珈琲いかがですか?

木葉風子

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バレンタインのメニュー④

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束の間の休憩時間も終わり
“開店中”の札が掛けられた
あっと言う間に満席になる
「なんだか今日は
お客さん多い気がするけど」
夕方から店の手伝いに入った
双葉が驚いたように言った
「たまにはこんなときも
あるさ、じゃなきゃとっくに
閉店してるさ!」
それだけ言うとカウンターの
奥へと行く奏

「私はお邪魔のようだから
これで帰るよ」
カウンターの中にいる時に
言って帰ろうとする
「別にかまいませんよ」
時がそう言って引き止める
「イヤイヤ、これ以上いたら
奏に何言われるかだからな」
笑顔で帰ったおやじさん

閉店直前まで賑わった店内
「ありがとうございました」
最後の客が帰り静かな店内
「丸一日、ご苦労様でした」
時が労いの言葉をかける
「それにしても今日は
賑わってたわね」
大きなため息をついて
椅子に座るヒロ
「そうそう、ヒロさんは
もう歳だから一日中の
立ち仕事はキツイでしょ!」
「誰が歳だって…」
おもわず男の声に戻るヒロ
「うん、低い声も魅力的」
満面の笑みで答える奏
ムッとした顔で奏を
睨みつけたヒロ

「ヒロさん、かわいそうよ
奏さんのために一日中
頑張ったのにね!」
萌が心配そうにヒロを見る
「ほんと、女心が
わかってないのよ誰かさん」
そう言ったあとヒロに
ウインクする双葉
「女心って…この人
四十過ぎのおじさんだけど」
シラッと言った奏

「奏から見れば十も年上で
ましてや、男だもんね…
相手にされなくて当然だわ
でもね、だからといって
この気持ちは本気なんだから」
哀しげにでも力強く言った
真剣な思いに誰もが黙った

「誰かを好きになること
なんてないよ」
静かな店内に響く奏の声
いつもの陽気な奏とは違う
寂しげで暗い顔
そんな彼を哀しげに見る時

「じゃあ、奏さんは
ここにいるみんなのことも
好きじゃないの?」

不穏な空気を引き裂くように
奏に問いただす双葉

「それは違うよ」
ボソッと囁くように言った奏

「だって、さっきの言い方
まるで誰のことも否定した
言い方に聞こえるわ!」
いまにも泣きだしそうな
表情で言う双葉

「俺が言ったのは特定の
誰かを好きにならないって
ことでいつも一緒にいる
みんなのことは友人として
好きだよ、嫌いだったら
話しもしないさ!」

さっきまでの暗い顔が
いつもの陽気な顔に戻り
明るく言い返す

「でも…」
それでもまだ何か
言いたげな双葉

「その話しはここまで
今日はみんな疲れただろ
明日もはやいんだから明日に
備えて帰ったほうがいいよ」

時がみんなに声をかけた
それが合図となり時と奏を
残して店を出ていった
まだ不満気な様子で歩く双葉
そんな彼女を心配気に見る萌

「送って行くから乗って」
ヒロが二人に声をかける
「あの…いいんですか?」
萌がヒロを見て聞く
「かまわないよ
どうせ近くを通るからね」
ヒロの車に乗り込む
「じゃあ出発するわね」
そう言って車を走らせる

「奏の何が気になるの?」
黙り込む双葉に訊ねる 

「ヒロさん…
ヒロさんはどう思います?」

「誰かを好きに
ならないってこと?」

「うん、だって…
なんだか悲しいなって思って」

「それほど辛い思いを
経験してるんじゃないかな
なんとなくそんな気がするわ」
真っ直ぐ前を見つめ話すヒロ

「辛い思いって
どんなことなんでしょうね」
萌がポツリと言った

「さあ、なにがあったのかは
知らないけど…誰ひとり
信じられないようなことが
あったのかもしれないわね」
厳しい顔になり言うヒロ

「でも、普段の奏さんは
人一倍陽気だわ、そんな
素振りなんか見えないわ」
哀しげに言う双葉

「だからこそ陽気に
振る舞ってるのかもね」
ヒロがそう言って
龍谷家の前で車を止めた

「じゃあ明日もよろしくね」
明るく言うヒロ
「明日も手伝うんですか?」
萌がヒロに訊ねる
「もちろん
バレンタインフェアの間ね」
二人に向かってVサインする

「ねぇ、双葉ちゃん
奏がどんな人生を送っていた
としても気にしてないわよ
だって、今の奏が大好き
なんだからね!」

「ヒロさん…」
彼をじっと見た双葉
その顔はキラキラしている
「おやすみなさい」
車を発進させたヒロ 
車が見えなくなるまで見送る

「ヒロさん、ほんとに
奏さんが好きなのね」

「萌…」

「双葉は満弥さんが
どこの誰かがわからなくても
そんなこと関係ないでしょ
今の、今の満弥さんが
好きなんでしょ!
きっとヒロさんも同じだわ」
見えなくなった車の行き先を
いつまでも見ながら言う萌

「だって、満弥は満弥だから
じゃあ、萌ちゃんは?
ケン兄ちゃんが好きなのは
わかるけど、じゃあね健さん
のことはどう思ってるのよ」

「そう言われると
よくわからないのよ
大好きなケン兄ちゃんと
健さんが同じ人だって
わかっててもまだ少し
戸惑うことがあるわ…」

「そうなんだ…」
心配気に萌を見る双葉

「でもね、大丈夫よ
健さんの優しさは
ケン兄ちゃんそのものだから
あの頃と少しも変わってない
だから一緒にいられるのよ」
そう言った萌の顔は
さっき見たヒロと同じくらい
キラキラ輝いていた

「ふふふ…」
「何がおかしいの?」
「だって、ヒロさんも萌も
凄くいい顔してるなって
思ったからよ!」
「いい顔…?」
双葉の言葉の意味がわからず
彼女を見つめる萌
「そう、きっと大好きな人の
ことを思ってるんだなって」
笑顔で萌を見返す双葉

「双葉ちゃんだって
そうじゃないの!」
「えっ…私が?」
「そうよ、満弥さんといる
ときの双葉は嬉しそうよ」
「そうかなぁ…
自分ではわからないわ」
少し照れたように言う双葉
「そうね、でも誰でも
そうなのかもね
好きな人といるときは
嬉しいものなのよ」

そんな話しをしながら
家の中へ入る二人
双葉の両親はまだ帰ってない
真っ暗な家
リビングのスイッチを入れる
「家が明るくなると
心まで温かくなるわよね」
そう言って部屋の灯りを
いつまでも見つめていた

次の日からも
店は忙しかった、奏の作る
バレンタイン期間メニューは
評判がよく若い女性達で
賑わっていた

「でも彼女達はどこで
この店のこと知ったんだろう」
昼休憩の時間
奏が何気なく言った
「あら、確か時さんが
ネットに上げてたでしょ
それでじゃないの?」
双葉が時を見て言った
「でもさ、そんな店は
たくさんあるんだけどな」
難しい顔で言う奏
「あら、店が繁盛するのは
いいことでしょ」
萌が不思議そうに訊ねる
「まぁ、そうだけどな!」
ため息をつきながら時を見た
相変わらず何も言わずに
人数分の珈琲を淹れている

「それって
うちの娘(こ)達かも」
「えっ…?」
ヒロの言葉にみんな注目する
「だからね、うちのモデル達
インスタでこの店のことを
いいねって言ってるのよ」
「いいね…か
つまりさ、それを見て
わざわざここに来るんだぁ」
半ば呆れた顔で言う奏
「でもね、そういう子達って
また違うものを見つけて
いなくなるのよね
流行ばかり追っかけてるわ」
白けた様子の奏に話すヒロ

「流行か…でも
そればかり追っかけてもね」
「まぁ、奏みたいに
何着ても着こなせればね!
でも、それって難しいわ
だから人と同じような格好
しちゃうのよね」

「ああ、それ
なんとなくわかります
似合う、似合わないじゃなく
みんなと同じだとなんだか
安心するのよね」
ヒロの言葉に同意する萌
「みんなと同じだなんて
ありえないのにさ!
もし、そうだったら誰も
悲しんだり苦しんだり
しないはずなのにさ
でも、実際は違うから
格差ができるんだよ!」
哀しげな顔で言った奏

「みんな違ってあたりまえ
だからこそ面白いんだろ」
いままで黙っていた時が
奏を諭すように力強く言った
すると哀しげにしていた奏が
いつもの陽気な顔に戻った
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