上 下
109 / 144
学園都市編

108話 憧れの存在

しおりを挟む
 100レベルのドラゴンを見事に倒してしまった少年に対して抱いた憧れは、少年を目の前にすると声が出なくなるほどの緊張感を会長にもたらした。
 興味はある。
 しかし、声をかけるどころか視線を向けることすら勇気がいる。
 もしも、視線を向けて少年と目があったら。
 行動を行す前から先のことを考えて顔面蒼白となる会長を横目に見ていたアヤネが小刻みに肩を震わせた。

「険しい顔をしたまま見つめるのは失礼だと思わないの? 只でさえ怖い顔をしてるのだから少しは、にっこりと爽やかな笑顔を浮かべてみなさいよ」
 会長の横腹に肘を押し付ける。
 怖い顔だと然り気無く会長を貶したにも拘わらず言い返してこないなんて可笑しい。
 普段の会長だったらあり得ない。
 ニヤニヤと締まりの無い顔をするアヤネは、日頃の鬱憤を晴らすために会長を苛めているように見えるかも知れない。
 しかし、強引に会長を少年の前へ移動させなければ、会長は少年に声をかけるどころか視線を向けることすらしないだろう。
 表情に笑みを浮かべて真似をしてみなさいよと言葉を続けたアヤネの思いも空しく、会長はファーストコンタクトをとろうとはしない。

「ヒビキ君が困惑した表情を浮かべているんだけど」
 顔を俯かせたまま瞬きをすることも忘れて身動きを止めてしまった会長は気づいているのだろうか。

 ヒビキが不思議そうに見つめていることに。

 緊張感に苛まれる会長は視線を上げることも出来ない。
 アヤネが声をかけてみるものの、会長は無言を貫き通している。

「うん。ごめんね。何だか会長は、いっぱいいっぱいになっているみたい」
 このまま会長に声をかけ続けていても、会長が視線を上げなければ話を先に進める事は出来ない。

「まるで憧れの銀騎士団を目の前にしたときの反応と同じね」
 ニヤニヤとした笑みを引っ込めて、真面目な顔をしたアヤネが呟いた。

「銀騎士団でも、たった一人で100レベルのドラゴンを倒すことは出来ないだろ? 俺は実際に見たわけではないけど次元が違うと思う。きっと、銀騎士団であっても100レベルのドラゴンを倒すには5人以上で力を合わせなければ倒す事は出来ないだろう。そう考えると彼は銀騎士団よりも強いってことになる。恐ろしく強い人物を目の前にして、緊張をすることなく話し掛けることの出来るアヤネに対しても正直驚いてるんだ。何故平然としていられるんだ?」
 ヒビキに背を向けて一歩、二歩、三歩と足を進めた会長がアヤネの元に歩み寄る。
 普段は口数が少ない方である会長が今日は良く喋る。

「何故平然としていられるのかと聞かれても返事に困るのだけど」
 やっと口を開いたかと思えば何とも返しづらい質問を受けて、口ごもってしまったアヤネがヒビキを横目に見る。

「私は好奇心旺盛だから気になったら、とことん声をかけたいのよね。会長のように視線も合わせることが出来なくなるなんて事はないよ。小声で話すのやめてくれない? 聞こえづらいのだけど」

 すぐ近くにいるにも拘わらず、足を踏み出して会長に身を寄せなければ聞くことの出来ないほど本当に小さな声だった。
 会長に身を寄せたアヤネが耳を傾ける。
 会長の腕にアヤネの胸が触れてしまうほどの至近距離である。
 
「近い」
 アヤネの至近距離に対して反応を示したのは会長だけではなかった。

「え、近くない?」
 ぽつりと声を漏らしたのは、何やら不安そうな表情を浮かべてアヤネを指差したヒビキだった。
 
「アヤネは人と話しをする時の距離は、いつ見ても近いよ。会長に身を寄せている姿は初めて見たけどさ。副会長と至近距離で話している所を良く見かける」
 淡々とした口調で言葉を続けた鬼灯に対してヒビキが、あんぐりと口を開く。

「もしかして、アヤネは人懐っこい性格をしている?」
 城内でアヤネと出会っても話をすることの無かったヒビキが妹の意外な一面を知ることになる。

「誰にでも興味を抱いたら話かけに行くような性格をしているな」
 興味を抱いたら誰にでも話しかけに行くと言うことは、城の中で一度も声をかけられる事の無かったヒビキはアヤネの興味の対象には、ならなかったという事になる。

「興味を抱いたら誰にでも声をかけに行くのか」
 ヒビキの表情が明らかに曇る。

「何故ヒビキがショックを受けてるんだよ」
 首を傾げた鬼灯は、アヤネとヒビキが兄妹けいまいであることを知らない。
 視線も合うことがなかった事を思うと、興味どころかヒビキが側にいることすら気づいていなかったのかもしれないと考えたヒビキが小さなため息を吐き出した。

「ねぇ、何だかヒビキ君とホヅキ君、今にも喧嘩しそうな雰囲気じゃない?」
 曇った表情を浮かべるヒビキと、眉間にしわを寄せる鬼灯の姿を見て今にも喧嘩しそうな雰囲気だと勘違いをした生徒がいた。

「もしも喧嘩をするようなら、私達は食堂から逃げ出さなければならないわね。編入生であるヒビキ君は白色の制服を身に付けているけど副会長や会長やアヤネさんの話によると、とても強いのでしょう?」
 女子生徒数名が食堂内から抜け出すタイミングを見計らっている。
 ドラゴンを一人で倒してしまう実力をヒビキが持っていると偶然、耳にしてしまった生徒達である。

 どうやら白色の制服を身に付けているけれども、ヒビキは実は強いと思い込んでいる生徒が複数人いるようで、生徒達の会話を耳にしていたヒビキが慌てて口を開く。
 
「俺は皆が思っているほど強くはないよ。ドラゴンを倒せたのだって偶然だよ。丸飲みをされてしまって焦って暴れまわっていたら剣がドラゴンの急所をついただけ。それに俺は鬼灯と喧嘩はしないよ。遠距離を得意とする鬼灯に喧嘩を売ったところで勝てはしないからね」
 ドラゴンを倒せたのは偶然であった事を伝える。

「そうなんだ。偶然だったんだね」
「なんだ、偶然だったのか」
「なるほど。それなら、見るからに弱そうな彼がドラゴンを倒せたのも死に物狂いで戦ったからって事で納得が行く」
「うん。納得が行くね」
 生徒達が口々に思っていた事を呟いた。

 素直にヒビキの言葉を耳にして納得をした者もいれば
「ヒビキと戦うことになれば、不利なのは俺の方だよな」
 独り言を漏らすようにして、ぽつりと本音を漏らす者もいる。
 小刻みに方を揺らして笑う鬼灯の独り言を耳にして、どういうことだろうと首を傾げる生徒達の姿があった。
 
 食堂の二階席。
「何が偶然だよ」
 手すりに腕をかけて食堂の一階フロアを眺めていた副会長が独り言を呟いた。
 表情に浮かべていた笑みを取り外して真顔で見下ろしていれば、何の前触れもなく視線を上げたヒビキと目が合うことになる。

 共に吹き出すようにして小刻みに肩を揺らしたヒビキは深呼吸をする。
「素が出てるよ」
 本当に小さな声で呟いた。
「ん?」
 ヒビキの言葉に素早く反応を示した鬼灯が食堂二階席に視線を移した。

 瞬く間の出来事だったにも拘わらず、鬼灯の視線が食堂の二階席へ移った頃には副会長の表情には満面の笑みが浮かんでおり、まじまじと副会長を眺めていたヒビキが再び吹き出した。
 声を出すことなく小刻みに肩を揺らす。
 息苦しそうに腹部を押さえて、激しく咳き込むと食堂の二階席へ向けていた視線を足元に下ろして、その場にしゃがみこんでしまう。
 ヒビキを見下ろしている副会長の表情は笑顔のままである。
 しかし、内心は穏やかでは無いだろう。
 
 大きく息を吸い込んで、一気に吐き出すことにより次から次へと込み上げてくる笑いを堪えたヒビキが腰を上げる。
 ケホッと最後に一度だけ咳き込んで小さなため息を吐き出した。

「本当に見ていて飽きないですね」
 表情に笑みを張り付けたままヒビキを見下ろしていた副会長が小声で素直な感想を口にする。
「その言葉を、そっくりそのままお返しするよ」
 
 副会長とヒビキは、お互いに意味深長な笑みを浮かべているものだから独特的な雰囲気を醸し出す。
「なんだろう。ヒビキ君と副会長は、お互いに笑顔のはずなのに何か怖いのだけど」
 ヒビキと副会長を交互に眺めていたアヤネが考えを口にする。

「あぁ、そうだな」
 どうやら、会長も同じことを思っていたようでアヤネの意見に同意した。

 少しずつ生徒達の視線が鬼灯やヒビキから外れていく。
 グループごとに会話が盛り上がり始めた頃。
 笑顔のまま副会長を眺めていたヒビキが視線を逸らす。
 鬼灯に視線を移すと声を潜めて問いかける。

「今さっき俺とぶつかった人が生徒会長? アヤネとは仲が良いみたいだけど」
 悪いとたった一言だけ呟いて、人の顔を見るなり険しい表情を浮かべて身動き一つ取らなくなってしまった人物を指差した。

「あぁ、今のが生徒会長。アヤネと副会長と仲が良いな。会長がアヤネや副会長以外と言葉を交わしているところを見たことがない。きっと、アヤネや副会長以外には興味がないのだろう」

 随分と真面目な顔である。
 会長は仲の良い人物にしか自ら声をかけることをしない。
 今話した事は、あくまで憶測だけどな。実際は人に対して興味はあるけど恥ずかしがり屋な性格をしているから声をかける事が出来ないだけかもしれないしと言葉を続けた鬼灯が苦笑する。

「俺にだけよそよそしい態度をとっている訳ではないのか。気づかない間に気にさわることをしてしまったのだろうかと考えていたから良かったよ」
 鬼灯の考えを聞いて安堵したのだろう。ヒビキが考えを漏らす。
 
 それは誤解だよと。
 ヒビキと鬼灯の会話を耳にしていた会長が心の中で、ヒビキと鬼灯の考えは誤解であると訂正した。
 声をかけないわけではない。
 かけられないのであって、決して副会長やアヤネ以外には興味がないって訳でもない。
 当然、心の中で訂正をしているためヒビキには会長の気持ちは伝わっていない。
 会長のすぐ目の前で鬼灯とヒビキは会話をしていたため、会話の内容は全て会長の耳に入っていた。

「声が出なくなるほどの緊張感に苛まれたのは、これで2度目だ。銀騎士団と洞窟内ですれ違ったときも声をかけるどころか、視線を上げることすら出来なかった。結局、俺が見たのは銀騎士団の足元だけだ」
 将来の目標である銀騎士団と洞窟内ですれ違ったときも、声をかけるどころか視線を合わすことも出来なかったのは記憶に新しい。
 確か3日前の出来事だっただろうか。
 小声で言葉を続けた会長に寄り添って、耳を傾けるアヤネが唖然とする。

「顔を見なかったの? 滅多に見ることは叶わないのに?」
 開いた口が塞がらない。

「そう言うアヤネも銀騎士団を見つけた途端、岩の陰に隠れて顔だけを覗かせていただろ?」
 アヤネは信じられないと言葉を続けたけれども、アヤネも銀騎士団から隠れるようにして岩の陰に身を隠していた。

「私が岩陰に隠れていたのは恥ずかしかったわけでは無くて、事情があったのよ」
 洞窟内を通ったのは銀騎士団調査隊である。
 万一、銀騎士団に顔を覚えてもらっていて声をかけられた場合、自分の身元が会長や副会長に知られてしまう。
 冷酷と言われている国王と血が繋がっていると思われることを避けるために岩陰に身を潜めたアヤネは、父である国王に対して苦手意識を持っていた。

「へぇ」
 ぽつりと声を漏らした会長の表情に少しずつ笑みが戻る。
 余裕を取り戻したのだろう。
 意味深な言い回しをしたアヤネに対して、それ以上深く聞くことはしなかったものの会長の顔に笑みが浮かぶ。

「何よ」
 ニヤニヤと締まりのない表情を浮かべる会長に対して、すぐさまアヤネが突っかかる。

「どんな事情なんだろうと思ってな」
 本当に事情があるのか、それとも強がりで言っているのかは会長には分からない。

「人に言えない事情なのよ。会長だって人のこと穿鑿してるじゃん」
 アヤネは膨れっ面をする。
「いや、別に俺は執拗に根ほり葉ほり尋ねているわけでは無くて……いや、そうだな。悪かった」
 会長が慌てて訂正をする。しかし言葉を詰まらせた会長が小さなため息を吐き出した。
 悪かったと言葉を続けるとアヤネの表情に笑みが浮かぶ。

「ヒビキ君ごめんね。会長は悪い人では無いのだけど人見知りが激しいのよ。見た目に反してね」
 不意にアヤネがヒビキに向かって声をかけたため、驚いたのだろう。
 会長が一歩足を引く。
 アヤネの指し示す先を目で追ったヒビキの視線が会長に移る。
 
 どうやらヒビキと視線が合うことを恐れたらしい。
 ゆっくりと顔を俯かせた会長が続けて足を一歩、二歩と引くことにより後退する。
 けたけたと笑い声を上げて腹を抱えるアヤネが会長の背後に回り込み、会長の背中に肘を押し当てることにより後退を阻む。

「背後を確認することなく後ずさると他の生徒とぶつかることになるわよ」
 あと一歩、足を引いていれば会長の背後で食事をとっていた生徒とぶつかっていた。

「悪い。助かった」
 危ういところをアヤネに助けられる形となった会長が安堵する。
 ケタケタと笑い声を上げながら会長の背中を叩いたアヤネが、少し落ち着きなさいよと口にする。
 続けて会長から視線を逸らしたアヤネがヒビキに笑顔を向ける。

「ヒビキ君、ごめんね。ヒビキ君がいなかったら今頃、私達はドラゴンによって見るも無惨な姿に変えられていたと思う。今度、改めてお礼をさせてね」
 ヒビキに向かって手を振ると、すぐに身を翻す。
 厨房へ向かって足を進めるアヤネの足取りは軽い。

「あっという間の出来事に手をふり返すどころか一礼する事すら出来なかった」
 瞬く間の出来事だったため、手をふり返すことの出来なかったヒビキが中途半端に上げた手をさまよわせる。
 ぽつりと本音を漏らしたヒビキが、小さなため息を吐き出した。
 すぐ隣でヒビキの独り言を耳にしていた鬼灯が、ヒビキから視線を逸らす。
 そっぽを向いたままではあるけれども小刻みに肩が揺れているため、鬼灯が笑っていることに気づいたヒビキがその横腹に肘を打ち付ける。

 グエッと何とも奇妙な声が上がった。
 どうやら、加減をすることなく肘を打ち付けたようで、横腹を押さえる鬼灯の眉間にしわが寄る。

「加減をしろと言っているだろ?」
 すぐにヒビキの横腹に指を突き刺した鬼灯が文句を言う。
 どうやら指を突き刺してみたものの、ダメージを受けたのは鬼灯だったようで渋い顔をする。
「痛」
 ぽつりと声を漏らした鬼灯が人差し指を左手で握りしめる。

 横腹を押さえて小刻みに肩を震わせるヒビキが咳き込むと同時に一体、何時から見られていたのだろう。

 ヒビキが鬼灯の横腹に肘を打ち付けてから、鬼灯がヒビキの横腹を突っついて突き指をするまでの一部始終を口を開くことなく大人しく眺めていた人物が小刻みに肩を揺らして笑いだす。

「何をしているの?」
 ヒビキと鬼灯の背後から声をかける人物がいた。
しおりを挟む

処理中です...