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しおりを挟むふむ。
佐藤は若干目立つようになった、自らの腹をひと撫でした。新たに運動でもはじめなければ、引っ込まなくなる。それでなくとも年齢的にもだいぶアウトだ。
この時期は甘味の持ち込みが多い。新人が心身共に疲弊するのと、ぐずつく天候によって体調を崩しドミノ式に精神的にも支障を来す人間が増える。
しかも季節柄的にも自身の食欲は減退方向。せっかくの頂き物を腐らせるのは心苦しい。近所のディスクに座る同僚におすそ分けしながら、視線を感じて顔を上げる。
「横山君もいかが?」
にっこりと微笑みながら、先日異動してきた人物にも声をかける。時季外れの人事に佐藤含め周囲も訝しがったが、それもはじめだけだった。もともとの人当たりの良さと回転のいい頭で、上手く周囲に溶け込めている。
「前も思いましたけど」
言い置いて横山は、甘味の代わりに茶を寄越してくれる。ありがたい。
「佐藤さんって、そんなに甘いもの好きじゃないですよね」
美味い茶に舌鼓を打っていれば、思わぬ反撃を食らう。
「……どう、して?」
危うく噴き出しかけた茶を無理矢理飲み込んで見上げれば、読めない表情の美丈夫にうっかりと疑問を投げかけてしまう。要らぬ墓穴を掘った。あとから悔やんでも、言葉は口に戻らない。
「菓子よりもフルーツが好きですよね。無糖の飲み物の方がもっと好き」
「サトー補佐、そーなんですかぁー?」
横山に便乗して、たぶん彼目当てであろう女の子も話に参加してくる。会話するのはまったく問題ないが、渦中に面白みのない自分というのは何とも居心地悪い。
「あー……嫌いではないよ。ただ、僕の苗字と調味料の『砂糖』をかけて甘いものをくれる人たちが一定いるだけ」
嘘ではない。
自分が就職して数年目だったのでだいぶ前になるが、同期に引っ張られて参加した慰安旅行でネタにされたのだ。そこから社内に広まったのもある。珍しい苗字ではないのになぜだと、当時は首を捻ったものだ。
社内上層部での、暗黙の了解は公にはされていない。
仮にそれが大々的になった場合、誰も持ってこなくなるだろうし、持たされた者は上司からの認識を知るところとなり、さらに不信感へと続くだろう。
ある意味、いい隠れ蓑にはなっている。
「まぁ、おかげでこうして、お菓子は不自由しないで潤っているわけだから助かっているよ」
部署によってはおやつ代として徴収しているのだから、考えようによっては特典である。ただし自分の体形と血糖値が危ういだけで。
沈んだ考えに半目になったところで、その先の乱雑なディスクに気づく。珍しい。
基本的に彼の場所は片づいている印象がある。
片づけができていないというのは、整理できていない可能性がある。それは物理的だけではなく、思考にも通じる。まず、要・不要の判別ができないから物が溢れる。そして整理整頓ができなくとも、死なないため後回しにしがちであることからも、さらに余裕のなさが際立つ。
普段の几帳面さを知っているから、尚のこと。
湯飲みに口をつけて、彼の抱えている仕事のスケジュールを頭の中で上げ連ねる。多い。そして近い締め切りが目立つ。佐藤は静かに眉を潜めた。
先日ぎっくり腰をやった課長の雑用を、大半は自分が受け取ったが一部皆に振り分けたものもある。その分も上乗せされているとはいえ、巧くない。ぬかった。
「佐藤さん?」
表情を改めた佐藤に、横山が訝しがる。いい勘だ。内心微笑んで、席を立つ。
「ちょっとお手洗いー」
求めた人物は食堂で遅い昼食をとっていた。
「沢田君」
「佐藤補佐」
「隣いいかい?」
引かれる顎と共にカレーを視界に入れつつ、思ったよりも事態が深刻であることに気づかされる。別に社食が悪いという訳ではない。新婚である彼はマメな彼女が弁当を作ってくれることが多い。仮に弁当休みの日があったとしてもそれは自由だろう。外野が口出しをすることではない。ただの弁当休日なだけならば、まったく問題はない。
「田所さん順調?」
彼らは職場内恋愛の末、結婚に至った夫婦であり佐藤は双方に面識がある。未だに旧姓が抜けない。腹に宿った新たな命を育んでいる彼女はつわりがきついらしく、産休に入る頃も青い顔していた印象が残っている。
「ええ、まあ。たぶん大丈夫かと……」
あいさつがてら彼女の話題を出したが、思わぬ引っ掛かりを覚えて夫の瞳を見上げる。微かに泳ぐ視線に確信を強める。
「で? 本当は?」
「……その、切迫って……あの、でも大丈夫です」
尻つぼみになる言葉は、とても大丈夫ではない。
「沢田君、落ち着いて聞いて欲しい」
人気のない食堂に、自分の声が驚くほど響く。
「医者から話を聞いているだろうけど、切迫早産って母体も子供も危ない。程度にもよるけど、最低限のたとえばトイレにも動いちゃいけない場合があるのを知っているか?」
見開かれる目に、やはりと確信する。
少し考えれば気づくことだった。産休に入った嫁が介護の必要な義母に手を貸すこともあるだろう。介護は驚くほど体力を消費することを知らずに。彼女は気が利くし、心根もやさしい。
誰が悪くて良いという訳ではない。結果論を言うのは簡単で誰でもできる。そのときどう考え、どう行動したか。
「最悪の場合もある。それを承知で『大丈夫』と言っているか、僕は心配だ」
妊娠は病気ではないが、健常でもない。人をひとり育み出産するというのは、さながら手術と大差ないのは男も認識しなければいけない事実だ。しかも子を産んだら、それで終わりではなく、新たなはじまりなのだ。
「制度もある。女性だけでなく男も取得できる。言い方は悪いけれど、会社員として仕事をする人間は替えがきく。でも夫として、父としてはたったひとりじゃないのかい?」
コレは受け取り方によっては、ハラスメントに当たるだろう。だが、母子二人の生命がかかっている事柄であることを、夫であり父である人物がもっと真摯に受け止めないとならない。
「……あ、ど、どう……」
蒼白になった顔に、己の言わんとしたことが伝わったことを知る。彼も馬鹿ではない。
「こういう時のために、僕がいるわけだよ。伊達に窓際でお茶を飲んでいるだけじゃないよ」
よいしょ。
少し茶目っ気を混ぜて、彼の手から床に滑り落ちたスプーンを拾う。
「仕事ができるから偉いって訳じゃない。――まあ、お給料が発生しているから一定はやってもらえると嬉しいけど。子供も田所さんもお母さんにも大切なこの期間に、君の時間を使っていいんじゃないかな。その間のきみの仕事をどう処理して、人材確保するかは上の仕事」
夫が父がすべての責任を被らなければならないという訳ではなく、家族という括りの中で協力するのはひとつの形だろう。家庭それぞれなので、独り身に戻った佐藤が口出すのはおこがましいと言われればそれまでであるが。
そして人がいなくて仕事が回らないというのは、上層部の人員配置ミスだ。不測の事態に対応できるように余力を持たせていないのが悪い。それを社員に責任転嫁させ、さらに末端にシワを寄せているのが多くの現実。社員を大切にしない会社は、最終的に人に潰されると佐藤は思っている。
「たとえ、休暇をとったとしても職場に君の席がなくなる訳じゃない。それに君のいる場所は、会社だけじゃないと思うんだ」
それに関しては産休に入っている嫁の方が危機感があるかもしれない。
女は家事育児・男は外に出て仕事という、古い世論にどうしても飲み込まれがちだ。己が積み上げてきた社会的立場を晒されるのは男も女も関係ないし、先に言ったように会社がすべてでない。だが、それが他者の手によって社会というコミュニティから切り離されていいのとは違う。判断するのは自分自身だから。
「僕はそれぞれに合わせた、それぞれの人間があっていいと思うんだ。だって、みんな同じだったら楽しくないもの」
さて。
ひといきついて凝った身体を伸ばす。
定時に会社を後にした佐藤はファミレスの一角を陣取っていた。
沢田の仕事を大体把握しているつもりであったが、現在どんな内容をやっているのかをひとつずつ挙げてもらった。頭の整理ができていない段階では、残っているものを聞く方が落ちが生じやすくリスキーだ。それに妻の状態に関して衝撃があったようであるし。
進めていくうちに、沢田の顔色がどんどん悪くなった。どうやら忘れていた案件があったようす。別口のクライアントから無理難題を押し付けられていたらしいので、どちらにしろ手に負えるものではない。結果的にはバトンタッチしてよかった。むしろ今までよくやっていたものだ。
そう言って感心すれば、深く頭を下げられた。だが、コレは佐藤を含め上のミスだ。彼が気負うことではない。
早急に引き継ぎを終わらせ、田所さんと母上によろしくと沢田を帰した。
「ギリギリ……いやあ、だいぶ危ないかぁ」
この積み上げた内容が終わるのか。先方があるものなので努力はするが、難題をけしかけた方はこれからの関りを一考する余地がある。いっそ会社を休み補佐としての業務をなげうってコチラに専念すればいいかと思案しかけて、上司が病欠していたことに気づく。さすがに補佐の自分も不在では支障が生じるだろう。
「こんな所にいましたか」
どうしたものかとコーヒーに口をつけながら視線を上げれば、見知った顔を認めて目を丸くする。
「珍しい場所で会うねぇ横山君」
この男ならば安さが売りのファミレスではなく、コース料理の出る店の方が似合っている。言い方は失礼であるが。
呆然とする佐藤を差し置いて、向かいの席に着いたスーツ姿は優雅に店員に注文をする。
「変わっていませんね」
「……え?」
脈絡がなくうっかりと聞き返して、日中の反省が生かされておらずひっそりと後悔する。実はコレを見越して、あえて解りにくい会話をしているのではないかと勘ぐってしまう。
「なんで会社で仕事しないのですか」
疑問の形を取ってはいるが、ただのポーズだ。
「……確信しているものにあえて答えても、ねぇ」
へらっと笑って流そうとするも、さすが期待のホープだまされてはくれないらしい。特別隠さなければいけないことではないので諦めて口を開く。
「僕がいつまでも職場に残っていたら、若い子たちが帰りにくいでしょ」
なんちゃってでも、仮にでも、不本意ながらでも、一応役職付きなのだから。
昔ながらの頭でっかちのタヌキは『部下は上司を差し置いて帰宅するのは無礼』という認識があるため、それを知っている後輩は退社に躊躇する。遅くまで残って仕事をするのは正義ではない。そのため佐藤は率先して帰るし、無茶でないていどに有給を取得する。
始業に関しても『部下は上司が出社する前にディスク周りをキレイにする』などと馬鹿なことを言うので、佐藤は朝食を取りがてら一度外に出てギリギリに再出社する形をとっている。自分の気まぐれな生活に部下が合わせる理由はない。基本的に声を大にして権力を振りかざすのは一部の年寄りであり、しかも口ばかりな傾向が多く手に負えない。佐藤が手を回して指摘しても、頭が固いのでなかなか改善されない。自分も老害にならないよう、早々に見切りをつけないといけない。
そもそも彼らの教育の根底にはスパルタとスポ根がある、先人の背を見て学ぶスタイルだった。厳しい指導を耐えた世代で、己の成功体験から精神論に偏りがちだ。彼らが作ってくれた道筋があるので、現在の世があるのは承知している。しかし考え方を押しつけるのとは違うだろう。世は流れるのだから。
「下らないしきたりみたいなものは、どんどんなくせばいいと思うよ」
慣習の存在を知っているからこそ、自分のような立ち位置は緩衝材となり双方に気を配る必要がある。昨今の企業もあり方を大きく変えなければならない。
「佐藤さんは――」
「おまたせしましたー!」
運ばれてきた料理に佐藤が視線を向けると同時、言いかけた横山は口をつぐむ。目の保養か、皿を置きながらちらりと彼を眺めていくウエイトレス。
そういえばと、佐藤は忘れていたポテトを口に放り込む。ソース類よりも薄塩が好きだ。だがしかし、この量をひとりで平らげられるかと言われれば否。
「横山君も食べる? 食べかけだけど」
もしくは、こんなオヤジの食いかけはゴメンだと言われればそれまでであるが。
「……あなたは自覚がないのか、全く意識されていないのか」
組んだ腕を解き、ため息をつかれる。先ほどの切羽詰まった空気は霧散して、佐藤もひっそりと詰めていた息を抜く。
「ああ、まあ、物好きだとは思っているよ。ただトゲトゲするほど神経質でもないし、若くないし」
以前の、それこそ横山が佐藤の元にまんじゅうを持って来た一連の出来事のあと、肩の荷が下りたのか表情がやわらかくなった。同じ企業内であるが畑が違うと疎遠になりがちなのに、何度か自分の元に遊びにも来てくれたし、嬉しくて可愛がった覚えもある。過去お悩み相談した職員は、心の内を晒したためか大半が佐藤と距離を取りたがる傾向が強いので余計に。
あれはいつだったか。
確か互いにほろ酔いの、どこにでもあるような居酒屋の一角。
『――佐藤さん』
『ん?』
徳利からお猪口に最後の一滴を垂らしながら、見上げた先の顔に佐藤は息を呑んだ。その、思いのほか真摯な表情に。輪郭を確かめるように、頬を撫でる指。
『佐藤さんが、好きです』
にぎやかなはずの店内の音が消え去り、やけに大きく横山の声が響いた。
『……そっ、か』
『奥さんが居ても、好きなんです』
『……そ、う』
アルコールが入って瞼は落ちてくるし、どうせくたびれたオヤジには勃たないだろうと、安易についていったホテルでまんまといただかれてしまった。あれからすぐに海外へ転勤になったことを考えると、彼も博打的な所もあったのだろう。
底の見えたカップを眺めながら思案する。
あれから十年、目の前の男も脂ののった将来有望な中堅に成熟した。今後成長の見込めない、頭打ちの老人は早々に引き際を知るべきか。もはや、以前とは立場が逆転しているのだから。
「佐藤さん、ここ違っていますよ?」
「……あ?」
ぼんやりしていたせいか、いつの間にか横山の手には書類が握られ熟読したらしかった。素早い。同じ会社だし、同じ部署になったし見られて困るものではないのだが――。
「今、なんて言った?」
不穏な単語が耳を通り過ぎた。頼むから加齢からの幻聴だと言ってくれ。
「この書類には来年の上半期締め切りって記載してありますけど、広報部での発表は来年の頭です」
「…………マジか」
本社に居た横山が断言するのだから間違いはないだろう。
頭を抱えながら、はじき出した答えは。
「……今月、だな」
「ええ、あと半月ないです」
呻いた佐藤に、追い打ちを掛けるように横山の美声が応じる。
「…………」
二人の間に流れる、重い沈黙。
「社に戻るわ」
この時間ならば他の社員はいないはずだ。
「横山君はゆっくり――」
脱力しつつも広げた資料をまとめて立ち上がれば、手を引かれる。
「一緒に行きます。俺もこのプロジェクトに関わっていましたから」
なんとも心強い後輩だ。
就業時間外だから付き合わなくていいと、言いそびれてしまったと先を歩く背に佐藤はぼんやり思った。
一応締め切りを確認したところ、やはり横山が指摘した通りだった。時間がないことだけは動かしようのない事実。焦る気持ちを抑えてスケジュールを組み直し、たたき台だけは作ってあった沢田に感謝する。いよいよ無理難題をふっかけたクライアントに構っている余裕はなくなった。
「この案件、問題なのは時間のなさと、プロジェクトの規模の割に周知している人間が少ないことです。いくら本社で噛んでいたと言っても、俺の知っていることにも限界があります」
「まあ、僕も沢田君と同じレベルくらいしか知らないしねぇ」
それも上から放られたのを佐藤経由で沢田に降ろしただけだ。そのため自分は以降を詳しく把握していないので、むしろ沢田よりひどいと言える。
そしていくら横山がこの件に関わったことがあるとしても、この部署の代表としてすべてを彼に丸投げするのとは違う。ここで出ていくのは、知識が乏しかろうが責任を被るのは自分である。
「現地時間では日中のはずですから資料を取り寄せます。佐藤さんは、明日こちらの人たちに連絡していただけますか。彼らは本社へ転勤や出向経験者です」
渡されたメモには、秘書課から庶務課まで一見関係なさそうな名が連なっている。大半は佐藤の元に上司名義のまんじゅうを届けに来た者たちで、思わぬところで活躍を知って素直に嬉しくなる。
流暢な英語に耳を傾けながら、彼が来てくれていて本当によかったと思う。事態の大きな改善はないが、後退していないことは確かだ。
起動したパソコンに、佐藤は視線を走らせる。膨大な量であるが、己のわずかな知識も駆使して有効活用しなければならない。
「……コレ、使えそうだなぁ」
「どれですか」
口に手をやりながらつぶやけば、耳元で声を拾って飛び上がる。
「よっ、横山く、ん……びっくり、した……」
まさか背後に居るとは思わず、激しく拍動する胸元を押さえつつ画面を示す。
「いやぁね、無茶を言ったっていうクライアントさんの案件と根本が似てるなって。だから、せっかく沢田くんが考えたものがあるから、コレを使ってもいいかなぁってね」
「……なるほど。おもしろそうですね」
切れ長の目はスクリーンを眺め、口角を上げる姿はなるほど整っている。
「じゃあこれも組み込んでいこう」
佐藤は再びキーボードを叩いた。
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