わたしを証明する全て

上杉

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 一九六〇年代に産まれたインターネットは、三十年の月日をかけて日々成長し、一九九〇年代半ばになると人類に大きな影響を及ぼすことになった。
 それは人々の間で幅を利かせていた距離と時間を排除し、文化や教育、商業などの幅広い分野において爆発的な効果を及ぼした。

 その中の買い物やサービス申し込みなどのインターネット上取引においては、対面交渉がないため、それを行うユーザー本人であるという証明が必要とされてきた。
 最も簡易的なものは「IDとパスワード」であり、これは長期に渡り利用されてきた。
 ただし取引相手ごとの多種多様なパスワードを個人が管理せねばならない点や、盗難および漏洩により簡単に不正アクセスが可能である点がかねてより問題視されていた。 
 また他の認証技術として「ICカード」を使った物理的な認証システムが従来利用されてきたものの、有効なカードを取得すれば容易になりすましが可能となることから、その危険性が昔から問われていた。

 そこで登場し発展したのが「生体認証システム」だった。
 初期のものは指紋やDNAを利用したものだったが、前者は欺瞞の方法が数多く編み出され、後者は化学的分析を経ることから認証に時間を要するために、近年のリアルタイム認証には利用されていない。

 現在は網膜、虹彩、静脈パターン、そして顔を主とした様々な認証技術が組み合わされた「複合型個人認証システム」として進化しており、なりすましを完全に防ぐだけでなく一卵性双生児をも確実に個別に認識できるようになっている(このシステムの運用開始以来、精度は99.9%を示している)。

 また時間の経過によって変化する掌形や顔の鋳型は毎日の認証時に自動的に集約・更新されていくため、定期的な更新は必要とされていない。
 その脅威の認識率と便利さから当初は行政サービスや銀行ATM、様々な建物の入館システムなどに採用されていたが、次第にスマートフォンやパソコンなどの個人端末の利用認証にまで及んでいった。
 現在は個人の体がありとあらゆるサービスに直結する「鍵」として働き、自宅の玄関や自転車の鍵すら持ち歩く必要がなくなった。本来の物理的な鍵はもはや珍しいものとなっていた。


 圭太の持つスマートフォンも、個人情報を集約し様々な決済機能を持つモバイル端末であるために、本人以外が操作出来ないよう二重認証でロックがかけてある。
 一つ目は端末自体にログインするためのインカメラによる顔認証と、もう一つは決済を行う際に静脈認証だ。
 今この一つ目すら解除できないという現実が、彼の感情を奈落の底へと叩き落としていた。
 先ほどまで頭にあった遅刻という言葉は一瞬で消え、もはや彼にはどうでもよくなっていた。

 この時圭太の頭を占めていたのは、自分が何らかの事件に巻き込まれた可能性がある、という憶測だった。母が好んで観ている刑事ドラマでは、よくこの状況に陥っている主人公がいた。地位のあるものが主人公の認証データを意図的に消去および変更することで社会から孤立させ、徐々に追い込んでいくフィクションが流行っていた。
 また、データが盗まれ書き換えられて、別の誰かに自分を乗っ取られてしまうというものもあった。まさに今自分がその状況に陥っていたが、上記はあくまでフィクションである。彼はもちろんそのことを知っていたし、そして自分が平凡以下の社会人であり、また有象無象のうちの一人であることもわかっていた。さらに、「田中圭太」を乗っ取ったところで、何の利益も得られないこともよく知っていた。強いて言えば貯金五十四万円と彼が無課金で育てたスマホゲームのデータくらいであろうか。絶対に割りに合わない、圭太はそう確信していた。
 にも関わらず、彼は怖くてたまらなかった。この「複合型個人認証システム」がエラーを起こした事や、不具合の事実など聞いた事もなく、ましてや不正に突破され、書き換えられた事件など発生したことはないと断言できた。
 圭太は自分を落ち着けようと、何とか他のあり得る理由を必死で考えた。例えば、物理的なシステム障害が起こり、鋳型にアクセス出来なくなった、という可能性である。しかし、自身のデータが保存されているサーバーに問題が生じたならば、自分だけであるはずは無いのだ。数多くの人々が同じような孤立状態に陥ることになり、街中で混乱が起きるはずである。
 しかし、周囲の人間は平然として全く普段と変わらなかった。一人一人がそれぞれの目的を持ち、ビジネス街を行き交っていた。圭太だけがこの街で完全に孤立していた。
 時計は八時五十六分を指している。
 彼は額に汗を浮かべながらも、湿度を含んだ空気の不愉快さなど気にかけず、急いで近くの交番を目指した。

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