黒い鳥

吉田ヒグラシ

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黒い鳥

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「あんた、見えないのか?」
 あんた、というのが自分のことだと気付くまでに、少し時間がかかった。背の低い男だ。白髪混じりの寝起きのような髪型で、上下薄汚れた淡い灰色のスウェットに、これまた薄汚れたベージュのサンダルを履いている。すっかり秋めいた街の、水曜日の昼下がり、両脇を高い建物に囲まれた裏通りを歩く人間は、私とその男だけだった。
「見えない、というのは?」
「鳥だよ、鳥。目の前にいるだろう。あんたの背を超しているから、2mはあるな」
 面倒な奴に捕まった、と内心舌打ちした。3時から商談がある。電車の時刻までそれ程余裕があるわけでもないし、少なくとも見ず知らずの男に構ってやる程暇ではなかった。無視して通りすぎようとすると、腕を強く掴まれた。
「おい! 早まるな、あんまり近付くと食われるかもしれない」
 スーツに深いシワが寄る。男は意外に握力があった。男が本気で怯えている様子を見て、私は少し不気味に思うと同時に、呆れてもいた。
「何を言っているんです、鳥なんてどこにもいないですよ」
「いるじゃないか! あんたのすぐそばに。あんたのことを見ているんだ」
 男は私を説得しようと必死だった。そのあたふたした態度が私を一層不快にさせた。余程突き飛ばしてやろうかと思ったが、勤務時間中に問題を起こすのは避けたかった。男の腕を振り払い、歩き始めようとした次の瞬間、私の脚が止まった。 

 私の目の前に、それはいた。
 頭上の太陽が反射して、漆黒の分厚い羽毛の一部が水溜まりに浮かぶシンナーのような虹色に見える。脚の肌質と言えば良いのだろうか、鉤爪の付いた鳥類独特のそれは至近距離で見ると妙な生々しさがある。爪は今にもアスファルトに食い込みそうな程鋭い。ゆっくりと顔を上げると、今にも私の頭を丸呑みできそうな巨大なくちばしが、黒く鈍い光沢を放っている。暗く底の見えない瞳に、意識が吸い込まれていくような感覚を覚える。
「おい、見えたんだな? そうだろう。なんだか分からないが、あんたを狙っているんだ。俺のほうには見向きもしない」
 狙っている。
 確かにそれは私を見ていた。獲物を捕らえる猫のように、静かに私を観察していた。不快な汗が全身に広がり、体温をじわじわと奪っていく。手足が氷のように冷たい。ヌルリと汗ばむ左手で鞄を握り直す。寒い。寒い寒い寒い寒い。カタカタカタと私の体は小刻みに震えだした。自分の心音だけが秒針のように正確に響く。鳥はその目を私から離そうとはしない。微動だにせず、じっと私を見つめている。
「ドサッ」
 左手に持っていた鞄が私の足元に落ちた音がした。突然身体の震えが止まった。汗がじっとりと背中を濡らしていた。気付けば私の身体は石になったかのようにピクリとも動かなくなっていた。
「おい、どうだ? どんな気持ちだ、死ぬ前ってのは」
 男の声は笑みと興奮を含んでいた。
 何で俺が。
 か細い呼吸が喉をヒュウヒュウと鳴らす。喉が渇く。
 水が欲しい。水が、飲みたい。
 黒い鳥が私を見ている。爪も翼も嘴も、その大きな眼球でさえも、私を捕らえようとしている。
 声が出ない。助けてくれ。誰か助けて。逃げたい。足が動かない。苦しい。息ができない。喉が、水、水が欲しい。
 鳥は動かない。
 来るな。
 喉が鳴る。
 ヒュウ ヒュウ ヒュウ ヒュウ ヒュウ
 鳥がこっちに──
 嘴がゆっくりと開いた。 

 あ、食われる。 

 私はこの時瞬間的に、スズメバチの習性を思い出していた。小学生の頃、先生が言っていた。スズメバチに襲われないためには、黒い物を身に付けてはいけない。黒い物を敵だと思って攻撃するのだ。私のスーツ。この鳥も私の黒い上着に反応しているのかもしれない。いや、きっとそうだ。根拠など何もないのに、私は確信した。
 そこで私はあることを思い付いた。それは考えてはならないことだった。しかし一度頭に浮かんでしまうと、それを振り払うことはどうしてもできなかった。もはや一刻の猶予もなかった。
 私は素早く上着を脱ぎ、男のほうに投げ捨てた。男は、突然の事で何が起こったのか分からなかったのだろう、呆然と立ち尽くしていた。鳥は初めて男のほうを見た。
 その瞬間、私は踵を反して駆け出した。何を考える間もなかった。とにかく遠くへ、出来る限りのスピードでここから離れなければならない。私は走り続けた。喉が乾燥して焼けるような痛みが走った。酸素が足りず或いは過剰な酸素で脚が痺れて途中から感覚はほとんどなくなっていた。それでも私は振り返らなかった。振り返ってはいけないことは、私が一番よく分かっていた。 

 幾本もの裏通りを抜けて、駅に着いた頃には汗だくだった。周囲の人々は何事もなかったかのように平然と歩いている。駅員がおじいさんに何やら熱心に説明している。サラリーマンが気怠げにスマートフォンを弄っている。子連れの母親が訝しげにちらと私を見た。この駅で私だけが、息を切らし、瞳孔を開き、恐怖の余韻に身体を震わせて、異常事態から逃れたことを未だ実感できずにいた。
 ふと我にかえって腕時計を見たら、今からどう急いでも商談には遅刻だった。運良くズボンの後ろポケットにスマートフォンが入ったままだったので、先方に電話をかけ、電車を間違えたので遅れると謝罪した。
 呼吸が正常になるのを待ってから、あの裏通りに鞄を取りに戻った。そこには男と鳥の姿はなく、ただ私の上着と鞄が、ぽつねんと不自然に落ちているだけだった。
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