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ノアの薬が投与されてから、三日が経った。
父の容態は、少しずつ安定してきていた。
顔色が戻り、呼吸も落ち着いてきた。まだ寝台から起き上がることはできないが、会話ができるようになった。
「効いているようだな」
王都の医師が感心したように言った。
「この薬、どこで手に入れたのです?」
「グリーンヒル村の薬草から作りました」
ノアが答えた。
「ほう……田舎にも、優秀な医師がいるものだ」
その言葉に、ノアは何も答えなかった。
父が目を覚ましている時間が増えた。
「セレスティア……ノア君」
父が二人を呼んだ。
「何ですか、お父様」
「二人に、話しておきたいことがある」
父は寝台に身を起こそうとした。ノアが手を貸して、上体を支える。
「ありがとう……さて」
父はセレスティアを見た。
「お前の母とも話し合った。お前が村で暮らすこと、正式に認める」
「お父様……」
「ノア君。娘を、頼んだぞ」
ノアは真剣な目で頷いた。
「お任せください」
「それと——」
父は少し言いよどんだ。
「クレメンス侯爵家の縁談の件だが」
セレスティアの胸がざわついた。
あの話は、もう終わったはずでは——
「ルートヴィヒ君から、正式に辞退の申し入れがあった。理由は——自分に心に決めた人ができたから、だそうだ」
「ルートヴィヒ様が?」
「ああ。どうやら、お前と会った後、昔の想い人と再会したらしい。身分の差を乗り越えて、結ばれることにしたとか」
セレスティアは驚いた。
あの誠実な人にも、幸せが訪れたのだ。
「良かった……」
「だから、縁談の件は完全に白紙だ。もうお前を縛るものはない」
父は微笑んだ。
「自由に生きろ、セレスティア」
その夜、セレスティアは屋敷の庭を歩いていた。
月明かりが、整えられた花壇を照らしている。ここで育った日々を思い出す。
窮屈だった。息苦しかった。
でも、嫌いではなかった。
「ここにいたか」
振り返ると、ノアが立っていた。
「ノアさん」
「夜風に当たりたくなってな」
ノアがセレスティアの隣に並んだ。
「親父さん、良くなってきているな」
「はい。ノアさんのおかげです」
「俺のおかげじゃない。あの人の生命力だ」
「でも、薬がなければ……」
「いいから」
ノアはセレスティアを見た。
「それより——お前、本当にいいのか」
「何がですか?」
「この屋敷を出て、あの村で暮らすこと。後悔しないか」
セレスティアは少し考えた。
「後悔……するかもしれません」
「……」
「この屋敷で育ちました。家族がいます。思い出もたくさんあります。全部捨てるわけじゃないけど、離れて暮らすのは——寂しいです」
「なら——」
「でも」
セレスティアはノアの手を取った。
「それでも、私はあの村で生きていきたい。猫たちと、マーサさんたちと、そして——ノアさんと」
「……」
「後悔するかもしれないけど、それでいいんです。自分で選んだ道だから」
ノアは黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「俺も、後悔していることがある」
「何ですか?」
「王都にいた頃、もっと早く——自分の意志で生きていれば良かった。周りの期待に応えることばかり考えて、自分を見失っていた」
「ノアさん……」
「お前は、俺と同じ過ちを繰り返すな。自分の心に正直に生きろ」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「だから——ノアさんと一緒にいることを選びます」
ノアの手が、セレスティアの手を握り返した。
「……俺も、お前を選ぶ」
不器用な言葉。でも、それがノアの精一杯だと分かっていた。
「ありがとう、ノアさん」
二人は、月明かりの下で寄り添っていた。
翌日、母イレーネがセレスティアを呼んだ。
「話があるわ」
母の顔は、以前より穏やかになっていた。
「あの医師——ノアさんと言ったかしら」
「はい」
「彼のおかげで、あなたの父は助かりそうだわ。感謝しています」
「お母様……」
「正直に言うわ。私は、あの人を認めたくなかった。身分もない、愛想もない、過去に何かあったらしい——そんな男に、娘を任せたくなかった」
「……」
「でも」
母の目が、少し潤んでいた。
「彼は、あなたのために王都まで来てくれた。あなたの父のために、村に戻って薬を作り、三日も眠らずに届けてくれた」
「……」
「それは——本当にあなたを大切に思っているからでしょう。私にも、それくらいは分かるわ」
セレスティアの目から涙が溢れた。
「お母様……」
「だから、認めます。あなたの選択を。あの人を」
母がセレスティアを抱きしめた。
ぎこちなく、慣れていない動作。でも、確かに——母の愛情がそこにはあった。
「幸せになりなさい、セレスティア」
「はい……はい、お母様」
長い間、二人は抱き合っていた。
数日後、父の容態はさらに安定した。
医師は「峠は越えた」と言った。完全に回復するには時間がかかるが、命に別状はないとのことだった。
「そろそろ、村に戻ってもいいだろう」
父が言った。
「お父様……」
「いつまでもここにいる必要はない。お前には、帰る場所があるんだろう」
父は微笑んだ。
「ノア君、娘を頼んだぞ」
「はい」
ノアは頭を下げた。
「必ず、幸せにします」
「期待しているよ」
出発の朝、家族が見送りに出た。
父は寝台から起き上がり、窓際に座っていた。母と弟のフリードリヒ、妹のエミリアが玄関に立っている。
「お姉様、必ず遊びに行きますからね」
エミリアが手を振った。
「姉上、お元気で」
フリードリヒも、珍しく笑顔を見せた。
「手紙を書きなさいよ。定期的に」
母が言った。
「はい、お母様」
馬車に乗り込む前、セレスティアは振り返って深くお辞儀をした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
馬車が動き出す。
窓から見える家族の姿が、少しずつ小さくなっていく。
涙が頬を伝った。
でも、悲しい涙ではなかった。
「大丈夫か」
ノアが聞いた。
「はい。大丈夫です」
セレスティアは涙を拭いて微笑んだ。
「帰りましょう。私たちの村に」
馬車は、王都を後にした。
父の容態は、少しずつ安定してきていた。
顔色が戻り、呼吸も落ち着いてきた。まだ寝台から起き上がることはできないが、会話ができるようになった。
「効いているようだな」
王都の医師が感心したように言った。
「この薬、どこで手に入れたのです?」
「グリーンヒル村の薬草から作りました」
ノアが答えた。
「ほう……田舎にも、優秀な医師がいるものだ」
その言葉に、ノアは何も答えなかった。
父が目を覚ましている時間が増えた。
「セレスティア……ノア君」
父が二人を呼んだ。
「何ですか、お父様」
「二人に、話しておきたいことがある」
父は寝台に身を起こそうとした。ノアが手を貸して、上体を支える。
「ありがとう……さて」
父はセレスティアを見た。
「お前の母とも話し合った。お前が村で暮らすこと、正式に認める」
「お父様……」
「ノア君。娘を、頼んだぞ」
ノアは真剣な目で頷いた。
「お任せください」
「それと——」
父は少し言いよどんだ。
「クレメンス侯爵家の縁談の件だが」
セレスティアの胸がざわついた。
あの話は、もう終わったはずでは——
「ルートヴィヒ君から、正式に辞退の申し入れがあった。理由は——自分に心に決めた人ができたから、だそうだ」
「ルートヴィヒ様が?」
「ああ。どうやら、お前と会った後、昔の想い人と再会したらしい。身分の差を乗り越えて、結ばれることにしたとか」
セレスティアは驚いた。
あの誠実な人にも、幸せが訪れたのだ。
「良かった……」
「だから、縁談の件は完全に白紙だ。もうお前を縛るものはない」
父は微笑んだ。
「自由に生きろ、セレスティア」
その夜、セレスティアは屋敷の庭を歩いていた。
月明かりが、整えられた花壇を照らしている。ここで育った日々を思い出す。
窮屈だった。息苦しかった。
でも、嫌いではなかった。
「ここにいたか」
振り返ると、ノアが立っていた。
「ノアさん」
「夜風に当たりたくなってな」
ノアがセレスティアの隣に並んだ。
「親父さん、良くなってきているな」
「はい。ノアさんのおかげです」
「俺のおかげじゃない。あの人の生命力だ」
「でも、薬がなければ……」
「いいから」
ノアはセレスティアを見た。
「それより——お前、本当にいいのか」
「何がですか?」
「この屋敷を出て、あの村で暮らすこと。後悔しないか」
セレスティアは少し考えた。
「後悔……するかもしれません」
「……」
「この屋敷で育ちました。家族がいます。思い出もたくさんあります。全部捨てるわけじゃないけど、離れて暮らすのは——寂しいです」
「なら——」
「でも」
セレスティアはノアの手を取った。
「それでも、私はあの村で生きていきたい。猫たちと、マーサさんたちと、そして——ノアさんと」
「……」
「後悔するかもしれないけど、それでいいんです。自分で選んだ道だから」
ノアは黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「俺も、後悔していることがある」
「何ですか?」
「王都にいた頃、もっと早く——自分の意志で生きていれば良かった。周りの期待に応えることばかり考えて、自分を見失っていた」
「ノアさん……」
「お前は、俺と同じ過ちを繰り返すな。自分の心に正直に生きろ」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「だから——ノアさんと一緒にいることを選びます」
ノアの手が、セレスティアの手を握り返した。
「……俺も、お前を選ぶ」
不器用な言葉。でも、それがノアの精一杯だと分かっていた。
「ありがとう、ノアさん」
二人は、月明かりの下で寄り添っていた。
翌日、母イレーネがセレスティアを呼んだ。
「話があるわ」
母の顔は、以前より穏やかになっていた。
「あの医師——ノアさんと言ったかしら」
「はい」
「彼のおかげで、あなたの父は助かりそうだわ。感謝しています」
「お母様……」
「正直に言うわ。私は、あの人を認めたくなかった。身分もない、愛想もない、過去に何かあったらしい——そんな男に、娘を任せたくなかった」
「……」
「でも」
母の目が、少し潤んでいた。
「彼は、あなたのために王都まで来てくれた。あなたの父のために、村に戻って薬を作り、三日も眠らずに届けてくれた」
「……」
「それは——本当にあなたを大切に思っているからでしょう。私にも、それくらいは分かるわ」
セレスティアの目から涙が溢れた。
「お母様……」
「だから、認めます。あなたの選択を。あの人を」
母がセレスティアを抱きしめた。
ぎこちなく、慣れていない動作。でも、確かに——母の愛情がそこにはあった。
「幸せになりなさい、セレスティア」
「はい……はい、お母様」
長い間、二人は抱き合っていた。
数日後、父の容態はさらに安定した。
医師は「峠は越えた」と言った。完全に回復するには時間がかかるが、命に別状はないとのことだった。
「そろそろ、村に戻ってもいいだろう」
父が言った。
「お父様……」
「いつまでもここにいる必要はない。お前には、帰る場所があるんだろう」
父は微笑んだ。
「ノア君、娘を頼んだぞ」
「はい」
ノアは頭を下げた。
「必ず、幸せにします」
「期待しているよ」
出発の朝、家族が見送りに出た。
父は寝台から起き上がり、窓際に座っていた。母と弟のフリードリヒ、妹のエミリアが玄関に立っている。
「お姉様、必ず遊びに行きますからね」
エミリアが手を振った。
「姉上、お元気で」
フリードリヒも、珍しく笑顔を見せた。
「手紙を書きなさいよ。定期的に」
母が言った。
「はい、お母様」
馬車に乗り込む前、セレスティアは振り返って深くお辞儀をした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
馬車が動き出す。
窓から見える家族の姿が、少しずつ小さくなっていく。
涙が頬を伝った。
でも、悲しい涙ではなかった。
「大丈夫か」
ノアが聞いた。
「はい。大丈夫です」
セレスティアは涙を拭いて微笑んだ。
「帰りましょう。私たちの村に」
馬車は、王都を後にした。
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