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春の珈琲は甘く

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 街一番の大きな駅は、土日となるとたくさんの人でごった返す。
 新幹線から降りてきた人や駅ビルで買い物を楽しもうとする人たちの姿でいっぱいだ。いまはランチを楽しもうとレストラン階へ向かうカップルやファミリー、友人同士の姿が目立つ。
 みな誰かと楽しそうに歩いている中で、わたしだけがその真逆だった。押し寄せる人の波にひとり立ち向かうように駅を出ると、迫るように乱立するビル街のなかを急ぎ足で抜けて行く。
 再開発が進み、真新しいビルやお洒落なテナントが立ち並ぶ大通りは、わたしの目にはなぜだか眩しく見えた。それに追い立てられるように脇の小路へ入ると、周囲は一変してせいぜい二階建ての古い建物ばかりになる。アーケードのように長く続く軒下を歩きながら、わたしはなんて静かで心地いいんだろうと思った。

 一生をともにしようと考えていた人に別れを告げられたのは、ほんの一時間も前のこと。
 拓真とは、上京した大学の研究室で出会った。同じ学年だから顔は知っていて、切れ長の一重と日本人離れしたすっとした鼻筋は、彼を大人っぽく冷静に見せていた。
 本人はその印象通りの人で、落ち着いていてあまり多くを語りたがらなかった。同い年の男子が口を開けば飲みという中で、彼はときおり自分に課せられたもの呟くように言った。
「東京にいる間にいろいろとやっておかないと」
 そのあとで聞けば、彼は卒業したあとに地元へ戻り家業を継ぐのだそうだ。
 これを聞いたときわたしはなんて大人なのだろうと感心した。その頃、ちょうど口うるさい親たちと対立していたので、置かれた状況を受け入れている彼は、すごく大人に見えた。
 おおらかな言動と遠い未来に向けられたその視線に、惹かれない理由がなかった。田舎に戻りたくなくて、どうにか手に職をと資格取得に励んでいたわたしと彼が意気投合したのは必然だった。
 だからわたしは信じたのに。まるで運命のように出会い、流れるように彼の地元に就職先を見つけ、今の今まで充実した生活を送っていたのに。
 あのときはこんなに簡単に終わるなんて思ってもいなかった。

「ありさって一人でも生きていけそうだよな」
 昔、拓真にぽつりと言われたことがある。それは言った本人も覚えていないような、ほんの些細な話の流れだった。
 けれどわたしの中にはいまのいままでずっとどこかにあった。だって将来のために必死で頑張っている努力や自分の生き方を、否定するような言い方だったから。
 そんな刺さったままの小さな棘を深く私の心に埋め込んだのは拓真本人だった。
 始まりはちょうど二ヶ月くらい前。あの頃にはもうささいなやり取りの数が減っていて、彼からの約束もわたしの手帳に書かれていなかった。だからこちらから食事や映画のお誘いをしていたけれど、そのたび帰ってくるのは断りと例の一文だった。ありさなら、一人でも大丈夫でしょって。
 それが返ってくるたび傷は深くなり、いよいよ爆発するかも、というところで今日呼び出された。

 もちろんわたしはうすうす気づいていた。今日の話の内容も―彼が浮気をしているということも。
 結論、あのひとは自分を必要とする誰かのために生きる人間なのだ。それは例えば彼にしかできない跡継ぎという役割を与えた親の存在であり、心の底から彼を必要としている「誰か」なのだ。
 わたしは彼がいなければ生きていけないなんて思ったこともないし、貴方にしかできないなんて言ってあげたこともない。だから彼はわたしのためには生きてくれないのだ。
 あの頃歩いていた道は確かに同じで、わたしたちは同じ方向を見ていた。ただ、それだけだった。
 彼の視線はわたしと同じ未来には向けられておらず、わたしはずっとそれに気づかないふりをしていたのかもしれない。

 もうこの街にいる理由がない。そう思ったところでどうすることもできなかった。今の仕事は充実しているし気に入っている。それにせっかく馴染んだこの街を離れるのも、何よりお金を払って引越しするのも癪だった。
(疲れた……)
 そう思いながらT字路のつきあたりに出ると、そこは開けていて目の前には水路のような小さな川があった。
 ちょろちょろと流れているだけのその流れの両脇には遊歩道が整備されていて、川と言うよりは公園がメインなのだろう。川辺にはベンチや屋根のついた休憩所があって、桜も小ぶりだがきちんと並木を作っている。その淡い桃色の下で写真を撮ったり、座って楽しむ人の姿がある。
(―いいなあ)
 そう思ったけれど、本当に思っただけで終わるなんて。足はどうも重たくて動かないのでわたしはそのまま道の端を歩く。
 ここからでも桜並木は見える。そう、いまのわたしにはこの位の距離でないと、彼らの眩しさに目がくらんでしまう。
(―ただでさえ未来がよくわからないのに)
 わたしは苦笑しながらとぼとぼと道端を歩く。普段大通りを通っているから気づかなかったけれど、このまま道なりに進めば自宅へたどり着くだろう。
 いいショートカットを見つけたなあ、なんて思っていると、視線の先に小さなのぼりが揺れているのが見える。
 なんだろう、そうして近づきよく見ると、白い旗地には珈琲と大きく書かれていて、川に向かうように立つ小さな黒い箱のような建物の前で風にはためいていた。
 周囲の昭和の町並みからは浮いている近代的な様子に、わたしは不意に記憶に探りを入れる。
(―このお店……確か……)
 引っ越したばかりの頃、ふと買ってみたタウン誌に載っていたお店ではないだろうか。彼と一緒に行こうねと言っていた、小さなコーヒーの専門店。
 わたしの足は開かれたままの入口へと吸い込まれていく。今思えば何故だろうかわからなかったけれど、多分そこが暗くて狭くて、今の自分にぴったりだったからなのだろう。

 店内に入ると、まず左側に置かれた長いベンチが目に入る。その反対の壁は作り付けの棚が置いてあり、コーヒーグッズがディスプレイのように並んでいる。その奥にはコーヒーカウンターがあり、狭い床には青々とした観葉植物が置かれわたしを出迎える。
 ―なんだかお洒落で今どきのお店だ。そう思うも他にお客さんの姿が見当たらなかったので、わたしは静かで薄暗いそこを進み奥のカウンターへと向かう。
「いらっしゃいませ」
 こちらに気づいてそう声をかけたのは、くたびれているものの定年にはまだ早い男性だった。白髪混じりのくせ毛を後ろに撫でつけてひとつにくくり、その顎には一応整えてはいるであろうひげをたくわえている。
「あの、コーヒーを」
 そう言いながら近寄ると、店員さんはカウンターに伏せられていたメニューを手に取りこちらに見せた。
 そこには産地の名前だろうか、国の名前とコーヒーの特徴がずらずらと並んでいて、見慣れぬ様子にわたしは呆気に取られる。するとそれに気づいたように店員さんは優しく言った。
「うちはコーヒーしかないんですけど、アイスかホット決めてもらえればおすすめをご用意できますよ」
「アイスの…………その……一番苦いのを」
 いまの自分をすっきり洗い流してくれる、力のある一杯。そんなコーヒーが欲しかったのに、店員さんは申し訳なさそうな顔をして言う。
「うちの店は浅煎りしか置いてないから、その要望にはちょっと応えられないかもしれません」
 ―え。これだけ専門的なことが書いてあるのに?
 すると店員さんはわたしの考えを読んだように、はにかんで言った。
「……でも、今日にぴったりのぱっとする一杯ご用意しますよ」
 目をぱちくりするわたしに彼はおかけになってお待ちくださいというと、ひとりがさごそと準備を始めた。
 わたしは入口近くに置かれたベンチに座わりながら急に心配になる。
(……このお店、大丈夫だろうか)
 コーヒー専門店なのにいい香りもしないし、ほかにお客さんがいた形跡がない。そもそもなぜ表の大通りではなくこんな裏通りにひっそりとお店を構えているのだろうか。
 そう疑問に思いながら、わたしはふと暖かな熱を感じこちらに降り注ぐ光の方を眺める。入口に面した大きな窓からは春に浮かれる人々の姿が見えた。
 なぜだろう。ガラス一枚挟んだだけなのに、さっきまで感じていた嫌な疎外感はなぜか小さくなっていて、まるで別世界の光景のようにわたしの目に写った。
 開いたままの入口からは柔らかな風が入りこみ、脇を優しく通りすぎていく。
 そういえば、さっき店員さんが言っていたぱっととはどういうことだろう。わたしがそう考え始めた途端、ぎゅいんと音がしてそちらを向くと、店員さんが豆を挽いている最中だった。わたしの視線などお構いなしに粉をフィルターへ移すと、丁寧にならしたあとでゆっくりとお湯を注いだ。それを見守る真剣な眼差しと姿にわたしが見入っていると、辺りは軽やかな甘い香りで満たされる。
「―お待たせしました」
 店員さんの声に急いで立ち上がると、カウンターには透明なカップに入れられたアイスコーヒーのようなものがある。ただ、それはまるでビールのように泡と二層になっていて、見たこともない姿にわたしは戸惑って店員さんの顔を見上げる。
 その表情はどこか満足気な笑みを浮かべていて、手はどうぞと言わんばかりにコーヒーを指していたのでそれをゆっくりと手に取りひとくちすする。
 これは、コーヒーなのだろうか。そう疑問に思ってしまうほどまろやかで、軽く、すっきりとした飲み物だった。
 初めての感覚にわたしは夢中になってもういちど口に含み、甘さを楽しんだ後で飲み込んで立ち上る香りを楽しんだ。
「どう?ぱっとしたでしょ?」
 その言葉にわたしは頷きそして気づく。
 たった一杯のアイスコーヒーはまるで春の風のように唐突に、優しく、わたしの悩みをかすめとったようだ。ぼんやりと曇っていた感覚が研ぎ澄まされたように、店の入口から覗く外は明るくわたしを待っているように見えた。

「ご来店ありがとうございました。―ああ、川縁の桜が綺麗ですね」
 退店するわたしを見送りながら、店員さんは呟くように言った。その一瞬を見計らってわたしの口は思わず開く。
「あのっ」
「はい」
「―また来ます」
 言ったわたし自身にとってもよくわからない宣言だったけれど、店員さんは優しくはにかんでから嬉しそうにこう言った。
「お待ちしてます」

 わたしはよく冷えた、ビールのような見た目のコーヒーをすすりながら川べりを歩く。口にひろがるまろやかな甘みを感じるたび、心はどんどん軽くなる。
 もう、この街から出ていく選択肢はわたしの中にはなかった。
 あの人のことは関係ないのだ。いまの仕事が気に入っているし、この街が好きだからこれからもここにいる。
 柔らかな春の日差しが降り注ぐ桜並木の下。
 わたしは足取り軽やかに、リズムを刻むように家へと続く道を歩いた。
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