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ハインラインの行方

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(青春小説)


「あれ……?―舞衣!俺ここにあったハインライン貸したっけ?」

 天井まで届く木製の本棚の前で、俺はしゃがみながら叫んだ。
 確か、ここにあったはずのに。
 下段のとくに下の段は、海外小説コーナーにしている。
 ガルシア=マルケスもヘミングウェイもあるのに、ハインラインだけは少しも見当たらない。

「あたしがそのなんちゃらライン読むと思うー?」

 キッチンで野菜をカットする舞衣の声が響いた。ワンルームだから、彼女のまな板のリズムまでも聞こえてしまう。

「いや思わないけどさ、読もうと思ったらなかったから」

 一年前から付き合っている舞衣は、広告デザイナーだ。
 だから文字よりも画を愛する人間で、一緒に映画を見ることはあっても、本について語ることは今までなかった。

「他に思い当たる人いないの?」

「うーん、田原さんに貸すことはあるけど、あの本は絶対ないんだよなあ」

 自分を担当する田原さんは、少し前まで文具の営業をしていたらしい。
 編集の仕事ははじめてということで、その遅れを補うように西洋ファンタジーの知識を日々求めている。
 だから時々資料を貸すことはあったけれど、SF小説は必要としていなかったはず。

「珍しい本なの?よく言ってる絶版とかの?」

「いや、別に普通に売ってるよ」

「なら新しく買えばいいんじゃない?」

 舞衣は切った野菜を鍋にざばざばと入れて、火をつけた。

「まあそうなんだけどさ……今夜は何?」

「ポトフ。最近食べてないじゃん」

 そう言うと、彼女は手を洗って部屋へと戻り、テレビ脇の画集を適当に漁り始めた。
 うちにあるこういう資料を眺めるとインスピレーションが湧くらしく、舞衣は家に来る度こうして何か適当に読む。

 俺も引き続き探す手を止めなかった。
 確かに舞衣の言う通り、買ってしまえば話は早い。
 誰かに返さないといけないものでもないし、贈り物でもらった特別なものでもない。自分で買ったまるで普通の本だ。
 けれどあの「本」でなければだめなのだ。
 あれがいまの自分を形作る大切なものだったから。


 ※※※※


 俺がハインラインという作家を知ったのは高校生の時だった。

 当時、いっぱしの野球部だった俺は本というものに全く興味がなかった。
 今思えば、当時の自分の興味はすべて野球に向かっていて、それ以外のものなんてまったく視界に入らなかった。

 だから、部活が終わっていざ受験となった高校三年生の春。
 すっからかんになっていた俺の心に入り込んできたのがハインラインであり、それを読んでいた天沢律あまさわりつだった。

 天沢はとにかく成績優秀で、常に学年一位の有名な女子だった。
 だから俺はとなりの席になるまで、彼女はいつどんなときも勉強していると思い込んでいた。
 実際そんなことはなかったのだけれど。

 当時俺は進路調査票をもらうたび、未来への不安を窓の外の青空に向けていた。
 そのたび視界に入るのは彼女で、手元には必ず本があった。
 休み時間はもちろん授業中も教科書で隠して読むという徹底ぶりだった。だから「まさか天沢が」と俺は驚いたものだった。

 そんな彼女が、本を読んでいる時にふと微笑んだことがあった。

 彼女はだれかとつるむタイプではなかったし、いつもひとりだった。
 だからあんなに―自然に芽吹くように笑った彼女を見たのは、多分隣の俺くらいだったはず。

 だから、彼女がいない時にこっそり引き出しの中を見たのも、すぐに本屋に駆け込んで店員に声をかけてあの本を手に入れたのも。
 その全てが衝動的に行われたことで。

 そのあと正気に戻った俺がまじめに本を読み始めたのは、あくまで暇を持て余していたのであって、彼女に気があったからではなかったと断言できる。


 実際にハインラインの本は面白かった。
 あれがほかの難解なSF小説であったとしたら、俺はすぐに放り出していたに違いない。

 当時の俺は主人公の劇中の努力と自分の部活動を重ねて、しっかり感情移入していた。
 だから野球でぽっかり空いた穴はハインラインですっかりふさがれて、おそらく頭の中もロマンチックで侵食されていたのだろう。
 その後自分から天沢律に声をかけにいったのは、多分そういうことだったのだ。


 それはとある昼休みの事だった。
 ハインラインを読み終わったあと俺は、ずっと彼女に声をかけるタイミングを見計らっていた。
 しかしそれを野球仲間に弄られるのが嫌で、いつ声をかけるか悩んでいた頃だった。

 その日は購買部に近所で人気のパン屋がやってくる日で、授業終了のチャイムと同時に一斉に人がいなくなることがわかっていた。
 だから俺は友達に声をかけられる前からずっと寝たフリをして、その時を静かに待っていたのだ。
 4限終了の挨拶と同時にみんな一斉に出ていって、想像通り、教室に残されたのは4、5人だけになった。
 ここだ、と判断した俺はゆっくりと起き上がって目が覚めた振りをする。
 そしてちらりと視界の端に彼女を捉えると、案の定いつもと同じように本を読んでいた。
 だから俺はきわめて慎重に、イメトレしていた会話を言葉にしたのだった。

「天沢は、パン買いに行かないの?」

 すると彼女は顔を本に向けたままで返答した。

「うん。あまり栄養ないから好んで食べないの」

 俺はてっきり「本を読んでいる方が好きなの」くらいの言葉が返ってくると想像していたので、内心焦った。

「そっか。さすが天沢。……そういえばよく本読んでるけど、どういうの読むの?」

「ジャンルはSF、かな。佐々木くん野球部だし、絶対興味ないでしょ」

 彼女の声のトーンも視線も何一つ変わらなかった。
 そんな様子と限られた時間という状況もあって、焦った俺はついうっかり火の玉ストレートを放ってしまった。

「俺も、ハインラインの「夏への扉」読んだことあるよ」

 そう言った瞬間、彼女の瞳が俺を捕えたのだから、それ以来ハインラインは俺の神様になった。

「意外。佐々木くん本読めるんだね」

「結構馬鹿にするじゃん。あれくらいだったら全然読めるって」

 カーテンの隙間から差し込む真昼の光が、彼女の笑顔をより一層輝かせていたのだろうか。
 目の前で話す天沢は、記憶よりもずっと柔らかく見えた。

「……で、どうだった?」

 待っていた言葉は期待するような声色だったので、俺は自分の感想を正直に語った。
 どんなに主人公がかっこよかったか。
 どんな仕打ちにも諦めず自分に勝ち、知らない場所に放り込まれようがその場所でひとり挫けないあの姿。
 そうして全てを語ったつもりだったので、言い終わった後の俺はすっかり隙だらけだったのだろう。
 次に彼女から放たれた言葉を俺はいまでも覚えている。

「そっか。それは相容れないなあ」

 隙を刺すような鋭い言葉と、それと相反する太陽のような笑顔だった。
 それをみた俺の心は途端に混乱し、多分あの一瞬の心臓の締めつけを、俺は恋に落ちたと勘違いしたのだろう。

 そうして天沢に劇薬を注がれた俺は、以来あの甘美な記憶を忘れられずにいる。
 いまも作家としてあれ以上心乱す情景を書こうと躍起になるありさまだ。


 ※※※※


「あ!あった」

 俺はようやくあの本を発見した。それは本棚と壁の狭い隙間で埃かぶっていた。

「よかったじゃん。それ、恋人からもらった本なんでしょ」

 舞衣はそうニヤニヤしてこちらを見つめている。

「違うって。高校の同級生に教えてもらっただけだって」

「ふーん……難しそうなの読むんだね。その子いまどうしてるの?」

「工学系の大学に行って、いまはアメリカの研究所にいるらしい」

「えー、意外。文系じゃないんだね」

 そうさらりと言った舞衣と俺は、おそらく相容れているのだ。
 
「―そりゃあ、ハインラインだしね」

 呟くように言った言葉を彼女は少しも聞かずに部屋を出る。おそらくポトフの具合を確認しにいったのだろう。

 俺は特別なハインラインを執筆机の隅に置いた。
 埃被ったその本は、昔とあまり変わらない姿でここにある。
 それを見る俺の視線はずいぶん変わっていて、いまならあのとき彼女がああ言った理由がよくわかる。
 サイエンスフィクションとして楽しんでいた彼女と、ストーリーを楽しんでいた自分。
 そりゃあ相容れないに決まってる。

 くすりと小さく息が漏れる。
 ―あとで軽く拭いてからしまおう。
 俺は本と共に埃まみれになった手を動かさないようにしながら、その部屋を後にした。


(終)


追記

ハインライン「夏への扉」
面白いのでぜひ!
個人的に小尾芙佐訳が好みです。
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