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第34話 REMEMBER ME②
しおりを挟む――ブラジル、サンパウロ。
旧市街の路地裏を駆けぬけ、目指すアパートの中に入って老朽化した階段を駆けのぼる。
「兄ちゃん! またきたよ!」
褐色の肌をした少年――ジョゼが歯抜けで笑顔を浮かべながら挨拶すると、奥から年は二十代後半であろう日本人の男性が出てきた。
「おう、また来たか」とポルトガル語で交わす。
「いつでも来ていいって言ったじゃんか!」
「それはまぁそうなんだが……」
「それよりなにか食わせてよ! おれ腹ペコなんだし」
しょうがねぇなと言いつつも台所に向かい、炊飯器の蓋をあけて、しゃもじですくってご飯を手のひらへ。
あちちっと言いながら丸め、出来上がった握り飯を皿に乗せてテーブルに。
ジョゼが両手でつかんでぱくっと口に運び、はふはふ言いながら喉に流し込んでいく。
「美味いか?」の問いに少年がこくこくと頷く。
「独り暮らしだから、こんなものしか作れないけどな」
今度はぶんぶんと首を振る。
「そんなことないよ。こんなうまいメシはじめて食べたし!」
「そうかぁ。俺の嫁ならもっと美味いもん作れるんだがな……」
「サブローにいちゃん奥さんいるのか?」
「ああ、いまは日本にいるがね」
急須から茶を注いで湯飲みを傾ける。ふぅっとひと息つくと、テーブルの中央にある小鉢の蓋を開け、爪楊枝で中身を刺して口に運ぶ。
「サブローにいちゃん、いつも食べてるそれってなんだ?」
「食べてみるか?」
興味津々と爪楊枝を受け取って食べてみる。
じゅわりと口の中で酸味が広がり、思わず顔をくしゃくしゃにした。
「すっぱい!」
「はっはっは! 梅干しはまだ早かったか」
「それならそうと先に言ってくれよ!」
ジョゼの文句を笑ってかわす。
これがスラム街の少年ジョゼと日本から来たサブローという名の男との日常であった。
†††
数日後。
買い物を終えたサブローは買い物袋を手にアパートへと戻るべく街を歩く。
ふと人混みのなかで見知った顔があるのに気付いた。
彼の肩に手を置いて声をかける。
だが――――
少年は文字通り傷だらけで、顔には殴られたのか、口の端から血を滴らせ、服は袖が破かれていた。
「なにがあった?」
「べつに……大したことないよ。転んだだけだから」
だが、その傷はどう見ても転んだものではない。
「ウソをつくな。また盗みを働いたんだろ」
「…………」
サブローが屈んで少年の両肩に手を置く。
「盗みはするなと言っただろ? そのうち返り討ちにあって死んでも知らないぞ」
「だって、どうしようもないじゃんか! この街で生きるにはしょうがないんだよ! にいちゃんになにがわかんだよ!?」
手を払いのけてサブローの制止も聞かずに人混みのなかへと消えていった。
†††
その夜、サブローは台所にてトントンと包丁でネギを切っていた。
切り終わったネギを鍋に入れたところへ、ドアからノック音が。
「はい、どなた?」
ドア越しに誰何するが返事はない。
不審に思ってドアをそっと開ける。治安の悪い街なので用心するに越したことはないからだ。
細く開けたドアから見えたのは少年――ジョゼだった。
「なんだお前か。どうした?」
ジョゼはそれには答えず、「はいっていい?」と聞いたので、ドアを開けて入れてやる。
†††
「美味いか?」
「……うん」
鍋から取り寄せた具の鶏肉をもそもそと食べながら頷く。
「食べ終わったら家に帰るんだぞ。お前の母さん心配して」
「家なんかないよ」
「え?」
「かあちゃん、あたらしい男連れてきた。一緒に暮らすって……」
ぽろぽろと少年の目から大粒の涙がこぼれる。
「そうか……」
食卓は重い沈黙に包まれ、少年の嗚咽が続き、かちんと箸を置く音がよけいに響いた。
次いでポットから湯を急須へとぽぽと注ぐ音。
「家がないなら、ここに住むといい」
「え……?」
ジョゼが顔をあげるとサブローが急須から湯飲みへと茶を注ぐところであった。
「ほんとに、いいの?」
「ひとり増えたってどうってことないさ。ちょうど話し相手が欲しかったところだしな」
ぐいっと茶を啜り、ふぅっとひと息つく。
「ただし、条件がある。もう盗みはするな」
「うん」
「金を手に入れるんなら、まっとうなことをしてちゃんと手に入れろ」
「うん……わかった」
「よし」
サブローが頷き、「ちょっと待ってろ。いいもの見せてやるから」と奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってくると手には黒革のケースが。ケースの蓋を開けるとそこから取り出したのはメイプルの木目が美しいバイオリンだった。
ジョゼが目をぱちくりさせるなか、顎を載せて弓を寝かせるように弾くと部屋中に音色が響き渡る。
流れるような運指で押さえ、時には力強く弓を引くその姿にジョゼはいつの間にか見とれていた。だが、途中でギーと不快な音ではっと我に返った。
「いつもここでつまずくんだよなぁ」
「にいちゃんバイオリン弾けるんだな!」
「趣味でやってたからな。おまけにこれしか弾けないんだ」とたははと笑う。
「それなんていう曲なんだ?」
サブローからその曲名を聞かされたところでジョゼがはっと目を覚ます。
ベッドから身を起こして傍らのランプを点け、サイドテーブルに置いた腕時計を見ると時刻はまだ午前3時半だった。
ふぅっとひと息つく。
日本料理を食べたからこんな夢を見たのかな?
ふるふると首を振ってベッドから降りて、ミニバーの小さなカウンター上の水差しをグラスに注いでごくりと飲み込む。
そして窓のほうへ歩いてカーテンをさっと開けると眼下にはビル群に道路上ではちらほらとテールランプのついた車が過ぎ去っていく。
夜とも朝とも言えない曖昧な空模様はまるでジョゼの心模様を表しているかのようであった。
ふとテレビの横の荷物置きスペースを見る。スーツケースの隣には黒革のケースが。
ことりとグラスをテーブルに置いて荷物置きのほうへ。そして黒革のケースを開ける。
はたして中身は夢で見たのと同じバイオリンであった。
長く使われてきたためか、あちこち補修の跡が残り、色も変色していた。
メイプルの木目を慈しむかのようにそっとなで、しばし見つめたのちにぱたりと蓋を閉じた。
†††
「セニョール、セニョールジョゼ?」
昼過ぎ、マネージャーがコンコンとジョゼの部屋のドアをノックするが、反応はない。
「セニョールジョゼ。そろそろ会場に行かないとスケジュールが……」
なにかあったのか……?
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廊下を歩いていたボーイが異変に気付いて話しかける。
マネージャーが事情を説明し、ボーイがマスターキーのカードを取り出して解錠するなり、マネージャーが部屋に飛び込んだ。
「セニョールジョゼ! いったいどうしたので……」
だが、部屋はもぬけの殻であった。客室はおろかバスルームにもいない。
荷物置きスペースを見るとスーツケースはある。
書き物机にメモがあったので手にすると、ポルトガル語の書き置きが。
『Eu volto em breve.Não procure por isso.(すぐに戻る。どうか探さないでくれ)』
マネージャーがふたたび荷物置きスペースを見ると、その時はじめて気付いた。
バイオリンケースがなくなっていることに。
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