務として彼の妻でいるものだと思っていた。しかし違ったのだ。義母は夫を深く愛していた。そんな彼女から夫を奪ったのは、産みの母親と自分だ。
またしても強い自責の念に苛まれたシルヴェリオは学園を卒業すると魔導士団に入団して寮に入り、屋敷には帰らなくなった。自分の存在が姉を苦しめ続けているような気がして、いたたまれなかったのだ。
かくしてシルヴェリオは今、久しぶりの帰宅をするためにコルティノーヴィス伯爵家の屋敷へと向かっている。
正直に言うと姉と顔を合わせるのは気が乗らないが、姉に断りなく領地を訪ねると余計な勘繰りをする連中が現れるから厄介だ。シルヴェリオがその気がなくとも、彼が当主の座を乗っ取ろうとしていると思いこまれ、吹聴されては困る。
「……俺はもう、何者からも大切なものを奪いたくないのに……」
自分の近くにいる人間は皆不幸になっているような気がしてならない。この身は呪われているのではないだろうか。そう思ったシルヴェリオは神官に解呪を頼んだが、神官が言うには呪いにかかっていないらしい。
それならばなぜ、自分は周りにいる人間を不幸にしてしまうのだろうか。
シルヴェリオは苦虫を嚙み潰したような表情のまま、暗闇の中を歩き続けた。
***
しばらくして見慣れた鉄の門の前に立ったシルヴェリオは、門番たちに声をかけた。彼の帰宅を聞いていなかった門番たちは慌てふためきながら門を開けた。
屋敷の扉を開けると、真夜中であるのにもかかわらず執事頭が走って来て、シルヴェリオを迎えてくれた。どうやら門番の一人から知らせを聞いて駆けつけてくれたらしい。
「ああ、坊ちゃん。おかえりなさいませ。すぐにお出迎えできず申し訳ございません」
「気にするな。何も告げずに帰ってきた俺が悪い」
「そのようなことを仰らないでください。私どもはいつも坊ちゃんの帰りをお待ちしておりますから、お迎えできなかったのが惜しいのです」
シルヴェリオが赤子の頃から彼を知っている執事頭は今ではすっかり年老いており、記憶の中の彼よりも小さくなっているような気がした。
彼は代々コルティノーヴィス家に仕えている一族の出身で、彼の息子は姉のヴェーラの秘書をしている。
「姉上に話があるのだが、今はどこにいる?」
「ちょうど執務室にいらっしゃるのでお会いできますよ。坊ちゃんのお顔を見てお喜びになるでしょう」
「……それは、どうかな……」
自分は父親と平民の愛人との間に生まれ、ヴェーラから平穏を奪った弟だ。そんな男に姉は会いたいと思うのだろうか。
姉はきっと望んでいないだろうと思っているシルヴェリオは、後ろめたく思いながら姉の執務室の前に立つ。
扉を叩くとすぐに開き、姉の秘書のリベラトーレ・ステンダルディが迎えてくれた。
執事頭の息子であるリベラトーレは姉の二つ年上の二十八歳。片眼鏡が印象的で、優男と形容されがちな容姿をしている男だ。お洒落に敏感で、襟足が長めな若草色の髪をいつもこなれたスタイルで整えている。
彼の口調はかなり砕けており軽いのだが、時おりその金色の目に鋭い光を宿らせて周りを観察しており、抜け目がない性格だ。
「姉上、夜分にすみませんが少し話をしてもいいですか?」
部屋の中に入ったシルヴェリオは、奥にある執務机に向かっている妙齢の女性に声をかけた。彼女こそがヴェーラ・コルティノーヴィス。現コルティノーヴィス伯爵だ。
久しぶりに見た姉の容姿は、ますます義母に似てきた。頭の後ろで綺麗に結い上げている髪は金白色。肌は透き通るような白で、髪と同じ金白色の睫毛に縁どられた目は紅玉のように赤く美しい。義母と同じ色を持ち、容姿も似ているが、その目だけは違った。ヴェーラの目は意志が強く、為政者らしい揺るがない眼差しを持っている。
ヴェーラは書類から目を離すと、泰然とした笑みを浮かべた。
「いいだろう。シルヴェリオから訪ねてくれるとは珍しいね。ちょうどいいワインが手に入ったから飲むかい?」
「……いえ、飲んできたところですので、もう結構です。俺は気にせず、姉上が飲んでください」
まるで自分を歓迎してくれるような言葉に、シルヴェリオは面食らった。
姉とはワインを飲みかわすような間柄だっただろうか。そのような疑問を抱きつつ、自分を見据える赤い目を見つめ返す。
「それならワインはまた今度にしよう。ところで、私に何の用かな?」
「明日の夜に領地へ向かいます。そこでしばらくの間、俺が領主邸に滞在する許可をください」
「また急な話だな。なぜ領地に?」
「人を迎えに行きます。ネストレ殿下にかけられている呪いを解けるかもしれない人物なので、すぐに連れて帰るつもりです」
「……なるほど、好きにしなさい。使用人たちには出立の準備をさせよう」
「ありがとうございます。――それから、後日商談をさせてください」
「商談……? 商売を始めるのか?」
「ええ、そのつもりです。腕のいい調香師を雇い、香水事業を始めるつもりです」
「……ふむ。他にも必要なものがあれば言いなさい」
「いえ、できる限り自分で何とかします。……これ以上は姉上に迷惑をかけたくありませんから」
そう言い、シルヴェリオが執務室を出ると、ヴェーラは後ろに控えているリベラトーレを呼んだ。
「シルヴェリオの周辺を調べなさい。彼が迎えに行く人物についても詳細を報告するように」
「はーい。不穏な動きがあればどうします?」
砕けた口調で返してくる秘書に、ヴェーラは眉一つ動かさず話を続けた。
「証拠となるものを全て押さえておきなさい」
***
屋敷の中にある自分の寝室へ入ったシルヴェリオは、懐かしい部屋の中を見回した。
たまにしか使われていない寝室だが、コルティノーヴィス伯爵家の優秀な使用人たちが毎日掃除と洗濯をしてくれているおかげで綺麗な状態が保たれている。
使用人の申し出を断って自分で湯あみを済ませ、魔導士団の制服のポケットから取り出しておいた香水瓶を手にして寝台に腰かけた。
香水瓶の蓋を開けると、柔らかさのあるオレンジの匂いが香る。シルヴェリオは瓶を傾けて数滴だけ手首につけた。
「……そういえば、昔もこの香りを嗅いだことがあるな」
かつて義母が、風邪をひいたシルヴェリオを自ら看病してくれた時のことだ。熱に魘されていたシルヴェリオは、額の上に載せられていた布からこの香りがしていたことを思い出した。
彼女もフレイヤのように香りに詳しかったのだろうか。それを聞こうとしても、当の本人はもうこの世にはいない。
シルヴェリオは唇を引き結ぶと、寝台の上に横になる。
目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは、看病してくれていた義母がシルヴェリオの手を握り、女神様に祈りを捧げてくれていた姿。
『――女神様、どうか私の可愛いシルを助けてください』
憎いはずの自分を愛してくれた、大切な人。そんな義母との優しい記憶を思い出したからなのか、はたまたフレイヤから貰った香り水の効果があったのか、シルヴェリオは久しぶりにぐっすりと眠ったのだった。
宵闇が支配するこの時間は人通りが少なく静かなせいで、自分の足音が大きく感じられた。
「あの元調香師は、うちの領民だったのか……」
シルヴェリオはそっと溜息をつき、魔導士団の制服のポケットの中に入れていた一枚のメモ書きを取り出した。<気ままな妖精猫亭>で食事をしていた時、フレイヤの住まいを聞いたシルヴェリオに、パルミロがこのメモをくれたのだ。
メモにはフレイヤの実家が営む薬草雑貨店の名前と場所が書かれている。実を言うとパルミロもフレイヤが王都で借りている家の場所は知らないそうで、その代わりに彼女の実家の場所は聞いたことがあったから教えてくれたのだった。
フレイヤ・ルアルディの実家はコルティノーヴィス領の領主邸がある街、ロードンにあるらしい。そこは領主の息子であるシルヴェリオにとっても馴染みのある街だ。
「領地へ行くとなると、屋敷にいる姉上に話しておいた方が良さそうだな」
シルヴェリオには姉が一人いる。現コルティノーヴィス伯爵として領地を治めているヴェーラだ。彼女は前コルティノーヴィス伯爵とその正妻の間に生まれたため、腹違いの姉である。
幼い頃より聡明な彼女は領主になる前から商団を保有して成長させ、その手腕は家臣や他家の貴族、そして領民たちからも称賛されている。
シルヴェリオとヴェーラの仲はいいとも悪いとも言えない。シルヴェリオは物心がついた頃から自分が父親の愛人との間に生まれた子どもだと知りっており、ヴェーラに罪悪感を抱いていたため話しかけられなかった。
ヴェーラの方もシルヴェリオとの関りには消極的で、勉強に没頭しておりシルヴェリオとは食事の時間以外会わなかった。そうして二人は毎日顔を合わせていたものの、姉弟らしい交流はなく、お互いに他人行儀なまま大人になったのだ。
――シルヴェリオの産みの母親は、コルティノーヴィス伯爵家の屋敷で働いていたメイドだったらしい。彼女はシルヴェリオが生まれて間もなく彼をコルティノーヴィス伯爵家に渡し、その後は父親が用意した別邸に住んでいたそうだ。父親と産みの母親はそこで毎日会っていたらしい。
父親は不義理な人間だったが、シルヴェリオの義母――前コルティノーヴィス伯爵夫人は人格者だった。彼女はシルヴェリオが幼い頃から実の母親のように接してくれて優しかった。周囲の人間が父親とその愛人の話をしていても、義母は凛としていた。そんな彼女に、シルヴェリオは心を開いていた。
こうしてコルティノーヴィス伯爵家は内側にいくつもの傷を抱えていたが、家人たちはまるでそのような傷なんて最初からなかったかのように振舞ってきた。しかし、シルヴェリオが十四歳になる年に事態は一変した。父親と産みの母親が二人で乗っていた馬車が事故に遭い、二人ともこの世を去ったのだ。
もとよりシルヴェリオが爵位の継承権を放棄していたため、父親の亡き後はヴェーラが爵位を継いだ。彼女は父親の葬儀を速やかに済ませると速やかに領地の仕事に着手し、他家がつけ入る隙も与えずにコルティノーヴィス伯爵家を維持した。その間に義母はみるみるうちに衰弱して寝たきりの状態になってしまい――翌年には夫の後を追うようにこの世を去ったのだった。
義母を診た治癒師の話によると、彼女は心労により衰弱したらしい。体の病や傷ならともかく、心の病や傷は魔法では治せない。
その後、ヴェーラと共に義母の部屋を掃除したメイドの話によると、義母の部屋からは夫に宛てた手紙が大量に見つかったそうだ。彼女は結婚してから欠かさずに夫に手紙を書いていた。たとえそれが、彼に届かないものだとしても、彼への想いを丁寧に綴っていたと聞いた。
どうしてあのような人間を愛せたのだろうかと、シルヴェリオは困惑した。
父親と義母は政略結婚だったと聞いており、義母も父親と同じように貴族の義務として彼の妻でいるものだと思っていた。しかし違ったのだ。義母は夫を深く愛していた。そんな彼女から夫を奪ったのは、産みの母親と自分だ。
またしても強い自責の念に苛まれたシルヴェリオは学園を卒業すると魔導士団に入団して寮に入り、屋敷には帰らなくなった。自分の存在が姉を苦しめ続けているような気がして、いたたまれなかったのだ。
かくしてシルヴェリオは今、久しぶりの帰宅をするためにコルティノーヴィス伯爵家の屋敷へと向かっている。
正直に言うと姉と顔を合わせるのは気が乗らないが、姉に断りなく領地を訪ねると余計な勘繰りをする連中が現れるから厄介だ。シルヴェリオがその気がなくとも、彼が当主の座を乗っ取ろうとしていると思いこまれ、吹聴されては困る。
「……俺はもう、何者からも大切なものを奪いたくないのに……」
自分の近くにいる人間は皆不幸になっているような気がしてならない。この身は呪われているのではないだろうか。そう思ったシルヴェリオは神官に解呪を頼んだが、神官が言うには呪いにかかっていないらしい。
それならばなぜ、自分は周りにいる人間を不幸にしてしまうのだろうか。
シルヴェリオは苦虫を嚙み潰したような表情のまま、暗闇の中を歩き続けた。
***
しばらくして見慣れた鉄の門の前に立ったシルヴェリオは、門番たちに声をかけた。彼の帰宅を聞いていなかった門番たちは慌てふためきながら門を開けた。
屋敷の扉を開けると、真夜中であるのにもかかわらず執事頭が走って来て、シルヴェリオを迎えてくれた。どうやら門番の一人から知らせを聞いて駆けつけてくれたらしい。
「ああ、坊ちゃん。おかえりなさいませ。すぐにお出迎えできず申し訳ございません」
「気にするな。何も告げずに帰ってきた俺が悪い」
「そのようなことを仰らないでください。私どもはいつも坊ちゃんの帰りをお待ちしておりますから、お迎えできなかったのが惜しいのです」
シルヴェリオが赤子の頃から彼を知っている執事頭は今ではすっかり年老いており、記憶の中の彼よりも小さくなっているような気がした。
彼は代々コルティノーヴィス家に仕えている一族の出身で、彼の息子は姉のヴェーラの秘書をしている。
「姉上に話があるのだが、今はどこにいる?」
「ちょうど執務室にいらっしゃるのでお会いできますよ。坊ちゃんのお顔を見てお喜びになるでしょう」
「……それは、どうかな……」
自分は父親と平民の愛人との間に生まれ、ヴェーラから平穏を奪った弟だ。そんな男に姉は会いたいと思うのだろうか。
姉はきっと望んでいないだろうと思っているシルヴェリオは、後ろめたく思いながら姉の執務室の前に立つ。
扉を叩くとすぐに開き、姉の秘書のリベラトーレ・ステンダルディが迎えてくれた。
執事頭の息子であるリベラトーレは姉の二つ年上の二十八歳。片眼鏡が印象的で、優男と形容されがちな容姿をしている男だ。お洒落に敏感で、襟足が長めな若草色の髪をいつもこなれたスタイルで整えている。
彼の口調はかなり砕けており軽いのだが、時おりその金色の目に鋭い光を宿らせて周りを観察しており、抜け目がない性格だ。
「姉上、夜分にすみませんが少し話をしてもいいですか?」
部屋の中に入ったシルヴェリオは、奥にある執務机に向かっている妙齢の女性に声をかけた。彼女こそがヴェーラ・コルティノーヴィス。現コルティノーヴィス伯爵だ。
久しぶりに見た姉の容姿は、ますます義母に似てきた。頭の後ろで綺麗に結い上げている髪は金白色。肌は透き通るような白で、髪と同じ金白色の睫毛に縁どられた目は紅玉のように赤く美しい。義母と同じ色を持ち、容姿も似ているが、その目だけは違った。ヴェーラの目は意志が強く、為政者らしい揺るがない眼差しを持っている。
ヴェーラは書類から目を離すと、泰然とした笑みを浮かべた。
「いいだろう。シルヴェリオから訪ねてくれるとは珍しいね。ちょうどいいワインが手に入ったから飲むかい?」
「……いえ、飲んできたところですので、もう結構です。俺は気にせず、姉上が飲んでください」
まるで自分を歓迎してくれるような言葉に、シルヴェリオは面食らった。
姉とはワインを飲みかわすような間柄だっただろうか。そのような疑問を抱きつつ、自分を見据える赤い目を見つめ返す。
「それならワインはまた今度にしよう。ところで、私に何の用かな?」
「明日の夜に領地へ向かいます。そこでしばらくの間、俺が領主邸に滞在する許可をください」
「また急な話だな。なぜ領地に?」
「人を迎えに行きます。ネストレ殿下にかけられている呪いを解けるかもしれない人物なので、すぐに連れて帰るつもりです」
「……なるほど、好きにしなさい。使用人たちには出立の準備をさせよう」
「ありがとうございます。――それから、後日商談をさせてください」
「商談……? 商売を始めるのか?」
「ええ、そのつもりです。腕のいい調香師を雇い、香水事業を始めるつもりです」
「……ふむ。他にも必要なものがあれば言いなさい」
「いえ、できる限り自分で何とかします。……これ以上は姉上に迷惑をかけたくありませんから」
そう言い、シルヴェリオが執務室を出ると、ヴェーラは後ろに控えているリベラトーレを呼んだ。
「シルヴェリオの周辺を調べなさい。彼が迎えに行く人物についても詳細を報告するように」
「はーい。不穏な動きがあればどうします?」
砕けた口調で返してくる秘書に、ヴェーラは眉一つ動かさず話を続けた。
「証拠となるものを全て押さえておきなさい」
***
屋敷の中にある自分の寝室へ入ったシルヴェリオは、懐かしい部屋の中を見回した。
たまにしか使われていない寝室だが、コルティノーヴィス伯爵家の優秀な使用人たちが毎日掃除と洗濯をしてくれているおかげで綺麗な状態が保たれている。
使用人の申し出を断って自分で湯あみを済ませ、魔導士団の制服のポケットから取り出しておいた香水瓶を手にして寝台に腰かけた。
香水瓶の蓋を開けると、柔らかさのあるオレンジの匂いが香る。シルヴェリオは瓶を傾けて数滴だけ手首につけた。
「……そういえば、昔もこの香りを嗅いだことがあるな」
かつて義母が、風邪をひいたシルヴェリオを自ら看病してくれた時のことだ。熱に魘されていたシルヴェリオは、額の上に載せられていた布からこの香りがしていたことを思い出した。
彼女もフレイヤのように香りに詳しかったのだろうか。それを聞こうとしても、当の本人はもうこの世にはいない。
シルヴェリオは唇を引き結ぶと、寝台の上に横になる。
目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは、看病してくれていた義母がシルヴェリオの手を握り、女神様に祈りを捧げてくれていた姿。
『――女神様、どうか私の可愛いシルを助けてください』
憎いはずの自分を愛してくれた、大切な人。そんな義母との優しい記憶を思い出したからなのか、はたまたフレイヤから貰った香り水の効果があったのか、シルヴェリオは久しぶりにぐっすりと眠ったのだった。
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