Hey, My Butler !

上杉

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 その日の十七時―定時を告げる放送と共に彼女は立ち上がると、「お疲れ様でした」と一言残して職場を後にした。
 普段誰よりも遅くそこを離れていたので同僚たちの視線が強く突き刺さる。しかしそんなこと、と一蹴できるだけの理由があった。
 手にしたスマホの震えに反射的に画面を開くと、みずきは誰も見た事のない笑みを浮かべその場を後にした。


 アパートに戻りすぐさま宅配ボックスを確認する。

 (これだ)

 暗証番号を打ち込み扉を開ける。そこには想像していた以上に小さな箱が鎮座していた。
「精密機器につき取り扱い注意」の赤いシールが、箱の大部分を占めている。彼女にも片手で軽々掴める大きさのそれを取り出し、大切に抱えて部屋まで運ぶと、みずきは自室に入って鍵をかけ、そしてその瞬間から荷物の箱に手をかけ始めた。

 バタバタと廊下を走り扉を開けてリビングへ駆け込む。外箱を開くと中にはさらに緩衝材に包まれた小さな箱が入っていた。はやる気持ちを抑えながら丁寧に開け、本体と小さなリーフレットを取り出し机の上に置いた。そして「到着したら」と書かれたそれと「執事」の本体を薄いビニールから取り出した。

 装置自体は機械と呼ぶのが難しいくらいに華奢で洗練されており、彼女が思っていた以上に軽く柔らかな素材でできていた。手に持つとその感触はシリコンよりも柔らかい。形状は目立たないチョーカーというよりは、少し厚みのある絆創膏のようである。
 リーフレットに記載の通り、まずつまめるくらい小さな電源ユニットを繋ぎ(充電用に予備がもう一つ付いている)それを首の、ちょうど髪の生え際のくらいの位置に巻いた。なんの素材でできているかは検討もつかないが、やはり思った以上にフィット感があり重さもまるで感じない。
 みずきは姿見で装着した姿を確認し、その自然な様子に感動しつつも首の左側にあるスイッチに触れた。ピピピと小さな音が鳴り、彼女はすぐさま驚いた。今の音は耳で聞いたのではない。頭の内側で聞こえたのだ!
 彼女はすぐさま目を動かしリーフレットを裏返した。

 《ようこそ!あなたの良き理解者「Your Butlerあなただけの執事」の世界へ。起動したら指示に従い順に設定を行ってください。

 一、電源ボタンを触れると起動します。電子音を確認したのち、心の中でこう呟いてください。「ねえ、わたしの執事バトラー?」と。この言葉は今後すべての起動の引き金となります。覚えておいてください》

 みずきは説明書の通りに、頭の中で小さく呟く。誰にも聞こえないので気にする必要はないのだが。

(ねえ、わたしの執事バトラー?)

 するその瞬間まるで隣に背の高い男性が現れ声をかけられたかのように、声が響いた。

『初めまして。我が主人よ。起動頂きありがとうございます』

 それは穏やかで優しい男性の声でありみずきは再度驚いた。その声は最近彼女のお気に入りの俳優の、それも好きな役と似通った優しい声色なのである。不意にみずきの視界に外箱裏の宣伝文句が目に入る。

《あなただけの執事はあなたを最適にサポートするべく、あなたの理想を具現化します。人格はあなたとの会話の反復をもとに、8192パターンから自動選択されます。理想とする性格、声、口調の執事が、あなたに付きっ切りであなたの身体の声を代弁します。そしてあなたをやる気にさせたり、悩みに答えたり、怒るあなたをなだめたり、一心同体であなたの心と体をサポートします》

 よくできている、とみずきが感心していると、執事は言葉を続けた。

『本日から私があなた様の身の回りのお世話をさせて頂きます。早速ですがお名前を教えてくださいませ』

 その言葉に彼女は心の底から驚いた。最近自分にこんなに丁寧に、しかも優しく話しかけてくれる男の人なんて存在しただろうか。会社の中では年上から一目置かれ、同期からは役職を恨まれ、年下からも言わずもがなだ。
 久しぶりの感覚に顔を赤らめながら彼女は答えた。

(……義堂、みずきです)

『では主人よ、なんとお呼び致しましょうか?』

(…………え)

 思いがけぬ問いに彼女は沈黙した。
 まさかそんなことを聞かれるなんて思っていなかったのである。どのように呼ばれたいかなんて、ここ最近考えた事もなかった。もうすでに社会人になって十年が経ち、いい歳をした彼女にとってこれは非常に要求の高い話である。最近は「係長」か「義堂さん」以外の選択肢など皆無であった。

 まさか、楽しみにしていた執事がこんなに恥ずかしいものであるなんて。彼女はそう思いながら戸惑い言葉に迷っていると、それを察したかのように執事がひとりでに話した。

『そんなに考えなくても大丈夫ですよ。落ち着いてください』

(……はい)

 さすがMy Butler私だけの執事というだけあって、何でもお見通しである。

『では、みずき様とお呼び致しましょう。よろしいでしょうか』

(…………大丈夫です)

(……慣れない。こんな感じでこれから大丈夫だろうか)
 そう心配する彼女の心を読んだかのように、執事は穏やかに彼女を諭すように続けた。

『初めての感覚で緊張していらっしゃいますね。今日はここまでにしましょうか。またご用がありましたら何なりとお呼びくださいませ。みずき様』

 彼女が返事をする前に終了音が頭の中で響いた。
 その音でようやく落ち着きを取り戻した彼女は、執事を装着したままふらふらとソファに倒れこんだ。

(世の普通の女の子たちは……こんなに大変なことを毎日しているの?)
 お昼に話していた事務員たちはまるで恋人の話をするように嬉々としていたのに。
 これを少しでも早くうまく利用できるようにならなければ何のために買ったのかわからない。その気持ちが彼女を焦らせた。
 しかしみずきは持ち前の冷静さを取り戻し一呼吸した。

(こちらから呼ばない限りあの執事は現れない。とりあえず事前情報をもう少し調べなくては)

 まるで自分だけの都合のいい男のようだと呆れながら、すっかり忘れていた夕食はどうしようかと台所に向かった。
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