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村に来て三日目の朝、セレスティアは食料を買いに出かけた。
屋敷にあった保存食はとうに底を尽き、昨夜は井戸水だけで夜を越した。空腹で目が覚めるという経験は、二十三年の人生で初めてのことだった。
村の中心部にある雑貨屋は、「マーサの店」という看板を掲げた古い建物だった。
扉を開けると、カウベルが乾いた音を立てる。店内には食料品から日用品まで、雑多な品物が所狭しと並んでいた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の老婆が顔を出した。丸い眼鏡をかけ、人の良さそうな顔をしている。
「ああ、あんたが噂の都会のお嬢さんかい」
「セレスティアと申します。エルザの孫です」
「知ってるよ。村中の噂になってる」
老婆はにっこりと笑った。
「あたしはマーサ。この店を五十年やってる。何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
セレスティアは少し安堵した。村人たちの冷ややかな視線には慣れつつあったが、こうして親しく話しかけてくれる人がいるのは心強い。
「パンと、チーズと、野菜を少しいただけますか。それと……」
「猫の餌かい?」
マーサが目を細めた。
「あんた、ノア先生に会ったんだろう?」
セレスティアは驚いて老婆を見た。
「ノア先生……あの方は、お医者様なのですか?」
「そうさ。三年前にこの村に来た。腕は確かだよ。うちの亭主が倒れた時も、すぐに駆けつけてくれた」
マーサはパンを包みながら、ノアについて語り始めた。
「でもね、変わり者でね。村人との付き合いを避けてるんだ。挨拶しても返事しないし、世間話にも応じない。だから最初の頃は、村の連中も警戒してたよ」
「それでも、医師として認められているのですか」
「腕がいいからねえ。それに、お金がない人からは診療代を取らない。子供が熱を出せば夜中でも往診に行く。そういうところは、皆分かってるんだ」
セレスティアは、あの無愛想な青年の意外な一面を知った。
「でも一番変わってるのは」
マーサは声をひそめた。
「猫だよ。あの人、捨て猫や野良猫を見つけると、必ず保護するんだ。今、あの家には十匹以上の猫がいるはずさ」
「十匹以上……」
「傷ついた動物も同じ。鳥でも狐でも、何でも治療する。村の子供たちは『猫先生』って呼んでるよ」
猫先生。
セレスティアは思わず微笑んだ。あの冷たい態度の青年が、捨て猫を保護しているなど、想像もつかなかった。
「あんたの屋敷の庭にも、猫が来るだろう?」
マーサが言った。
「エルザ様が生きてた頃、よく猫たちに餌をやってたんだ。だから今でも、あの辺りをうろついてる子が何匹かいる」
「ああ、だから……」
三毛猫がいた理由が分かった。あの猫は、祖母に餌をもらっていたのだ。
買い物を終えて屋敷に戻ると、庭に猫がいた。
一匹ではない。五匹だ。
三毛猫、黒猫、白と茶のぶち猫、灰色の縞猫、そして全身真っ白の猫。皆、セレスティアを見つけると警戒して身構えた。
「まあ……」
セレスティアは立ち止まった。
猫たちは痩せている。あばら骨が浮いて見える子もいる。祖母が亡くなってから三年、誰も餌をやる人がいなかったのだろう。
胸が痛んだ。
買い物袋を見下ろす。パン、チーズ、野菜、そして少しの干し肉。人間用の食料だが、猫に分けてやることはできる。
しかし、それでいいのだろうか。
「猫に構うな」とノアは言った。人間嫌いだから、と。
でも、この空腹の猫たちを見て見ぬふりをすることは、セレスティアにはできなかった。
考えた末、彼女はノアの家を訪ねることにした。
玄関の扉を叩くと、しばらく間があって扉が開いた。
ノアは相変わらず無愛想な顔で、セレスティアを見下ろした。
「何だ」
「あの、猫の餌について教えていただきたくて」
「猫の餌?」
「私の屋敷の庭に、猫が五匹います。とても空腹そうで……何を食べさせればいいのか分からなくて」
ノアの目が、わずかに変わった。
無関心から、かすかな興味へ。
「……中に入れ」
ノアの家に入ると、猫の匂いがした。
しかし不快な匂いではない。清潔に保たれた室内には、至るところに猫がいた。棚の上、椅子の上、窓辺、床の上。様々な色と大きさの猫たちが、思い思いの場所でくつろいでいる。
「十三匹だ」
セレスティアの視線に気づいたノアが言った。
「今は十三匹いる」
「すごい……」
「すごくない。捨てる人間がいるから、こうなる」
その言葉には、静かな怒りが込められていた。
ノアは棚から大きな袋を取り出した。
「これが猫用の餌だ。乾燥させた魚と穀物を混ぜたもので、村の漁師から仕入れている」
「それを、分けていただけますか」
「金は取らない」
ノアは袋をセレスティアに押しつけた。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「毎日、ちゃんと世話をしろ。餌をやるだけじゃない。水も替えろ。病気の兆候がないか、毎日観察しろ。飽きたから放り出す、なんてことは許さない」
厳しい口調だった。しかし、その厳しさの裏にある優しさを、セレスティアは感じ取った。
「分かりました」
彼女はしっかりと頷いた。
「毎日、きちんと世話をします」
ノアはじっとセレスティアを見つめた。嘘をついていないか確かめるように。
そして、小さく頷いた。
「餌のやり方を教える。ついてこい」
ノアは庭に出て、実演してみせた。
餌の量、水の替え方、猫の呼び方。一匹一匹の性格が違うこと、無理に触ろうとしないこと、信頼関係を築くには時間がかかること。
無愛想な口調は変わらなかったが、説明は丁寧だった。
「この黒いのはクロ。臆病だが、慣れれば一番甘えてくる。そっちの三毛はミケ。お前を引っ掻いた奴だ。人間嫌いだが、こいつにも事情がある」
「事情?」
「前の飼い主に虐待されていた。だから人間を信用できない」
セレスティアは胸が詰まった。
あの三毛猫——ミケは、人間に傷つけられた過去があるのだ。だから、近づこうとすると攻撃する。
それは、自己防衛なのだ。
ふと、自分自身と重なる気がした。セレスティアも、人を信じることが怖くなっている。王太子に裏切られ、社交界で笑われ、両親にすら理解されない。心を閉ざしたくなる気持ちは、痛いほど分かる。
「猫は、無理強いしても心を開かない」
ノアが言った。
「ただ側にいて、待つしかない。いつか向こうから近づいてくるのを」
その言葉は、猫のことだけを言っているのだろうか。
セレスティアはノアの横顔を見つめた。この人も、何か傷を抱えているのかもしれない。
餌の袋を抱えて屋敷に戻ると、五匹の猫たちがまだ庭にいた。
教わった通りに餌を準備し、庭の隅に置く。少し離れた場所に水の器も用意した。
猫たちは警戒しながらも、餌の匂いに惹かれてじりじりと近づいてきた。
セレスティアは動かず、じっと見守った。
最初に餌にありついたのは、灰色の縞猫だった。がつがつと貪るように食べる様子が、どれほど空腹だったかを物語っている。
続いて黒猫が、白とぶちの猫が、そして白猫が。
最後まで近づかなかったのは、三毛猫のミケだった。
他の猫たちが食べ終わっても、ミケは離れた場所から様子を窺っている。
「大丈夫よ」
セレスティアは静かに語りかけた。
「怖くないから」
ミケは答えない。じっとこちらを見つめている。
無理強いはしない。ノアの言葉を思い出し、セレスティアは立ち上がって家の中に入った。
窓から庭を見ると、ミケがようやく餌に近づいていた。
セレスティアがいなくなったことを確認して、ようやく安心できたのだろう。
少し寂しかったが、それでいいのだと思った。
信頼は、一日では築けない。
夕方、玄関の扉を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には、焼きたてのパンが入った籠を持っている。
「差し入れだよ。あんた、ろくなもの食べてないだろう」
「マーサさん……ありがとうございます」
セレスティアは思わず目頭が熱くなった。
「おやおや、泣くことはないよ」
マーサは笑いながら家に上がり込んだ。
「あんた、ノア先生と話したんだって? 猫の餌をもらいに行ったって聞いたよ」
「村の人は何でもご存知なんですね」
「狭い村だからねえ。噂はすぐに広まる」
マーサはリビングを見回し、感心したように言った。
「へえ、随分きれいにしたじゃないか。エルザ様が見たら喜ぶよ」
「まだまだ途中ですけど」
二人でテーブルを囲み、マーサが持ってきたパンを分け合った。焼きたてのパンは、王都のどんな高級菓子よりも美味しく感じられた。
「ところでね」
マーサがお茶を啜りながら言った。
「あんた、ノア先生とまともに話せたのは、この村に来て初めての人だよ」
「え?」
「あの人、本当に人付き合いが苦手でね。診療の時以外は誰とも口を利かない。あたしが話しかけても、必要なこと以外は答えないんだ」
セレスティアは驚いた。確かにノアは無愛想だったが、猫のことについてはきちんと教えてくれた。
「猫の話だったからかもしれません」
「そうかもしれないねえ」
マーサは意味深な笑みを浮かべた。
「でもあんた、諦めないでおやりよ。あの人にも、話し相手が必要だと思うんだ」
話し相手。
セレスティアは窓の外を見た。ノアの家の方向には、夕日が沈みかけている。
あの無愛想な医師は今、十三匹の猫たちと何をしているのだろう。
「そうですね」
セレスティアは小さく呟いた。
「猫の世話のこと、もっと教えてもらいたいですし」
その夜、セレスティアは祖母の日記を見つけた。
屋敷の掃除を進める中で、書斎の引き出しから出てきたのだ。古びた革表紙のノートには、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
最後の記述は、亡くなる一週間前のものだった。
『今日も猫たちが来た。ミケはまだ私に心を開いてくれないけれど、それでもいい。この子なりのペースがある。人間も、猫も、傷つけば時間がかかるものだ。でも、諦めずに側にいれば、いつかきっと通じ合える。私はそう信じている』
セレスティアは日記を閉じ、胸に抱いた。
祖母は最後まで、猫たちを愛していたのだ。
そして今、その猫たちがセレスティアの前にいる。
「おばあ様」
セレスティアは呟いた。
「私、ちゃんと世話しますから」
窓の外で、猫の鳴き声がした。
明日も、猫たちが待っている。
屋敷にあった保存食はとうに底を尽き、昨夜は井戸水だけで夜を越した。空腹で目が覚めるという経験は、二十三年の人生で初めてのことだった。
村の中心部にある雑貨屋は、「マーサの店」という看板を掲げた古い建物だった。
扉を開けると、カウベルが乾いた音を立てる。店内には食料品から日用品まで、雑多な品物が所狭しと並んでいた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の老婆が顔を出した。丸い眼鏡をかけ、人の良さそうな顔をしている。
「ああ、あんたが噂の都会のお嬢さんかい」
「セレスティアと申します。エルザの孫です」
「知ってるよ。村中の噂になってる」
老婆はにっこりと笑った。
「あたしはマーサ。この店を五十年やってる。何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
セレスティアは少し安堵した。村人たちの冷ややかな視線には慣れつつあったが、こうして親しく話しかけてくれる人がいるのは心強い。
「パンと、チーズと、野菜を少しいただけますか。それと……」
「猫の餌かい?」
マーサが目を細めた。
「あんた、ノア先生に会ったんだろう?」
セレスティアは驚いて老婆を見た。
「ノア先生……あの方は、お医者様なのですか?」
「そうさ。三年前にこの村に来た。腕は確かだよ。うちの亭主が倒れた時も、すぐに駆けつけてくれた」
マーサはパンを包みながら、ノアについて語り始めた。
「でもね、変わり者でね。村人との付き合いを避けてるんだ。挨拶しても返事しないし、世間話にも応じない。だから最初の頃は、村の連中も警戒してたよ」
「それでも、医師として認められているのですか」
「腕がいいからねえ。それに、お金がない人からは診療代を取らない。子供が熱を出せば夜中でも往診に行く。そういうところは、皆分かってるんだ」
セレスティアは、あの無愛想な青年の意外な一面を知った。
「でも一番変わってるのは」
マーサは声をひそめた。
「猫だよ。あの人、捨て猫や野良猫を見つけると、必ず保護するんだ。今、あの家には十匹以上の猫がいるはずさ」
「十匹以上……」
「傷ついた動物も同じ。鳥でも狐でも、何でも治療する。村の子供たちは『猫先生』って呼んでるよ」
猫先生。
セレスティアは思わず微笑んだ。あの冷たい態度の青年が、捨て猫を保護しているなど、想像もつかなかった。
「あんたの屋敷の庭にも、猫が来るだろう?」
マーサが言った。
「エルザ様が生きてた頃、よく猫たちに餌をやってたんだ。だから今でも、あの辺りをうろついてる子が何匹かいる」
「ああ、だから……」
三毛猫がいた理由が分かった。あの猫は、祖母に餌をもらっていたのだ。
買い物を終えて屋敷に戻ると、庭に猫がいた。
一匹ではない。五匹だ。
三毛猫、黒猫、白と茶のぶち猫、灰色の縞猫、そして全身真っ白の猫。皆、セレスティアを見つけると警戒して身構えた。
「まあ……」
セレスティアは立ち止まった。
猫たちは痩せている。あばら骨が浮いて見える子もいる。祖母が亡くなってから三年、誰も餌をやる人がいなかったのだろう。
胸が痛んだ。
買い物袋を見下ろす。パン、チーズ、野菜、そして少しの干し肉。人間用の食料だが、猫に分けてやることはできる。
しかし、それでいいのだろうか。
「猫に構うな」とノアは言った。人間嫌いだから、と。
でも、この空腹の猫たちを見て見ぬふりをすることは、セレスティアにはできなかった。
考えた末、彼女はノアの家を訪ねることにした。
玄関の扉を叩くと、しばらく間があって扉が開いた。
ノアは相変わらず無愛想な顔で、セレスティアを見下ろした。
「何だ」
「あの、猫の餌について教えていただきたくて」
「猫の餌?」
「私の屋敷の庭に、猫が五匹います。とても空腹そうで……何を食べさせればいいのか分からなくて」
ノアの目が、わずかに変わった。
無関心から、かすかな興味へ。
「……中に入れ」
ノアの家に入ると、猫の匂いがした。
しかし不快な匂いではない。清潔に保たれた室内には、至るところに猫がいた。棚の上、椅子の上、窓辺、床の上。様々な色と大きさの猫たちが、思い思いの場所でくつろいでいる。
「十三匹だ」
セレスティアの視線に気づいたノアが言った。
「今は十三匹いる」
「すごい……」
「すごくない。捨てる人間がいるから、こうなる」
その言葉には、静かな怒りが込められていた。
ノアは棚から大きな袋を取り出した。
「これが猫用の餌だ。乾燥させた魚と穀物を混ぜたもので、村の漁師から仕入れている」
「それを、分けていただけますか」
「金は取らない」
ノアは袋をセレスティアに押しつけた。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「毎日、ちゃんと世話をしろ。餌をやるだけじゃない。水も替えろ。病気の兆候がないか、毎日観察しろ。飽きたから放り出す、なんてことは許さない」
厳しい口調だった。しかし、その厳しさの裏にある優しさを、セレスティアは感じ取った。
「分かりました」
彼女はしっかりと頷いた。
「毎日、きちんと世話をします」
ノアはじっとセレスティアを見つめた。嘘をついていないか確かめるように。
そして、小さく頷いた。
「餌のやり方を教える。ついてこい」
ノアは庭に出て、実演してみせた。
餌の量、水の替え方、猫の呼び方。一匹一匹の性格が違うこと、無理に触ろうとしないこと、信頼関係を築くには時間がかかること。
無愛想な口調は変わらなかったが、説明は丁寧だった。
「この黒いのはクロ。臆病だが、慣れれば一番甘えてくる。そっちの三毛はミケ。お前を引っ掻いた奴だ。人間嫌いだが、こいつにも事情がある」
「事情?」
「前の飼い主に虐待されていた。だから人間を信用できない」
セレスティアは胸が詰まった。
あの三毛猫——ミケは、人間に傷つけられた過去があるのだ。だから、近づこうとすると攻撃する。
それは、自己防衛なのだ。
ふと、自分自身と重なる気がした。セレスティアも、人を信じることが怖くなっている。王太子に裏切られ、社交界で笑われ、両親にすら理解されない。心を閉ざしたくなる気持ちは、痛いほど分かる。
「猫は、無理強いしても心を開かない」
ノアが言った。
「ただ側にいて、待つしかない。いつか向こうから近づいてくるのを」
その言葉は、猫のことだけを言っているのだろうか。
セレスティアはノアの横顔を見つめた。この人も、何か傷を抱えているのかもしれない。
餌の袋を抱えて屋敷に戻ると、五匹の猫たちがまだ庭にいた。
教わった通りに餌を準備し、庭の隅に置く。少し離れた場所に水の器も用意した。
猫たちは警戒しながらも、餌の匂いに惹かれてじりじりと近づいてきた。
セレスティアは動かず、じっと見守った。
最初に餌にありついたのは、灰色の縞猫だった。がつがつと貪るように食べる様子が、どれほど空腹だったかを物語っている。
続いて黒猫が、白とぶちの猫が、そして白猫が。
最後まで近づかなかったのは、三毛猫のミケだった。
他の猫たちが食べ終わっても、ミケは離れた場所から様子を窺っている。
「大丈夫よ」
セレスティアは静かに語りかけた。
「怖くないから」
ミケは答えない。じっとこちらを見つめている。
無理強いはしない。ノアの言葉を思い出し、セレスティアは立ち上がって家の中に入った。
窓から庭を見ると、ミケがようやく餌に近づいていた。
セレスティアがいなくなったことを確認して、ようやく安心できたのだろう。
少し寂しかったが、それでいいのだと思った。
信頼は、一日では築けない。
夕方、玄関の扉を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には、焼きたてのパンが入った籠を持っている。
「差し入れだよ。あんた、ろくなもの食べてないだろう」
「マーサさん……ありがとうございます」
セレスティアは思わず目頭が熱くなった。
「おやおや、泣くことはないよ」
マーサは笑いながら家に上がり込んだ。
「あんた、ノア先生と話したんだって? 猫の餌をもらいに行ったって聞いたよ」
「村の人は何でもご存知なんですね」
「狭い村だからねえ。噂はすぐに広まる」
マーサはリビングを見回し、感心したように言った。
「へえ、随分きれいにしたじゃないか。エルザ様が見たら喜ぶよ」
「まだまだ途中ですけど」
二人でテーブルを囲み、マーサが持ってきたパンを分け合った。焼きたてのパンは、王都のどんな高級菓子よりも美味しく感じられた。
「ところでね」
マーサがお茶を啜りながら言った。
「あんた、ノア先生とまともに話せたのは、この村に来て初めての人だよ」
「え?」
「あの人、本当に人付き合いが苦手でね。診療の時以外は誰とも口を利かない。あたしが話しかけても、必要なこと以外は答えないんだ」
セレスティアは驚いた。確かにノアは無愛想だったが、猫のことについてはきちんと教えてくれた。
「猫の話だったからかもしれません」
「そうかもしれないねえ」
マーサは意味深な笑みを浮かべた。
「でもあんた、諦めないでおやりよ。あの人にも、話し相手が必要だと思うんだ」
話し相手。
セレスティアは窓の外を見た。ノアの家の方向には、夕日が沈みかけている。
あの無愛想な医師は今、十三匹の猫たちと何をしているのだろう。
「そうですね」
セレスティアは小さく呟いた。
「猫の世話のこと、もっと教えてもらいたいですし」
その夜、セレスティアは祖母の日記を見つけた。
屋敷の掃除を進める中で、書斎の引き出しから出てきたのだ。古びた革表紙のノートには、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
最後の記述は、亡くなる一週間前のものだった。
『今日も猫たちが来た。ミケはまだ私に心を開いてくれないけれど、それでもいい。この子なりのペースがある。人間も、猫も、傷つけば時間がかかるものだ。でも、諦めずに側にいれば、いつかきっと通じ合える。私はそう信じている』
セレスティアは日記を閉じ、胸に抱いた。
祖母は最後まで、猫たちを愛していたのだ。
そして今、その猫たちがセレスティアの前にいる。
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セレスティアは呟いた。
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