ミセス・マチルダの法則

白金幸一郎

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ミセス・マチルダの法則

ミセス・マチルダの法則

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ミセス・マチルダの法則
                       白金 幸一郎

 人の噂話は不思議なもので、自分以外の人達に対する噂話を全て信じる事はないにしても、ある程度の真実がそこにあるように錯覚してしまうものだ。ましてや嫌いな人の悪い噂話には、確信するに値する情報だと思い込み、自身の人を見る目に間違いはなかったと安堵する。そうした噂話を通じて共感し合う者同士の絆は一時的に強固となり、ある種の快楽めいた喜びに心が躍る。
 しかし、自身が噂話の対象になっている事を知った際には恐怖すら感じ、自分なりに噂話の反論を考えたり、自分の味方になってくれそうな人と妙に仲良くなったりしようと行動してしまう。噂話というのは、人間同士の感情の揺さぶり合いでしかない。だが、その噂話の渦中にいると、そうも言っておられず、仕事さえも集中できなくなってしまう。
 先日の事だった。
 私は、とある病院の診療放射線技師として働いているのだが、レントゲン検査の診療がやたらと多い。特に午前中は患者さんも多いことから、昼食時間は午後二時を過ぎた頃になる。
 私は毎日のようにコンビニで弁当と天然水を予め買っておき、男性用の更衣室兼休憩室で昼食を取ることにしている。ただ、その部屋を実際に使っている人は、ほんの数人でいつも一人のランチとなっていた。
 隣の部屋は女性用の更衣室兼休憩室で、外来の看護師達の声がいつもよく聞こえる。というのも、天井付近の壁が通しとなっており、ちょうど男性と女性の更衣室の真ん中に空調がある構造となっている。
 涼しい風の中で弁当を静かに食べていると、私の名前がふと聞こえた気がした。私は聞き耳を立てて、声の行方に集中した。
「松岡さんは、絶対に選ばれへんよな」
「こういう話になると、いつも松岡さんの名前って、出ないよな」
「あの人、堅物というかさ、恋愛とか愛とか興味なさそうやん。噂でな、童貞やって話やで」
「あの歳で童貞ってヤバくない?」
「女に興味がないだけで、男に興味あるかもやん」
「それ、キショすぎ」
 二人の笑い声が耳に刺さり、私は唖然とした。
「あの人が愛について語ってるだけでも、キショいけどな」
「君達、愛というのはね、心と心が通じ合って一つになることを言うのだよ」
  その声は明らかに男の声を真似たかのようにトーンを低くしていた。きっと私の真似事でもしているのだろう。
「もうやめて、想像したくない。キショい」  こういう自分の噂話を耳にすると、途端に音を出してはいけない気がした。自身の気配を消すために、呼吸でさえも少量の酸素だけを肺に入れようと調整し、何事もなかったかのように、何も聞いていなかったかのように、音を立てずに箸を進めるしかないのだ。
 自分が恋愛や愛というものについては、確かに興味がなく、そうした出会いがなかったのも確かだなと思った。だからと言って、童貞と決めつけられている事に関しては、いささか納得がいかなかった。
 大学時代の先輩で、童貞である事は恥ずかしい事だからという理由で、大阪の飛田新地という花街にて筆おろしは済ませている。初めての体験で、この世には素晴らしすぎる快楽があるという事を知り、頭が真っ白になったものだ。だからと言って、童貞ではないと強く否定出来ないのは、三十九歳にもなって独身であり、彼女という存在も女友達という存在も、今までに一度も居なかったからだ。初体験が風俗というのは、童貞を捨てた事になるのだろうか。行為として童貞は捨てている事になると考えてはいるが、その線引きが私には分からなかった。
 しかし、私という存在は、そんなに気持ち悪いのだろうか。女達が発していたキショいという言葉が、胸に突き刺さり、キシキシと音を立てて、何かが壊れいくような感覚であった。もう私は箸を進める気力もなく、食べかけの弁当を、音も立てずにそっとゴミ箱へ捨てた。相変わらず隣の部屋からは、女達の笑い声が聞こえていたが、その笑い声は悪魔が私に囁いているように感じた。
(おまえはキショい!)
 もうこの空間に居るだけでも目眩がしそうで、平衡感覚を失ったネズミのように、フラフラとしながらも部屋を出た。

 あれから数日が経過しているにも関わらず、私に対する噂話の事が頭から離れなかった。私の存在がこの病院では否定されているような気がして、ましてや誰かと目線が合うものなら、そっと視線を逸らして気配を消そうとする。その度に愛と無縁な事が、それ程までに罪深いものなのだろうか、人間として何ら成長していないとでも言うのだろうかと考えてしまう。絶え間ない思考のループが、私の心を重たくさせ、そのオモリを吐き出す為なのか、深いため息が幾度も襲ってくる。
「はぁ」
 毎日眺めているレントゲン撮影室が、どんよりと静まりかえっている。椅子に腰をかけ俯いていると、床がかなり黒ずんでいるのが目に入った。もう十七年も勤務しているというのに、こんなに床は黒ずんでいたのだなと今更になって気づいた。ひょっとしたら私の心も――この床のように黒ずんでいて……
 おもむろに時計を見ると、午後六時を過ぎていた。定時を過ぎていたが、一日の時間の流れがあまりにも長く感じるのは、この場所に居たくないという拒絶反応からそう感じているのだろう。このままでは、絶望の毎日を送る事になりそうだ。何とかしなければ……黒ずんでいる心を掃除しなくては……
 原因は、愛というものについて、しっかり理解していない事なのかもしれないと、自分なりに感じてはいる。だが、しかし愛という不文律について、歴史上の哲学者達が明確に、誰もが分かるように回答を出していたとするなら、義務教育課程で教わるはずだ。私が知る限りでは、人類の皆が愛は何であるという共通認識の上に成り立っていない事を鑑みると、おそらく愛というのは永遠なる命題か、あるいは各個人の価値観に委ねられているものなのかも知れない。いずれにせよ、愛というものについて、真剣に何かを掴まない事には、噂話を否定する事すら出来ないのだ。
 今になってようやく来たのかもしれない。噂話が私の耳に入ったのも、愛について考える機会を与えてくれたものだと考えれば、些か気分も紛れる。知的好奇心が人を成長させるものだと、亡き父が言っていたが、私が取り組むべき愛というものについて、まずは書籍から情報を得ようと思った。
 午後六時半を過ぎて職場を後にした。まだ空は明るく、七月にもなると暑さが本格的になるものだが、比較的過ごしやすい気温だと感じた。職場近くの天神橋筋商店街に向けて歩いていると、何人かの浴衣を着た子供達を目にした。何か祭りでもあるのかと歩みを進めると、小さな公園で、どうやら七夕祭りをしているようだ。根元から土ごと引っこ抜いてきた笹の木が二つあり、もう既に短冊が飾られているのが見えた。少し懐かしい気持ちになったせいか公園の中に入り、笹の木に近づいてみた。
『野球の全国大会で優勝できますように』
『お父さんとお母さんの喧嘩がなくなりますように』
『カールのカレー味を死ぬほどたべたい』
 短冊に書かれた願い事を見ていると、童心に返った気持ちになる。私が小さい時、一体、何を短冊に願い事を書いたのだろうか。あまり将来についての夢や希望を持ち合わせていなかった幼少期の私は、きっとくだらない願い事をしていたに違いない。
 色とりどりの短冊が風に揺られて、夏の夜を染めてくれるが、短冊にある願い事の多くは、夢幻の如く泡となって消えるだろう。次から次へと願望や欲望は生まれては消えていく、儚いものだと私は思う。そうは言っても、子供達の純粋な笑顔からは、夢や願望の為に向かっていくエネルギーを感じる。私がもし、二十代で結婚して子供に恵まれていたら、こうした子供達の親になっていたのかもしれない。今からでも遅くはない。本当に愛というものに触れなければならないと思い、公園を出て天神橋筋商店街を目指し歩いた。

 商店街の二丁目付近に差し掛かった頃、昭和風情の粋な木造二階建ての山辺書店が見えた。戦前からの古本屋であり、大正時代の書籍まで取り揃えてある。
 店内に入ると古本の懐かしい匂いとノスタルジックな昭和の雰囲気が店内を包み込んでいる。店内に客は見当たらなかったが、店主の山辺さんはレジ前に座っていた。長年利用している山辺書店だが、よく歴史書を購入してお世話になっており、マイナーな書籍も数多く、歴史ファンなら満足のいく店だと思う。
 しかし今回は、愛に関する書籍を探さなければならず、そうした類いの本を探していると『恋愛音痴必見、好きな子にYESと言わせる方法』という本が目に入った。手に取り数ページめくって見ると、目線の合わせ方や、相槌の頻度について書かれてはいたが、そうした恋愛のテクニックではなく、愛というものが何であるかについての本を探さなくてはならない。私の見ている一角には、恋愛関連の本しか置いておらず、少しばかり苛立ってきた。
 私は更に店内奥へ入って行き、哲学書のコーナーへやってきた。愛という文字がタイトルにある本を探し求めていると汗が大量に出てきている事に気づいた。私は焦っているのだろうか。早く探さなければという使命感のような感覚があり、あたかも宿題を持ってくるのを忘れた少年が、ランドセルの中を探し回すように必死だった。
 しかし哲学書のコーナーに愛の文字を記した本はなく、古本屋ではなく大きな書店へ向かえば良かったかなと後悔し始めていたが、その時だった。『愛の法則』の文字が目に入り、宝箱を探し当てたような衝動が心に駆け抜けた。
 手に取ると紺色の布地が心地よく『愛の法則』と金の箔押しが施されている事により、如何にも高級感溢れる本だった。まるで卒業アルバムだなと思いつつもページをめくると、中表紙には『愛の法則 ミセス・マチルダ』と綺麗な明朝体で印刷されていた。宝箱の中身を見るかのような高揚感が胸いっぱいで、もう我慢が出来ずにページをめくると――
 
 ※ はじめに
 有史以来、男と女の間には愛憎劇が繰り返され、喜劇と悲劇の多くが、愛に翻弄された人間模様の結末に収束されていることでしょう。愛を信じるがあまりに愛に裏切られ、憎しみによる争い事が、今も尚、続いているのです。
 男と女の間には、縮まる事のない隔たりがあり、その隔たりを埋める行為が愛なのです。
 その愛が真実の愛なのか偽善の愛なのか、それを見極める術を持ち合わせていない者達が愛により苦しめられるのです。
 殿方であれ淑女であれ、この本を読み終わる頃には、愛の本質と真実の愛の見極め方を熟知する事になるでしょう。
 もっとも、この本では愛を数値化する事により、真実の愛と偽善の愛の境目を簡単に見極められるように配慮しています。
 どうか最後までお読みになって、真実の愛の中で、健やかに人生を送りくださいませ。
 愛を込めて。
                   ミセス・マチルダ

 愛の本質……真実の愛!
 数ある本を読んできた中で、異質な書き出しにも関わらず、私の心に訴えかける精魂を感じ、人生の夜明けを予感せずにはいられなかった。足と手が震えだしたが、それは緊張からの震えではなく、人生の転換期を迎えた新たなる世界の到来を告げるものだと感じた。こんなにワクワクしたのは、いつぶりだろうか。私はその本を両手でしっかりと抱きかかえながら、早速レジへと向かった。
 レジ前でパイプ煙草に火を入れようとしている店主の山辺さんが古びたロッキングチェアに座っていた。混じりけのない白髪と白髭が美しくもあり、茶色のジャケットを着こなせており、ダンディズムとは何であるかを教えてくれる仙人だと私は思っている。私は少し控えめな声で「今日はこの本を」と、山辺さんに本を差し出した。
 山辺さんは本を手に取り、丸い黒縁メガネを少し下げ本のタイトルに目線が行くと、驚いたように目を見開けた。そしてすぐさま私の顔を下から覗き込むようにして「今日は歴史の本と違うんか?」と少し驚いた声で言った。
「今日はどうしても、この本を買いたくて」と答えると、山辺さんは背もたれに身を委ねるように座り直し、メガネをおでこまであげて、両方の目頭を右手の指先で押さえた。なにか困った様子に見受けられたが、いつも歴史書を買っている私が、違うジャンルの本を買うことが、そんなに困る事なのだろうか。よくお世話になっている手前、その困った様子に罪悪感が芽生え始めた。
「ちょっと、そこ座り」と困った口調の山辺さんの声で一気に緊張が走り、私は小さな声で「はい」と答え、目の前にあった丸椅子に腰をかけた。知らないうちに、逆鱗に触れたのかもしれない。どういう失礼があったのかと思い返していると、山辺さんは前のめりになって、私の顔を真剣な眼差しで見つめてきた。
「この本はな、曰く付きの本でな。今から話す内容を聞いても欲しいんやったら、この本はやるわ。お金はいらん」
 どうやら、私に失礼があったようではなさそうだ。「曰く付きの本って、何か危ない本なんですか?」と聞くと、山辺さんは最後の方のページを開き、本には必ずある奥付のページを私に見せてきた。
「これを見てみ。著者が偽名なんは、よくある事やけどな。発行所も偽名や。そんな出版会社はあらへん」
 そのページに目をやると、発行所の横には株式会社マチルダ出版と、聞いたことのない出版社名が書かれており、著者もミセス・マチルダと偽名っぽくあり、作者不詳の怪しい本だと思った。「じゃ、この本は一体?」と私は尋ねた 
「まぁ言うたら、自費出版や。同人誌みたいなもんや」
「そういう系統の本なんですね。作りとしては、高級そうに見えますけどね」
 山辺さんは首を縦に振り、表紙の布地を大事そうに摩った。まるで、赤ちゃんのほっぺを摩るかのように。
「もう何十年も前の話になるねんけどな。その本の著者はな、この店の常連さんやったんや。べっぴんさんでな、ブティックを経営してると言っとったわ。まぁ金持ちやったやろうな。派手なもん、いっぱい身につけとったわ」と、いかにも遠くを見るような目線で語る山辺さんの表情が、少し柔らかくなったように見えたが、持っていたパイプ煙草をレジ机の上に置くと、また真剣な表情へと戻った。
「それでな、この本をワシの店に持ってきた時にな、何十年も掛けて調べたものを書いた本やと言っとったわ。十万円払うからどうしても置いてくれって言ってきよってな。それもな、売値はワシが勝手に決めてええっちゅうんや。ワシも金に困ってたからな、十万円もろてんや。そいで十冊置いていきよったわ」
 私は山辺さんが持っているその本を見つめながら「お金を払ってまで置いて欲しいって、相当思い入れがある本じゃないですか」と、食いつくように言った。
「ここからが曰く付きの話になるねんけどな。その姉ちゃんが本を置いてから、四、五日ぐらいして、店に警察がきよったんや。なんでもな、本を置いていった次の日に、集団自殺したみたいでな。首謀者は、その姉ちゃんでな、取り巻きの男十人も道連れにして、集団で服毒自殺しよったんや」
 あまりにも衝撃的な内容で思わず「えっ?」と山辺さんに聞き返したが、それは条件反射的に驚いた時に出る声だった。
「その時はな、テレビや雑誌で取り上げられてたけどな……でもな、ひとつ不可解な事があってな」
「不可解な事って何ですか?」
「毎日な、テレビで報道とかされてたけどな、この本の事は、テレビも雑誌も知らんかったんちゃうかな。テレビも雑誌も、この本の情報は一切なしやったんや。ワシはな、この本の情報が出たら、二万円ぐらいの値段付けて売ろうと思ってたんや。けどな、ワシの魂胆は叶わずや。全く情報が、でんかった。知ってたんは警察だけでな。警察も一冊だけ買っていきよったわ。何でこの本の事を警察は隠してたんか、不可解と思わんか?」
  それだけの大きい事件であれば、確かに警察からいろいろな情報が出ても不思議ではない。意図的に隠していたとすれば、この本には世に出してはいけない何かがあったのだろうか。 私は恐る恐る山辺さんに「その本の内容って、かなりヤバかったりするんですか?」と尋ねると「内容はな、下品と言えば下品やけどな、ワシには書いてる事がさっぱり分からんかった。姉ちゃんなりに愛について、突き止めたんやろうけど、誰も評価はせんやろうな。ただな、そうした下品の内容でもな、歴史については、きちんと調べてたな。そこぐらいしか、評価はできひんちゃうかな」と、山辺さんなりの書評を聞かせてくれた。
 下品の内容も気にはなったが、歴史という言葉が出てきた瞬間、私の好奇心はピークに達した。歴史好きな私にとって、歴史は命の源なのだ。私は山辺さんの顔を見つめながら「不可解な事は確かですけど、どうしてもその本が欲しいです」と言った。
「急にどうしたんや。いつも兄ちゃんは、歴史の事ばかり話して、歴史の本ばかり買ってたのに。愛について、何か悩みでもあるんか?」
「もう三十九歳になるんですけど、まだ独身という事もあって、愛について何も学んで来なかったので、今になって知りたいと思ったんですよ」と自分の身の上話をしてしまった。少し恥ずかしくなったが、そんな私に寄り添うかのように、山辺さんは微笑んでくれた。
「ワシも愛については、ようわからんけどな。結婚してた時期もあったけど、二年と持たんかったな。ただな、ひとつだけ教えといたろ。愛という言葉はな、漢字が日本にやってきた時に出来た言葉なんや。それまで日本ではな、愛という言葉はなかったんや。それまではな『おもう』とか『めでる』という言葉が愛の代わりに使われとってな。愛について難しく感じたらな『誰かをおもう』が愛と思ったらええんちゃうかな。ワシはいつも、そうしとる」
 私は山辺さんの知見の広さに改めて尊敬の念が生まれ、心がジーンと感動の渦で身動きがとれなかった。そんな私を見ている山辺さんの表情が、とても柔らかく優しさに満ちあふれていて、そして「まぁ、何はともあれや。この本で愛の事が分かるかどうか分からんけど、もうこの本は兄ちゃんのもんや」と私に本を手渡してくれた。
 私は改めて本の布生地を摩り、その感触がやはり手に心地よく、ずっと触っていたいとさえ思った。そして、金の箔押しから反射される神々しい光に目を奪われ、この世の真理を説くかのような『愛の法則』という文字に、私は心底酔いしれた。自費出版という希少価値、集団自殺の首謀者が書いた本、何十年も山辺書店に眠っていた本を探し当てた運、愛について知的好奇心を満たしてくれそうな本。全てにおいて私とこの本には、少なからぬご縁というものが存在しているのだと思った(出会うべくして出会ったのだろう)。
 私は感謝を込めて「ありがとうございます」と頭を下げて言うと「ワシとしても、これで曰く付きの本とは、さよなら出来るわ。それが最後の一冊やしな。また来たってや」と、山辺さんの声は清々しいものだった。私はもう一度、山辺さんに深くお辞儀をして店を後にした。

 帰宅後、早速洗面台へ向かい、丁寧に手を洗った。もう私の脳裏には、本を読む以外の選択肢は無く、読書用の椅子へ腰を掛け、持ち帰った本を手に取った。
 ゆっくりとページをめくると目次には「愛欲、セックスとフェラチオ、フェラチオが愛を紡ぐ、フェラチオの歴史、フェラチオの方程式、愛の法則」等の章からなっており、山辺さんが下品と言っていた意味が少し理解出来た。いわばこの本は、愛と性に関する本であることは一目瞭然だが、男女間での愛には確かに性という行為が存在する。愛について分からない一方で、性についても分かっていなかった自分は、あまりにも無知であると自覚せざるを得ない。均等に満遍なく知識を吸収してきたのではなく、自分に興味がある分野の知識しか学んで来なかった事が、今に至るバランスの悪さであり、看護師達からキショいと言われた原因の一端でもあると思った(他にも色々と問題はあるだろうけど)。何にせよ、愛と性に関する事が書かれている以上、私には蓄える必要のある知識である事に間違いはなさそうだ。

 愛欲の章を読み終え、私はそっと本を閉じ机に置いた。私達が今こうして生きているのも、先祖代々からの愛欲の結果だという事は考えれば分かる事だが、例えば目の前にある机であれ本であれ、それらは全部、文明の産物であって、こうした文明の発展も、根源は愛欲という代々の連鎖がなければ成り立たない世界であるという事を、著者は語っていた。考えてもみれば、歴史上の途中で人類が滅亡していたら、子孫繁栄が無くなってしまっていたら、今ある高度な文明も存在しなかったということだ。セックスという行為の中には、単なる子孫繁栄の為だけではなくて、文明が発達していく為に必要不可欠なエッセンスが含まれているという事なのだろう。
 中学生の頃だっただろうか。保健体育の時間にて性教育の授業があった。妊娠するメカニズムを知り、妊娠後の女性が経験するつわりの話もあったが、妊娠しない為には必ず避妊をする必要があるという事を先生は強調し熱弁していた。コンドームやピルという避妊に関する事も教わったが、私がその授業を受けて感じたのは、妊娠する事はデメリットが多く、避妊は必須だという印象だった(私の捉え方が偏っていただけかもしれないが) 。
『セックスをして妊娠する事は悪』という構図が、今までの私の頭を支配していたが、しかし、言い訳になるかもしれないが、一方で、もしセックスという行為で妊娠して子供を授かる事は、人類の歴史を紡ぎ文明を発展させる上では、とても大切な事であるという事を、性教育の授業で教えてくれていたのなら、私も考え方は違っていたのかもしれない。何も教育に責任があるという事を言いたいのではなく、妊娠する事の意義について良い面も含めた多面的な事を、きちんとそこに付け加えて欲しかったという話だ。歴史が好きな私が、歴史を紡ぐ事の根源にある愛欲については無知であり、何なら悪とさえ思っていたのかと思うと、本当に私は歴史の上辺だけしか見ていなかったのだ。氷山の一角だけを見て、全体を知ろうとしていた……実に滑稽な事だ。
 私は少し疲れてきた。新たな情報が脳内に入り込みすぎたせいか、処理が追いつかないオーバーフローの状態だ。風呂に入って眠りにつくのがベストな選択だと承知しているにも関わらず、脳内の一つの歯車がズレてしまっている感覚が、全ての行動を妨げているように感じた。読書用の椅子ではなく、ベットに横になった方が幾分かは楽であろうと思うのに、椅子から腰が動かない。私は疲れているのだ。私は疲れて……
  
(静かな集落の中に、石積みの井戸が見えた。枯れ葉が地上を舞い、何枚かの枯れ葉が井戸の中に落ちた。私は、その井戸を見たことがないのに、どうしても懐かしい気持ちがした。井戸の中を見ると、そこに水はなく枯れ葉だらけで朽ちていた。その井戸が私の姿だと悟り、涙が出てきた。悲しくて、悲しくて、酷たらしい孤独の中で叫び泣いていた。深い霧に包まれたかと思うと龍が現れ、『汝、この世の創造主は、既に人間を見捨てておる。汝、思うがままに生きよ。狂ったように生きてみせよ!』と私に宣告したのだ)

 時計の秒針の音が、静かな空間の中でリズムを刻んでいた。どうやら私は眠っていたようだが、泣いている夢を見たものの涙は出ておらず、ただ、実際に泣いていた時のようなヒックヒックと過呼吸になっていた。どういう理由で泣いていたかを思い出せなかったが、時計を見ると既に午後十一時を過ぎていた。辛うじて動く身体をベットに持っていき、さきほど見た夢にはどういう意味があったのだろうかと考えながら横になった。深く深く、落ちていきそうな……浅く浅く、透き通る水のような。

  あれから数日が経過し、帰宅後は必ず本を読み進めていた。それを勤勉と言えば聞こえはいいが、あくまで趣味の一環として読書をするというスタンスであれば、リラックスして本を読む事が出来る。学生時代の教科書であれば、もう既に読む気さえ起こらなかっただろうし、大人になって良かったと思うのは、勉強に縛られない自由さがあるという事に尽きると思っている。そうは言っても、知的好奇心を満たしてくれるこの紺色の本は、読めば読むほどに知識が身に付き、楽しく勉強をしているという感覚が心地よかった。本の内容も本格的となり、知られざる世界の全貌を少しずつ見せられているように感じた。
 例えば、セックスが性的興奮を伴う繁殖活動に対し、フェラチオという行為は性的興奮は伴うが生殖活動に直接関与しないという違いがあり、両方に共通する性的興奮という心理面にスポットを当てて、かなり深く掘り下げていた。特に関心を持ったのが、心理学者でありながら精神科医のジークムント・フロイト氏が提唱する心理性的発達理論を用いた事だ。
 心理性的発達理論には、人間は生まれた時より性欲があり、第一期が口唇期という名称で出生から二歳ぐらいまでの間、口から快楽を得ていると著者は論じている。赤子は母の乳房を吸い、口から満足を得る事で信頼が生まれ快楽を味わうとあり、それが生まれて初めて味わう人間の快楽であるとあった。何らかの理由で、赤子が口から母乳やミルクを摂取出来ず、点滴等の医療処置で育てようとしても、満足と信頼が生まれない。口唇期の快楽と信頼を経験していないと、脳内の成長が著しく低下する為に、三歳まで生き延びる確率が極めて低くなるとデータを提示し論じていた。
 一方で母方も赤子に乳房を吸わせる事で、母性という欲望を満たし、母と赤子の間に信頼関係が形成されて、赤子を愛するようになるのだそうだ。もし、何らかの理由で出産した我が子に母乳を与えられなかった母方は、自身の赤子にあまり興味を持てなくなると、これもまたデータを提示し論じていた。
 そうした心理性的発達理論には、続いて肛門期、男根期、潜在期、そして性器期と順番に訪れ、性器期は性器を中心とした性欲の満足を求める思春期の事で、いわばセックスは性器期が訪れてからの欲求になり、後天的な欲求という位置づけになるとあった。それに対しフェラチオという行為は、人間の本能的かつ原始的な口唇期の快楽を、大人になってからも満たしたいという先天的な欲求であると、その二つの違いを述べていた。
 ここまで読んでみて感じたのは、愛の法則について述べる前の前提知識として、知らなくてはならない並々ならぬ知識を、全て頭に入れなさいという著者の意図が、はっきりと伝わってくるということだ。ただ、少々ではあるが強引さが拭えず、山辺さんが言っていた、内容がさっぱり分からなかったという評価も、当然なのかもしれないと思った。
 著者自身は、きっと真剣そのもので幅広い知識を身につけ、独自の視点から色々と述べてはいるが、著者の人間像のようなものが、いまいち掴めない。人間味のないという言葉は語弊があるかもしれないが、ただ掴めないのだ。知識の羅列だけであって、著者の心情というものが一切伝わってこない。知的好奇心を満たしてくれるという点では、とても楽しく読めるのだが、読み進めるにつれて、なぜこのような本を出版するに至ったのかという、著者の人生譚というものがない。著者の事を詳しく知りたいという好奇心が私の中に芽生えてはいるのだが――愛という人間活動の原点のようなものを語るのだからこそ、著者の人間味というスパイスが必要ではないだろうか。とはいえ、まだ半分ぐらいのところまでしか読んでいないので、今後の展開では何かしらの著者の情報が出てくる可能性もある訳で、私は静かに続きを読む事にした。
 次の章に入るとフェラチオという行為が、いかに愛を紡ぐ為には必要な要素で、一番効果的であるかという事を述べていた。
  
 ※  フェラチオが愛を紡ぐより抜粋

 口に男根を含む女性は、顕在意識的に何かしらの目的があります。勃起させる目的、殿方に快楽を与える目的、殿方に従順である事を示す目的と多種多様です。しかし潜在意識的には、口唇期の心理と同じく口からの快楽と信頼を欲しています。
 一方で女性に自身の男根を口に含ませる殿方の顕在意識的な目的は、支配欲を満たす目的や性的興奮を満たす目的があります。潜在意識的には、男根は強く噛まれると致命傷にもなり得る為、自身の大切な男根を口に含ませる事で、ある程度の信頼を示しています。また、自身の口唇期の投影をしている場合や、父性として相手の口唇期を満たそうとしている場合もあります。両者にとって顕在意識的な立場は違っても、潜在意識的にはお互いに信頼という関係性を形成している事になるのです。フェラチオという行為を繰り返せば繰り返す程に、信頼関係は強固となり、強い結びつきによる愛が形成される事になるのです。

 フェラチオという行為の中に隠された心理というものを、洗いざらしにしており、人間の不思議さを改めて知った。フェラチオという行為が、そこまで人間関係の形成に影響を与えているとは露とも知らず、悲しい事に私はフェラチオをしてもらった経験がない。そういう行為がある事は知ってはいたが、そういう機会がなかったのだ。誰かと信頼関係を築けなかった過去の自分を照らし合わせてみても、性にあまり興味がなかったが故の事だと思えば、かなり納得がいくものだった。
 その後も次から次へと、フェラチオに関する考察や歴史に触れ、古代エジプト文明の神話に登場する女神イシスがフェラチオの起源とされているとあった。その証拠として、大英博物館に保管されている『死者の書』に登場する女神イシスのフェラチオシーンの写真が掲載されていた。更に古代エジプト文明では、クレオパトラ七世がフェラチオをしていたという逸話を紹介している。著者の考察では、その逸話には諸説がある事を前提として、二つの説を紹介していた。一つ目の説は、男性から射精する精子が女性の子宮に到着する事で子供が生まれる事を知った古代の人達は、男性器には神の力が宿っていると考え、神々への感謝を伝える儀式としてフェラチオをしていたという説だ。もうひとつの説は、クレオパトラ自らが兵士達の士気を高めつつ信頼関係を築く為にフェラチオをして癒やしをも与えていたという説だ。古代文明の時代から、こうしたフェラチオの歴史があり、他の古代文明のいくつかには、土器にフェラチオを模した形状があり、その土器の写真も掲載されていた。著者は、フェラチオは古代文明から既に人間関係の形成に必要な要素であった事と、その成り立ちについては、フロイトの提唱する心理性的発達理論の口唇期がもたらした人間の本能的な行為であるからこそ、古代文明にもフェラチオという行為は実在していたと結論付けていた。
 著者のフェラチオに対する執念は、まだまだ続いた。次の章に入り、フェラチオの方程式なるものが登場するのである。
 真実の愛と偽善の愛の境界線を知る事が出来る方程式とあり、まさかここで数学的な理論に巡り会うとは夢にまで思わなかった。

 男根の長さ(㎝)×男根の太さ円周(㎝)×2=射精に至る秒数  ※計測は勃起時のみ

 この方程式で求められた解は、フェラチオのみの行為で男性がその秒数内で射精した場合、そこに真実の愛が存在するとあった。求められた秒数内で射精出来なかった場合は、それは偽善の愛であると著者は論じている。また、男根の計測時は必ず勃起時である事を注意しないといけないらしい。
 著者が長年、フェラチオという行為を通じて、本当にお互いに真実の愛を感じ合っている場合は、必ずこの方程式で求められた秒数内、フェラチオのみで射精しているとあった。
 私は居ても立っても居られず、工具類を置いている棚に向かった。私の脳裏では、確か小学生時代に家庭科の時間に使った裁縫箱があるはずだと記憶を辿り、棚を見渡してみると裁縫箱が目に入った。お弁当箱のようにパカッと裁縫箱を開けると、布製の巻き尺があり懐かしさを感じつつ私はそれを手に取り、ズボンとパンツを降ろすも、勃起とは程遠い小さな男根が、そこにあった。勃起をしなくてはと慌てて読書用の椅子へ戻り、机に置いてあるノートパソコンの電源を付けた。普段であれば、アダルトサイトを見る事はないのだが、どうしても方程式で導かれる自身の秒数が知りたくて仕方ないのだ。
 ブラウザの検索窓にフェラチオと入力し検索すると、フェラチオのWikipediaという百科事典サイトが検索一位に表示されていた。私は文字を読みたい訳ではない。フェラチオをしている動画を探さねばと思い、動画と付け足して再検索してみると、幾つかの動画サイトが表示されていた。
 私は検索結果一位に表示されている動画サイトに訪れ、画面に表示されている画像に面食らった。セーラー服を着た若い女性が上目遣いでフェラチオをしていたり、ナース服を着た女性が病院のベットらしき所でフェラチオをしていたりと、人間の持っている野蛮さや闇を見ている感覚に陥った。しかし、私の好奇心は留まる事を知らず、ナース服を着た女性の画像をクリックした(職場が病院という浅はかな理由で)。
 動画が再生され、ベットの上に仰向けになっている男性からの画角で始まり、小顔の女性が唇で男根の先っぽにキスをしていた。艶やかなピンクの唇が、とても小さくて柔らかそうで幼くも見え、やがて唇の間から抜け出してきた舌先が、男根の先を刺激し始めていた。まるで大人を知らない少女のような幼気な顔立ちの女が、その小さな口の中へ男根を含み始めると、その女は目を閉じ、ゆっくりと上下に動かした。なんとも愛おしそうに、優しくゆっくりと口の中で癒やしを与えていそうに――私は既に勃起をしていたが、自身の男根を計測するよりも、動画の行方に目を奪われていた。女は口による上下のピストン運動の速度を速めて、マチュやピチュといった何とも卑猥な音を立て、カメラ目線のアングルがあたかも私を見ているような錯覚を感じた。激しく動くナース帽が少しずつ乱れ、大きな男根にて小さな口が窮屈そうにしていたかと思うと、やがて女の表情が苦痛に満ちていった。そして男優らしき人物が立ち上がり、その女の顔をめがけて射精をしたのだった。
 幼気な女の顔が白い精子で穢されて、あまりにも悲壮感が漂っており、女の顔に射精をするなんて、なんて野蛮な行為なのだと思いはしたが、しかし、私はそれが羨ましくて堪らなかった。私もこのような幼気な女の顔を穢してみたいと興奮が収まらなかった。
 動画はそこで終わったが、私の下腹部辺りが興奮により熱くなりすぎており、居ても立ってもおられず射精をしたい気持ちに襲われた。しかし、私は計測の事を思い出し、はやる気持ちを抑えながら早速、布製の巻き尺で自身の男根を測ることにした。
 男根の根元から先までの長さが12㎝あり、続いて男根の円周の太さを測ると13㎝であった。方程式を用いて計算してみると、312秒となり、つまり5分12秒であると分かった。もし私がフェラチオをしてもらって5分12秒以内で射精する事が出来たのであれば、そこに真実の愛があるという事になるのだが、一度もフェラチオの経験をしたことのない私が、何をしているのだろうかと、我に返った。彼女もいないのに、真実の愛? 誰が私を愛したりするのだ? あまりにも馬鹿馬鹿しく思え、目の前にあった巻き尺を手に取り、壁に向けて放り投げた。

 翌日、もう本の事は忘れようと心を入れ替え、いつも通りに出勤していた。あの本を手に入れてからの数日間は、まるで非日常のような浮き足だった状況だったが、また日常に戻る事で何事もなかったかのように、ひとつの歯車として社会に溶け込み、お給金を貰って自分なりに幸せなら、それでいいと思った。記憶の中から、あの本一冊だけを消去するのは至難の業かもしれないが。
 病院内は、いつにも増して混雑していた。
 今日はCT撮影室の担当であり、午前中の予約は常に満員状態とあって、忙しさで仕事に集中出来そうだなと思った。私は早速、CT撮影装置のチェックに入り、問題箇所がないか入念に調べていた。そこへCT撮影室の今日の担当看護師である浅野さんという女性が「おはようございます」と一礼をして挨拶をしてきた。一礼をするなんて珍しい人だなと思いながらも「おはようございます」と私は挨拶だけを返した。
 そういえば救急部から放射線部に今月になって転属となった人だと紹介を受けてはいたが、きっと三十代前半ぐらいだろうか。身長も私とあまり変わらない170㎝ぐらいの細身で、一緒の担当になるのは初めてだ。救急部のような多忙な所から来た人にしては、落ち着いていて礼儀正しく飾りっ気のない清楚な感じに、少々ギャップのようなものを感じた。浅野さんがどうして配属が変わったというような個人的な事には興味を示さない方がいい。人と関わり過ぎると、どういう噂話が飛び交うか分かったものではないし、存在を消している方が、何かと都合が良いのだ。特に昼休みの更衣室で聞く、看護師達の噂話は悪意に満ちている。
 全てのチェックを終えて、検査準備が完了すると、ちょうどそこへ浅野さんがやってきてクリアホルダーを差し出し「一人目の患者さんです」と笑顔で言った。私はその笑顔の意味が分からなかったが、ただ、彼女の薄い赤色の唇に目を奪われた。彼女がその口で男根を愛おしいそうに咥えたり舐めたりしているのかと思うと、心臓の高鳴りを感じ、自然と勃起していくのが分かった。私は差し出されたクリアホルダーを手に取り「ありがとう」と冷静さを装うように言った――が、自身の股間を目で確認するとふっくらとしているのが分かった。勃起しているのがバレてはいけないと焦り、浅野さんに背を向けて、とにかく落ち着かせようと必死だった。自分でも、どうしてそんな想像をしてしまったのかと自己嫌悪になった。冷静に――冷静にと言い聞かせ、クリアホルダーの指示書を手に取り、最初の患者は胸部CT撮影の指示があったので、早速、CT装置の設定に入った。
 そうこうしているうちに、一人目の患者が撮影室に入室し、浅野さんが注意事項の説明を始めた。その患者は二十代の若い女性であったが、仕事前にやってきたのだろうか。グレイ系統のスーツ姿で、艶やかな肌色のパンティストッキングが艶容さを醸し出している。そして綺麗な黒髪が首元まで流れ、説明を聞いて笑顔を見せた時のえくぼが、もう可愛くて仕方が無かった。
 小さな口が――その小さな口に自身の男根をねじり入れたいという欲求が次第に大きくなり、またしても私は勃起をしてしまった。私は頭を大きく左右に振り、なんとか頭の妄想を振り払いたい一心で、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした。だが、心臓の鼓動は高まる一方で、私は目の前にあるCT撮影装置に両手を付いて俯き、下半身の膨張が収まるのを待つしか無かった。
「松岡さん、大丈夫ですか?」と浅野さんの声が近くで聞こえ、「大丈夫です。ちょっと待ってください」と答えた。こうなったら興奮することではなくて、逆の気持ち悪い事を考えようと思い、昔からずっと気持ち悪いと思っていた、祖母が入れ歯を外して歯茎しか見せない状態で話をしている時の事を思い出した。小さい時から気持ち悪くて恐怖にさえ思っていた、祖母の入れ歯外しの語り部を詳細に思い出していると、甘い石けんのような匂いが鼻をくすぐり、「本当に大丈夫ですか?」と優しく語りかける浅野さんが、私の左手の腕と背中を触ってきた。どうしてこんな時にボディタッチをしてくるのだと気が狂いそうになり、私は慌てて「すぐに戻ります」と告げて、撮影室を後にしトイレへと駆け込んだ。
 私はすっかり気が動転していた。思考の全てが変態そのもので、女性の口を見るとフェラチオを想像してしまっている。あの本を読んだのがいけなかったのだ。私は、あの本に洗脳されているのだろうか。今、それを考えても仕方がない。業務に支障をきたしては――解雇されてしまうかもしれない。私は本来の自分を取り戻す為に、洗面台で顔を洗った。そしてハンカチで顔を拭き、パンパンと両手で頬を軽く叩き、トイレを後にし撮影室へ向かった。
「お待たせしました」と撮影室に入ると、すでに患者さんは既に着替えCT撮影の寝台に仰向けになっていた。浅野さんは心配した様子で私を見ていたが、私は患者の寝台に近づき注意事項を伝える事にした。
「今からCT撮影を開始しますが、リラックスしてくださいね。途中で息を止めてくださいと言いますから、その時は息を止めてください。短い時間の息止めですから、安心してリラックスしてください」と患者に伝えると、「はい、わかりました」と患者は答えたが、その声はまるで少女のようだった。私はまたしても、その患者のピンクの唇に目を奪われたが、邪念を振り払うかのように、祖母の入れ歯の無い語り顔を思い出し、なんとか窮地を脱した。
 私はCT装置のコンソールで操作を開始し「それでは、ゆっくり動きますね」と患者に伝え、寝台はゆっくりとドーナツ状のガントリと言われる装置の開口部へ進んだ。その開口部が女性の口のように見え、そこに向かう寝台が男根のようだと思え、そのイメージが頭を駆け巡った。今、目の前にある光景がフェラチオだと錯覚してしまうぐらいに、私の頭はもやは壊れていた。
 その後も、フェラチオの妄想が現れる度に、祖母を思い出しては冷静になりを繰り返し、午前予約分の撮影業務は終了していた。午後一時を過ぎていたが、私はずっしりと疲れ切っており、椅子に腰を掛けてため息を漏らしていると、目の前に浅野さんがやってきた。「随分と疲れているみたいですけど、本当に大丈夫ですか?」と浅野さんは言った。
 心配してくれるのは有り難い事だが、疲れている原因を決して話す訳にはいかないし、適当に誤魔化すしかなかった。
「いえ、大丈夫ですよ」と、やはり疲れ切っている自身の声は、いかにも生気がない感じだった。
「早退とかされてはどうですか?」と浅野さんは気遣いを見せてはくれるが、それに甘える訳にもいかない。「いえ……午後も数件、予約の検査があるからね。周りに迷惑をかける事も出来ないからね」と私は答えた。
「無理をされると、後々に苦しくなりますよ。実は私の事なんですけどね、救急部で忙しい毎日を送ってたんですけど、人員不足で残業も多くて。それで私は精神を壊したんですよ。ずっと心が重たくなって、心療内科で鬱病と診断されて。数ヶ月休んで上司に相談して仕事を辞めようと思っていたんですけど、残業もあまりない放射線部に人事異動になったんですよ。今は薬も飲みながら、少しずつ回復に向けて、なんとか自分を取り戻そうとしているところなんです」と浅野さんの悲しげな声と目が、とても印象的だった。
 そして私は「そういう事情があって、放射線部に異動してきたんですね。もう十年ぐらい前ですかね、当時救急部にいた村岡先生も、忙しさのあまりに鬱病になって辞めていかれた事がありましたよ。噂には聞いてましたよ、救急部は忙しすぎて、みんな辞めていくって。浅野さんも、ずっと忙しく苦労してきて大変だったでしょうね。今はゆっくりと過ごされて、少しずつ自分を取り戻せたらいいです」と言った。
 浅野さんの目頭に滴のようなものが見えたが、私はそれを見ない為に――いつのまにか唇を見てしまっていた。私は不謹慎にも、鬱病で苦労している浅野さんの唇からフェラチオを連想してしまい、もう本当に自分の事が嫌になった。そんなことを露知らずの浅野さんが、「松岡さんって優しいんですね、ありがとうございます。松岡さんも無理はしないでくださいね」と言った。私は優しいのではなくて変態なのに、浅野さんの言葉を素直に受け止める事は出来なかった。私はきっと地獄に落ちるべき人間なのだと……本当に私は何かが壊れている。あの本が……私を狂わせたのだ。

 一日の業務が終了し、私は急いで帰宅した。私は読書用の椅子に座り、机の上に置いてある『愛の法則』の本を見つめ、この本をどうしようかと考えた。山辺書店の山辺さんから貰った書籍である為、捨てるにしては恩義を感じている山辺さんを裏切る事になってしまう。どこかに売るにしても同様で、家に置いておくにしては、あまりにも私に悪影響をもたらしてしまう。私は机の上を右手人差し指でトントントンと、ゆっくりと軽く叩きながら、あたかも一休さんが頓知を考えている時のように、何かの閃きを待った。小学生の頃、夏休みに子供アニメ番組で一休さんをやっていた。大人達を相手に頓知を利かせて一泡吹かせる物語が、私にとっては爽快そのものだった。友達から言わせれば、一休さんはただの屁理屈だと言っていたが、私からしてみれば、かっこいいとさえ思っていた。
 どんなに考えても頓知や知恵が湧いてこない私には、到底、目の前の問題を処理出来そうになかった。ひとつ心残りなのが、最終章の愛の法則を読んでいない事なのだが、最後まで読み切ってから、本の処分について考えてもいいのかなと思った。
 私は仕方なく本を手に取り、最終章を読み進める事にした。

 ※ 最終章  愛の法則より

 誰かを好きになっても、愛し合うまでの道のりは険しくて、その道中で泣き崩れては、その苦しみから逃れようと嘘もついて、伝わらない言葉達が暴走し、お互いの心を蝕み腐す。
 愛を掴もうと手を伸ばしても、その指先にあるのは蜃気楼の理想で、やがて霧が晴れた空の下では、誰もが絶望を手に掴んでいて、こんなはずではなかったと、自分の無知さに怯え震えながら、何事もなかったかのように、また愛を探す。
 たとえ愛し合う二人の世界に辿り着いたと安堵しても、それが真実の愛と信じられる確証がなくて、疑心暗鬼の芽が育ち嫉妬の炎が燃えさかり、その責任の所在を相手に求め束縛をする。
 私は愛に悩み、愛に苦しみ、愛に理想を抱きすぎて失敗し、愛を利用して誰かを傷つけは知らん顔をして自分を正当化していました。人生の殆どが愛にまつわる出来事なのに、愛に不器用な自分の生き方に、いつも悩んでしました。それまでは……
 私は中学二年生の時、当時付き合っていた彼氏と初めてのセックスをしました。初めてのフェラチオも、その彼氏でした。その彼氏の事を本当に好きで愛していたのか?  と言われると自信がありません。その彼氏と付き合ったのも、雰囲気に流されたのもありますし、早く大人になりたいという私の憧れもあったのです。そして何よりも告白されて嬉しかったというのが、一番大きかったのかもしれません。
 そして私は、彼氏と付き合ったことを後悔しました。盛りの付いた彼氏とのセックスは、苦痛そのものでした。そして毎日のようにフェラチオをさせられて、私の心はすっかり冷めていきました。フェラチオさせられている時間が、とても長く感じて、早く終わりにして欲しいのに、なかなか射精までしてくれなくて。そういう苦しみの日々から逃れる為に、当時、相談に乗ってもらっていた別の男の子と浮気をしてしまい、結局、彼氏とは別れました。
 それまで想像していた理想の恋愛と、実際に経験した恋愛の現実が、あまりにもギャップがあって、未来に希望を描けなくなった挙げ句、私は中学二年生の冬の晩に、マンションから飛び降りたのです。幸い、重傷に至る事はなかったのですが、半年ほど精神病院に強制入院されられました。
 もう恋愛はしないと心に誓っていたのに、高校二年生になって、私は恋をしました。とても誠実な心優しい彼に、私から告白して付き合う事になったのです。
 その彼氏は、すぐに身体を求める事をしませんでした。どんなに細やかな悩みでも真摯に受け止めて相談に乗ってくれて、そして毎日の会話が心地よくて楽しくて。デートもエスコートしてくれて、私を沢山楽しませてくれて理想の恋愛に近いものがありました。私から彼氏に、触れ合いたいとお願いして、そしてセックスもフェラチオもしました。
 その彼氏とのフェラチオの時、口の中に彼氏の大事なおちんちんが入っているだけで、すごく安らいで多幸感で一杯でした。もっとお口で気持ちよくしてあげたいと心の底から思っていました。何時間でも、お口に含んでいたかったのに、すぐに彼氏は射精していました。元カレの時は、あんなに苦しくて嫌だったのに、どうしてこんなにも気持ちが違うの? と、ずっと不思議に思っていました。
 それから月日が流れて、次第に彼氏の心が離れていっていると感じていた時、私のフェラチオで、すぐに彼氏は射精しなくなっていました。それでも私はフェラチオをしている時、とても安らいでいたので、自分からお願いしてフェラチオをしていました。でも、別れる頃には、フェラチオで射精さえも出来なくなっていて、私の心は寂しさに包まれていました。そして私はフェラチオで射精するまでの時間と、愛し合う心の距離には相対関係があると感じたのです。
 その彼氏と別れてからは、自分の心の寂しさを埋める為に、いろいろな男性と肉体関係を結びましたが、フェラチオの行為の中に、私の求める喜びや安らぎはなくて、射精に至るまでの時間も、やはり長かったのです。
 二十三歳の時、本気で愛せる人と出会い、相手も私の事を心から愛してくれていました。そして、その彼氏とのフェラチオは安らぎそのもので、射精に至るまでの時間も早かったのです。私が今までフェラチオに抱いていた感覚に間違いは無いと思ったのです。何か法則のようなものがあるに違いないと思い、それからフェラチオノートを作り、その時の心の動きとか、フェラチオで射精に至るまでの時間を書き留めていました。ストップウォッチを持ちながらのフェラチオでしたので、すごく不思議がられていましたが、私は必ず法則を突き止めようと心に誓っていました。
 それから私は、風俗の世界でSMの女王様をしながら資金を貯めて、ブティック経営の世界に足を踏み入れました。SMの女王様をしながら、日々フェラチオの研究をしていました。フェラチオの歴史から調べて、心理学も勉強して、私なりの理論を構築しましたが、まだ方程式を編み出す事が出来ませんでした。
 ある日の事です。知り合いのSM女王様が経営するSMバーに行った時の事です。そのバーに訪れていた、とあるS男性の方とフェラチオの話題で盛り上がり、そのS様が私に言った言葉があります。
「君のフェラチオに対する情熱は評価に値するが、女性側からの観点のみで見てはいけないよ。男のチンコというのはね、人それぞれに長さも太さも違うし、一番男性としての象徴する部分でもあるし、チンコは自分の分身なんだよ。もっとチンコというものをよく観察したら、君が求める何かが分かるのだろうし、男性側の心理面をもっと深掘りをしたら、全体像を詳しく知るに至るだろうね」
 そのS様のアドバイスを聞いて、私はフェラチオする前に必ず勃起したおちんちんの長さや太さを計測し、フェラチオノートに記録していきました。女王様という職業柄上、男性の象徴する部分を計測しながら言葉責めで羞恥心をくすぐる事も出来たので、データの収集はスムーズにいきました。
 数多くのデータを収集し、三十四歳の頃にフェラチオの法則を編み出したのです。
 
  男根の長さ(㎝)×男根の太さ円周(㎝)×2=射精に至る秒数

 求められた秒数内にフェラチオだけで射精に至った場合、真実の愛があるというこの法則は、私だけでなく沢山の知り合いの方達にも実施して頂き、確かにこの方程式通りだと実証して頂きました。
 この魔法のような方程式で、真実の愛と偽証の愛との境目を、自らの目で確認する事が出来ますので、是非とも活用して頂ければ幸いです。
 二十三歳の時に付き合っていた彼氏とは、現在はパートナーとして真実の愛の中で暮らしています。その方以外にも、私は九人の殿方と共にパートナーとして歩んでいます。
 真実の愛を分かち合えば、嫉妬心というものが生まれません。私と十人の殿方達は、全てにおいて尊重しあい、共同生活を営んでいます。この世界で真実の愛に辿り着いた者同士で、沢山の時間を共有し、沢山の知識も思いも共有しました。
 そして、この世界で生きる目的、それは真実の愛を探し求め、解を知り理解する事が人間の本質だと、全員一致でその結論に辿り着きました。
 私達は、もう既にこの地球上の世界では財も名誉も地位も、ある程度築き上げました。この世界で探求するものが、もはやこの世界にはないと悟り、私達は近々新たなる世界へ旅立ちます。
 新たなる世界で真実の愛を育みながら、新たなる課題と探求を経て、宇宙全ての真理に辿り着く事を、みんなで約束しました。
 この地球上での愛の法則を探求した思い出には、沢山の人達との出会いがあり、別れがあり、そして最後には真実の愛という幸せがありました。最後に辿り着いた場所が、幸福な真実の愛の世界であった事が、本当に生まれてきて良かったと思えるのです。
 この本は、次なる世代へ真実の愛を探求する者達への道標として制作しています。この本を手にしているあなたは、どんな状況でも、必ず真実の愛へ辿り着けます。そして、真実の愛へ辿り着いた時には、パートナーと共に新たなる世界で私を探してみてください。あなたと私の間には、必ず強い縁というものが働いています。あなたがこの本を手にした時点で、既にご縁は結ばれたのです。何を隠そう、この本には、とあるおまじないを掛けています。
 この本の最後の奥付に、シリアルナンバーが記載されています。とある数字のシリアルナンバーには強い作用が働き、あなたを中心として世界が動き始めます。今は特に何もなくても、必ず何かしらの転機が訪れた際に、そのシリアルナンバーがあなたを助けてくれます。
 最後までお読み頂きありがとうございました。
 あなたの事を、心から愛しています。
 新たなる世界でお待ちしています。

                ミセス・マチルダ

 最終章にきて、著者であるミセス・マチルダの思いが綴られていて、ある程度の人物像を垣間見る事が出来たものの、もう既にこの世には存在していないのだと思うと、とても悲しい気持ちになった。集団自殺をした経緯も、この最終章を見る限りでは、新たなる世界への旅立ちの為に、そうしたのだろうと読み取れる。
 愛の世界を探求していたミセス・マチルダが今の私を見て、どう思うだろうか。明らかに私は生き遅れている感じが拭えないし、自分だけの世界に閉じこもって、誰とも分かり合える事がなかった(分かり合おうとしなかった)。
 今までの私とは正反対の世界で生きてきたミセス・マチルダの事を、もっと知りたいとさえ思っている。もっと深く知り、もっと近づきたいと。
 ミセス・マチルダが最終章の中で『あなたと私の間には、必ず強い縁というものが働いています。あなたがこの本を手にした時点で、既にご縁は結ばれたのです』と断言していたが、今となれば私もこの本を手にした時に、確かにご縁というものを感じた。何かの因果によって運命の歯車が動き出したような……そういう儚さに私は溺れそうだった。
 夢の続きを見るかの如く、私は本のページをめくった。最終ページの奥付上部分に、ドレスを着た女性が中央に立ち、その両側に五名ずつのタキシードを着た男性達が立ち並び、みんなワイングラスを高々と上げている白黒写真が掲載されていた。みんな誇らしげに笑っており、この世の全ての幸せを謳歌しているかのように、私の目には眩しかった。
 そして下部分には、1996年3月21日発行と書いてあり、シリアルナンバーも記載されていた。私の本のシリアルナンバーは、228だった。とある数字のシリアルナンバーには強い作用が働くと書いていたが、228という数字は如何にもハズレだなと思った。
 私はもう一度、ミセス・マチルダが写っている白黒写真を見つめ、何とも言い様がない気持ちに支配されていた。ミセス・マチルダの居る新たなる世界とは、どういう世界なのだろう。みんな真実の愛の世界で、幸せに暮らしているのだろうか。この本を出版した当時の私は、まだ十一歳ぐらいだと考えると、ミセス・マチルダと出会う機会もなかっただろう。同じ年代に生まれていたら、ひょっとしたらミセス・マチルダに出会えていたのかもしれない。そう考えると私は二十八年前に取り残されてしまい、この写真の輪に入れなかった事が、本当に悔しくて、悔しくて……
 私にも真実の愛を知る事が出来た際には、ミセス・マチルダも喜んでくれるだろうか。そして新たなる世界へ辿り着き、ミセス・マチルダと会う事が出来るだろうか。
 その美しいミセス・マチルダの写真を見ながら、私は自然と涙を流していた。今に至る自分の孤独さを埋める為には、どうしたらいい? そうした術を待ち合わせていない私は、これからどう生きていけばいい? 私には何もない。本当に何もないのだ!
 
 だけれど……ほんの少しだけでいい。
 誰か、私に愛をくれないか?
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