怖さの記録

路地裏れい

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目が覚めたのね。

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Tは困惑していた。気が付けば見知らぬ天井が彼の視界を覆っていたからだ。視線を横へとずらすと、右手には管が一本繋いであり、ゆっくり上へと見上げていくと〈点滴〉が目に入る。どうやら自分は今、何かしらの処置を受けているらしい。いつ、どこで、どうしてこうなったのだろう。Tは思考を巡らせた。しかし答えは出て来ない。

 本来であれば、ここは病院で、横になっているのはベッドのはず。しかしTが寝ているのは草臥れた煎餅布団。掛け布団からはかび臭い臭いが漂い、点滴周りに巻かれた包帯には赤黒い血液のような物が染み付いている。不思議と痛みはないが…。暫く呆けたように天井を見つめていると、何者かがTに声を掛けた。それは…

それは、ひどく掠れた女の声だった。

「…目が、覚めたのね」

反射的に声の方へと視線を向ける。そこにいたのは、白衣を着た女。いや、女“だったもの”とでも言うべきか。髪はところどころ抜け落ち、顔には深く乾いたひび割れが走っている。まるで干からびた粘土の人形のように見えた。

Tの鼓動が一拍、遅れた。
その異様な存在が、何の感情もない瞳でこちらを覗き込んでいる。次の瞬間、Tはある違和感に気付いた。――目の前のそれが、自分の“名前”を呼んでいないことだ。
目が覚めた、そう言っただけ。
この場所を知っている者なら、自分を「Tさん」や「○○さん」と呼ぶはずだ。だが、それがない。

恐怖の片鱗が、喉元に張り付く。

「…ここは、どこですか?」

Tは喉の奥から、かすれた声を押し出す。
女は答えない。ただ、にたりと、笑った。
その瞬間だった。
天井の蛍光灯が、一度チカチカと瞬き――ぶつん、と音を立てて消えた。
闇が落ちる。

しかし完全な暗闇ではない。すぐに代わりに灯ったのは、赤黒い非常灯のような薄暗い光。その中で、女の顔が、今にも崩れ落ちそうなほどぐにゃりと歪んだ。

「大丈夫。すぐに、慣れるわ。あなたも、もう、──“こちら側”だから。」

その言葉に、Tは全身が凍るような感覚を覚えた。
何が「こちら側」なのか。
逃げなければ。ここにいてはいけない。直感が警鐘を鳴らす。
しかし体は動かない。点滴の管は肉に食い込み、包帯は拘束のようにきつく巻かれていた。
女が、ひとつ、口を開けた。
奥に、もう一つの顔が見えた。

──自分と、まったく同じ顔だった。

Tは目を閉じて現実から逃れようとした。怖い、怖い、怖い。これはきっと悪い夢で、何時ものように飲みすぎて、悪夢を見ているだけ。
夢なら覚めろ、覚めろ、覚めろ!

現実は非情だった。

目開けたとき、もう一人の自分は恐ろしくひきつった顔でニタリと笑った。

「お前の番、だよ」

 その声が、自分の口から発せられたように響いた。Tは否定しようとしたが、喉は音を拒んだ。硬直したままの体の上に、“もうひとりの自分”がゆっくりと這い寄ってくる。

 顔が近づく。まったく同じ顔。けれど、瞳の奥に映るものだけが違っていた。
 黒い瞳は、まるで底のない井戸のようだった。覗き込んだ瞬間、自分という存在の境界がぐにゃりと溶けていく。

 「覚えてないふり、もうやめようよ」

 “それ”は笑った。唇の端が、耳元まで裂けていた。

 Tの頭の中に、知らない部屋、濡れた床、首のない誰か、ありえない映像が、一気に流れ込んでくる。どれも自分の記憶ではないはずなのに、どうしてか懐かしい。

 「大丈夫、すぐ慣れる。そう言って、前の人も泣き止んだ」

 Tは叫びたかった。だが、声は出ない。代わりに“それ”が、Tの喉元へと手を滑らせた。
 触れられた瞬間、Tの視界が反転する。

 そのとき、Tは気づいた。目を閉じていたのは、自分ではなかった。

 ──目を開けたのは、“もうひとりの方”だった。

もう一人の[自分]は笑顔で見下ろしている。笑い声を上げることもなく、何かを発するわけでもなく、首を異常な程に永く、永く、伸ばし。此方をのぞき込んでいるだけだった。
 色のない瞳は光を吸い込む様に暗く、Tの様子をいとも愉快そうな表情で眺めている。冷たい感覚が首を包んだ。

 「あ、がっ…!!」

 鈍い声。男とも、女とも、呼べない。形容し難い鈍い声。骨の軋む音。ゴボゴボと何かが泡立つ音。硬い何かに肉がぶつかる様な激しい音。

 音は続く。声は次第にか細い声から野太い声に。地の底から這うような絶叫に。耳を塞ぎたくなるような叫び声は薄暗い四畳半の室内に嫌と言うほど木霊した。

 「うる、さいんだよっ!!」

 Tは目を見開き、もう一人の自分と。それを抱える女に馬乗りになっていた。片手は強く握られ、手にはべっとりと赤色の液体がこびり付いている。薄汚れた病衣が汚れるのも厭わず、深く刺された点滴が千切れて外れることも厭わず、組み敷いた女ともう一人の自分を殴り続ける。女は何も話さない。だらりと空いた口元からは止めどなく血の泡が吹き出て、最早もう一人の顔なんて見えやしない。それでも、確実に、命を絶つように、もう二度と起きぬようにと祈るように、振り下ろす拳は止まらなかった。

殴るたびに、肉の奥で何かが砕ける感触が掌を通して伝わってくる。血と鉄の匂いが鼻を刺し、口の中までも生臭さで満たされた。腕が痺れても、指の骨が悲鳴を上げても、Tは止まらなかった。止まれば、また「そいつ」が笑う気がした。

 やがて、部屋の空気が不自然に静まり返った。荒い息の音だけが四畳半に満ちる。振り下ろした拳を、ようやくTはゆっくりと引いた。そこに横たわるのは血塗れの肉塊――女か、もう一人の自分か、判別もつかない。

 「……終わった、はずだ」

 Tは震える声で呟いた。だが、答えるように、視界の隅で“何か”が蠢いた。黒い影が、ぐずぐずと溶け崩れながら這い寄ってくる。それは血の海から滲み出るようにして形を取り、また首を異様に伸ばし――笑っていた。

 「ま~だだよ♡」

 耳元で囁く声。振り返った瞬間、Tの後頭部を冷たい掌が掴み、力強く押さえ込んだ。呻き声を上げたTの視界に、無数の「自分」の顔が浮かび上がる。鏡のように、だがどれもが歪んだ笑みを浮かべ、暗い瞳でこちらを覗き込んでいた。

 逃げ場は、どこにもなかった。

「いつも見守っているよ」

 Iはそう言って微笑んだ。記憶の中の彼女は、いつも穏やかな笑みを浮かべている。白い麦わら帽子と、ワンピースがよく似合う…ヒマワリのような子だった。まさか自分が彼女と婚約者になれるだなんて、思いもしなかった。

 私は必死にIを繋ぎ止めようと努力した。高いディナーにブランド品、背伸びして借りたレンタカーを自分のものと偽って身の丈に合わぬ旅行等にも連れて行った。天上の人のような彼女には、何を与えれば喜ぶのか凡人の自分になんて知る由もなかった。

 私は必死だった。どうしたら離れないでいてくれるのか、どうしたら自分だけを見てくれるのか。段々と答えが分からなくなってしまったのだ。

 そしてある日、デートの帰り道にIは静かに告げた。「もう疲れちゃったの」と。

 私は耳を疑った。必死に金を注ぎ、時間を費やし、心を削り与え続けてきたのに、彼女の瞳には哀れみしか映っていなかった。

 「違うんだ、俺は――」と口を開くより早く、彼女は冷え切った笑みを浮かべて席を立つ。そこにはかつての向日葵の輝きはなく、ただ汚れたものを避けるような軽蔑の色だけが残った。

 数日後、SNSには彼女と別の男の影。高級車の助手席、指先に煌めく新しい指輪。私が背伸びしても届かなかった景色の中で、彼女は心底幸せそうに笑っていた。

 胸が裂けるように痛み、吐き気が込み上げる。だが涙は出ない。ただひとつ確かなのは、私が必死に捧げたものは、彼女にとっては「暇つぶし」でしかなかったという事実だ。

 「いつも見守っているよ」――あの言葉だけが嘲笑のように頭の中で反響する。
 私は今も画面を見つめながら、爪が割れるほどスマホを握りしめ、ただひとつの思いだけを噛みしめている。


 ――どうして俺じゃなかったのか。

 1ヶ月後の夜、私はレンタカーの中で待った。彼女と新しい男が出てくるのを。笑いながら腕を絡め、私の存在を欠片ほども思い出さないその姿が、視界に映った瞬間、頭の中が真っ赤に染まった。

 気づけば手には鈍い鉄パイプ。男の後頭部に叩きつけると、湿った音と共に地面に崩れた。Iの悲鳴が耳を突き刺す。彼女の細い手首を掴み、無理やりトランクに押し込むと、爪で顔を引っかかれた。血の味が口に広がる。それすらも愛おしく感じた。

 廃工場へ連れ込み、口を布で塞ぎ、彼女の瞳を覗き込む。かつて「見守っている」と言ったその唇は、今や恐怖で震えている。私は笑った。ようやく彼女が自分だけを見ている、と。

 刃を突き立てる度に悲鳴が布越しに漏れ、鮮血が床に花のように咲く。爪が剥がれるほど拘束を引きちぎろうと暴れる姿は、滑稽で、愛おしく、そして許せなかった。

 最後に、彼女の心臓が止まる瞬間を見届け、頬に口づけを落とした。温もりはすぐに冷え、白いワンピースは赤に染まった。

 「これでやっと、ずっと一緒だ」

 私の耳には、もう彼女の声は返ってこない。ただ鉄と血の匂いだけが、永遠に残った。

 彼女と私が本当の意味で繋がったのは、奇しくも彼女と出会ってから5年後の記念日だった。

意識は緩やかに戻った。自分に迫る無数の手、けたたましく聴こえる笑い声、その中で、もう一人の自分は笑っていた。それはもう、大きく、すべてを飲み込むくらいの闇を湛えた口を、顎が外れるまで開いて。

 無数の顔はいつの間にか消失し、眼前に残っていたのはひとつだけ。ぽっかりと闇に浮かぶ様に、白い顔が一つ、そこにあった。

 彼はとても悲しそうに、笑っていた。取り込まれていたのは誰だったのか。そう言葉が聞こえそうなくらい。

 「私」に点滴をさしていたのは誰だったのか。そんな事を考える暇なんて、無かったのだと思う。

 白衣を着た女の残骸は、Tが殺した婚約者であるIだった。Iの形をした怪異だと言ってもいいのかもしれない。全てを思い出したTはガックリと項垂れて咽び泣くしかできなかった。

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、と粘性の音が響く。いつの間にかIは元の姿に戻っていた。白い麦わら帽子と、白いワンピース、腰まで伸びた黒曜石の様に艷やかな黒い髪、記憶の中のキラキラとした世界に置き去りにしたような、そんな彼女が、今もなお自分を見つめて笑っていた。

 愛おしそうにTを見つめていたIは、蠱惑的な声で囁いた。

 「いつも、見守っているよ。」

 鈍い音が、四畳半にこだました。

Tの意識が、また遠のいた。

 いや、そう思ったのは錯覚だった。意識は確かにある。思考もある。目も、耳も、感覚もある。だが、自分の体が動かない。

 暗闇の中に浮かぶ、白い天井。聞き覚えのある、かび臭い布団の匂い。
 そして――右手には、また管が繋がっていた。

 (……また、ここだ)

 声は出ない。口も動かない。ただ、目だけが、横にずれる。視界の端に映る、女。
 白衣。乾いた肌。ひび割れた頬。さっき壊したはずの女が、何事もなかったようにそこにいた。

 違う。いや、“同じ”なのだ。

 あれはIではない。けれど、Iだったもの。

 Iの記憶、Iの顔、Iの言葉を纏った、何か。

 女がゆっくりと、いつものように口を開く。

 「……目が、覚めたのね」

 Tは、叫ぼうとした。喉が焼けるほどに、脳が軋むほどに、全身が拒絶しているのに、それは叶わない。

 視線を少しだけずらすと、布団の向こうにもう一つの影が見えた。

 ……自分自身だった。顔が、笑っていた。

 「お前の番は、まだ終わってない」

 鏡のような声が、耳の中で反響する。
 その瞬間、Tは理解した。

 殴っても、叫んでも、壊しても、燃やしても、何も終わらない。

 “あの日”の繰り返しは、終わらない。
 彼女を奪った世界も、憎しみを捧げた自分も、すべてがこの部屋に溶けている。

 永遠に、彼女に見つめられながら。
 永遠に、「見守られ」ながら。

 鈍く、点滴の機械が鳴る。

 それが、「始まりの音」に聞こえた。

「これはなんなんだ!?」

 Tが叫び声を上げる。Iは何も答えない。Tの幻影も何も答えない。

 ただ、ただ、点滴が落ちる音、側に置かれたモニターの電子音、ひび割れたガラスがきしむ音、音、音、音、

 音だけがTに情報を与え続けていた。

 「貴方が一番よく知っているくせに」

 漸く、Iがそう言った。乾いた声で、どこか嘲笑めいた、そんな声で。

 鈴を転がすような可愛らしい声は、過去へと消えてしまった。

 「私の番とは…い、一体…なんなんだ!教えて、くれ。教えてくれ…。」

 ガシャン!と点滴のポールが弾き飛ばされた。Tの腕は乱暴に動かされ、針をも引き抜いていたのだ。

 「だめっ…!」

 Iが悲鳴のような声で叫んだ。

 そして、視界がぐらりと動いた気がした。

鉄と薬液の匂いが、むせ返るほど濃密にTの鼻腔を満たす。滴り落ちた血が白布に滲み、花弁のような模様を描いていく。
 世界は緩慢に、しかし確実に傾いでいた。

 「だめ……」

 Iの声は、かつての甘やかな残響とは似ても似つかぬ、掠れた祈りの断片に過ぎなかった。その眼差しは憐憫か、あるいは愉悦か。どちらにしても、Tを救うものではない。

 ぐらり、と揺れる視界に映るのは、砕けたガラス片のきらめき。まるで星辰を閉じ込めた夜空の断片が、足元に散らばっているように見えた。Tはその星々を掴もうとするが、指先はただ、虚無をかすめる。

 「貴方の番――」

 Iは低く、囁くように繰り返した。その声音は死神の吐息にも似て、甘やかで、酷薄で、抗えぬ旋律のようにTの耳朶を打った。

 血潮の香りは薔薇より濃く、閉ざされた室内はまるで祭壇めいてゆく。Tは膝を折り、崩れ落ちる刹那、自らが供物であることを悟った。

 そして、音だけが残った。
 点滴の雫の途絶えた静寂と、遠ざかる心臓の鼓動と…。
どくん、と胸を打つたび、Tの内奥から熱が押し出される。血は脈打ち、皮膚を破り、絨毯の上に赤黒い絵画を描いていく。

 「供物に相応しい……」

 Iの声は笑みに濡れていた。そこに慈愛はない。ただ、かつて愛と信じられた温もりを巧妙に剝ぎ取り、残酷な悦びへとすり替えた声だった。

 Iの幻影は幾重にも増え、Tを取り囲む。どの顔も、微笑を湛えている。だが微笑の奥には、牙を隠した獣の気配があった。

 「やめろ……近寄るなッ!」

 Tは叫ぶ。しかし、腕を振り払った瞬間、皮膚を裂いた針穴から更なる鮮血が飛び散り、床を朱で染める。

 幻影たちは血の滴を舌で舐めとりながら、鈴の音のような笑い声を重ねる。甘く、澄み切って、それでいて底なしに不快な音。

 「ねぇ、覚えているでしょう? 最初に誓った言葉を」

 Iの本体が囁く。耳許に、柔らかく。けれど次の瞬間、爪先でTの胸を抉るように押し込み、心臓の鼓動を直に感じ取ろうとする。

 「あなたの命は、最初から私のものだった」

 崩れ落ちる視界の奥で、光はひとつずつ消え、音だけが残った。
 血の滴る音。骨が軋む音。愛を模した狂気の声。

 そしてTの呻きは、やがて声にもならぬ呼吸の断片となり、最後には空気へと溶けていった。

Tの内から、最後の息が抜ける。

 その瞬間、世界が一度だけ「音」を失った。

 点滴の滴る音も、幻影たちの嘲笑も、Iの囁きも――何もかもが、沈黙という名の深淵に吸い込まれる。

 Tの目は虚ろに開いたままだった。焦点を結ばない瞳は、天井の染みをただ映し続ける。
 血で濡れた病衣はすでに色を変え、腕の針痕からは赤黒い液がじわりと染み続けていた。

 だが、その身はもう、ただの器に過ぎない。

 「…終わったね」

 Iの声がそう言った。だが、それはもはや“あの頃のI”ではなかった。
 顔だけが同じで、中身はまるで別のモノのようだった。静かで、清らかで、それでいて絶望的に空っぽな声。

 彼女は、Tの傍に膝をつき、そっと耳元へ唇を寄せる。

 「これで、やっと迎えに行ける」

 言葉の意味を理解するより早く、Tの身体が痙攣した。
 腹部から何かが這い出る感覚。喉が無意識にうめく。
 骨の隙間から、黒く濁った煙のようなものが立ち昇る。

 Tの記憶。Tの声。Tの罪。Tの執着。
 全てが剥がれ、もつれ合いながら天井へ吸い上げられていく。

 そして、その煙の中から――“もうひとりのT”が現れた。

 焼け焦げたように真っ黒な顔。笑っている口元だけが、白く、くっきりと浮かぶ。

 「次は、ぼくの番だよ」

 Iはゆっくりと立ち上がり、煙のTへ手を伸ばす。
 それはまるで、何年も会えなかった恋人に向けるような、どこまでも優しい手だった。

 指先が触れた瞬間、部屋全体が「ゆらり」と揺れた。
 照明が一瞬だけ強く光り、そして――すべてが、闇へと塗りつぶされた。

 ***

 次に目を覚ましたとき、そこには“新しいT”がいた。

 布団は湿っていた。点滴は繋がれていた。天井の染みは、どこか見覚えがある。

 そしてその横には、女が座っていた。

 「……目が、覚めたのね」

 Tは、自分が誰なのか思い出せなかった。ただ、耳の奥にこびりついた言葉だけが、いつまでも消えなかった。

 ――あなたの命は、最初から私のものだった。

Iは男がキライだった。13歳の頃、見知らぬ男から暴行を受けたきり…男そのものと話すことさえ嫌悪を憶えた。その対象は、実の父親にまで及ぶ事になる。男を好きにならねば、Iの家系は没落すると母に言われた。だがしかしIは、そんな母親に心底軽蔑の色を示す事になる。

 そんな男を甚振って生計を立てているあんたに、そんな事を言われたくない。

 Iの家には秘密がある。それは代々男を飼うこと。金で買うのではない。己の魅力に引き寄せられた、ハエのような男どもを意のままにコントロールし、継続的に資金提供をしてもらう…父の名を持つ相手は一番の太客だ。実際に血のつながりがあるわけではない。Iの父親は、母親すらも顔が知らない。

 本当ならば、Iが13歳の時に[太客]が決まるはずだった。

 しかし、Iが10歳の頃…学校の帰り道に出会った不届き者にその純潔を散らされてしまった。これでは[消費者]に食い潰されるだけね、と蔑むような目で語る母親の目が今でも忘れられない。

 Iは18の夏に[両親を殺した]。客も皆この手で殺した。己の中に毒を飼うようにしたのだ。彼女の血液の中には、劇毒が巡っている。何故死なぬのかは彼女自身も分からない。そんなI家は、没落するばかりか、繁栄の道へと漕ぎ出していった。女投手であるI。男を骨抜きにして、自由に操るI。

 悪女の様な狂人のくせに、類稀なる美貌と強運の持ち主のせいなのか、誰もIが悪女であると見抜く事が出来なかった。

 だからこそ…今回のゲームの参加者であるTも、Iの本性を見抜くことが出来なかったのだ。

闇は時を奪う。昼夜の感覚はとうに失せ、Tに残されたのは「生かされている」という事実のみだった。いつの間にやら架せられた鎖の重みが足首に食い込み、乾いた唇は裂け、喉の奥では血の味が鉄と混じり合う。肉体の苦痛は確かに苛烈であったが、それ以上に、心がじわじわと侵されていく感覚こそ耐え難かった。

 Iの姿は、まるで幻のように唐突に現れる。彼女は何もせず、ただこちらを見下ろし、薄い笑みを浮かべるだけだ。その一瞥に、Tの心は引き裂かれる。憎悪が湧く…だが同時に、凍える孤独の中で彼女の存在を渇望してしまう。待っているのは地獄だと知りながら、扉の軋む音を望んでしまう自分が許せなかった。

 「俺はまだ人間なのか?」

 自問が虚空に落ちていく。答えは返らない。思考は絡まり、やがて「生き延びる」ことと「彼女に従う」ことの境界を見失っていく。拒絶したいのに、微笑に跪きたい衝動が胸を掻き毟る。その屈辱は、死の恐怖よりも濃く彼を蝕んだ。

 Iは一言も「殺す」とは告げない。楽しそうに笑うだけ。だが、それが何よりも残酷だった。Tは悟る――この監禁の本質は、肉体を縛ることではない。心そのものを、徐々に彼女の掌へと絡め取ることなのだ。

 死を願う瞬間すら、Tにとっては贅沢であった。彼はただ、「壊され尽くす」未来を受け入れざるを得ないのだと、暗闇の奥で知った。

 闇は容赦なく、Tの内側にまで染み込んでいった。生きているという実感はすでに曖昧で、肉体の痛みさえ霞み始める。代わりに、心の中に広がるのは、骨の髄を蝕むような虚無だけだった。

 Iは現れるたびに、微笑を絶やさない。その微笑は慰めではなく、鋭利な刃であった。彼女は何も語らず、ただ見下ろす。それだけでTの内側は砕かれていく。もはや憎悪も、恐怖も、形を保てない。残されたのは、「Iの視線を乞う」という屈辱的な欲求だけだった。

 …声をかけてほしい。
 …いっそのこと、踏みにじってほしい!!

 自分がそう願っていることに気づくたび、Tは吐き気を覚えた。だが、その吐き気すら甘美に変わっていく。破滅を望むことこそ、唯一の救済に思えた。

 ある夜、IはTの足元に小さな器を置いた。中身は濁った水か、それとも毒か。彼女は何も告げずに去っていく。Tは器を見下ろし、笑いにも似た嗚咽を漏らした。飲めば死ぬかもしれない。飲まなければ、また明日も「彼女を待つ」地獄が続くだけだ。

 …どちらが救いなのか。

 壊れた、Tには、知る術などない。

器の縁に、黒い膜が浮いている。ぬるりと揺れる。Tは震える手で器を持ち上げ、唇に触れさせた瞬間――鼻腔を焼くような薬臭さに嘔吐感が込み上がる。喉は拒む。しかし、Iの視線が降りる。穏やかで、命令より冷たい視線だった。Tは笑いとも嗚咽ともつかぬ息を吐き、液体を流し込んだ。

 舌が痺れ、食道の内側を爪で引っ掻かれるような熱が走る。胃の底で何かが泡立ち、逆流する。Tは布団に身を折り、胃液と黒い泡を吐いた。泡の中で、小さな白い塊がふやけて崩れ――それが自分の舌の皮だと気づいた瞬間、喉が勝手に笑いの痙攣を起こした。

「ね、すぐ慣れるって言ったでしょう」

 Iは点滴の流量を上げた。透明な雫が首筋の血管を這い、心臓の裏側を氷の針で突く。Tの指が勝手に弾けるように震え、爪がベッド板に擦れて剥ける。剥けた爪の下で、柔らかな肉がひりつく。Iは無造作にTの手首を掴み、関節をひとつずつ逆側へ折った。骨が皮の下でゆっくり割れる音が、四畳半の空気に甘く響いた。

「――あ、あ…」

 肺が圧縮され、空気が漏れる笛のような声しか出ない。Iは耳を寄せ、囁く。

「あなたの声は、もう必要ないの」

 錆びたカートが引き寄せられる。上段には番号の刻印が付いた試験管がずらりと並ぶ。01、02、03……太い筆記体でTの頭文字。中身は凝った血、溶けた肉片、灰色の髄。下段には、磨かれた骨鋸と、焦げた跡の残る電気メス。Iは骨鋸を取ると、Tの左の肋骨を探り、皮膚に印を付けた。

「前のあなたはね、ここで止めてって泣いたの。可笑しいでしょう、止める人なんていないのに」

 刃が沈む。皮膚が裂け、黄色い脂が押し出され、肋間の筋がぴん、と張って切れる。骨に当たる震えが腕から喉へ伝わり、眼窩の裏まで痺れた。Tは視界を逃がそうと天井の染みを見つめる。だが染みは形を変え、笑う口の輪郭になる。薄い蛍光の残光の中、口は開閉を繰り返し、同じ言葉を吐く。

――お前の番だよ。

 鋸は骨の内側へ食い込み、肺の端を引っ掠めた。呼吸のたびに泡立つ血が喉から音を立てる。Iは濡れ布で血を拭い、破れた肺に針を刺し、管を通した。空気が抜け、Tの胸はまた上下するようになった。生かされるための処置。死なせるための準備。

「ほら、また息ができる」

 IはTの胸腔から細長い、まだ温い膜を摘まみ上げた。薄い膜に点々と浮かぶ暗い斑。Iはそれを小瓶に滑り込ませ、ラベルを貼る。《T-118/回収:胸膜/状態:良》。棚に並んだ同じ瓶が、規則正しく並ぶ。各瓶の奥で、わずかに泡が立つ。生きているかのように。

Tは首を横に振ろうとした。動かない。代わりに眼球だけが左右に泳ぎ、部屋の隅を捉える。そこには、袋詰めの“何か”が吊られていた。透ける薄い袋の中で、人影が胎児のように丸まっている。口には管、腕にはタグ。《T-119/培養中》。

Iは点滴のバッグを取り替えた。今度は淡い琥珀色の液体。雫が落ち始めると、Tの指先の痛みが引き、代わりに脳の奥で金属音が鳴り始めた。遠くで鉄橋が軋むような、連続的な悲鳴。誰の声か分からない悲鳴が、頭蓋の内壁で跳ね返る。Tは自分の舌を噛もうとする。噛めない。歯は既に抜かれていた。

「終わりが見えると、いつもみんな綺麗になる」

Iはそう言いながら、Tの頬を撫でた。撫でる指先が、次の瞬間、頬骨の下へ無理やり押し込まれた。皮下を剥がす感覚。顔が内側から外へ剥がれ、涙と血と唾液が混ざって垂れる。Iは指を抜き、Tの顔を真っ直ぐに正した。微笑みやすい角度に。

「ね、可愛い」

Tは、笑った。笑うしか残っていない顔で。頬が裂け、口角の糸が切れて、血が顎を伝って落ちた。Iは満足げに頷き、最後のバッグを吊る。無色透明、光を噛むように粘る液。

「これは鍵。開けるための。閉じるための」

雫が落ちるたび、Tの体温が静かに下がっていく。指の先から順に色が抜け、耳鳴りが海鳴りに変わる。IはTの胸に耳を当て、最後の鼓動を数えるように囁いた。

「三、二、一――」

音は止まった。

静寂。何もない。なのに、Tは確かに自分が“剥がされていく”のを感じた。皮膚、肉、臓器、骨――その順ではない。もっと細い、記憶の糸、癖、癇癪、好きだった匂い、嫌いだった雨音。一本一本が指で摘まれ、器に沈められ、番号を書かれ、棚に置かれていく。

暗闇の向こうで、袋が切り開かれる音がした。新しい空気、新しい泣き声――泣き声はすぐ止まる。袋の中の「次のT」が目を開ける。管が刺される。鎖が掛けられる。白衣が覗き込み、あの掠れ声が言う。

「……目が、覚めたのね」

棚の瓶が微かに鳴り、ラベルが揺れた。《T-118》。その下に、新しいスペースが空いている。《T-119》のために。Iは血の付いた指で空隙を撫で、微笑む。四畳半の窓のひびが、笑い皺のように広がった。

遠くで、点滴の機械が鳴る。最初の雫が落ちる音――

始まりの音が、また、部屋を満たした。

蛍光灯の死骸が天井からぶら下がり、四畳半の空気は鉄と薬液と、少し甘い腐臭で満ちている。Iはラベルを一枚剥がし、真新しい瓶に貼った。《T-119/良》。指先に付いた赤を、白衣の裾で無造作に拭う。棚の列は壁一面へ延び、脳回・舌皮・胸膜・関節液・硝子体――分類された「T」の断片が整然と鎮座している。寺の位牌のように。

ベッド上の“新しいT”は、まだ喉に管を咥えたまま虚ろな目を揺らす。Iはその頬をつ、と撫で、縫い針を取り出した。黒糸が一本、ピン、と震える。

「笑っていないと、かわいくないから」

糸は皮膚の内側を通り、口角から耳介の下へ。素早い縫合で「微笑」の形が固定される。血が点々と珠をつくり、首へ伝って落ちる。Iは満足そうに針を置き、次に骨箱を引き寄せた。抜いたばかりの歯が銀の器の底で乾いた音を立てる。Iは歯を細い針金に通し、ちりん、と鳴る長い首飾りを作る。

「風鈴にしましょう」

窓の桟に掛けられた歯の輪は、わずかな通風で微かに歌い出す。ちりん、ちりん。Tはその音に目を瞬かせた。耳の奥で同じ音が幾重にも重なり、過去の「自分たち」が合唱しているように聞こえる。Iは笑い、点滴のコックを半回転させ、雫の速度を上げた。

「次は、骨ね」

彼女は胸郭の開いた古いT――まだ温度の残る「118番」から、整った肋骨を選び取る。艶のある白が美しい。糸鋸で端を整え、釘を打ち、枠をつくる。肋骨の輪は、歯の風鈴の下にぶら下がり、二重の楽器になった。とくん、とくん、と、遠い鼓動の残響が骨を震わせ、ちりん、と歯が応える。室内は祭壇めいていく。

Iは祭壇の前へ瓶を三つ並べた。《脳回》《硝子体》《声帯》。その液に指を浸し、床へ符のような印を描く。円、縦線、細い斜線。I家に伝わる印か、単なる彼女の遊戯か。最後に、最初に剥いだT-001の名札を円の中心へ置いた。

「はじめましょう。終わりの支度を」

Iは新しいTの頭皮へ細い刃先を立て、皮下へ薬液を注ぐ。冷たい流れが頭蓋を一周する。視界の端が銀にきらめき、音が剥がれて匂いになる。Tは息を吸う。肺の奥で潮が巻く。骨の風鈴が鳴り、雫が落ちる。Iは彼の耳元で囁く。

「あなたの全部を、分けてね。上手に分かれて、綺麗に並んで」

刃が指へ移動する。第一関節の腱が弾け、指が花弁のように開く。Iはほどけた腱を一本ずつ摘み、薄い紙に押し付けて標本にする。紙の縁に文字が走る。《T-119/右示指伸筋腱/線》。棚の空隙がまた埋まる。新しいTはただ、固定された笑みで天井の染みを見ている。染みはやがて、丸い口に変わる。

――お前の番だよ。

Iは点滴台から透明な最後のバッグを外し、別の管へ接続する。床の円の中央、001の札の上に、小さなポンプが置かれている。管は古い瓶列へ伸び、《声帯》の瓶の口へぴたりと差し込まれる。Iはコックを開く。ポンプが低く唸り、瓶の液が管を逆流してゆく。かつてのTたちの声――擦れ、涙、懇願、嘲笑――が透明な流れの奥で泡立ち、一本の細い線音になってベッドのTの静脈へ帰っていく。

「返してあげる。あなたの声。あなたたちの声」

喉が震えた。固定された笑みの奥で、音が形を得る。新しいTは、はじめて自分の意思で口を開く。黒糸が、ぱん、と弾けた。

「……お……おま……」

Iは顔を近づける。目が合う。彼女の瞳は夜の水面に似て、底の獣を隠している。

「言ってごらん」

「お前の……番だよ」

その言葉が空気へ出た瞬間、棚の瓶が一斉に微かに鳴った。歯の風鈴が歓喜に震え、肋骨の輪が低く共鳴する。Iは満足げに目を細め、Tの胸にそっと手を置いた。指が五本、五つの肋間に沈む。

「上手に言えたね。じゃあ、終わろう。ね。綺麗に」

胸骨が裂け、臓器の重みが空気へ解放される。Iは心臓を掬い上げ、額へ軽く口づけしてから、骨の輪へ吊るした。赤い振り子は、規則的に揺れる。とくん、とくん。歯の風鈴が答え、瓶の列が頷く。Iは最後の手つきを丁寧に、Tの眼球から硝子体を採り、銀皿へ落とした。ぽとり。透明な球に、蛍光灯の死骸が逆さに映る。

Tの世界が、静かに遠ざかる。雫の数え歌が途切れ、骨の合奏が薄くなり、匂いが冷える。他人事のような痛みだけが遅れてやって来て、すぐに消えた。Iは使用済みの刃を缶に落とす音を聴き、白衣の袖を直す。棚の一角に、新しいスペースがあった。ラベルの束から一枚を抜き、丁寧な字で記す。《T-120》。Iは小さく拍手し、空隙を撫でる。

窓の外、まだ朝は来ない。四畳半の内側だけが、律儀に時を刻む。風鈴、振り子、ポンプ、雫。すべてが同じ拍を刻み、同じ言葉を繰り返す。

――始まりの音。

Iは照明のスイッチを落とし、非常灯の赤がゆっくり広がる。彼女は祭壇の前に立ち、静かに微笑んだ。

「終わり。だから、はじまり」

骨の輪が小さく鳴り、棚の瓶がかすかに震えた。ベッドの上では、もうひとつの袋が切り開かれる。新しい空気、新しい眼、新しい喉。四畳半の闇に、最初の雫が落ちる。

――ちいさな始まりが、世界を満たした。



風鈴は鳴り続けていた。歯の輪がちりんと揺れ、骨の振り子がとくんと返す。だが次第に、音は調和を失った。速すぎる振動、軋む音、金属の悲鳴のように歪んでいく。Iは首を傾げ、微笑を浮かべたまま棚を見渡す。瓶の列が震えていた。ガラスの中の肉片が泡立ち、液体が勝手に沸き立つ。まるで瓶そのものが喉を持ち、呻き声を発しているかのようだった。

「静かにしなさい。私が揃えてあげたんだから」

Iの声は甘やかで、しかし指先は震えていた。瓶が一つ、ひび割れた。ひびは音もなく広がり、内部の黒い塊がずるりと床へ流れ出す。それはただの肉ではなかった。耳だ。歯だ。顔だ。Tの断片が繋がり合い、粘ついた笑顔を作っていた。

――お前の番だよ。

音は瓶の外から響いた。Iは後ずさり、背中を骨の輪にぶつける。輪は大きく揺れ、吊るされた心臓が赤い弧を描く。とくん、とくん。その律動が、Iの胸の鼓動と重なった。汗が滲む。息が乱れる。

「ちがう、私は選ばれる側じゃない。選ぶのは私……!」

叫んだ瞬間、壁一面の瓶が一斉に破裂した。粘液と血と臓器が奔流となってIを包む。顔に貼り付く舌、脚に絡みつく腱。耳の奥で無数の「T」が囁き、笑い、泣き、呪った。

――お前の命は、最初から俺たちのものだった。

Iは掻き毟る。皮膚が剥けても、目を抉っても、声は止まらない。爪が割れ、喉が裂け、息が血泡に変わっても、音は体の内側から響き続ける。気がつけば、ベッドに横たわる袋の中の新しいTが、じっとIを見ていた。まだ生まれたばかりのはずの瞳が、嘲笑で濡れている。

「……笑うな」

Iは刃を手に取り、袋を切り裂いた。だが中から現れたのは、一体だけではなかった。崩れた胎児の影が何十、何百と這い出し、床を埋め尽くす。どの顔もT、どの声もT、だが形は歪んで獣のように蠢いた。

四畳半の壁が溶け、黒い肉の海が広がる。Iは中心で立ち尽くし、刃を振り回す。切っても切っても、分裂したTが笑う。歯の風鈴が狂ったように鳴り続け、心臓の振り子が早鐘を打ち続ける。

「私は……私こそが、支配する者なのに!」

Iの叫びは肉の海に呑まれた。腕が折られ、脚が引き裂かれ、臓腑を掬われても、Iはなお笑おうとした。だが、顔の皮膚が裂け、口角が耳まで裂けたとき、その笑みは自分ではなく「Tたち」のものになっていた。

最後に残ったIの瞳に映るのは、無数のTの笑顔。彼らは囁き続ける。

――お前の番だよ。

その声に覆われ、Iの意識は赤黒い海へと沈んでいった。

風鈴は、もう鳴らなかった。
心臓の振り子も、止まっていた。

ただ、暗闇の奥で微笑む無数の顔だけが、いつまでもIを見下ろしていた。

救いはなく、終わりもない。
それが、Iの末路だった。
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