聖典の守護者

らむか

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六章 モノマニア・マイスター

DUOで奏でる不協和音

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 眼を覚ましたクラリスは辺りを見回した。
 だが、何も見えない。
 そこで初めて、目隠しをされているのだと気づいた。
 ふかふかのリクライニングチェアに座っている彼女は両手を上げて目隠しを取ろうとした。

「手を下ろせ」
 通電したかのように身体がビクッと硬直した。
 低く金属的な男の声は、聴神経を直接震わせ、重低音で鳴り響くボイラー音のような残響を長く曳いた。
 クラリスは一瞬、真空管に閉じ込められている錯覚にとらわれた。

 彼女はゆっくりとした動作でお行儀よく両手を膝の上で重ね合わせ、背筋を伸ばした。
 椅子に座っていること以外、何もわからない。
 音も匂いも圧力も感じない、自身の身体にピッタリしたサイズの箱に入れられているか、無限に広がる空間――宇宙――の只中を漂っているかのどちらかだと感じた。

「今から言う質問に簡潔に答えろ。わかったら頷け」
 脳内にこだまする声に、クラリスはこくんとひとつ頷いた。
 指を鳴らす音と同時に、クラリスの視界は開けた。

 彼女は薄暗い屋根裏部屋のような空間の中央に置かれたリクライニングチェアに座っていた。
 部屋には大小の様々な色に光る惑星が回転しながら浮かんでいる。
 木の床には砲弾でも落ちたのかと思われる大きな穴が開いていて、そこから青と赤に輝く透き通る体表を持つ魚の群泳が見えた。
 格子状に開いた天井から見える空は燦々と降りそそぐ陽の光にさざめく海面のように青白く、ほとんどぶつかる高さを巨大な銀河が横切ろうとしていた。

 クラリスは、幻想的な夢の世界に思わず感嘆の声を上げた。
 それでいて、箱でも宇宙でもない、現実的な空間に包まれている確かな感覚を肌で感じた。

 重力を確かめるように足先に力を入れると、微かな風の流れに乗る金木犀の香りが鼻先をかすめた。
 香りを辿り顔を巡らすと壁際の暗闇に白い人影が見えた。

「露店で買ったもう一つのメダルはどこにある?」
 どこからともなく、先ほどと同じ声が不思議な部屋に響いたが、機械的でもなく残響も伴わなかった。
 直感で、壁際に立つ白い人影が発したのではないと、それだけは確信が持てた。
 この部屋にはもう一人、男が居る。

「露店……」
 クラリスは乗馬服の左胸を飾るダリアの彫刻が施されたブローチに手をやった。
「あのメダルは……、彼がこちらのほうがわたし自身によく似合うと仰ったから……」

 指が鳴らされた。
 クラリスの視界が再び閉じた。
 微風も金木犀の香りも消え失せ、感覚が遮断され、どこを向いても常闇の広がる無限の世界へ放り出された。

「絶対的な闇と、完全なる静寂の中で人間がどれくらい正気を保っていられるか、興味があるか?」
 また、あの脳内に響き渡るハウリングした機械的な声が聞こえた。
 クラリスはこの一切の感覚の遮断された闇の空間に放置される恐怖に震え上がり、ぶんぶんとかぶりを振った。

「もう一度言う。おれの質問に答えろ。さもなくば、おまえは永遠に暗黒ヘルの世界を彷徨うことになる」
 クラリスは何度も頷いた。

 三度目の指を鳴らす音がして、クラリスは夢から覚めたようにハッと我に返った。
 彼女は眼だけを動かして不思議な部屋を見渡した。

「もう一つのメダルはどこだ」
「王妃の居所の侍女室のわたしの机の引き出しの中に」
「今から手紙を書いてもらう」

 バサバサと羽音とともにどこからともなく現れた一羽のフクロウが、天井の格子枠へ留まった。
 金木犀の香りがだんだんと近づくのを感じたクラリスは、突然白鳥の風切り羽根が眼前に現れたのでドキッとした。
 いつの間にか目の前に便箋の用意された小さな書物机ビューローが置かれ、すぐそばに立つ白い人影が羽根ペンをこちらへ差し出していた。


 ††


「なぜ知っている?」
 ユーゴへ差し出したミッション依頼書をサッと手元へ戻すと、ロイドは詰問口調で問うた。

「知ることの重要性は、主導権イニシアチブを得ることにある。物事の全体像を包括的に捉えることが戦略において極めて有利に働く」
「答えになってねえよ。ユーゴ、おまえはいったい何人のスパイを抱えてるんだ?」

 薄いベールを通して見るような、無表情とも違う、とらえどころの無い表情を浮かべるユーゴは、ロイドの質問に答える気が無いように、ウォルナットテーブルを指先でコツコツと叩いた。

 そんなユーゴを見る時、ロイドの胸中にはいつもふって湧く感情があった。
 “そのベールを剥ぎ取って、ポーカーフェイスに隠された真実の顔を曝け出させてやろうか”と。

「で、その依頼書の完遂条件コンプリート・リクエストは?」
 ユーゴはロイドのもの問いたげな漆黒の瞳を無視し、彼が手に持つ依頼書を顎でしゃくった。

「知っているくせになぜ訊く? クラリスをかすり傷一つなく取り戻すのが最重要事項だ。国王の狩りの供をしているさなかにさらわれるとか……。護衛は何をしていたんだ? 酒でも呑んでいたのか、くそが」
 ロイドは侮蔑的に鼻を鳴らすと、「面倒臭い」と独りごちた。

「ロイド、何か感じないか? 国王の護衛は百人を超える。そして、誘拐犯の目的は金ではない」
「知るか。どうでもいい」
 ロイドは、ウォルナットテーブルの大きな天板の上に眼をやりながらそんざいに答えた。

「大勢の人間のほぼ中心にいたクラリスを誰の注意も引かずにさらうなど、並大抵のことではない。相当な手練手管の技の持ち主かその道のプロ……なにをしている?」
 ユーゴは訝しげな声を出した。

「秘密」

 ウォルナットテーブルにかがみ込み、ペンを走らせているロイドは顔も上げずに答えた。


 ††


 宮殿にあるフォーサイス屋敷の私室にて、王国屈指の富を持つ男、フォーサイス公爵は川面の照り返しで明るくなった大きな窓の前に立ち、イライラとした表情を隠しもせずに待っていた。

 緋色のお仕着せを着た使用人が大広間の扉を開けたと同時に彼は振り返って叫んだ。
「待っていたぞ! さあ、中へ!」

 カーマイン・シェルクロスとその部下であるアッシュ・ウルフ=レイは追い詰められた猪のような小男を一瞥すると、無言で部屋へ足を踏み入れた。

「面倒な挨拶は抜きだ。これを」
 公爵は早咲きのバラの飾られた大きなテーブルを回り込み、シェルクロスへと足速に近づくとその手に手紙と古ぼけた重いメダルを押し付けた。

「今朝、この手紙がフクロウによって届けられた。手紙は娘の直筆だ。その粗末なメダルを指示する場所へ持ってきて欲しいと。まったく、わけがわからない。なぜ娘がそのようなガラクタを持っているのか……」

 思いのままに権力と繁栄を貪る公爵が今、一軍人であるシェルクロスの前にひざまずく勢いで詰め寄り、この誘拐劇が何かの間違いではないかという風に、頭を左右に振っている。
 彼は息を弾ませながら先を続けた。

「娘本人と交換だと書いてある。それ以外の交渉はしない、と。要するに、そのガラクタを持って来なければ娘の命はないと言うことだ。賊のことは何一つ書かれていない。娘が今どのような状態かも。取引の場所はあのフクロウが案内してくれる」

 公爵は振り返ると、午後の陽光の差し込む大きな窓の窓敷居に留まる一羽のフクロウを指し示した。

 こちらを向いたフクロウは耳のように尖った羽毛の下の大きな瞳で三つの頭と六つの瞳にサッと視線を走らせると、ピンクの縁のある焦茶色の瞳を細め、「ホウ……」とひと鳴きし、プイッとそっぽを向いた。
 灰色と茶色の混ざる艶やかな褐色の羽毛が陽光に煌めいている。

 アッシュはフクロウに歩み寄るとそっと手を差し出した。
 フクロウはチラッとアッシュを見ると、顔を上げ下げし、大きな瞳で彼の姿を不躾なほどに眺め回した。

 マスタード色のセパレートになった国家制式コートであるインパネスコートを着ているアッシュを見て独自の基準値に適ったのか、フクロウは彼の差し出す手にちょこんと乗った。

「他にも何やら指示が書いてあるが、すぐさま行動を起こし、どのような犠牲を払ってでも娘を無事に取り戻すのだ」
 公爵は熱意を込めてそう言うと一歩後退り、カーマイン・シェルクロスの真正面に立った。
 最後は命令口調になっていた。
 彼は威厳と冷静さを取り戻していた。
 ここが権力の象徴、宮殿にあるフォーサイスの屋敷であり、自身がここでの最高権力者であることを思い出したようだった。

 心ここに在らずといった風情のシェルクロスは、中指と人差し指に挟んだメダルを眼前に近づけ、裏表を返しながら仔細に眺めていた。

 そして、メダルから視線を移し、威張った猪のような小男を見下ろすと、にべもなく言ってのけた。

「公爵、あなたが行けばいい」
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