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16、これから
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駅に向かうバスの中で、翼宿からすでに駅前のハンバーガーチェーン店の一階に座っているという連絡がきていた。急いで店に向かうと、ガラス越しに翼宿の姿を確認できた。
「ごめん、遅れた?」
「いや、俺が早かっただけ」
翼宿は笑って答えると、座ったままうーんとひと伸びした。テーブルの上には、塾のチラシがいつくか置いてある。そして、翼宿の向かいの席は椅子が横にどけてあり、車いすが入るのを想定してくれいていたのだと翼宿の優しさが嬉しかった。入り口を背にする形で翼宿の前に入り、膝に置いておいたトレイを邪魔にならないようにテーブルに乗せた。
「ありがとう」
「え?」
「椅子、どけといてくれて」
「あぁ」
翼宿は、些細なことにもきちんと礼を言うハヤトに、(友達なら当然なんだけどな)とも思うけれど、(そういうところがハヤトらしい)とも思って笑った。
「塾、行くんだ?」
「あー、うん。春期講習から行こうかと思って」
「へぇ」
ハヤトも、さっき寛太から高校の話を聞いてきたばかりなので、興味はあった。けれど、新しい集団に入るということが、まだしんどい。この町で、同世代で、俺のことを知らない人はいないだろう。そんな中、初めましての、あの視線を繰り返すのかと思うと気が滅入る。だから、自分には関係のない話のようにパンフレットをぺらっとめくる。
「ハヤトは、行かねーの?」
「んー、通うの大変だし、俺はネットで授業受けてるし」
「あ。・・そっか、そうだった。ネット授業を受けてたんだったな」
翼宿の沈んだ返事に、ハヤトはチラシから顔を上げた。
「どした?」
「あ、いや、ハヤトも中三になるし、春期くらいから行くのかなって勝手に思ってた・・」
翼宿は、「そっか、そうだよな」と言いながら、紙カップのジュースをチューと飲んでいる。何か言いたいことがありそうだった。
「・・なに? 一緒に行こうと思ってた?」
「え」
図星だったらしい。恥ずかしいような嬉しいような、そんな「え」だった。
「あ、別に一人が嫌だからとか、そういうんじゃないし、ハヤトが行かなくても俺は行くんだけど。受験生になるし・・」
「ふぅん・・。まぁ、受験勉強したって、そもそも俺が通える高校があるかも微妙じゃん?」
「あ」
翼宿の顔に「しまった」と書いてある。わかりやすい。考えてもみなかったのだろう。どういう校舎でなければ通えないか、体育のカリキュラムを受講できない場合はどうするのか、一々すべてに対応してもらわないといけないという現実を。でも、自分が反対の立場だったら同じだったと思うから、落胆や苛立ちはない。むしろ、困惑する姿にふっと笑いが込み上げる。
「うそ。行ける高校あるって、さっき、理学療法士の寛太さんから聞いてきた」
「ホント?! どこ?!」
自分より興奮している翼宿に落ち着けよと思いつつ、リュックから封筒を出した。
「あ! ここ! 俺の第一志望!」
翼宿とはテストの話もしたことがあって、なんとなく同じ学力かなと思っていたから予想はしていた。
「じゃあ、お互い頑張らないとな」
ハヤトの笑顔に翼宿は少し戸惑いながらも、もう一度食い下がった。
「・・ここ受けるなら、やっぱり塾行ったほうがいいんじゃね?」
ハヤトが、(そうかもしれない。でも・・)と、悩んで黙っていると、翼宿は塾のチラシを一枚、パンフレットの下から引き抜き、上に置いた。
「ここならさ、駅の裏で車も路駐しやすいし、教室も一階にあるから階段とかないし、個別だからみんなの前に立つとかもないと思うんだ・・。ハヤトのお母さん、最近運転するようになったって言ってたし、ここくらいなら運転できるんじゃないかと思って」
(なんだよ、それ・・)と、ハヤトは胸が熱くなるのが分かった。
(俺が通うことを想定した塾を調べていたのか。寛太さんといい、翼宿といい・・。だいたい、駅の裏なら、駅越えをしないといけないから、翼宿が通うのも不便じゃん。個別指導をうたう塾なら、翼宿の家のそばにだってあるのに・・)
「・・なんだよ、そんなに一緒に行きたいのかよ?」
嬉しさを隠してひねくれると、翼宿は口を尖らせたけれど、俺を見て一瞬で目じりを下げた。(あぁ、しまった)と、目をこする。今日だけで二回も泣くことになるとは。
それでも、自分自身に、冷静に突っ込みを入れられるほどだったので、涙をこぼすことはなく、滲む程度で済んだ。
翼宿はニヤニヤしながらも、冷やかすことはなく「一緒にがんばろーな」と、高校のパンフレットと一緒にそのチラシを封筒に入れてくれた。
その時、店に入ってきた客が「あ! 翼宿!」と、ハヤトの背中越しに声をかけてきた。
振り向くと、そこには同級生と思われる男が二人いて、それぞれバーガーのセットを乗せたトレイを片手に、もう片方の手を上げて近づいてくる。
「おー。何してんの?」
「そっちは?」
「カラオケ行こうとしたら、あそこ満室でさー」
「待ってもよかったんだけど、お腹空いたから」
入ってきた二人は口々に喋り、翼宿も親しそうで他愛もない会話なのに途切れない。
それが、ハヤトには好都合だった。車いすには座っているが、長袖を着ているからパッと見は右腕がないことがわからない。このまま翼宿との会話にだけ集中してもらって、こちらに気づかず離れていくのを期待していた。
「あー、えっと・・」
二人のうち、背が低くふわふわとした髪の毛の男が、ハヤトを見て、「誰?」と口には出さずに、翼宿に視線を送る。
「えっと、A中学の同級生」
翼宿はそこまで言うと、それ以上は笑顔で誤魔化した。
「あ、そっか、そう言ってたもんな」
背の低い男は、ふわっと人懐っこい笑顔になった。初めましてなのに、警戒心を薄れさせる不思議な魅力の笑顔だった。
「俺、すばるっていうんだ。よろしく」
「俺は、望」
ハヤトは、次々に名前を言われて戸惑った。早く立ち去ってほしいとドキドキと心臓が鳴る。
「あ、俺は、ハヤト・・」
「ハヤトかー。よろしくな」
「あぁ、うん、よろしく・・」
微妙に視線をずらすハヤトに、すばるは、それ以上は話しかけなかった。
「じゃあ、俺らは奥に座るわ」
すばるはそう言うと、翼宿の肩に手を置いて口元だけで笑った。
望は、それを見逃さなかった。寂しく笑う口元とは裏腹に翼宿と合わせた視線には、信頼を寄せた光があった。そして、それは、翼宿も感じていただろう。けれど、すばるは止まることなく、L字型の店内を右に曲がっていくので黙って続いた。
「・・騒がしくて、ごめん」
翼宿は二人が見えなくなるのと同時に両手を合わせて頭を下げた。まさか二人が自己紹介するとは思っていなかったし、その間中、ハヤトの顔には不安と緊張が張り付いているのを目の前で見ていたのだから。
「や、いいよ。ちょっとビックリしたけど」
ハヤトは、息を吐いて肩の力を抜いた。自分の腕に気づかれなくてよかったし、それ以上に〝あの富士ハヤト〟だという反応をされなかったことに安堵した。
(でも、いつまで・・?)
何も入っていない右の袖を掴んだ。
(いつまで過去に怯えなければいけないのだろう?)
「・・ハヤト」
翼宿の心配そうな声に、反射的に笑顔になる。平気、大丈夫だと言う代わりに。
「そういえば、すばるも望も、翼宿の話によく出てくるよな」
ハヤトの笑顔に翼宿は複雑な思いがした。ハヤトから学校の友達の話は、一応、聞く。色々あったけれど、今は多くの人に助けられながら学校生活を送り、友達もいるようで安堵したことがあるし、何度も出てくる名前もある。でも、本当に信頼し合っている友達なのかどうかは、『今さら優しくされても』と、ハヤトが言っていたことから測りかねていた。確かに、今は、友達なのだろうけれど、どうしても、『あの時は何もしてくれなかったくせに』という思いが拭いきれないのではないだろうか。
「・・うん。すばるは小学校のころからの友達で、望は中学校から。でも、二人ともすごくいいやつだよ」
今度は、翼宿の遠慮がちな言い方に、ハヤトが苦笑した。気を使わせてしまったとわかるから。
「正直、羨ましいとも思うよ。今の俺にはない友人関係だから。でも、それ以上に、翼宿にいい友達がいることが嬉しい、かな」
「じゃ、じゃあさ、すばるたちと友達にならない?」
翼宿の中では、すばると望にハヤトのことをずっと黙っていることも心苦しかったし、さっきのすばるの視線からも、おそらく『あの富士ハヤト』だとわかっているのだろうし、もしも、ハヤトが一緒に友達になってくれたら、これ以上にいい結果はないと、思わず身を乗り出した。
「あ、あぁ、うん・・」
身を乗り出すほどの翼宿の好意は嬉しく、ハヤトも心が揺れたけれど、そこまで甘えていいものかと即決できずにぎこちなく頷いた。
翼宿は、唇を結んだハヤトを見ていると、なぜか、すばるを思い出した。いつもより少し幼い表情に見えたせいかもしれない。
「・・俺さ、翼宿っていう名前、嫌いだった」
全く違う話題を始めた翼宿が何を意味しているのかわからず、ハヤトは翼宿を見つめた。
「源内っていう苗字は、今の両親のものだから嫌いじゃないけど、翼宿は、そのまま、親からつけられた名前だから・・」
「あ・・。そっか・・」
最初に会った時、いい名前だと思ったけれど、翼宿が忌み嫌っていた理由が、今更ながらに分かった。少し考えればわかることなのに、鈍感な自分に呆れる。
「でも、今は、そう思わなくなったかな。実の親に対して感謝なんか微塵もないし、できれば下の名前も変えておいてほしかったけど、そういうのもひっくるめて、もうどうでもいいかな」
なげやりなどうでもいいではなく、仕方ないと諦めつつも受け入れ、前を向くどうでもいいだった。けれど、翼宿がどうしてそう思ったのかわからず、ハヤトは曖昧に笑って頷く。
「・・そう思えたのって、ハヤトのおかげでもあるんだけど」
「俺の?」
「そう。いい名前だって言ってくれただろ?」
「う、うん。ホントにいい名前だと思うし・・」
「そう、それで、そっか、他人から見ればいい名前なんだと思って」
翼宿はなつかしそうに過去を見つめる目で自分の手元を見つめ、柔らかく笑った。
「ハヤトに言われた後、そういえば、望に自己紹介した時も、同じことを言われたのを思い出したんだ。それで、誰がどうこうじゃなく、言葉として悪くないのかもなって。どういう思いで付けたのかとか、そういうのを考えると吐き気がするけど、『翼宿』自体は悪い言葉じゃないかなって」
ハヤトは、自分の発した一言で、知らない間に誰かを傷つけることもあるけれど、同じように誰かを救うこともあるのだと、世界の理の表面だけだがわかった気がした。
「それにさ、もっと前に、すばるに翼宿って名前が好きじゃないから、源内とか、ゲンって呼んでほしいって言ったら、『翼宿っていう名前は、今は翼宿のもので、いい名前にするか嫌いな名前にするかは、もう既に翼宿自身にかかってるんじゃねーの?』って、言われたことを、今思い出したよ」
いや、すばるは他にも何か言っていた。そうだ、事の発端は、小学生の時に出た、自分の名前の由来っていう宿題だった。あの時、翼宿という名前を実の親が付けたことを改めて知って気持ち悪いと思ったのだ。こんな名前嫌だって。それで、すばるに、過去は隠しつつ、自分の名前が好きじゃないことだけ伝えたら・・。
『名前の由来とか、付けた理由とか、そういうのはもうとっくに時効だと思うよ』
そう言ってくれたのだった。そこまで思い出して、もしかしてと気づいた。すばるの家と自分の家は近所ということもあり、母親同士も仲がいい。だから、もしかして、すばるは俺の過去を知っているのではないだろうか? 知っていて、知らないふりをしてくれているのではないだろうか? もし、そうなら、知らないふりをしてくれているのは、いつか俺から話してくれると思っているからだ。すばるなら、絶対そうだ。でも、本当に知らないのかもしれない。
(あぁ、でも、どっちでもいい)
もはや隠すつもりはない。全部話そう。
「すごいな。すばるって。そういう風に中々考えられないのに」
感心するハヤトの声で我に返り、翼宿は自分が褒められたかの如く嬉しくなった。
「そうなんだよ。すばるって昔から勘がいいというか、察しがいいというか。なんか、天才肌な感じ。ほやんとしてそうで、聞き上手だし、言うことは適格だし。それに、望も、ハヤトも俺の名前を褒めてくれて、きっと、価値観が合うと思うんだよ」
一度区切って、翼宿は改めてハヤトを誘った。
「俺、すばるとも望ともハヤトとも仲良くなりたい。これからも。だから、ハヤトがあの二人と友達になってくれたら、俺、すげー嬉しい」
ハヤトは、また涙腺が緩むのを眉に力を込めて堪えた。翼宿は、本当にそう思って言ってくれている。こういう風に言えば、翼宿のために友達になるのであって、ハヤト自身のためではないという理由ができるからとか、そういう打算的なことは考えていない。それが、嬉しい。
「うん。わかった。っていうか、俺が、すばるとも望とも友達になりたい」
同年代の初めましての反応にまだ少し怯えはあるけれど、それでもいい。ここから一歩踏み出して、一歩ずつ進んでいくんだ。
「そっか、よかった!」
翼宿が満面の笑みで答えるから、ハヤトも笑った。
(あぁ、大丈夫)
怯えや緊張が少しずつ溶けていく。何があっても、翼宿との仲は絶対に変わらない。だから、もう大丈夫だ。
さっそく席を立って、すばるたちの様子を伺いに行った翼宿の空席を見ながら、ハヤトは声に出してみた。
「もう、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉だったけれど、誰かに伝えようとしていたのかもしれない。
「もういいんね?」
歩き出したところに声をかけられて、ツバメは驚いて声のほうを見た。
「おばあちゃん!」
ツバメは見覚えのある姿に駆け寄った。
「待っててくれたんだ!」
おばあちゃんは、駆け寄ってくるツバメに嬉しそうに笑った。若い姿ではなく、亡くなった時の年齢なのだろう、しわを深くしてにこにこと笑っている。けれど、黒いズボンに白い暖かそうなタートルというシンプルな格好をしていて若くも見えた。
「ツバメちゃんに、まだちゃんとお礼を言うてなかったけんね」
「お礼?」
「そうやで。赤の他人なのに、ハヤトの想像にゲスト出演してくれたやんね」
「あぁ・・」
ハヤトの想像の中で過ごした日々が、とても遠く感じる。
「あれは、むしろ、私がお礼を言いたいくらいですよ」
「あら、そうなんね?」
「そうなんよ」
ツバメは、おばあちゃんの口真似をして笑った。
「私ね、覚えられてて嬉しかったの。もう誰も私のことなんか覚えてないと思ってたから」
ツバメは空洞だった心が今は塞がれていることを祖母に見せた。現実には見えないものも、こちらの世界では想像したとおりに相手に見せることができる。
「私、どうして自分にはずっと空洞があるのかわからなかった。でも、忘れられるのが一番怖かったんだって、ハヤト君が呼んでくれた時に初めてわかったの。あの時・・、ハヤト君が死に直面した時、無意識に私を呼んでくれたことが、本当に嬉しかった。誰かが私のことを覚えていてくれて、嬉しかった・・」
ツバメは唇をかんで鼻をすすった。頭に映るのはあの家。あの家で、誰にも知られることなく死んで、かわいそうだと思われても、やがてみんなの記憶から消え、忘れ去られてしまう存在。自分はそういうものだと思っていた。だからこそ、何の関係もない赤の他人であるハヤトが呼んでくれた時、どうして? より、嬉しい! が真っ先に浮かんだ感情だった。そして、嬉しいが広がって空洞が塞がったのだ。
「ハヤト君が無意識下に私を覚えていてくれたのは、同じくらいの年の女の子が死んだっていうのが、幼いハヤト君にとって衝撃だったのかも。初めて死ぬって感覚を刻まれたんじゃないかなって思う」
今まで考えていたハヤトが呼んでくれた理由をしゃべりながら、「でも」と、おばあちゃんに笑いかける。
「きっと、おばあちゃんのおかげじゃないかなって思うの」
「んん? 私ね? なんもしてないで?」
ツバメは予想していた通りの答えに「ふふふ」と笑う。
「ツクシおばあちゃん」
ツバメの呼びかけに、おばあちゃんは優しく微笑んだまま首をかしげる。
「ツクシおばあちゃんの名前のおかげ。ツクシとツバメってちょっと似てない?」
「うーん、似とるような、そうでもないような・・」
おばあちゃんは少し困った顔になったが、ツバメにはなぜか確信があった。
「絶対そのせいだと思う。名前としては、ツバメもツクシも変わってるし」
おばあちゃんにとっては、自分の名前のおかげでハヤトが覚えていたかどうかはどちらでもよかったが、ツバメの見せる笑顔に愛おしさを感じる。この年になって死んだからこそ持てる大きな愛とでもいうべきか。
「そうかもしれんねぇ」
大きく頷いた。
「ね! 私、絶対そうだと思うんだ!」
ツバメの笑顔におばあちゃんも笑う。
「でも、じゃあ、なんで最後は来んかったんね? ハヤトの想像が終わる時、ツバメちゃんもいるもんやと思ったら、いつの間にか想像と一緒に消えてしもうて、もう会えんかと思っとったで。おかげで、ハヤトは、ツバメちゃんの存在そのものが自分の想像やと思っとるけん、ツバメちゃんが実在するとは知らんままやで」
ツバメは、フードのついたトレーナーのポケットに両手を入れて肩をすくめ、すらりと伸びたジーパンの先のスニーカーに視線を落とした。
「うん。いいんです。これで」
パッと顔を上げて、おばあちゃんを見てもう一度笑う。
「だって、最後に出ていったとしても、ハヤト君、生き返っちゃったから全部忘れちゃうし」
「けど、あのまま死んどったら、忘れることなく一緒にこっちに来れたろうに」
「そうなんですけど・・。うーん、やっぱり、ちょっと意地悪をしたかったのかも。私っていう想像を生み出すくらい、本当は、生に執着があったって思わせたかったっていうか・・」
ツバメは、いたずらを見つかったように恥ずかし気にはにかんだ。
「なんね、そういうことね」
おばあちゃんもいたずらっぽく目を細めた。
「そんなら、きっと、じゅうぶん効果があったみたいやね」
「うん!」
二人はすぐ隣にいるハヤトを見る。「もう大丈夫」と呟くハヤトの目の輝きに、思わず胸が光る。
そこに、戻ってきた翼宿が二人の体半分をすり抜けながら、ハヤトに近づく。
「あっちに座れるから」
そう言うと、テーブルの上にあった二人分の飲み物をトレイに乗せて、ハヤトに先に行くよう促した。ハヤトが「うん」と、器用に車いすを動かして通路に出ると、翼宿はどかしておいた椅子を片手で元に戻した。
「ありがとう」
「うん」
自然なやりとりに目だけで笑いあって、翼宿の前をハヤトが進む。その後ろをツバメとおばあちゃんはついていく。
ソファー席にはすばると望が座り、椅子席は一つ分どけてあり、ハヤトの車いすが入れるようにしてあった。
緊張した面持ちのハヤトから、ようやくほぐれた笑顔が出てきたのを見届けて、
「じゃあ、そろそろ行こうかね」
と、おばあちゃんはツバメを促した。そうでなければ、お互いにいつまでも見守ってしまいそうだった。
「うん」
ツバメは、ハヤトだけじゃなく、横に座る翼宿にも愛おしむ目を向けた後、頷いた。
四人の楽しそうな声を背に、二人は歩き出す。
「ツバメちゃん、ばあちゃんが作ったチョコレートの国に来るね?」
「あ、行ってみたい!」
「隣は、おじいさんがラーメンの国を作っとるで」
「なにそれ、ウケる! 楽しそう!」
歩き出した二人の世界からハヤトと翼宿が遠のいていく。でも、振り返ることはない。彼らがもう大丈夫だとわかるから。
ハヤトは、ふっと風を感じて後ろを振り返った。もちろん何かあるわけではなく、気のせいかと思ったが、同じように翼宿も自分の見た方向を見ている。
「翼宿? ハヤト?」
望の呼びかけに、二人は、
「え? あ、なんか・・。いや、なんでもない」
と、同時に返した。
ハヤトと同じように翼宿も何かを感じたようだったが、違和感は周りの音に溶け込んで消えてしまった。
二人は何事もなかったように、すばると望に向き直り、四人で笑いあった。
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