境界の扉

衣谷一

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3.俺らはモンスターになった

ストーキング

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 警察が図書室を訪れると、言葉通り人が変わった石田が状況の説明をした。数分前まではほとんど死んでいたにもかかわらず、冷静かつ正確、見本のような供述をした。自らを失ったかのような表情が嘘かのようだった。高畑も浦もただ同席しただけのような雰囲気だった。実際、

「ほかに何か補足することはありますか」

以外の質問はなかった。

 事情聴取を受けた後は深田教諭の車で送ってもらったわけだが、車中では全く会話が成立しなかった。

 石田が見ていたものを尋ねても無視された。一回目はもしかしたら聞こえなかったからかもしれないと思ってもう一度問いかけても反応してくれなかった。

 家に帰れば一人であることを強く意識してしまった。とにかく誰かとつながっていたいと思って、浦に連絡しようと思ったものの、しかしLINEには石田拓朗のエントリーがあって、たちまち日中の出来事を思い起こさせた。

 浦と気持ちを共有するか。

 石田拓朗の存在を意識し続けるか。

 石田拓朗のことを考えるなんて以ての外だった。石田の姿を見つけてしまった今日は彼のことを考えたくなかった。想像してしまえば、脳裏に浮かび上がってくるのはいろいろと部誌のために質問をしてくるよい後輩の姿でなかった。旧校舎の床で朽ち果ててしまっている遺体だった。

 遺体を想像するなんて嫌だった。

 スマートフォンを放って眠ったところで、心持ちは簡単に変わらなかった。いつもよりも早く目が覚めて、だからといって何かをやる気にもならず、ただただベッドの上で天井を眺めているだけだった。漫然と天井の模様をなぞっていれば、しかし次第にまぶたが重くなってくるのである。

 ぼんやりとした意識の中でバイブレーションの音が聞こえて、それで目が覚めた。窓から光が差し込んでいる点からすると、すでに一晩寝てしまっていたらしい。自分自身が何をしているのかよく分かっていないまま、スマートフォンをひったくって画面を覗き込んだ。

 LINEのポップアップ。アカウントは浦多佳子。

 浦の名前は大したことではなかった。だが、浦が送ってきた短いメッセージは寝ぼけなまこの高畑を全力でぶん殴ってきた。

「助けて」

 前澤の時と同じだった。高畑に対してSOSを伝えてきていた。ベッドの上で飛び上がるなり、

「警察への通報は?」

と問いかけた。スマートフォンをベッドに放るのとベッドから降りるのが同時だった。画面へのポップアップを気にしながら服を着替えていれば、浦からの返信が来た。短く、要点だけの言葉だった。

「しなくていい。来て。柏高島屋のドトール」

 高畑が着いた時の浦は図書室で見た彼女にそっくりだった。スマートフォンを両手で握りしめてずっと下を向いていた。スマートフォンが震えて見えたが、バイブのそれではなかった。手が震えていた。

 ひとまずアイスコーヒーを買ってから浦のいるテーブルに腰をかけたが、しかし気づく様子はなかった。何が起きているのか分からなかったから囁くような声で、

「来たよ、どうしたの」

と声をかければ、ビクッと縮み上がってようやく顔を上げたのだった。

 上げた顔は見るからに具合が悪そうだった。血の気がない、赤い色合いがすっかり薄れてしまっている様子。普通じゃなかった。

「大丈夫? 何があった?」

「あいつがいる」

「あいつって誰のこと」

「黒い影、黒い影がいる。多分、明ちゃんを襲ったのと同じやつ」

 どこかを指差すものの、その指がわなわな震えていた。

「窓の方を見たの。そしたら黒い影が私を見ているの。見てないふりをしていなくなるのを待っていたのだけれど、全然消える気配がなくて」

 指差す方向へがばっと振り返ってみるものの、そこにあるのは一枚ガラスであって、店が面している道路の様子が見えるに過ぎなかった。浦が言っている黒い影も姿がなくて、歩道を歩く見知らぬ人がいるぐらいだった。

「黒い影なんて見当たらないけど」

「違う、そうじゃないの。トラックが通れば分かる」

 滞りなく進んでいた自動車がゆっくりと減速してゆく。はじめの乗用車はそのままガラスの外へといなくなってしまったが、その後を追う自動車がガラスの前に停まった。信号待ちだ。

 ややあってから再び動き出すものの、決して大きな道ではないからだろうか、すぐに車が停まるのだ。

 配送業の社名が刻まれたトラック。

 左側から進入してきて、右側のキワで停車する。銀色のコンテナが窓に照りつけていた日光を遮る。店内が幾分か暗くなった。

 高畑の目が釘付けになった。

 トラックの荷台を背景色に、『それ』が浮かび上がっていたのだ。もやのように輪郭が揺らぎはっきりした姿は分からなかった。人の形をしている、という程度しか分からなかった。

 ただ唯一、黒目と白目ははっきりと境目を持っていた。高畑を見下ろしていた。人の目、というよりも、円を重ねたかのような目だった。

 窓枠いっぱいの身長のそれはただそこにいるだけのように思えた。影の足元の席にいる見知らぬ人は全く気づいていない様子だった。目だけでほかの客を見渡してみても誰一人として窓ガラスに注目している人はいなかった。

 しかし高畑は黒い影の企てに気づいたのである。ガラスの反射とも、トラックの荷台の色とも違う質感。影の手で光るそれは何なのか。生き物らしからぬ視線を向けて、それでいて手元で鋭い輝きを高畑の方へ向けている理由とは。

 刃物の輝きが高畑に、浦に向けられていた。ただその場にとどまって切っ先を向けるばかりなのは一種の宣告のように感じられた。いつでも実行に移す準備はできているというアピールだった。あるいはすでに行動を起こしているということを見せているのか。

 とにかく、高畑は浦が体験した恐怖というのをこの時に知ったのである。不安を掻き立てる目をして刃物を握りしめる姿は何をしでかしてもおかしくなかった。輪郭の曖昧な容姿はふわりと窓ガラスから剥がれて飛びかかってきそうだった。

 本能が逃げることを求めていた。

「もう出よう。ここにいるべきじゃない」

 コーヒーを飲み干す時間すら惜しかった。浦が頼んだであろうマグカップの中身は半分近く残っていて、高畑のアイスコーヒーに至ってはほとんど全量が残っていた。一口しか口にしていない高畑の頭の中に、自分が買ったアイスコーヒーのことはどこにもなくなっていたのである。

 裏の手を繋いで店を出たところで行くあてはなかった。柏駅前の大通りに出たところで、黒い影が潜む場所はいくつもあった。ありとあらゆるガラスの反射の中から不気味な目を感じ取った。鏡のように鳴っているところではもっと露骨で、あたかも背後に『それ』がたたずんでいるかのような見え方になって、二人して震え上がった。

 ガラスのないところ、鏡のないところ。

 黒い影が立ち入ることのできない場所を探していた。

「地元民としてはどこかいい場所を知ってるんじゃないか」

「鏡もなければガラスもない場所なんて思いつくと言ったら、映画館ぐらいしかないんだけど。駅前にある小さな映画館は行ったことないし、行ったことがあるといえばおおたかの森のところか柏の葉キャンパスの方で」

「じゃあそっちに行こう。電車の中は、まあ、ガラスがあるけど」

 電車に乗ってもなお黒い影が視界の隅に居座っているかのようだった。明るい日差しの中ではガラス上にそれが浮かび上がってくることはないが、どこかから監視されているかのような気がした。座席シートには二人が横並びで座れる箇所も見られたものの、何が潜んでいるか分からないガラスが後ろにあることが許せなかった。

 二人してつり革に掴まる。なるべく窓から、ドアから離れるように。なるべく周りを見ないように、となると互いのことを見るほかなくて、至近距離で互いを見つめ合う格好になった。見つめ合って気まずさを感じる余裕は二人共々なかったし、特に浦は高畑を見るだけでは足りなかった。ずっと高畑のシャツをつまんでいた。

 気持ちをそらしてあげないと、と高畑は話題を思案する。映画館に行くなら映画の話題を、って思っても、普段映画を見ない高畑にとって在庫はなかった。高畑と浦とが会話できて、当たり障りのない話題となると。

 部誌のことだった。

 高畑が部誌のこと、自身が書いている技術書の状況を話してそれをとっかかりとしようと思い立ったところで、浦が口を開いた。

 森の中の割れ目を列車が進んで陽の光が入らなくなると、車窓の一角で薄っすらと影が浮かび上がり、高畑たちを眺めていた。

「私、昨日も見たの」

「見たって何のこと。もしかして影のこと?」

「うん、実は、図書室でも似たようなやつが。今日みたいに全身が見えたわけじゃないんだけど、首から上だけが、図書室の窓ガラスに」

「もしかして、窓を見ないようにしていたのはそういう理由?」

「気づいてたの?」

「いや、たかさんが何かをずっと見ているようだったのと、見ようとしたら『見るな』って言われたから」

 つまりは高畑以外の二人はすでに黒い影と出会ってしまったということだった。高畑が机に突っ伏して石田拓朗のメッセージをもてあそんでいた横で、石田孝之と浦は黒い影に捕捉されてしまったのだ。

 電車は森を抜けた。黒い影がなりを潜めた。

「もしかして浦は昨日からずっと付きまとわれてるってことは、ないよね」

「昨日から、色んなところで見た。もう鏡が見れない」

「鏡? 鑑の中にも影が出てきたのか」

 シャツをつかむ浦の力が強くなった。高畑との距離も縮めてきた。シャツ越しに浦の手が震え始めているのに気づいた。いつしか顔も死人のように色を失ってしまっていた。そのせいで目のクマがひどく色濃く見えるようになった。

 シャツをつかむ手がいつしか、シャツを握りしめていた。

「お風呂あがりに顔をあげたら、背後にあいつが、いて」

 話した途端に鳥肌が浦の腕一面に広がって、声までもが震え始めて、いよいよこの話題を断ち切らなければならなかった。これ以上は浦が壊れてしまうと本能が訴えた。

 部誌に向けた原稿の執筆状況はどうだい?

 気をそらすためのネタは十分だったのだが、スマートフォンがそれを邪魔するのだ。石田拓朗なる存在が動き始めた。

 LINEを開けば、どうやら拓朗は新しく討伐クエストを達成したらしかった。更には拓朗が目指している『世界を救う』ことにおいて意味を持つ相手だったらしく、

「強敵で倒せるかどうか不安でしたが、何とか倒すことができて喜びもひとしおです」

と満足気だった。

 きっと浦に見せてしまえばどう反応するか分からなかったから見るつもりはなかったが、

「何それ」

と言わせてしまっているところ、どうやら画面を覗きこまれてしまったようだった。

「どうしてまだ石田弟から連絡が来るの? 何で? あいつはだって」

「今拓朗のことを考えるのはやめよう。俺達のことを考えるんだ。いいね。俺の目をずっと見て」

 荒ぶりつつある言動は浦の気持ちの揺らぎそのものだった。何とか落ち着かせようと高畑は浦に迫った。高畑を意識させることで石田拓朗を追いやろうとした。

 しかし。

 高畑の思惑とは全く異なることが起きた。浦が悲鳴を上げてその場にしゃがみこんでしまった。追うように高畑もしゃがみこんで彼女を介抱すればよかったが、高畑もそれどころではなかった。

 浦の目のみずみずしさの中に、黒い影が映っていた。すぐそばにまで迫ってきた。
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