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1章 勾玉の導き
4 翡翠の勾玉
しおりを挟む「ばあちゃん!大丈夫なの?」
瑞生が寝台の脇に駆け寄ると、祖母――川窪濔千流はふわりと笑った。
「こうして会うのは久しぶりね、瑞生。ああ、なんて大きくなったの」
そう言って右手をこちらに伸ばそうとするので、それを抱きとめるように両手で包む。肉付きのいい手からは、ついさっきまでとは違う穏やかな温もりが感じられて、瑞生は安心する。
「ずっと、来られなくてごめん……」
「……いいのよ。ときどき顔を見せてくれていたじゃない」
確かに、母が年に数回出張で東京に行くたび祖母とはオンラインで顔を合わせていた。なので二十年ぶりに顔を見たという訳ではない。しかし、実際に会うのと画面越しに顔を合わせるのは、大違いだった。
悪夢が怖いと会いに来ることができなかった自分が情けなかった。
そんな瑞生をなぐさめるように、祖母は穏やかな表情で言う。
「ふふふ。瑞生、あなたに渡したいものがあるの」
「……え?」
「そこの袋の中を見てみて。涼子にね、取ってきて貰ったの」
祖母の視線は棚の上――母の持ってきたビニール袋に向けられていた。
瑞生がその中を覗くと、そのうちのひとつから袋にそぐわない桐の木箱が現れた。
「これは……」
そうして祖母の方を見ると微笑みながら頷くので、ゆっくりと取り出し慎重に箱を開けてみる。
中に入っていたのは、柔らかな臙脂の布に包まれた艷やかな石――勾玉だった。
雨のしずくのような紡錘形をしていて、その大きな玉の部分には、紐をとおすような穴がぽっかりと開いている。
石の表面はつるりと磨かれ、深い泉の底を思わせる綺麗な深緑色に、瑞生は思わず息を飲む。
「ふふふ。こうして見ると、あなたの目の色にそっくりね」
そう言われてみれば確かにそうだった。
瑞生の瞳は父方の祖父譲りの翠玉色であり、日本では極めて珍しい。
皆食い入るように瞳を見てきたのは、そういうことだったのだろう――瑞生はさっきナースステーションで感じた違和感にようやく納得した。
「ね。綺麗な翡翠の勾玉でしょう?ずっとあなたに渡したいと思っていたの。けれど機会がなかったし。あなたのお母さんから話は聞いていたけれど、確信がなかった」
そう言うと、なぜか祖母は真剣な面持ちでぼうっと宙を見始めた。
その様子は、つい先程まで見せていた朗らかな雰囲気から一変、これまで一度も見たことのない厳しい顔つきだった。
したたかさすら感じる表情に、瑞生は戸惑う。
――ばあちゃん、どうしたのだろう。
瑞生は長い間直接祖母に会っていなかったから、普段の祖母がどんな雰囲気なのかは知らなかった。
実は自分が知らないだけで普段からこのような厳しい表情もするのだろうか――そう瑞生が思っていると、祖母は続ける。
「――あなたが日本を好いていたのも関わらず、ここにずっと来られなかった理由。ああ……幼いあなたの言葉に、もっと耳を傾けてあげればよかった」
その後悔するような口調に俺は気づく。
――まさか、ばあちゃんは今あの悪夢のことを言っている?
なぜか日本でだけ自分を悩ませる地獄のような悪夢。それを見て泣き叫ぶ俺のことばを信じてくれたのは、確かにこの祖母だけだった。
「ばあちゃん、夢って……まさかあの夢のこと?」
俺は恐る恐る聞いてみた。
しかし祖母は反応を返さず、ぼんやりと宙を見たままだった。
そんな言葉が耳に届いていないような不思議な状況のなかで、祖母は不意に瑞生の方を見るとふっと顔を緩ませ口を開いた。
「大丈夫。これがあればもう大丈夫よ。これを持っていれば、あなたを悩ませる夢はもう訪れないわ」
その唐突なことばに、瑞生は手の石を眺めながら疑問に思う。
――どういうことだろう。あの夢とこの綺麗な石に関係があるだなんて。
箱の中の緑の石は、その内側に不思議な色合いを秘めているようにみえた。しかし、ただの石であることに何ら変わりはない。
「ばあちゃん、それどういうこと?」
思わず聞くも、いまだ視線は合わなかった。瑞生が不安に思うなか、祖母は宙をぼんやりと眺めたまま静かに続ける。
「……あとね、瑞生。もうひとつ、わたしからお願いがあるの。その石を持ってあの泉に行ってほしいのよ」
「泉……?」
そう言われ思い浮かんだのは、祖母と一緒に訪れたあの不思議な泉だった。
「一度、連れていったことがあったでしょう。あなたはあの泉で、水を得た魚のように泳いでいたわね」
その言葉に瑞生は納得した。
――あの場所は、やはり特別なところなのだ。
溶けるように肌と一体化したあの特別な感覚。
ほかの場所では感じたことのない、いまも不意に思い出してしまうあの泉ならば、確かに特別なことがあってもおかしくはない。
瑞生がそう思ったときだった。
「そこで……あなたをずっと待っているひとがいるわ。ずっと、ずっと。もう何年も昔から」
ずっと待っている。
そのことばに瑞生は違和感を覚えた。
――なんで自分を?
今まで一度しか日本を訪れていない自分を待っている人が、この人以外にいるのだろうか。
瑞生は言葉を理解するのに必死だった。
そのせいか、祖母の様子がおかしいことに気付くのが一瞬遅れてしまった。
「ばあちゃん……?」
祖母は小さくうめき声をあげてからだを縮こませはじめた。
「ばあちゃん!」
瑞生はその背を支えながら、手を取りベッドに寝かせる。握った手はもうすっかりひやりとしていたので、瑞生は背にぞわりとしたものを感じる。
不意に祖母を見れば、その表情は穏やかな微笑みに変わり、瑞生の知るいつもの優しい祖母のものに戻っていた。
そして、なんとか聞こえるくらいの小さな声で言う。
「最期に……あなたに会えてよかったわ」
「……ばあちゃん?」
突如、異常数値を示す音が鳴り響いた。
瑞生は無我夢中でベッド脇のボタンを押し、必死で声を掛ける。
「ばあちゃん!ばあちゃん!」
途端、大勢のナースが部屋に駆け込んできた。祖母を囲い、処置をはじめたその脇で、瑞生はひとり放心状態だった。
その頭の中で繰り返されていたのは、もちろん祖母の残した不思議な言葉。
『あなたをずっと待っているひとがいる』
手に翡翠の勾玉を握りしめながら、それを何度も反芻していた。
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