あなたの幸せを、心からお祈りしています

たくわん

文字の大きさ
8 / 10

対峙

エドゥアルトが王都を離れる日が来た。

冬の朝、冷たい風が吹く中、彼は馬に跨り、北方への道を進み始めた。随行するのは、わずか二人の若い兵士だけ。かつての近衛騎士としての栄光は、もうどこにもなかった。

王都の門を抜ける時、エドゥアルトは一度だけ振り返った。

遠くに見える王宮。あそこに、リディアがいる。

彼女は今頃、笑顔で音楽を奏でているだろう。オットー王子と共に、幸せな未来を築いているだろう。

「行こう」

エドゥアルトは手綱を引き、馬を北へと向けた。

振り返っても、もう何もない。前を向いても、希望は見えない。

ただ、歩き続けるしかなかった。

一方、王宮では華やかな準備が進められていた。

リディアとオットーの結婚式は、両国の友好の象徴として、盛大に執り行われることになっていた。

リディアは自分のウェディングドレスの最終確認をしていた。純白のドレスには、繊細な銀糸の刺繍が施され、音符の模様が描かれている。

「美しいですわ、リディア様」

侍女たちが感嘆の声を上げた。

「ありがとう。でも、ドレスよりも大切なのは、誓いの言葉よ」

リディアは微笑んだ。

結婚式では、伝統的な誓いの言葉に加えて、リディアとオットーは音楽で誓いを交わすことにしていた。二人で作曲した『永遠の調和』という曲を、式の最中に演奏するのだ。

「リディア」

扉がノックされ、父ハインリヒが入ってきた。

「父様」

「もうすぐお前は嫁いでいくんだな」

ハインリヒの目には涙が浮かんでいた。

「寂しくなるよ」

「父様……」

リディアは父に抱きついた。

「でも、遠くへ行くわけじゃありません。いつでも会いに来ますから」

「ああ、わかっている。お前は立派になった」

ハインリヒは娘の頭を撫でた。

「お前の母も、きっと誇りに思っているだろう」

「母様……」

「お前は母の夢を叶えたんだ。音楽で、多くの人を幸せにした」

父は娘の肩を掴み、真っすぐに見つめた。

「幸せになれ、リディア。お前は、それだけの価値がある」

「はい、父様」

リディアは涙を拭いた。

「私、幸せになります」

数日後、王宮の大聖堂で結婚式が執り行われた。

聖堂は花で飾られ、数百本の蝋燭が灯されていた。王族、貴族、外交官、そして平民の音楽家たちまで、身分を超えた人々が集まっていた。

リディアは父に腕を取られ、バージンロードを歩いた。純白のドレスが蝋燭の光を受けて輝いている。

祭壇には、オットーが待っていた。彼は深紅の礼服を着て、緊張した面持ちで立っている。

リディアと目が合うと、彼の表情が柔らかくなった。

父がリディアの手をオットーに預ける。

「娘をよろしく頼みます」

「はい。必ず幸せにします」

オットーは深く頭を下げた。

司祭が二人の前に立ち、厳かに式を始めた。

「オットー・フォン・ノルトハイム。あなたはこの女性を妻とし、喜びの時も悲しみの時も、共に歩むことを誓いますか」

「誓います」

オットーの声は力強かった。

「リディア・フォン・ムジーク。あなたはこの男性を夫とし、喜びの時も悲しみの時も、共に歩むことを誓いますか」

「誓います」

リディアの声も、はっきりと響いた。

「では、指輪の交換を」

二人は互いに指輪をはめ合った。

そして、伝統的な誓いの後、特別な儀式が始まった。

リディアはヴィオラを、オットーはチェロを手に取った。

「これから、私たちの誓いを音楽で表します」

リディアが会衆に向かって言った。

二人は楽器を構え、視線を交わした。

そして、演奏が始まった。

『永遠の調和』。二人で作り上げた曲だ。

ヴィオラとチェロが対話する。問いかけ、応え、時に離れ、また近づく。それは二人の関係そのものだった。

やがて二つの旋律が一つになり、美しいハーモニーを奏でる。それは永遠の愛を誓う、神聖な音楽だった。

会場は静まり返っていた。多くの者が涙を流していた。

曲が終わると、司祭が宣言した。

「神の御名において、ここに二人が夫婦となったことを宣言します」

会場が拍手と歓声に包まれた。

オットーはリディアを抱きしめ、唇を重ねた。

幸せな瞬間だった。

式の後、盛大な宴が開かれた。

音楽が響き、料理が並び、人々が祝福の言葉を述べに来る。

「おめでとうございます、リディア様」

「お幸せに」

「素晴らしい結婚式でした」

リディアは一人一人に感謝の言葉を述べた。

マルティン、アンナ、ペーターも駆けつけてくれた。

「リディア、本当におめでとう」

マルティンが涙ぐんでいた。

「僕たち、ずっと応援しているよ」

「ありがとう、マルティン」

リディアは仲間たちを抱きしめた。

「これからも、一緒に音楽を作りましょう」

「もちろんだよ」

宴が最高潮に達した時、王太子妃エリザベータが立ち上がった。

「皆様、ここで特別な発表がございます」

会場が静まる。

「リディア・フォン・ムジーク、いえ、リディア・フォン・ノルトハイム王妃に、『宮廷音楽総監』の称号を授けることが決まりました」

どよめきが広がる。宮廷音楽総監。それは両国の音楽文化の最高責任者を意味する、前例のない地位だった。

「さらに、王妃の提案による音楽学院の設立が、正式に承認されました」

会場が拍手に包まれた。

「才能ある者は、身分に関係なく学べる場所。それが、新しい時代の幕開けとなるでしょう」

リディアは感極まって涙を流した。

すべてが叶った。音楽も、愛も、夢も。

オットーが彼女の手を握った。

「おめでとう、リディア」

「ありがとう……あなたのおかげです」

「いや、すべてあなた自身の力だよ」

二人は微笑み合った。

一方、北方の辺境、グラウ砦。

エドゥアルトは寒風吹きすさぶ砦の見張り台に立っていた。

ここは王都から遠く離れた、忘れ去られた場所だった。任務は単調で、来る日も来る日も同じことの繰り返し。かつての栄光など、遠い夢のようだった。

「隊長、交代の時間です」

若い兵士が声をかけた。

「ああ、わかった」

エドゥアルトは見張り台を降りた。

狭い詰め所に戻ると、古参の兵士が酒を飲んでいた。

「よう、エドゥアルト。王都から来た騎士様は、こんな辺境の暮らしはつらいだろう」

皮肉を込めた言葉だった。

「慣れるさ」

エドゥアルトは答えた。

「そういえば、王都からの便が来ていたぞ。お前宛てだ」

兵士が手紙を投げてよこした。

エドゥアルトは手紙を開いた。差出人は、かつての同僚騎士だった。

手紙には、リディアとオットーの結婚式のことが書かれていた。盛大な式典、音楽総監の任命、音楽学院の設立。

そして、最後にこう書かれていた。

「お前が捨てた女性は、国を代表する音楽家となり、王妃となった。お前は何を得て、何を失ったのか、よく考えるといい」

エドゥアルトは手紙を握りしめた。

胸が痛んだ。でも、涙は出なかった。

「そうか……リディアは結婚したのか」

小さく呟く。

「おめでとう……本当に、おめでとう」

その言葉は、誰にも届かなかった。

夜、エドゥアルトは一人、砦の外に出た。

星空が広がっていた。王都で見た星空と、同じ星空だ。

「リディア……」

名前を呟く。

「君は、幸せになったんだな」

風が吹いた。冷たく、容赦ない風だった。

「私は……愚かだった」

エドゥアルトは地面に膝をついた。

「地位や財産を選んで、本当に大切なものを失った」

涙が溢れた。

「君といれば……君と一緒なら、どんな困難も乗り越えられたかもしれない」

でも、もう遅い。

リディアは前に進んでいる。自分だけが、過去に囚われている。

「これが……報いか」

エドゥアルトは空を見上げた。

星は、何も答えてくれなかった。

ただ冷たく、遠く、瞬いているだけだった。

数ヶ月後、エドゥアルトの下に別の知らせが届いた。

元妻アデーレが、別の男性と再婚したという知らせだった。相手は年老いた伯爵で、莫大な財産を持っているという。

「結局、彼女も財産を選んだか」

エドゥアルトは苦笑した。

自分と同じだ。そして、同じように不幸になるだろう。

もう一通、手紙があった。

騎士団からの通知だった。

「勤務態度良好につき、このまま辺境での任務を継続する」

つまり、王都への帰還はない、ということだ。

エドゥアルトは手紙を破り捨てた。

「もういい……もう、何もいらない」

すべてを諦めた瞬間だった。

一方、リディアとオットーは、新婚生活を満喫していた。

二人は宮殿の一角に音楽室を設け、毎日のように演奏を楽しんでいた。

「リディア、この部分はどう思う?」

オットーが新しい曲の楽譜を見せた。

「素敵です。でも、ここにもう少し変化をつけたら」

リディアがペンを取り、楽譜に書き込む。

二人で作る音楽は、日に日に豊かになっていった。

そして、音楽学院の建設も着々と進んでいた。

「来春には開校できそうです」

リディアは建設現場を見ながら言った。

「多くの才能ある子供たちが、ここで学ぶのね」

「ええ。そして、いつか彼らが、新しい音楽を生み出すでしょう」

オットーは妻の肩を抱いた。

「あなたの夢が、現実になる」

「二人の夢です」

リディアは微笑んだ。

「あなたがいなければ、ここまで来られませんでした」

「いや、すべてあなたの力だよ」

二人は見つめ合い、口づけを交わした。

幸せだった。心から、幸せだった。

ある日の夕方、リディアは一人、宮殿の屋上に立っていた。

夕日が沈み、空が茜色に染まっている。

あの日、婚約破棄を告げられた日から、どれだけの時が過ぎたのだろう。

「私は、ここまで来た」

小さく呟く。

傷つき、苦しみ、でも諦めなかった。音楽を信じ、自分を信じた。

そして、本当の幸せを掴んだ。

「エドゥアルト様」

久しぶりに彼の名前を口にした。

「あなたが私を捨てたことを、今は感謝しています」

リディアは微笑んだ。

「あなたのおかげで、私は本当の自分を見つけられた。本当の幸せを知ることができた」

風が吹いた。優しく、温かい風だった。

「どうか、あなたも幸せになってください」

それが、リディアが彼にかけられる最後の、本当に最後の言葉だった。

もう、過去は振り返らない。

これから先、ずっと前だけを見て生きていく。

オットーと共に。音楽と共に。

リディアは屋上を後にし、音楽室へと向かった。

そこには、愛する夫が待っている。

そして、まだ見ぬ未来が、輝いている——。
感想 2

あなたにおすすめの小説

愛しの第一王子殿下

みつまめ つぼみ
恋愛
 公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。  そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。  クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。  そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。

幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。

たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。 彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。 『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』 「……『愛している』、ですか」 いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。

私の婚約者様には恋人がいるようです?

鳴哉
恋愛
自称潔い性格の子爵令嬢 と 勧められて彼女と婚約した伯爵    の話 短いのでサクッと読んでいただけると思います。 読みやすいように、5話に分けました。 毎日一話、予約投稿します。

【完結】傲慢にも程がある~淑女は愛と誇りを賭けて勘違い夫に復讐する~

Ao
恋愛
由緒ある伯爵家の令嬢エレノアは、愛する夫アルベールと結婚して三年。幸せな日々を送る彼女だったが、ある日、夫に長年の愛人セシルがいることを知ってしまう。 さらに、アルベールは自身が伯爵位を継いだことで傲慢になり、愛人を邸宅に迎え入れ、エレノアの部屋を与える暴挙に出る。 挙句の果てに、エレノアには「お飾り」として伯爵家の実務をこなさせ、愛人のセシルを実質の伯爵夫人として扱おうとする始末。 深い悲しみと激しい屈辱に震えるエレノアだが、淑女としての誇りが彼女を立ち上がらせる。 彼女は社交界での人脈と、持ち前の知略を駆使し、アルベールとセシルを追い詰める貴族らしい復讐を誓うのであった。

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

【完結】その人が好きなんですね?なるほど。愚かな人、あなたには本当に何も見えていないんですね。

新川ねこ
恋愛
ざまぁありの令嬢もの短編集です。 1作品数話(5000文字程度)の予定です。

死ぬまでに叶えたい十の願い

木風
恋愛
「あなたを妻として、愛することはない。おそらく、生涯抱くこともないだろう」 三年間の白い結婚——捨て置かれた王太子妃エリアーナに、側妃が『死の呪い』をかけ余命一年を宣告する。 離縁を願うも拒否され、代わりに「死ぬまでに十の願いを叶えて」と契約する—— 二人きりの外出、星空、海…ささやかな願いが王太子の心をほどいていく。

最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる

椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。 その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。 ──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。 全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。 だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。 「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」 その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。 裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。