ビーストマスター

ツバキ

文字の大きさ
上 下
6 / 7
プロローグ

レイラとルオの出会い②

しおりを挟む
レイラとルオが出会ったのは、レイラが歩けるようになったばかりの赤ん坊の頃だった。

レイラの両親は黒い髪と黒い瞳の娘が生まれ、魔女の親だと迫害され、追われるように街を出て、王都から近いこの森の奥に自分たちで小さな家を建てて住むようになったのだった。
この森には恐ろしい魔物が住んでいると王都では、もっぱらの噂だったが、他に選択肢はなく、覚悟を決めて、いざとなれば、隠れられるように地下室も作り、住むことにした。
だが、思いの外、この森に魔物は居らず、全く魔物に遭遇することのないまま平和に時が過ぎていった。

そんな中で、レイラがよちよち歩き始めた頃だった。

ある日、スターグとイアナはレイラを連れて散歩がてら森の中で木の実やきのこを採ることにして出かけた。
この頃のスターグとイアナは完全にこの森は安全だと油断していたので、魔物が・・・ましてや凶暴で凶悪なフェンリルの住む森だとは思いもしていなかった。

「イアナ、昼食は沼の方に行こう。あの辺りはほとんど行ったことはないが、確か、沼のそばに草地があったはずだ。そこでレイラを存分に遊ばせてやろう。
 草地は斜面があったはずだから、ソリ代わりになるものでも見つかればレイラも楽しいだろう。」
スターグの言葉にイアナも頷いた。
「いい案ね。レイラはやんちゃだから、喜びそう。」
そう言って、イアナはふふふと笑って腕に抱いたレイラの世間から魔女だ不吉だと忌み嫌われる漆黒の瞳を覗き込んだ。
スターグとイアナの会話などわかっていないであろうレイラは両親の優しい微笑みにきゃっきゃっと無邪気な笑い声をたてる。
そうして、スターグとイアナはレイラを連れて、沼へ向かったのだった。

沼の周辺は少し広めの原っぱになっていて、道から沼周辺の平な草地に向かって割と急な斜面になっていた。
スターグはその斜面でレイラをソリで遊ばせてやるつもりだったのだ。
「気持ち良い場所ねぇ。」
イアナは周囲を見回して、大きく深呼吸した。
森の中にこんなに太陽の光をいっぱいに浴びられる場所があるのが驚きだ。

「だろう?
沼は危険だから、レイラが近づかないように気をつけないとな。
まあ、沼のわりには水がわりと綺麗だし、遠浅になってるみたいだから、もう少し気温が上がれば水浴びも気持ちいいかもしれないが。」
「ふふ。そうね。
夏になったら、またレイラを連れて来ましょう。
レイラも喜ぶわ。」

そんな会話をするスターグとイアナはこの沼に凶暴で凶悪な魔物、フェンリルが棲みついていることに・・・近くの斜面の背丈の高い草が生い茂る草むらに今、現在進行形で凶悪な魔物が寝ていることに気づいていなかった。

「あら?
レイラったら、どこへ行ったの!?」
イアナは一瞬、目を離した隙にレイラの姿が見えなくなっていることに気づいて慌てた。
「どうしたんだ、イアナ?」
「あなた、レイラがいないのよ!」
イアナの言葉にスターグも驚いた。
「何だって!
早く探そう!!沼にでも落ちたら大変だ!」
スターグが急いでイアナを促した。

そのときだった。

「あーあーあー!」

興奮気味な楽しそうなレイラの声が聞こえた。
その声にスターグとイアナは顔を見合わせて、ホッとした。
しかし、それも一瞬のことだった。
レイラの声のした方を見た二人は絶句すると同時に、絶叫しそうになった。

それもそのはずで、彼らの視線の先にいたのは可愛い愛娘と大きな姿の真っ黒な魔物だったのだ。
「あれはフェンリル・・・。」
スターグは目を見張って呟いた。
フェンリルは元々、生息数が少ない。なので、遭遇率は低いが、一匹で凶悪な魔物数十匹とも噂されるほど凶暴で凶悪な魔物だ。
当然、スターグとイアナでは太刀打ちなど出来ようはずもない。
「イアナ、ここを動くんじゃないぞ。」
スターグはなんとかレイラを連れて逃げようとそっと魔物に近づく。

レイラはフェンリルの足もとにいる。
そして、何も分かっていないレイラは楽しそうにフェンリルの毛を引っ張ったり叩いたりして上機嫌だ。

やめろ、レイラ!フェンリルを刺激せず、大人しくしていてくれ。

スターグの願い虚しく、レイラはフェンリルが気に入ったのか大きな身体のフェンリルに抱きついたりして、父が心の中で悲鳴を上げていることなど、知る由もない。

それに対して、フェンリルの方はとりあえず、自分の足もとで戯れて(じゃれて)いるレイラに無関心だ。
だが、時折、力の加減なく思いっきり毛を引っ張るレイラに鬱陶しそうにそちらを見るが、その爪や牙で攻撃する様子はない。

そのことにスターグは少し安心した。
この様子だと、娘はすぐにフェンリルに殺されることはないだろう。
しかし、いつまでも大丈夫だという保証はない。早く助けなければ。
スターグがそう思い、フェンリルに気づかれないように近づく。
だが、フェンリルに一切気づかれず、近づくなど出来るはずもなかった。

ギロリ。
すぐに、スターグはフェンリルに見つかった。
不味い、殺される。
自分もレイラも、そして、離れた場所で見守っているイアナも。
何とか、レイラとイアナだけでも逃がす方法はないか。
スターグはフェンリルと睨み合いながら、必死で考えるが妙案は浮かばない。

そのときだった。
フェンリルがのっそりと動いた。
そして、唐突にフェンリルは口を開けて、レイラへ顔を近づける。
フェンリルのその行動に、スターグはフェンリルが、まさかレイラを食べるつもりなのかと内心悲鳴を上げた。
しかし、フェンリルはそんなスターグの前で、ヒョイッとレイラをその凶悪そうな大きな口に咥えただけだった。フェンリルの牙は鋭いが、今の時点でレイラを食い殺すつもりはないらしく、フェンリルに咥えられたレイラは痛くないのか、何も分かっていない様子で楽しそうにキャッキャッと笑っている。
どうやら、フェンリルに遊んでもらっているつもりのようだ。

フェンリルの鋭い目がスターグを捉えている。
娘をどうするつもりなのか。
スターグは息を呑む。
自分の身も危険だが、娘を助けたい。妻と娘だけでも無事に脱出させたい。
だが、レイラの救出も絶望的に難しい。
スターグがそんなことを考えていたときだった。
フェンリルがスターグの方へ一歩踏み出した。
攻撃してくる!
スターグが身構えた瞬間・・・・・。

ひょいっ。
唐突にフェンリルが口に咥えていたレイラをスターグの方へやわらかく弧を描くようにふわりと放った。
えっ!?
スターグはフェンリルの予想外の行動に唖然としたが、すぐに我に返り、慌てて放り投げられた我が子をその腕で抱きとめた。
娘を返してくれた・・・・?

何の気まぐれかフェンリルはレイラをスターグに返してくれたのだ。
見ると立ち上がっていたフェンリルは、すでにスターグとレイラに興味を無くしたらしく、丸くなって寝る体勢だ。
なんだかよく分からないが、命拾いをしたスターグは見逃してくれるつもりらしいフェンリルの気が変わらないうちにと、いそいそ退散しようとしたときだった。

「うーうーうー!!
 あー!!」
もっとフェンリルと遊びたかったらしいレイラがスターグの腕のなかで身を捩って暴れた。
「おい!レイラ!?
ちょ・・・大人しくしなさい!」
スターグは慌ててレイラを諭すが、レイラは言うことを聞かず、スターグの腕の中で大暴れし、スターグは最悪なことに思わず、レイラを落としてしまった。
幸いにも下は草地でレイラは無傷のようだったが、そこはフェンリルの方に向かって下り坂になっており、スターグがレイラを拾い上げるよりも早く、フェンリルの方へ向かって転がりだしてしまった。
そして、あっという間にレイラはフェンリルの元へ。
キャッキャッ。
レイラはフェンリルの元へ戻って上機嫌だった。フェンリルの毛を引っ張り、抱きつきご満悦だ。
あわあわする父に気づきもしない。

そんなレイラにフェンリルが視線を向けた。
今度こそ、娘が殺される!
スターグは慌てた。
だが・・・・・。
フェンリルはまたもレイラを咥えるとスターグの方へさきほどと同じように、ふんわりと投げて寄越した。
またしてもレイラを返してくれたフェンリルにいい加減、スターグも気づいた。
睨みつけていると思っていたフェンリルの目が大層面倒くさそうであることに。
このフェンリルはたぶん、最初からスターグたちに興味もなければ、関わるつもりもなかったのだろう。
だが、いつ気が変わってスターグたちを襲ってきてもおかしくない。
スターグは今度こそ、大急ぎでまだフェンリルと遊びたがる怖いもの知らずな娘を連れて、イアナのいる場所まで駆け戻ったのだった。
こうして、この日の散歩は終了した。

そして、次の日。

「あなた、大変!!
 どうしましょ、レイラが見当たらないの!!
 ごめんなさい。少し洗濯物を干していて目を離したら、レイラがいなくなっていて。」
泣きそうな顔でイアナがスターグのところへ駆けてきた。
「何だって!?
家中、全部探したのか?」
スターグは慌てて尋ねた。
「探したわ。
もしかしたら、レイラったら外へ出てしまったのかも。」
そんなイアナにスターグは嫌な予感がした。
我が娘は小さいくせに驚くほど好奇心と行動力がある。まさか、フェンリルのところへ遊びに行こうとしているということはないだろうか。
「イアナ、急いでレイラを探そう!森の中は危険だ。」

そうして、スターグとイアナは家の周囲を探したが、レイラの姿はなかった。
スターグはイアナにそのまま、家の周りを探すように言って、自分はまさかと思いつつ、フェンリルのいた沼へ向かった。
家から沼まで距離がある。
そう簡単に幼いレイラが一人で行けるとは思えないが、レイラが行こうとしている可能性はある。
沼まではそこそこ距離があるので、まさかレイラが一人で行けるとは思えないが・・・・。

不安を胸にスターグが沼へ着くと、案の定、レイラがいた。
しかも、熊よりも大きなフェンリルの真っ黒い巨体と一緒に。
レイラは寝ているフェンリルの毛を引っ張ったり、その巨体を叩いたりして大はしゃぎだ。
一方、フェンリルは面倒くさいのかレイラを無視して寝ている。

また、快くレイラを返してくれないだろうか。
スターグはドキドキしながら、そっとフェンリルへ近づいたそのときだった。
フェンリルがスターグに気づいた。
凶暴そうな真っ赤な目がスターグに向けられる。
しかし、今回はスターグもすぐに気づいた。
フェンリルの目がものすっごく迷惑そうであることに。何が迷惑なのかというと十中八九、レイラだろう。

このフェンリルは変わっている。
スターグは思った。
レイラが鬱陶しいなら、その牙と爪で殺してしまうことだって出来るのに、嫌そうにしながら、放置しているのだから。
たぶん、スターグがレイラを迎えに来るのを待ってたのだろう。その証拠に、フェンリルは昨日と同じようにレイラをスターグへふんわりと投げて寄越した。
どうやら人間が嫌いらしく、スターグに近づくつもりはないようだし、スターグに近づかれたくもないようで、レイラを投げてくる。

何にせよ、娘を無傷で返してくれるなら、ありがたい事この上ない。
スターグは受け止めた我が子をしっかりと抱え、フェンリルの気が変わらないうちに、急いでその場を立ち去ったのだった。

フェンリルのいる沼から離れ、家路についたスターグはホッと息をつくと、腕に抱いたレイラを見た。
もっとフェンリルと遊びたかったらしいレイラは思いっきり不機嫌だ。
そんな娘に我が子ながらその怖いもの知らずぶりに呆れる。それと同時に、レイラの手足が擦り傷だらけであることに気がついた。

「はぁ。そんなにまでフェンリルと遊びたかったのか?
こんなに傷だらけで痛かっただろうに。
でもな、レイラ。
あれは怖い魔物なんだよ。お前と遊んではくれないんだ。もう、フェンリルのところへ行くんじゃないぞ。あの様子だと、刺激しなければ、襲って来たりはしないだろうからな。」
スターグはまだ言葉の分からない娘に語りかける。

正直、自分たちの住む場所の近くの森にフェンリルが棲んでいることが分かって、引っ越すか悩んだ。
だが、すぐに引っ越すのは難しいのが現状だ。
それに、あのフェンリルは他の魔物と違って、人間を喰おうというつもりはない様子だった。無駄に近づいたり、刺激したりしなければ、襲って来ないきがしたのだ。
もし、フェンリルが自分たちを襲わないのであれば、こんなにいい場所はない。
この森に魔物たちがいないのはほぼ間違いなく、あのフェンリルがいるからだ。
あのフェンリルと共存出来れば、自分たちは魔物を恐れることなく、平和にこの森で過ごしていける。
スターグは昨夜のうちにイアナと相談して、もう少し様子をみることにしていた。

しかし、問題はレイラだ。
レイラはあのフェンリルがいたくお気に召した様子だ。
今回も少し目を離した隙にこんなことになってしまった。
もっとよく気をつけなければ。
スターグは思った。
だが、そんな決意をよそに、レイラは度々いなくなり、フェンリルの沼にいた。
その度に、レイラを迎えに行くのはスターグの役目だった。
フェンリルの方もしばらくすれば、レイラがいなくなったことに気づいたスターグが迎えに来ることを知ってか、上機嫌でじゃれるレイラを完全放置だ。そして、スターグが来るとレイラを投げて寄越してくる。

その頃にはスターグもよほどのことがない限り、このフェンリルはレイラを殺さないだろうと思っていた。
だが、この世界で最凶最悪の魔物フェンリルはやはり怖い。いくら変わり者のフェンリルであろうとも。
それと同時に、毎回、ちゃんとフェンリルのいる沼へ行けるレイラが不思議で仕方なかった。
普通に考えて、レイラがよちよちと歩いていける距離と場所ではない。
しかし、その疑問はすぐに解決した。

その日も、レイラがいなくなり、スターグがフェンリルのいる沼へ迎えに行くことになったのだが、この日は幸いなことに、レイラがフェンリルの沼に着くよりも前に見つけることが出来た。
レイラは沼へ向かう道の途中で号泣していた。
家でもしないような、泣き方でスターグは怪我でもしたのかと慌てて娘に駆け寄った。
最近、レイラには厚手の靴下と手袋、厚手の衣服を身に着けさせていた。
その理由は簡単で、レイラが勝手にいなくなって沼へ行こうとするからだ。
スターグやイアナが家に鍵をかけたり、色々な方法で阻止しようとするが、レイラはいつの間にか抜け出してしまうのだ。
だから、せめて怪我をすることがないように、普段から重装備させていた。
本当は魔物のところへなど、行かせたくないのだが。苦肉の策だった。

「ん?特に怪我はしていないみたいだな。
どうしたんだ、レイラ。そんなに泣いて。」
スターグはレイラを抱き上げ、声の限り泣き叫ぶ娘をあやすが、レイラはますます大声で泣くばかりだ。
困ったスターグがとりあえず、一度、家に帰ろうと考えたときだった。

ガサガサッ。
近くの茂みが動いた。
スターグが不審げにそちらを見ると、そこにいたのは驚いたことにあのフェンリルだった。
そして、驚いたことにフェンリルが現れた瞬間、レイラが泣き止んだのだ。
きゃっきゃっ。
さっきまで号泣していたレイラが、真っ赤に目を泣き腫らしたまま、手を叩いて喜んでいる。
茂みから出てきたフェンリルはスターグがいることに気づいた瞬間、立ち止まった。
そして、次の瞬間。

ガオーッ

威嚇するようにフェンリルがスターグに吠えた。
今までおとなしく、人間に無関心だったフェンリルに、油断していたスターグは驚きと恐怖で思わず、腰を抜かしてしまった。
地面に座り込んでしまったスターグの腕から、レイラは這い出ると、嬉しそうに立ち上がってよちよちとフェンリルの方に手を伸ばしながら歩き、その足もとにたどり着くと、ニッコリと笑って自分よりずっと大きな身体のフェンリルを見上げた。

そんなレイラをフェンリルの真っ赤な目が見下ろす。
スターグの顔から血の気が引いた。
今日のフェンリルは機嫌が悪い。娘が危ない!
そのときだった。
ふっとフェンリルの姿が揺らいだかと思うと、スターグの目の前に漆黒の髪と燃えるように真っ赤な瞳の美しい青年の姿が現れた。

「な・・・・」
突然のことに、何が起こったのか分からず呆然としているスターグに青年はレイラを抱き上げると、いつもフェンリルがするのと同じようにレイラを柔らかく放った。
スターグが慌てて、娘の身体を抱きとめると、青年は堰を切ったように怒鳴った。

「いい加減にしろ!
煩くて寝られねぇんだよ!
おれが行くまで延々、大声で泣きやがって。
だいたい、こんなちっこいガキを一人でウロウロさせるな!
お前らがこの森に住むのは勝手だが、おれに近づくな、関わるな!
本気でいい加減にしねぇと喰っちまうぞ!!」
青年はマジ切れでまくし立てると、言いたいことを言って気が済んだのかフェンリルの姿に戻り、沼の方へ去って行ったのだった。
その場に呆然とするスターグといなくなったフェンリルにまた泣き出したレイラを残して。
しおりを挟む

処理中です...