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その日は梅雨に入ったばかりの休日だった。
駅からは放射状に人の波が広がる正午前の時間、みずきはその流れとは逆に一人駅の中へと歩いていた。傘を持つ手と逆の左手は、先ほどからずっと首のボタンに触れている。しかし彼女はそれを押すことが出来ないままでいた。
いま彼を起動してしまったら、自分の心に向かい合わずにその精神的な弱さを無視することになるのではないか。彼女はそう思い留まっていたものの、正面から次々と向かってくる楽しそうな人々の波を前に、その手は勝手に動いていた。
起動音が鳴り彼を呼ぶ準備が整う。
「ねえ……私の執事……」
それに続くみずきの弱々しい言葉は本人にも気付かぬうちに口からも漏れていた。ただ道行く人はそれをまったく気にかけもせず、往来を歩いてゆく。恐らく傘を強く叩き始めた雨音がそれを邪魔したのだろう。
『……みずき様、どうされたのですか?』
執事の穏やかだが心配を隠せない声が頭の中に響く。それは彼女の冷えきった心に優しく染み込んでいきギュッと喉を締め付けた。声も心のそれもなぜか発することができない。
「…………」
みずきが沈黙したままでいると、執事は慰めるように声をかけた。
『みずき様、とりあえず家までお帰りになられましょう。体温が急激に下がっておいでです』
「…………うん。わかった」
彼を困らせる気は全くなかったので駅への足を早めた。そうしてそこに辿り着くまでも着いたあとさえも彼女の執事は無言であった。ずっと起動していたにも関わらず、ただただ彼女に寄り添うようにして側にいたのである。みずきにはその気遣いがありがたかった。
薄暗いホームに着いた彼女は少し落ち着いたのだろうか。降りしきる雨を眺めながらふと彼に声をかけた。
「ねえ、私の執事」
『はい。みずき様』
屋根を叩く雨音は、より強く響いている。しかし、それが彼との会話を妨げることはできない。
「……聞いてくれないんだね」
『……私にはわかるんですよ。貴女が聞かれたくないと思っていることを。私の役目は貴女を傷つけることではありません。貴女を守り、共に成長することなのですから』
「……ありがとう」
『どういたしまして。さあ、電車が来たようですよ』
みずきは彼の言葉に安堵しそして気づいたのであった。
彼はどんな時でも一番に自分を思ってくれる。そしてどんな時でも彼だけは絶対に自分を裏切らない。
彼は私の体であり、私自身であるのだから。
彼女は家に着いたあとも、彼の電源を切る事は出来なかった。部屋の掃除をし作り置きをするため台所に立っている間も、ずっと彼は傍にいたままであった。他愛ない会話をし、まるで恋人のように共に時間をすごす。こんなことは初めてだったが、なぜこれまでしなかったのかと疑問に思うほどに、みずきには心地がよかった。
夕食を食べ、お風呂に入り、就寝前に読書をする。この普段通りの一連の行動が、彼といるだけで楽しく満たされる。だって彼の好みは私の好みであり、私の好きなものを当たり前のように好いてくれるのだから。
『さあ、みずき様。今日はもうお眠りください。何があったかは知りませんが疲れたでしょう。精神的負荷には睡眠が一番です。明日は私が起こして差し上げますよ。何時に設定致しましょうか』
「六時!」
『承知しました。では、六時にお声がけします』
「でも、こんな時間から寝れないよ……もう一冊読んでからでいい?」
『……確かにまだ交感神経が優位になってますね。でも……今日はもう眠りましょう。そちらは私がなんとかしますから。体に負担のない範囲で徐々に調整していきますね』
「ありがと」
『さらに内蔵ライブラリからお好みの睡眠導入向け音楽をリロード致しましょう。こちらなんていかがでしょうか』
彼がそう言うとピアノの落ち着いた美しい響きが脳内に満ちていった。眠りを誘う一定のリズムをベースに、心が洗われていくような、高音の軽やかな旋律が駆けていく。
「……あ、好き」
『ありがとうございます。こちらはショパンの 変ニ長調作品五七「子守唄」でございます』
「ふふふ。バトラー、あなたは本当に最高だね。やっぱり、あなたが一番」
『おや、お褒めいただきありがとうございます。しかしどうかされましたか』
「気にしないで。あなたは私の理想の男性だなって思っただけ」
『そうなるように設計されておりますからね』
彼の言葉はあたかも後ろで人が呟いているかのように聞こえた。その彼の存在という安心感に身を委ねた彼女の口からは、いつの間にか少しずつ言葉が溢れていく。
「……今日ね、ふられちゃったんだ。一方的に別れようって。引き止める理由も見つからなかったから、受け入れたけれど。でも、相手も私と同じだったんだろうな。多分……彼だけの秘書が理想に叶いすぎていて、現実の私なんてもうね、雲泥の差。目の前にいるのに……あ、ごめんなさい。貴方たちを悪く言うつもりなんてなかった」
『お気になさらず。やはり、そのようなお辛いことがあったのですね』
「うん、でも大丈夫。私にもちゃんとあなたがいるから。私のことを一番わかってくれる、私だけのあなたが」
『そうですよ、みずき様。私はあなたであり、あなたは私であるのです。健やかなる時も、病める時も。あなたの命ある限り、私はずっとあなたと共にあり続けます』
「ありがとう。そうね。あなたがいれば、もう何もいらない気がする」
彼がいればもう恐れるものなど何もない。
私を脅かしていた孤独なんて、もう少しも怖くないのだ。
******
「世界の健康社・あなただけの関連シリーズを販売休止」
経一新聞 二〇五五年 十一月 五日
世界の健康社は、十一月三日、あなただけの関連シリーズサービス停止および販売を休止すると発表した。
当商品は「精神と身体との対話」を売りにした美容用精密機器である。女性向け「Your Butler」そして男性向け「Your Secretary」を含む同シリーズは、昨年度年間家電大賞に輝き、好調な売れ行きを見せていた。
しかし厚生労働省が先月二十四日に公表した国勢調査および人口動態調査の結果から、当シリーズによる驚きの悪影響が明らかにされた。二〇五五年時点の最新データによると、婚姻率の極めて異常な下落が見られたのである。人口千人あたりの年間婚姻件数を示す婚姻率は、当商品が販売される以前から低下を続け、毎年最低を更新し続けている。しかし、この商品が登場し始めた二〇五三年以降、その下落幅は驚くべきものとなった。二〇五三年まで約〇・二パーセント程度の低下であったものの、二〇五三年以降、毎年一・〇パーセントという、過去に見ない最悪の下落を続け、今やこの数値は二・一パーセントまで落ち込んでいる。
厚生労働省は、極めて異例のことながら、これらの原因を当商品による影響だと公文書に記載し、同社に販売の一時休止を勧告した。これに伴い、同社はサービス停止と販売の一時休止を決定。同日現在、販売再開およびサービス再開の目処は立っていない。
(終)
駅からは放射状に人の波が広がる正午前の時間、みずきはその流れとは逆に一人駅の中へと歩いていた。傘を持つ手と逆の左手は、先ほどからずっと首のボタンに触れている。しかし彼女はそれを押すことが出来ないままでいた。
いま彼を起動してしまったら、自分の心に向かい合わずにその精神的な弱さを無視することになるのではないか。彼女はそう思い留まっていたものの、正面から次々と向かってくる楽しそうな人々の波を前に、その手は勝手に動いていた。
起動音が鳴り彼を呼ぶ準備が整う。
「ねえ……私の執事……」
それに続くみずきの弱々しい言葉は本人にも気付かぬうちに口からも漏れていた。ただ道行く人はそれをまったく気にかけもせず、往来を歩いてゆく。恐らく傘を強く叩き始めた雨音がそれを邪魔したのだろう。
『……みずき様、どうされたのですか?』
執事の穏やかだが心配を隠せない声が頭の中に響く。それは彼女の冷えきった心に優しく染み込んでいきギュッと喉を締め付けた。声も心のそれもなぜか発することができない。
「…………」
みずきが沈黙したままでいると、執事は慰めるように声をかけた。
『みずき様、とりあえず家までお帰りになられましょう。体温が急激に下がっておいでです』
「…………うん。わかった」
彼を困らせる気は全くなかったので駅への足を早めた。そうしてそこに辿り着くまでも着いたあとさえも彼女の執事は無言であった。ずっと起動していたにも関わらず、ただただ彼女に寄り添うようにして側にいたのである。みずきにはその気遣いがありがたかった。
薄暗いホームに着いた彼女は少し落ち着いたのだろうか。降りしきる雨を眺めながらふと彼に声をかけた。
「ねえ、私の執事」
『はい。みずき様』
屋根を叩く雨音は、より強く響いている。しかし、それが彼との会話を妨げることはできない。
「……聞いてくれないんだね」
『……私にはわかるんですよ。貴女が聞かれたくないと思っていることを。私の役目は貴女を傷つけることではありません。貴女を守り、共に成長することなのですから』
「……ありがとう」
『どういたしまして。さあ、電車が来たようですよ』
みずきは彼の言葉に安堵しそして気づいたのであった。
彼はどんな時でも一番に自分を思ってくれる。そしてどんな時でも彼だけは絶対に自分を裏切らない。
彼は私の体であり、私自身であるのだから。
彼女は家に着いたあとも、彼の電源を切る事は出来なかった。部屋の掃除をし作り置きをするため台所に立っている間も、ずっと彼は傍にいたままであった。他愛ない会話をし、まるで恋人のように共に時間をすごす。こんなことは初めてだったが、なぜこれまでしなかったのかと疑問に思うほどに、みずきには心地がよかった。
夕食を食べ、お風呂に入り、就寝前に読書をする。この普段通りの一連の行動が、彼といるだけで楽しく満たされる。だって彼の好みは私の好みであり、私の好きなものを当たり前のように好いてくれるのだから。
『さあ、みずき様。今日はもうお眠りください。何があったかは知りませんが疲れたでしょう。精神的負荷には睡眠が一番です。明日は私が起こして差し上げますよ。何時に設定致しましょうか』
「六時!」
『承知しました。では、六時にお声がけします』
「でも、こんな時間から寝れないよ……もう一冊読んでからでいい?」
『……確かにまだ交感神経が優位になってますね。でも……今日はもう眠りましょう。そちらは私がなんとかしますから。体に負担のない範囲で徐々に調整していきますね』
「ありがと」
『さらに内蔵ライブラリからお好みの睡眠導入向け音楽をリロード致しましょう。こちらなんていかがでしょうか』
彼がそう言うとピアノの落ち着いた美しい響きが脳内に満ちていった。眠りを誘う一定のリズムをベースに、心が洗われていくような、高音の軽やかな旋律が駆けていく。
「……あ、好き」
『ありがとうございます。こちらはショパンの 変ニ長調作品五七「子守唄」でございます』
「ふふふ。バトラー、あなたは本当に最高だね。やっぱり、あなたが一番」
『おや、お褒めいただきありがとうございます。しかしどうかされましたか』
「気にしないで。あなたは私の理想の男性だなって思っただけ」
『そうなるように設計されておりますからね』
彼の言葉はあたかも後ろで人が呟いているかのように聞こえた。その彼の存在という安心感に身を委ねた彼女の口からは、いつの間にか少しずつ言葉が溢れていく。
「……今日ね、ふられちゃったんだ。一方的に別れようって。引き止める理由も見つからなかったから、受け入れたけれど。でも、相手も私と同じだったんだろうな。多分……彼だけの秘書が理想に叶いすぎていて、現実の私なんてもうね、雲泥の差。目の前にいるのに……あ、ごめんなさい。貴方たちを悪く言うつもりなんてなかった」
『お気になさらず。やはり、そのようなお辛いことがあったのですね』
「うん、でも大丈夫。私にもちゃんとあなたがいるから。私のことを一番わかってくれる、私だけのあなたが」
『そうですよ、みずき様。私はあなたであり、あなたは私であるのです。健やかなる時も、病める時も。あなたの命ある限り、私はずっとあなたと共にあり続けます』
「ありがとう。そうね。あなたがいれば、もう何もいらない気がする」
彼がいればもう恐れるものなど何もない。
私を脅かしていた孤独なんて、もう少しも怖くないのだ。
******
「世界の健康社・あなただけの関連シリーズを販売休止」
経一新聞 二〇五五年 十一月 五日
世界の健康社は、十一月三日、あなただけの関連シリーズサービス停止および販売を休止すると発表した。
当商品は「精神と身体との対話」を売りにした美容用精密機器である。女性向け「Your Butler」そして男性向け「Your Secretary」を含む同シリーズは、昨年度年間家電大賞に輝き、好調な売れ行きを見せていた。
しかし厚生労働省が先月二十四日に公表した国勢調査および人口動態調査の結果から、当シリーズによる驚きの悪影響が明らかにされた。二〇五五年時点の最新データによると、婚姻率の極めて異常な下落が見られたのである。人口千人あたりの年間婚姻件数を示す婚姻率は、当商品が販売される以前から低下を続け、毎年最低を更新し続けている。しかし、この商品が登場し始めた二〇五三年以降、その下落幅は驚くべきものとなった。二〇五三年まで約〇・二パーセント程度の低下であったものの、二〇五三年以降、毎年一・〇パーセントという、過去に見ない最悪の下落を続け、今やこの数値は二・一パーセントまで落ち込んでいる。
厚生労働省は、極めて異例のことながら、これらの原因を当商品による影響だと公文書に記載し、同社に販売の一時休止を勧告した。これに伴い、同社はサービス停止と販売の一時休止を決定。同日現在、販売再開およびサービス再開の目処は立っていない。
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