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第26話 ある日の安藤家
しおりを挟むその日の夕方、アンジローこと安藤次郎の自宅は準備で大わらわだった。
「ほら、お皿並べて! もうすぐ来ちゃうんだから!」
安藤の母が台所から指示を飛ばして、父親と息子の次郎がせっせと食卓の準備に取りかかる。
「次郎、ちょっとこっち来てくれ」
兄の一郎が隣から声をかける。
「何? にいちゃん」
「これどうだ? 似合ってるか?」
ダイニングからリビングへ移動すると、そこにはパリッとした白のディナージャケットに身を包んだ一郎の姿が。
しかも胸ポケットにはこれみよがしにバラだ。
「頼むからフツーにしてよ!」
「せっかくの一張羅なのに……」
「にーちゃんはそういうとこセンスなさ過ぎだよ!」
一郎が渋々とラフな格好に着替えるなか、インターホンが鳴った。
「はい」と母が受話器のボタンを押すと、カメラの映像が来客を映す。
「どうぞお入りくださーい」
玄関で安藤一家が勢ぞろいし、ドアが開くのを今か今かと待っている。
カチャリとドアが開き、そこから現れたのは私服姿のフランチェスカだ。
「こんばんは。初めまして。フランチェスカ・ザビエルです」
ぺこりとお辞儀。
「そんなにかしこまらないで。あなたはうちの息子の命を救ってくれた恩人ですもの。さぁさぁ上がってくださいな」
「はい、失礼します」
靴を脱いで上がると、一郎が前に進み出た。
「何度か話はしましたが、会うのはこれが初めてですね。次郎の兄の一郎です」
手を差し出し、フランチェスカがにこりと微笑んで握手する。
「いつもお世話になっています」
一郎とは間接的でしか会話をしていないので、実際に会うのはこれが初めてである。
くるりと弟の次郎の方を向く。
「ハーイ、アンジロー。元気そうね」
「こないだのプールはありがとうございました」
「そういえば次郎、神代神社の巫女さんと一緒だったんだろ? 彼女は来ないのか?」と父親が。
「うん。お礼に夕食に誘ったんだけど、用事があるから来れないって」
「えっきしっ」
その頃、舞は神代神社の境内でほうきを持ちながらくしゃみを。
「うー……誰かあたしの噂してるな」
さっさっと落ち葉を掃く。
ふと安藤からお礼に食事に招待されたことを思い出す。と、同時にプールでの出来事も思い出された。
人工呼吸をしようと僅かに唇が触れ、舞は顔を赤らめる。
こんな顔で行けるわけないじゃない……。
「さぁここで立ち話もなんだから、みんな移動しましょ!」
母がいそいそと全員をダイニングへと。食卓にはすでに腕によりをかけた料理が並んでいた。
その豪勢さにフランチェスカがわああと顔を輝かせる。
「さ、フランチェスカちゃんはここに座ってね。ここが上座だから」
「は、はい……」
上座の意味もわからずにフランチェスカはちょこんと座る。
その間に母が手際良くコップにジュースを注ぎ、全員のコップに飲み物があることを確認すると乾杯の音頭を取り始めた。
「さて、息子の恩人に感謝を込めて……乾杯!」
「「「乾杯!」」」
カチンとコップを鳴らす。
「さ、フランチェスカちゃんいっぱい食べてね。次郎が作ったものもあるから」
「アンジローが?」
「前に言ったじゃないですか。料理が趣味だって。この天ぷらとかも作ったんですよ」
黄金色をした衣の海老とレンコン、さつまいもの天ぷらを指さす。
「いただきます」
あーんと海老の天ぷらを口に運ぶ。さくさくとした衣に海老のぷりぷりとした感触がたまらない。
「んんーっ! デリシオーソ!」
破顔したフランチェスカに安藤一家があははと笑う。
「そういえばフランチェスカさん。天ぷらってもともとはスペイン語なんですよね?」
一郎がぽりぽりとレンコンを齧りながら聞いたので、「口に入れたまま喋らないの!」と母が嗜める。
「はい。ポルトガル語から来ているというのもありますけど、“天上の日”を意味するtemproから来てるんです。天上の日は魚肉と揚げものを食べる日なんですよ」
へぇえと一家が感心する。
そこへ父が「あれ? じゃ、このワインのラベルにあるtempranilloというのは? これも天ぷらと関係あるんじゃ……」とボトルを手にして聞く。
「それブドウの種類ですね。ちなみに意味は『早熟』です。なので天ぷらとはあんまり関係ないですね」
「そういえば次郎から聞いたんだけど、フランチェスカちゃんはシスターなのね」
「ええ。まだ見習いですが……まだ修行中の身なので、神の御心を理解するまでには至ってません」
そう言ってフランチェスカは手を組んで祈りの言葉を呟く。
「フランチェスカちゃんはホントに良い子ねぇ。あんたたちも見習いなさいよ」
琴線に触れたのか、母が指で涙を拭う。
「…………う、うん」
フランチェスカをよく知る安藤は彼女の二面性に恐れを抱かずにはいられなかった。
わいわいと食卓が賑わうなか、母が台所から大量の唐揚げを持ってやってきた。
「さぁさぁいっぱい作ったからどんどん食べてね!」
「いくらなんでも作りすぎじゃないのか?」
父の文句に「嫌なら食べるな」とぴしゃりと返す。
一郎がマヨネーズを出そうと何度も押すが、空気の音しか出ない。
「母さん、マヨネーズない?」
「やだ! マヨネーズ切らしてるの忘れてたんだったわ!」
スーパーに行ってくるわねと立ちあがろうとする。
「待ってください。台所お借りできますか?」
「え、ええ。でもなにを……」
「マヨネーズを作るんです」
†††
「ごめんなさいねぇ。フランチェスカちゃんにこんなことをさせて……」
「いえ、お手伝いさせてください」
台所に立つフランチェスカと母の前にはにんにくが入ったボウルが。
塩を入れ、卵黄を加えるとすりこぎでよく混ぜていく。手慣れた手つきに母が感心する。
「あたしの国、スペインではマヨネーズのことをアリオリって呼ぶんです。マヨネーズの発祥地はメノルカ島なんですよ。あ、レモン汁ください」
オリーブオイルを少しずつ加え、母からレモン汁を受け取り、混ぜ合わせるとだんだんとマヨネーズの体を成していった。
「フランチェスカちゃん絶対良いお嫁さんになれるわよ」
「そ、そうですか?」
「ね、うちに嫁入りしない?」
「ぶっ!」
あやうくボウルをひっくり返しそうになる。
†††
お手製のマヨネーズで舌鼓を打った後は全員腹いっぱいで満足となった。
「今日は本当にありがとうございました!」
「いいのよぉ。フランチェスカちゃんはもううちの家族の一員みたいなもんだから。また遊びに来てね」
「なにかあったらまた連絡してください。サポートしますよ!」
「次郎、見送ってあげなさい」
「わかったよ。父さん」
家族から見送られながらふたりは駅までの道を歩く。
「……アンジローのご家族って、みんな優しいね」
「そうっすか? 母さん世話焼きすぎなとこありますけど」
ふふっとフランチェスカが笑う。
「いいなぁ。あたしもあんな家庭に生まれたかったな……あたしの家、先祖代々から続く聖職者の家系だからさ……」
「そんな厳しいんですか?」
「父がね、これでもかってくらいの厳格なクリスチャンなの。だから大っ嫌い」
「…………」
「誕生日だって、ふつうの家庭みたいに友だちとお祝いのパーティーすらさせてくれなかったし……」
街灯がふたりを照らす。それで彼女の顔がはっきりと見えてきた。
自分の生まれを嫌っているという、そんな彼女の横顔はどこか寂しげだ。
程なくして駅に着いた。
「それじゃまたね」
「おやすみなさい。フランチェスカさん」
改札へ向かおうとくるりと背中を向ける。
「あのっ」
「ん、なぁに?」
「あー……その」
呼び止めたはいいものの、その後は考えていなかった。
「どうしたの?」と彼女が聞く。
「その、また遊びに来て下さい。今度は色んな料理食べさせますから……」
そう言った安藤の頬には朱が差していた。そんな男友達にフランチェスカがくすっと笑う。
「うん! また遊びに行くね!」
バイバイと手を振る彼女が奥のホームへと消えていくまで見送ると、安藤はくるりと踵を返して家路につく。
見上げると、夜空に満月が。
それは煌々と輝きを放ち、家へ向かう少年と、車両に座って窓から外を眺める少女のふたりを優しく照らす。
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