聖典の守護者

らむか

文字の大きさ
上 下
68 / 91
六章 モノマニア・マイスター

思わぬ誤算

しおりを挟む
 表玄関にはバリケードばりの門扉、窓はいずれも塞がれ、陰鬱な中庭には武装した見張りが三人屯していた。
 屋敷と呼ぶにはいささか物々しい外見は、ここが盗賊のアジトだと大手を振ってひけらかしている風情だ。

 敷地をひと周りし、ざっと様態を把握したデューイは心の中で呟いた。

 ――バルカ。気が変わった。殲滅する。

 依頼人クライアントは、標的ターゲットは最近勢力を拡大しつつある名の通った盗賊団だと言っていたが、見たところ素人仕込みの烏合の衆だ。
 取るに足りない仕事に時間をかけてはいられない。
 ボスを単身確保するより、根絶やしにした方が早い。

 デューイが鉄条網の施された門扉を軽く飛び越えると、三人の武装した見張りの賊はすでにバルカの手によって始末されていた。


 ††


 両肩と両脚の耐え難いまでの痛みに目を覚ました。
 身体は前にだらんと傾いた格好で、二本の柱に四肢を十字に固定されている。
 卑猥なダンスを踊りながら尻を突き出したかのように半月形になった身体は裸だった。

 何が何だかわからなかった。
 眠るために寝室に入ろうとしたところで記憶が途絶えていた。

 消えかけの暖炉の火が、荒らされた室内と眼前に立つ男を朧々と照らしている。
 鼻から下を白い手拭いで覆い、白い忍びのような出で立ちのその男は、独特の方法で重力を受け止めているのか、身体をわずかに傾斜させ、焦点の合わぬ眼でこちらを見つめていた。
 人形のように微動だにしない男の瞬きのしない不気味な眼と、手に持つ忍刀しのびがたなに交互に視線を這わせながら、“この男は自分に危害を加えるつもりだろうか”と、ただそれだけに気を取られた。

「おまえがこそ泥集団のボスだな」

 ハッとした盗賊団の元締は声のした方へ首をめぐらせた。
 そこには、椅子に跨り背もたれに肘をついてこちらを向いている男がいた。

 人形のような男と酷似したその男は、両目を黒の手拭いで覆い、黒い忍びのような格好をしていた。
 しかし、白い忍びとは対照的にこの男には生気が感じられたが、その生気には人間らしからぬ邪悪な狂気が混ざり、まるで混沌カオスの裂け目から噴出する瘴煙のようなオーラを全身から放っていた。

 この状況が何かの余興であるかのように、愉悦を含んだ男の声が静まり返った部屋に響いた。

「おまえには知るべきことが二つある。ひとつ。おまえは確実に死ぬ。舌先三寸で助かろうとしても無駄だし、情報で命を買うこともできない。ふたつ。どんな死に方をするかはおまえ次第だ。おれを満足させることができれば痛みを感じることなく死ねる。満足させられなけば、その時が来るまで長時間に渡り地獄の苦しみを味わうことになる。確実に殺す証として、そして、二度と後戻りはできない証として、まず、おまえのペニスを――」

「待て! 待ってくれ!」
 デューイは1秒待った。

 盗賊団の元締は身体を仰け反らせ、あらん限りの声を振り絞って叫んだ。
 アジトには三十人ほどの仲間がいるはずだった。
 叫び終えると再び前のめりになり、喘ぎながら耳を澄ました。
 空虚で滑稽な沈黙が三人の間に蔓延った。

 次の瞬間、白い忍びの持つ忍刀しのびがたなが空を舞い、彼の頬を十文字に切り裂いた。
 元締は絶叫し始めた。

「黙れ。さもないと、もう片方も同じ目に遭う」

 元締が叫ぶのをやめると、呼吸に合わせて裂けた頬を空気が通り薄い肉片をはためかせた。
「先に言っておくべきだった。おまえの仲間は全員殺した。叫ぶだけ無駄だ。助けは来ない」

「な、何が目的だ」
 無駄な足掻きだと悟ったのか、元締はこうべを垂れた。
「おまえが襲った隊商キャラバンの略奪品の中におれの依頼人クライアントが買ったものがある。返してもらいたい」

 元締は交渉の切り札を得たと心得違いをし、一瞬安堵の表情を浮かべると、慌てて捲し立てた。
「わかった! 返す! 奪った品を一時的に保管している場所がある。複雑な場所で口ではうまく説明できない。連れて行ってやる。だから縄をほどいてくれ!」

 デューイは椅子から立ち上がると、小さく首を振った。
「まったく理解できんな。この期に及んでまだ望みがあるなどという幻想を抱いているとは……」

 バルカは元締のペニスの伸びた皮膚へ忍刀しのびがたなの血の滴る刃先をぴたりと押しつけた。

「やめろ! やめてくれ!」
 元締はバルカの刃から逃れようともがいた。
「言ったはずだ。おまえは確実に死ぬと。死に方は完全におまえ次第だ」

 元締の裂けた頬から血の混じった涎がボタボタと落ちてきた。
「確かに隊商キャラバンを襲った! だが値打ちのある物はひとつも無かった! 本当だ! あんたんとこの依頼人クライアントが勘違いをしてるんじゃないのか!?」

「あり得ない。価値を決めるのはおまえじゃない。だが、なぜとおまえは知っているんだ?」
 デューイの声音が一変した。
 どろりとした憎悪を凝縮した低く平淡な声が、元締の裸の身体を打ち震わせた。

「見りゃわかる! どれもこれもガラクタばかりだった! 値の張る物なんかあるもんか!」
 元締は、口角から泡を飛ばしながら訴えるように叫んだ。
「売ったんだな」
「ああ、売ったさ! 二束三文にしかならなかった! あんたんとこの依頼人クライアントが何を買ったか知らないが、口先ばかりの行商人に騙されたんだよ!」

 開き直った元締の口調には、未だ何かしらの期待が込められていた。
 価値のないもの、騙された依頼人クライアントという単語の中に、この状況がいかに馬鹿馬鹿しいか、いかに大袈裟であるかを必死に訴えるものがあった。
 しかし、依頼を受けた側からすれば、物がどんな物であれ、そんなことは問題ではなかった。

 デューイはバルカの肩越しに十字の形に吊るされた醜い男をつぶさに観察した。
 広い額にたるんだ頬、猪首で丸々とした身体に突き出た腹は、私利私欲にまみれた豚以下の下劣な生き物のように見えた。

「嘘ではないらしい」
 そう呟くと、嘲りとも憐れみとも取れる笑みを口角に浮かべた。

「おまえにはがっかりだ。価値があろうと無かろうとそんなことは問題ではない。問題なのは、おまえが二束三文で売った代物は、おれの依頼人クライアントが国家予算に匹敵するほどの金を出して買ったという事実だ。冥土の土産に教えてやるが、それは聖遺物と呼ばれる代物で歴史的価値が非常に高い。真贋はどうであれ、その持ち主、すなわちおれの依頼人クライアントが被る損害は計り知れない」

「嘘だ……」

「もういい。おまえには用はない。時間の無駄だ」
 デューイは踵を返すと、部屋を横切り扉へと歩を進めた。

 ――バルカ、殺せ。だが、返り血を浴びてはならない。

 デューイは心の中でバルカに指示を出した。
 振り返って確かめる必要などなかった。
 バルカはデューイと心で繋がっており彼の意のままに動く。

 まずペニスを根本から切り飛ばし、叫び声を上げる間も与えず喉を突き刺した。
 噴水のようにほとばしる血を身を翻して避けると、バルカはベッドに掛けられたシーツで忍刀しのびがたなを丁寧に拭った。


 ††


 アジトを後にし、先刻よりいっそう密になった闇の中へ足を踏み出したデューイは、多彩な絵の具の飛沫のような満天の星を見上げた。
 墨のような空はよく晴れて、冷たく凍った星々が一様に美しく光り輝いている。

 彼は、両目を覆う黒い手拭いをそっと押し下げ、多重瞳――銀色の瞳がびっしりと張り付いている――の右目で一際大きな惑星を見た。
 可視の世界が、星々を通り越して無限の極地へ進展してゆく。
 星々の虚無な瞬きに不吉な予兆を感じ取ったデューイは、その感覚を振り払うように瞳を閉じ首を左右に振った。
 同時に、浮遊感にも似た軽い眩暈を感じて手拭いを元に戻した。

 昨日の今日で、まさか売り払われているとは思いも寄らなかった。
 とんだ誤算だ。

 本来、要人暗殺が生業の暗殺者アサシンであるデューイがこの依頼を引き受けたのは、依頼内容に対して報酬が尋常じゃなかったからだ。
 二、三日で終わらせる手筈だったが、この誤算が彼の計画に水を差した。

 だが、まだ挽回できる、と彼の思考は楽観的な方向に落ち着いた。

 もし、依頼品が海を渡る行商人の隊商キャラバンに乗せられたなら取り戻すのは難しいかもしれないが、陸を渡るそれならまだ大いに望みはあった。

 阿片窟の棟梁であり、自身も暗殺者アサシンであるデューイ・マクラカンは、この時、たった一つのささやかな誤算が不可測連鎖を起こし、予期せぬ事態に発展するとは思ってもいなかった。

 通常の精神と、失ったプライドを取り戻すのに、多大な努力と時間を要し、“心中がえぐられるほどの怒りに、痙攣を起こしそうなほど身震いした”、過去の屈辱に再び対峙する現実が待っていようとは、まだ、知る由もない。
しおりを挟む

処理中です...