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挨拶
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楽しかった旅行が終わり、またいつもの日常生活が始まる。
だが美怜は、迫りくるお盆休みにドキドキと緊張する日々を送っていた。
(どうしようかな、どんな服装にすればいい?)
お盆休暇中に、まずは成瀬の実家に二人で行き、その翌日に美怜の実家を訪れることになっていた。
頭の中で準備するものを考え、クローゼットを開けて洋服に悩む。
(やっぱりちゃんとした格好じゃないとね。でもビジネススーツって訳にはいかないし。あー、もう!誰か『彼の実家に行く時の服』っていう名前で売り出してくれないかしら)
手土産を買うにもデパートで散々悩み、服装がある程度決まると今度はバッグや靴、髪型やメイクまで悩み始めた。
(誰か―!『彼の実家に行く時のお任せコース』って名前で、トータルコーディネートしてくれるサロンを教えてー!)
毎晩頭を抱えているうちに、あっという間に当日を迎えた。
「もうだめ。行く前からぐったり…」
約束の時間は朝の十時。
だが美怜は六時に起きると、そわそわドキドキと支度を始めていた。
迷いに迷って選んだのは、濃紺のひざ下丈のパフスリーブワンピース。
スカートは張りのある素材でAラインになっており、胸元は和服の打ち合わせのように前身頃をV字に重ねたサープリスネックだった。
髪型はハーフアップでまとめ、お辞儀をしても顔に掛からないか、胸元がだらしなく開かないか、何度も鏡の前で確認した。
アクセサリーもパールの落ち着いたものを選ぶ。
最後に、バラのチャームのブレスレットを左手首に着けた。
また失くすのが心配でずっと部屋に置いたままにしていたが、今日はどうしてもこのバラを身に着けたくて、しっかりと落ちないようにつけ直しておいた。
「髪型よし、服装よし、顔は、まあ仕方ない。手土産も持ったし、あとはバッグと靴をもう一度チェックして…」
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「ひゃー!来たー!」
胸に手を当てて深呼吸してから、モニターに映る成瀬に応答する。
「はい」
「おはよう、美怜。もう出られる?」
「はい!すぐに参ります!」
よし!と気合を入れると、美怜は玄関で少しヒールのあるパンプスを履き、玄関を出た。
***
「おはようございます」
「おはよう、美怜。すごく可愛いね」
「え、ほんとに?これで大丈夫かな?」
「ああ。もう実家なんて行かずに、このままデートしようか」
「だめです!」
あはは!と笑って成瀬は助手席のドアを開ける。
新しい車は納車がまだなので、白いスポーツカーのままだった。
「じゃあ出発するよ。三十分もあれば着くと思う。どこか寄り道する?」
「いえ。心臓がもたないので、もう行っちゃってください」
「ははは!分かった。でもそんなに身構えないでいいから。うちの親、別に堅苦しくないし」
「でも、お父様は一流企業の役員をされていらっしゃるんでしょう?お母様はお料理教室の講師をされていて」
「うん。だから普通のサラリーマンのおじさんと、割烹着の似合うおばちゃんって感じだよ」
美怜の頭の中に、お腹のぽっこりした入江課長のようなおじさんと、白い三角巾に割烹着姿のザ・おばちゃんが思い浮かぶ。
(そうなんだ。それなら少しは安心かな)
だが美怜のその考えは、三十分後にはるか彼方へと飛んで行った。
(どどど、どこがサラリーマンのおじさんと割烹着のおばちゃんよ?)
「いらっしゃい。まあまあ、初めまして」
高級住宅街にドンと門を構えた邸宅の玄関で出迎えてくれたのは、ロマンスグレーの俳優のようなかっこいいおじさまと、およそおばちゃんなどと呼ぶには似つかわしくない、上品でにこやかな女優のように美しいご婦人。
(本部長の嘘つきーーー!)
心の中で号泣しながら、美怜は必死に気持ちを落ち着かせて笑顔で挨拶する。
「初めまして、結城 美怜と申します。本日はお招きいただきまして、誠にありがとうございます」
「まあ、こんなに可愛らしいお嬢さんがいらしてくださるなんて。とっても嬉しいわ。さあ、どうぞ上がって」
「はい、失礼いたします」
美怜はもう一度深々とお辞儀をすると、靴を脱いでから振り返ってしゃがみ、端に揃えて置いた。
どうぞ、と通されたのは床の間も立派な広い和室。
勧められた座布団の下座の畳に正座をし、美怜は手土産を差し出す。
「ご丁寧にどうもありがとう。硬い挨拶は抜きよ。さ、お茶をどうぞ」
「はい、失礼いたします」
美怜は座布団に両手をついて膝を進めた。
「隼斗から結婚するって聞いて、もう本当に嬉しくて!私達、美怜さんに会えるのを楽しみにしていたの。でもこんなに可愛くてお若いお嬢さん、うちの隼斗にはもったいないわ。ねえ、あなた」
「そうだな。ご両親だってがっかりされるんじゃないだろうか。今ならまだ間に合うよ。考え直してみたら?」
両親の言葉に、おい!と成瀬は突っ込む。
「息子の結婚を祝う気持ちはないのか?」
「だって美怜さんのご両親に申し訳なくて。美怜さんには、アイドルみたいに笑顔が素敵な二つくらい年上の人がお似合いだと思うわ」
「だれもおふくろの好みは聞いてない」
「明日美怜さんのご実家に挨拶に行くんでしょう?ああ、きっと反対されるわね」
「うっ、やっぱりそうかな?」
「それはそうでしょ?だって美怜さんとはウンと歳が離れてる上に、アイドルみたいな爽やかさもないし」
すると父親も頷きながら口を開いた。
「それにお前、まさかあの車で美怜さんのご実家に行くつもりじゃないだろうな?絶対にやめろ。親の私が恥ずかしい」
「やっぱりそうだよな。頼む、親父の車貸してくれ」
父親は大きなため息をつく。
「それは構わんが、だからと言って美怜さんのご両親が結婚を許してくださるとは限らんぞ?心してご挨拶に行きなさい」
「分かった」
そして両親は改めて美怜に笑顔を向けた。
「美怜さん、こんな息子との結婚を考えてくれてありがとう。だがどうかもう一度しっかり考え直して欲しい。あとで後悔して欲しくないんだ」
「そうよ。あなたのように素敵なお嬢さんなら、この先もきっといい出逢いがあると思うわ」
いえ、と美怜は伏し目がちに微笑む。
「とんでもないです。私の方こそ隼斗さんにふさわしくないのではと心配でした。ですが私には、どんな時も私を支え、私の心に寄り添ってくれる隼斗さんしか考えられません。隼斗さんと、この先もずっと一緒にいたいと願っています。まだまだ未熟なふつつか者ではありますが、どうか隼斗さんとの結婚をお許しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
畳に両手をついて深々と頭を下げる美怜に、両親は言葉もなく目を潤ませていた。
***
その後は和やかに食事を囲む。
「いやー、もうね、孫の顔も見られそうにないって諦めてたんだよ。一人息子の隼斗は結婚どころか、恋人の話すらしたことなくてね。なのにこんなに可愛いお嫁さんが来てくれるなんて。長生きして良かったなあ」
「何を言ってるの、あなたったら。まだまだしっかり働いて、美怜ちゃんにどーんと豪邸をプレゼントしてあげなきゃ。車もお洋服もバッグも靴も。女の子はたくさん欲しいものがあるんだから。あと、エステにヘアサロンにネイル!ね?美怜ちゃん」
「い、いえ、そんな」
お酒が入り饒舌になった両親は、息子よりも美怜にばかり話しかける。
「美怜ちゃん、どんどん食べてね。煮物や和え物ばかりの和食でごめんなさい。お口に合うかしら?」
「はい、とても美味しいです。こんなに手の込んだお料理、私では到底作れません」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわ。いつか一緒に作ってくれる?夢だったのよ、娘と一緒にお料理するのが」
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします。色々教えてください」
「いやー、もう今日からお嫁に来て欲しいわ。美怜ちゃん、ここに住む?」
おふくろ!と止められても、両親は美怜に終始デレデレだった。
食後のお茶を淹れようと立ち上がった母親に、ちょっと、と手招きされて成瀬はキッチンへついて行く。
「隼斗、美怜ちゃんのご実家ってどこ?白金台とか、田園調布とか?」
「いや、山梨の田舎だって言ってたけど。どうして?」
「だって美怜ちゃん、どう見てもお嬢様育ちにしか見えないのよ」
「ええ?!どこが?そりゃ接客がメインの仕事だから、立ち居振る舞いとかは人より丁寧だけど」
そんなレベルじゃないわよ!と咎めるように言ってから、母親は声を潜めた。
「あなた美怜ちゃんの作法に気づかないの?まあ私も最初は、美怜ちゃんが玄関で靴を脱いだ時の揃え方を見て、なかなか品のいいお嬢さんね、くらいにしか思わなかったけど。和室に入ってからはもうびっくりよ。畳の縁や敷居を踏まないのは当然だけど、お辞儀の仕方、手土産の差し出し方、座布団の座り方、全てが完璧よ。あんなの、ちょっとマナーの本を読んだくらいじゃ実践できないわ。きっと小さい頃から染みついてる振る舞いだと思う」
「そ、そんなに?」
「そうよ。それに箸使いもとっても綺麗。焼き魚なんて、あんなに美しく食べられる人、初めて見たわ。それから手土産のこの和菓子。京都の老舗の、知る人ぞ知るって銘店の和菓子よ。都内では銀座のデパートでしか手に入らないの。セレブ御用達ですぐに売り切れるのよ」
「はあ…。でもほんとに美怜、山梨の田舎育ちだって言ってたし」
「じゃあ明日その目で確かめてくるといいわ。私の目が節穴かどうかってね」
どんなに母親が力説してもピンと来ない。
(美怜が、お嬢様育ち?あんなに天真爛漫なのに?)
だが成瀬は次の日、母親の言葉が正しかったことを身を持って実感することとなった。
***
「み、美怜?!実家って、ここ?」
「そうです。あ、車はその辺に停めてください」
「ちょっと待って。どこまでが敷地なの?一体、何坪ある?」
「んー、確か六百坪だったかな。七百?忘れちゃいました。あはは!どこまでが敷地なのかもよく分からないんですよね。境界線とかもないし。まあ、田舎あるあるですよ」
「どこにもないないだよ!」
成瀬は戦々恐々としながら父親から借りたセダンの車を停めると、美怜に続いてとてつもなく立派で大きな玄関に向かう。
「ただいまー」
いきなりガチャッと玄関を開けた美怜に、成瀬はまたしても驚いた。
「みみ、美怜?!鍵は?」
「ん?鍵なんてかけたことないです。そもそもついてないんじゃないかな?まあ、田舎あるあるですよ」
「どこにもないないだったら!」
「お父さーん、お母さーん、いるー?」
「みみみ、美怜!ちょっと待って、心の準備が…」
成瀬が慌てて手にしていたサマージャケットを着ると、お帰りーと声がして誰かの足音がパタパタと近づいて来た。
だが廊下が長すぎてその姿はなかなか見えない。
そのうちに、アンアン!と犬の鳴き声も聞こえてくる。
「あ、モモー!おいでー」
「アンアン!」
廊下の角から小さなふわふわの白い犬が飛び出して来て、一目散に美怜に駆け寄る。
「モモ、会いたかった!って、…え?」
美怜に続いて成瀬も、…え?と呟く。
モモと呼ばれた犬は目を輝かせて走って来ると、両手を広げて待っていた美怜ではなく、隣に立っていた成瀬に飛びついたのだ。
成瀬が咄嗟に両手に抱くと、モモはぺろぺろと成瀬の顔を舐める。
「出たよー、モモのイケメン好き!もうテレビにアイドルが映る度に、目をハートにしてかじりつくんですよ」
「は、はあ…」
もはや頭がついていかない成瀬は、されるがままに顔を舐められている。
「お帰り、美怜。おお、これはこれは。遠いところをようこそお越しくださいました」
ようやく廊下の先ににこやかな男性の姿が見えて、成瀬はピシッと姿勢を正す。
「初めまして、成瀬 隼斗と申します。本日はお時間を頂戴しまして、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げるが、モモは腕の中から離れない。
「初めまして、成瀬さん。美怜の父です。いやー、こんなに立派でかっこいい方だとは。さ、どうぞ上がってください。おーい、母さん。成瀬さんと美怜が着いたぞー」
遠くで、はーい、と返事が聞こえるが、パタパタという足音だけで姿は見えない。
「本部長、上がってください」
「ああ、それじゃあ。失礼いたします」
美怜に促された成瀬は靴を脱いで上がると、振り返ってしゃがもうとする。
だがそれより先に、サッと美怜が自分の靴と成瀬の靴を揃えて端に寄せた。
「まあまあ、いらっしゃいませ。あらー、かっこいい!都会のイケメンだわ。テレビから出て来たみたいね。芸能人じゃないんですか?」
「あ、いえ。初めまして、成瀬 隼斗と申します」
美怜の母に頭を下げるが、やはり腕にはモモがいる。
「美怜の母です。こんな田舎まではるばるようこそ。あら、モモったらほんとにイケメンには目がないんだから。ごめんなさいね。さあさあ、お疲れでしょう?中でゆっくり休んでください」
「はい、失礼いたします」
成瀬はモモを抱いたまま、長い廊下を美怜に続いて歩いて行った。
***
掘りごたつになっている大きな木のテーブルがある和室に通され、成瀬は改めて挨拶すると手土産を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。さあ、どうぞ足を楽にしてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
まずはお茶でも、と四人で喉を潤しながら話をする。
モモは美怜にがっちり抱えられていた。
「成瀬さんは、美怜の会社のウンとお偉い方なんでしょう?お母さん、ちょっと会社のことってよく分からないんだけど。何だっけ、美怜。部長さんのまだ上の方なの?」
「そうよ、本部長なの」
「本部長?本がつく部長さんなのね。本がつおとか本だしとかの本?」
すると父が横から手で遮った。
「母さん、たとえがちょっと。本マグロとか本つゆの本ですよね?」
は、はい、とよく分からないまま成瀬は頷く。
「まあ、そんなご立派な方がこんな田舎娘をお嫁にもらってくださるなんて。大丈夫なのかしら」
成瀬はハッとして座椅子の横で正座をし直すと、畳に両手をついた。
「改めて失礼いたします。本日はお二人にお願いがあって参りました。私は会社で美怜さんと知り合い、美怜さんの仕事に対する姿勢、そして何より美怜さんの明るく純粋で優しい人柄に惹かれていきました。私など、若い美怜さんとは九歳も離れており、ふさわしくないとお考えのことと存じます。ですが私にとって美怜さんは、かけがえのない存在です。お二人にとって最愛の美怜さんを、私が一生をかけて幸せにすると誓います。どうか、美怜さんとの結婚をお許しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げると、美怜の父は慌てたように言葉をかける。
「そんな。顔を上げてください、成瀬さん。許すも許さないもないですよ。田舎で育った世間知らずの娘ですが、東京での仕事は楽しそうで、あなたと出逢えて幸せを見つけられたようです。親の私達はそれが何よりも嬉しい。明るさしか取り柄がない娘ですが、我々にとっては大切な娘です。どうか娘をよろしくお願いします」
父と母は揃って頭を下げ、美怜はそんな両親に涙ぐむ。
「はい。お二人のお気持ちはしっかりと心に刻みます。お二人の大切な美怜さんを、必ず私が幸せにいたします。美怜さんを私に託してくださって、本当にありがとうございます」
頭を下げ続ける成瀬の隣で、美怜もモモを膝から下ろして両手をついた。
「お父さん、お母さん。今まで私を愛情一杯に育ててくれてありがとう。東京で働きたいって言い出した時、心配しながらも送り出してくれたこと、ずっと感謝しています。わがままで無鉄砲な私を信頼して、好きなように生きていきなさいって笑ってくれてありがとう。これからも私は変わらずお父さんとお母さんの娘です。結婚を認めてくれてありがとう。私、幸せになるから、心配しないでね」
美怜…と母が涙をこらえて呟く。
「そうね。これからもあなたは私達の娘。そして成瀬さんが私達の息子になってくれるなんて。家族が増えて本当に嬉しい。成瀬さん、どうぞ娘ともども、末永くよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
四人は目を潤ませながら、笑顔を浮かべて頷き合った。
***
賑やかにお寿司を囲みながら、成瀬はようやくホッと胸をなで下ろす。
美怜の父も母も終始笑顔で美怜の子どもの頃の微笑ましいエピソードを話し、成瀬は幼くて可愛い美怜を想像して目尻を下げていた。
とそこへ、かすかに車のエンジン音が聞こえてきた。
「あ、おばあ様お帰りかな?」
美怜が呟き、成瀬は思わず真顔になる。
(お、おばあ様?おばあちゃんじゃなくて?)
聞き間違いか?と思っていると、美怜が話しかけてきた。
「本部長。祖母にも結婚の報告をしに行っていいですか?」
「ああ、もちろん」
真剣に頷き、美怜と一緒に部屋を出る。
ひのきの良い香りがする長い廊下を歩き、築山が美しい中庭をガラス越しに見ながら通り過ぎると、ようやく和室のふすまが現れた。
「ここです」
美怜は成瀬を振り返ると、その場でスッと跪座をした。
成瀬もすぐに従う。
「おばあ様、美怜でございます」
凛とした雰囲気をまとう美怜を、成瀬はまじまじと見つめる。
これが本当に美怜?
誰かと入れ替わった?
そう思っていると、少し間を置いて中から低く張りのある声がした。
「入りなさい」
「失礼いたします」
美怜は左手を引手にかけてふすまを少し開くと、スッと親骨に沿って手を下に下げてから、身体の中心までふすまを開ける。
次に右手に代え、手がかりを残して身体が入る程度まで開けた。
跪座から正座に座り直し、失礼いたしますと一礼してから視線を下げたまま入室する。
「おばあ様、ご無沙汰しております。本日は結婚のご報告に参りました」
美怜は成瀬を振り返り、小さく頷く。
ゴクリと唾を飲み込み、成瀬も「失礼いたします」と一礼してから挨拶した。
「突然の訪問、失礼いたします。初めまして、私は成瀬 隼斗と申します」
そこまで言って様子をうかがうと、「どうぞ、お顔を上げてください」と、ゆったりした口調で言われる。
「はい、失礼いたします」
静かに顔を上げた成瀬の目に、和室の奥に広がる見事な日本庭園が飛び込んできた。
(す、すごい…)
思わず目を奪われていると、手前に正座していた和風姿の品の良い年輩の女性が、驚いたように目を見開いているのに気づいた。
「んまあ!稀に見る美男子じゃないの。美怜、あなた本当にこの殿方に求婚されたの?」
「おばあ様ったら…」
美怜は呆れたように笑い出す。
いつの間にかいつもの見慣れた美怜に戻っていた。
「相変わらずイケメン好きなのね、おばあ様」
「それはそうでしょう?見目麗しい方に心がときめくのは、いつの時代も変わらないものよ」
「私は見た目で好きになった訳じゃありませんからね。お人柄に惹かれて、この人ならって結婚を決めたの」
「でもかっこいい人に愛をささやかれるから、余計にときめくのよ」
「はいはい。おばあ様のイケメン好きはよく知ってます」
「美怜。はい、は一回です」
「はーい」
成瀬は会話についていくこともできずに、ひたすら身を固くする。
「本部長、すみません。祖母は昔から気が強くて厳しくて…」
「美怜!その殿方に私のことを悪く言うのは許しませんよ」
「本当のことではありませんか。それにこの方は私の恋人です。おばあ様には渡しませんからね」
美怜!と鋭い声が飛んできて、成瀬はヒエッと首をすくめた。
「もう行きましょう、本部長」
美怜に促されてようやく成瀬は我に返る。
「いや、きちんとご挨拶させて」
そう言うと成瀬はもう一度両手をつき、頭を下げた。
「改めてご挨拶させていただきます。美怜さんと同じ会社に勤める成瀬と申します。この度は美怜さんとの結婚をお許しいただきたく、お願いに上がりました。おばあ様におかれましても、大切な美怜さんを私のような若輩者に嫁がせるのは大変ご心配かと存じます。まだまだ半人前の私ですが、美怜さんを愛する気持ちは誰にも負けないと自負しております。どうか私と美怜さんの結婚をお許し…」
そこまで言った時、キャーッと裏返った声がして、成瀬は思わず顔を上げる。
「あ、愛するだなんて、そんなストレートに。もう心臓がバクバクよ」
「おばあ様、それはお年のせいでは?」
「美怜!あなたは黙ってなさい。せっかくの良い気分が台無しではないの」
「おばあ様。愛されているのは私です」
「美怜!少しくらい夢見させてくれても良いではないの」
成瀬はもう、何も口を挟めなくなる。
(美怜の気が強くて頑固な性格のルーツ、ここにあり)
二人のやり取りを聞きながら、成瀬は妙に納得していた。
***
夕方になり、美怜と成瀬は東京への帰路に着く。
ハンドルを握りながら、成瀬は美怜に疑問のあれこれをぶつけた。
「美怜、一体何がどういうことか説明してくれる?」
「ん?何がどうって?」
「まず、なんであんなに家が大きいの?」
「さあ、田舎だからじゃないですか?」
あっけらかんとしている美怜に、成瀬はため息をつく。
「いくら田舎でも、あの家はすご過ぎる。美怜、前にお父さんのこと、ずっと家にいてあんまり働いてない、みたいに言ってたよね?それって本物のお金持ちだよ」
「ええー?あんなに冴えない感じなのに?着てる服も、ちょっとそこまで~のコンビニファッションですよ。本部長のお父様みたいな方が本物のお金持ちです」
「いや、違う。絶対に違う」
きっぱり否定すると、次の質問に移った。
「美怜、実はお嬢様育ちだろ?」
「ぶっ!どこがですか?」
「普段はそんな面影はないけど、急にスイッチが入ったみたいに人が変わった。品が良くて立ち居振る舞いも美しくて」
「それはあのガミガミうるさい祖母のせいですよ。小さい頃からしつけにはうるさくて、いっつもケンカしてました」
「あのおばあさんも、普通の方ではないな」
「え?じゃあ、何者?」
「家柄の良いお嬢様だ」
またしても美怜は吹き出す。
「あんなにミーハーで口うるさいおばあ様が?そんな訳ないですって」
あはは!と笑う美怜に、成瀬は信じられないとばかりに眉根を寄せた。
(とにかく色々あり過ぎた。もう俺、今夜は一人で頭を冷やそう)
まずは安全運転で、と成瀬はそれ以上美怜を追求するのは諦めた。
だが美怜は、迫りくるお盆休みにドキドキと緊張する日々を送っていた。
(どうしようかな、どんな服装にすればいい?)
お盆休暇中に、まずは成瀬の実家に二人で行き、その翌日に美怜の実家を訪れることになっていた。
頭の中で準備するものを考え、クローゼットを開けて洋服に悩む。
(やっぱりちゃんとした格好じゃないとね。でもビジネススーツって訳にはいかないし。あー、もう!誰か『彼の実家に行く時の服』っていう名前で売り出してくれないかしら)
手土産を買うにもデパートで散々悩み、服装がある程度決まると今度はバッグや靴、髪型やメイクまで悩み始めた。
(誰か―!『彼の実家に行く時のお任せコース』って名前で、トータルコーディネートしてくれるサロンを教えてー!)
毎晩頭を抱えているうちに、あっという間に当日を迎えた。
「もうだめ。行く前からぐったり…」
約束の時間は朝の十時。
だが美怜は六時に起きると、そわそわドキドキと支度を始めていた。
迷いに迷って選んだのは、濃紺のひざ下丈のパフスリーブワンピース。
スカートは張りのある素材でAラインになっており、胸元は和服の打ち合わせのように前身頃をV字に重ねたサープリスネックだった。
髪型はハーフアップでまとめ、お辞儀をしても顔に掛からないか、胸元がだらしなく開かないか、何度も鏡の前で確認した。
アクセサリーもパールの落ち着いたものを選ぶ。
最後に、バラのチャームのブレスレットを左手首に着けた。
また失くすのが心配でずっと部屋に置いたままにしていたが、今日はどうしてもこのバラを身に着けたくて、しっかりと落ちないようにつけ直しておいた。
「髪型よし、服装よし、顔は、まあ仕方ない。手土産も持ったし、あとはバッグと靴をもう一度チェックして…」
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「ひゃー!来たー!」
胸に手を当てて深呼吸してから、モニターに映る成瀬に応答する。
「はい」
「おはよう、美怜。もう出られる?」
「はい!すぐに参ります!」
よし!と気合を入れると、美怜は玄関で少しヒールのあるパンプスを履き、玄関を出た。
***
「おはようございます」
「おはよう、美怜。すごく可愛いね」
「え、ほんとに?これで大丈夫かな?」
「ああ。もう実家なんて行かずに、このままデートしようか」
「だめです!」
あはは!と笑って成瀬は助手席のドアを開ける。
新しい車は納車がまだなので、白いスポーツカーのままだった。
「じゃあ出発するよ。三十分もあれば着くと思う。どこか寄り道する?」
「いえ。心臓がもたないので、もう行っちゃってください」
「ははは!分かった。でもそんなに身構えないでいいから。うちの親、別に堅苦しくないし」
「でも、お父様は一流企業の役員をされていらっしゃるんでしょう?お母様はお料理教室の講師をされていて」
「うん。だから普通のサラリーマンのおじさんと、割烹着の似合うおばちゃんって感じだよ」
美怜の頭の中に、お腹のぽっこりした入江課長のようなおじさんと、白い三角巾に割烹着姿のザ・おばちゃんが思い浮かぶ。
(そうなんだ。それなら少しは安心かな)
だが美怜のその考えは、三十分後にはるか彼方へと飛んで行った。
(どどど、どこがサラリーマンのおじさんと割烹着のおばちゃんよ?)
「いらっしゃい。まあまあ、初めまして」
高級住宅街にドンと門を構えた邸宅の玄関で出迎えてくれたのは、ロマンスグレーの俳優のようなかっこいいおじさまと、およそおばちゃんなどと呼ぶには似つかわしくない、上品でにこやかな女優のように美しいご婦人。
(本部長の嘘つきーーー!)
心の中で号泣しながら、美怜は必死に気持ちを落ち着かせて笑顔で挨拶する。
「初めまして、結城 美怜と申します。本日はお招きいただきまして、誠にありがとうございます」
「まあ、こんなに可愛らしいお嬢さんがいらしてくださるなんて。とっても嬉しいわ。さあ、どうぞ上がって」
「はい、失礼いたします」
美怜はもう一度深々とお辞儀をすると、靴を脱いでから振り返ってしゃがみ、端に揃えて置いた。
どうぞ、と通されたのは床の間も立派な広い和室。
勧められた座布団の下座の畳に正座をし、美怜は手土産を差し出す。
「ご丁寧にどうもありがとう。硬い挨拶は抜きよ。さ、お茶をどうぞ」
「はい、失礼いたします」
美怜は座布団に両手をついて膝を進めた。
「隼斗から結婚するって聞いて、もう本当に嬉しくて!私達、美怜さんに会えるのを楽しみにしていたの。でもこんなに可愛くてお若いお嬢さん、うちの隼斗にはもったいないわ。ねえ、あなた」
「そうだな。ご両親だってがっかりされるんじゃないだろうか。今ならまだ間に合うよ。考え直してみたら?」
両親の言葉に、おい!と成瀬は突っ込む。
「息子の結婚を祝う気持ちはないのか?」
「だって美怜さんのご両親に申し訳なくて。美怜さんには、アイドルみたいに笑顔が素敵な二つくらい年上の人がお似合いだと思うわ」
「だれもおふくろの好みは聞いてない」
「明日美怜さんのご実家に挨拶に行くんでしょう?ああ、きっと反対されるわね」
「うっ、やっぱりそうかな?」
「それはそうでしょ?だって美怜さんとはウンと歳が離れてる上に、アイドルみたいな爽やかさもないし」
すると父親も頷きながら口を開いた。
「それにお前、まさかあの車で美怜さんのご実家に行くつもりじゃないだろうな?絶対にやめろ。親の私が恥ずかしい」
「やっぱりそうだよな。頼む、親父の車貸してくれ」
父親は大きなため息をつく。
「それは構わんが、だからと言って美怜さんのご両親が結婚を許してくださるとは限らんぞ?心してご挨拶に行きなさい」
「分かった」
そして両親は改めて美怜に笑顔を向けた。
「美怜さん、こんな息子との結婚を考えてくれてありがとう。だがどうかもう一度しっかり考え直して欲しい。あとで後悔して欲しくないんだ」
「そうよ。あなたのように素敵なお嬢さんなら、この先もきっといい出逢いがあると思うわ」
いえ、と美怜は伏し目がちに微笑む。
「とんでもないです。私の方こそ隼斗さんにふさわしくないのではと心配でした。ですが私には、どんな時も私を支え、私の心に寄り添ってくれる隼斗さんしか考えられません。隼斗さんと、この先もずっと一緒にいたいと願っています。まだまだ未熟なふつつか者ではありますが、どうか隼斗さんとの結婚をお許しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
畳に両手をついて深々と頭を下げる美怜に、両親は言葉もなく目を潤ませていた。
***
その後は和やかに食事を囲む。
「いやー、もうね、孫の顔も見られそうにないって諦めてたんだよ。一人息子の隼斗は結婚どころか、恋人の話すらしたことなくてね。なのにこんなに可愛いお嫁さんが来てくれるなんて。長生きして良かったなあ」
「何を言ってるの、あなたったら。まだまだしっかり働いて、美怜ちゃんにどーんと豪邸をプレゼントしてあげなきゃ。車もお洋服もバッグも靴も。女の子はたくさん欲しいものがあるんだから。あと、エステにヘアサロンにネイル!ね?美怜ちゃん」
「い、いえ、そんな」
お酒が入り饒舌になった両親は、息子よりも美怜にばかり話しかける。
「美怜ちゃん、どんどん食べてね。煮物や和え物ばかりの和食でごめんなさい。お口に合うかしら?」
「はい、とても美味しいです。こんなに手の込んだお料理、私では到底作れません」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわ。いつか一緒に作ってくれる?夢だったのよ、娘と一緒にお料理するのが」
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします。色々教えてください」
「いやー、もう今日からお嫁に来て欲しいわ。美怜ちゃん、ここに住む?」
おふくろ!と止められても、両親は美怜に終始デレデレだった。
食後のお茶を淹れようと立ち上がった母親に、ちょっと、と手招きされて成瀬はキッチンへついて行く。
「隼斗、美怜ちゃんのご実家ってどこ?白金台とか、田園調布とか?」
「いや、山梨の田舎だって言ってたけど。どうして?」
「だって美怜ちゃん、どう見てもお嬢様育ちにしか見えないのよ」
「ええ?!どこが?そりゃ接客がメインの仕事だから、立ち居振る舞いとかは人より丁寧だけど」
そんなレベルじゃないわよ!と咎めるように言ってから、母親は声を潜めた。
「あなた美怜ちゃんの作法に気づかないの?まあ私も最初は、美怜ちゃんが玄関で靴を脱いだ時の揃え方を見て、なかなか品のいいお嬢さんね、くらいにしか思わなかったけど。和室に入ってからはもうびっくりよ。畳の縁や敷居を踏まないのは当然だけど、お辞儀の仕方、手土産の差し出し方、座布団の座り方、全てが完璧よ。あんなの、ちょっとマナーの本を読んだくらいじゃ実践できないわ。きっと小さい頃から染みついてる振る舞いだと思う」
「そ、そんなに?」
「そうよ。それに箸使いもとっても綺麗。焼き魚なんて、あんなに美しく食べられる人、初めて見たわ。それから手土産のこの和菓子。京都の老舗の、知る人ぞ知るって銘店の和菓子よ。都内では銀座のデパートでしか手に入らないの。セレブ御用達ですぐに売り切れるのよ」
「はあ…。でもほんとに美怜、山梨の田舎育ちだって言ってたし」
「じゃあ明日その目で確かめてくるといいわ。私の目が節穴かどうかってね」
どんなに母親が力説してもピンと来ない。
(美怜が、お嬢様育ち?あんなに天真爛漫なのに?)
だが成瀬は次の日、母親の言葉が正しかったことを身を持って実感することとなった。
***
「み、美怜?!実家って、ここ?」
「そうです。あ、車はその辺に停めてください」
「ちょっと待って。どこまでが敷地なの?一体、何坪ある?」
「んー、確か六百坪だったかな。七百?忘れちゃいました。あはは!どこまでが敷地なのかもよく分からないんですよね。境界線とかもないし。まあ、田舎あるあるですよ」
「どこにもないないだよ!」
成瀬は戦々恐々としながら父親から借りたセダンの車を停めると、美怜に続いてとてつもなく立派で大きな玄関に向かう。
「ただいまー」
いきなりガチャッと玄関を開けた美怜に、成瀬はまたしても驚いた。
「みみ、美怜?!鍵は?」
「ん?鍵なんてかけたことないです。そもそもついてないんじゃないかな?まあ、田舎あるあるですよ」
「どこにもないないだったら!」
「お父さーん、お母さーん、いるー?」
「みみみ、美怜!ちょっと待って、心の準備が…」
成瀬が慌てて手にしていたサマージャケットを着ると、お帰りーと声がして誰かの足音がパタパタと近づいて来た。
だが廊下が長すぎてその姿はなかなか見えない。
そのうちに、アンアン!と犬の鳴き声も聞こえてくる。
「あ、モモー!おいでー」
「アンアン!」
廊下の角から小さなふわふわの白い犬が飛び出して来て、一目散に美怜に駆け寄る。
「モモ、会いたかった!って、…え?」
美怜に続いて成瀬も、…え?と呟く。
モモと呼ばれた犬は目を輝かせて走って来ると、両手を広げて待っていた美怜ではなく、隣に立っていた成瀬に飛びついたのだ。
成瀬が咄嗟に両手に抱くと、モモはぺろぺろと成瀬の顔を舐める。
「出たよー、モモのイケメン好き!もうテレビにアイドルが映る度に、目をハートにしてかじりつくんですよ」
「は、はあ…」
もはや頭がついていかない成瀬は、されるがままに顔を舐められている。
「お帰り、美怜。おお、これはこれは。遠いところをようこそお越しくださいました」
ようやく廊下の先ににこやかな男性の姿が見えて、成瀬はピシッと姿勢を正す。
「初めまして、成瀬 隼斗と申します。本日はお時間を頂戴しまして、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げるが、モモは腕の中から離れない。
「初めまして、成瀬さん。美怜の父です。いやー、こんなに立派でかっこいい方だとは。さ、どうぞ上がってください。おーい、母さん。成瀬さんと美怜が着いたぞー」
遠くで、はーい、と返事が聞こえるが、パタパタという足音だけで姿は見えない。
「本部長、上がってください」
「ああ、それじゃあ。失礼いたします」
美怜に促された成瀬は靴を脱いで上がると、振り返ってしゃがもうとする。
だがそれより先に、サッと美怜が自分の靴と成瀬の靴を揃えて端に寄せた。
「まあまあ、いらっしゃいませ。あらー、かっこいい!都会のイケメンだわ。テレビから出て来たみたいね。芸能人じゃないんですか?」
「あ、いえ。初めまして、成瀬 隼斗と申します」
美怜の母に頭を下げるが、やはり腕にはモモがいる。
「美怜の母です。こんな田舎まではるばるようこそ。あら、モモったらほんとにイケメンには目がないんだから。ごめんなさいね。さあさあ、お疲れでしょう?中でゆっくり休んでください」
「はい、失礼いたします」
成瀬はモモを抱いたまま、長い廊下を美怜に続いて歩いて行った。
***
掘りごたつになっている大きな木のテーブルがある和室に通され、成瀬は改めて挨拶すると手土産を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。さあ、どうぞ足を楽にしてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
まずはお茶でも、と四人で喉を潤しながら話をする。
モモは美怜にがっちり抱えられていた。
「成瀬さんは、美怜の会社のウンとお偉い方なんでしょう?お母さん、ちょっと会社のことってよく分からないんだけど。何だっけ、美怜。部長さんのまだ上の方なの?」
「そうよ、本部長なの」
「本部長?本がつく部長さんなのね。本がつおとか本だしとかの本?」
すると父が横から手で遮った。
「母さん、たとえがちょっと。本マグロとか本つゆの本ですよね?」
は、はい、とよく分からないまま成瀬は頷く。
「まあ、そんなご立派な方がこんな田舎娘をお嫁にもらってくださるなんて。大丈夫なのかしら」
成瀬はハッとして座椅子の横で正座をし直すと、畳に両手をついた。
「改めて失礼いたします。本日はお二人にお願いがあって参りました。私は会社で美怜さんと知り合い、美怜さんの仕事に対する姿勢、そして何より美怜さんの明るく純粋で優しい人柄に惹かれていきました。私など、若い美怜さんとは九歳も離れており、ふさわしくないとお考えのことと存じます。ですが私にとって美怜さんは、かけがえのない存在です。お二人にとって最愛の美怜さんを、私が一生をかけて幸せにすると誓います。どうか、美怜さんとの結婚をお許しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げると、美怜の父は慌てたように言葉をかける。
「そんな。顔を上げてください、成瀬さん。許すも許さないもないですよ。田舎で育った世間知らずの娘ですが、東京での仕事は楽しそうで、あなたと出逢えて幸せを見つけられたようです。親の私達はそれが何よりも嬉しい。明るさしか取り柄がない娘ですが、我々にとっては大切な娘です。どうか娘をよろしくお願いします」
父と母は揃って頭を下げ、美怜はそんな両親に涙ぐむ。
「はい。お二人のお気持ちはしっかりと心に刻みます。お二人の大切な美怜さんを、必ず私が幸せにいたします。美怜さんを私に託してくださって、本当にありがとうございます」
頭を下げ続ける成瀬の隣で、美怜もモモを膝から下ろして両手をついた。
「お父さん、お母さん。今まで私を愛情一杯に育ててくれてありがとう。東京で働きたいって言い出した時、心配しながらも送り出してくれたこと、ずっと感謝しています。わがままで無鉄砲な私を信頼して、好きなように生きていきなさいって笑ってくれてありがとう。これからも私は変わらずお父さんとお母さんの娘です。結婚を認めてくれてありがとう。私、幸せになるから、心配しないでね」
美怜…と母が涙をこらえて呟く。
「そうね。これからもあなたは私達の娘。そして成瀬さんが私達の息子になってくれるなんて。家族が増えて本当に嬉しい。成瀬さん、どうぞ娘ともども、末永くよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
四人は目を潤ませながら、笑顔を浮かべて頷き合った。
***
賑やかにお寿司を囲みながら、成瀬はようやくホッと胸をなで下ろす。
美怜の父も母も終始笑顔で美怜の子どもの頃の微笑ましいエピソードを話し、成瀬は幼くて可愛い美怜を想像して目尻を下げていた。
とそこへ、かすかに車のエンジン音が聞こえてきた。
「あ、おばあ様お帰りかな?」
美怜が呟き、成瀬は思わず真顔になる。
(お、おばあ様?おばあちゃんじゃなくて?)
聞き間違いか?と思っていると、美怜が話しかけてきた。
「本部長。祖母にも結婚の報告をしに行っていいですか?」
「ああ、もちろん」
真剣に頷き、美怜と一緒に部屋を出る。
ひのきの良い香りがする長い廊下を歩き、築山が美しい中庭をガラス越しに見ながら通り過ぎると、ようやく和室のふすまが現れた。
「ここです」
美怜は成瀬を振り返ると、その場でスッと跪座をした。
成瀬もすぐに従う。
「おばあ様、美怜でございます」
凛とした雰囲気をまとう美怜を、成瀬はまじまじと見つめる。
これが本当に美怜?
誰かと入れ替わった?
そう思っていると、少し間を置いて中から低く張りのある声がした。
「入りなさい」
「失礼いたします」
美怜は左手を引手にかけてふすまを少し開くと、スッと親骨に沿って手を下に下げてから、身体の中心までふすまを開ける。
次に右手に代え、手がかりを残して身体が入る程度まで開けた。
跪座から正座に座り直し、失礼いたしますと一礼してから視線を下げたまま入室する。
「おばあ様、ご無沙汰しております。本日は結婚のご報告に参りました」
美怜は成瀬を振り返り、小さく頷く。
ゴクリと唾を飲み込み、成瀬も「失礼いたします」と一礼してから挨拶した。
「突然の訪問、失礼いたします。初めまして、私は成瀬 隼斗と申します」
そこまで言って様子をうかがうと、「どうぞ、お顔を上げてください」と、ゆったりした口調で言われる。
「はい、失礼いたします」
静かに顔を上げた成瀬の目に、和室の奥に広がる見事な日本庭園が飛び込んできた。
(す、すごい…)
思わず目を奪われていると、手前に正座していた和風姿の品の良い年輩の女性が、驚いたように目を見開いているのに気づいた。
「んまあ!稀に見る美男子じゃないの。美怜、あなた本当にこの殿方に求婚されたの?」
「おばあ様ったら…」
美怜は呆れたように笑い出す。
いつの間にかいつもの見慣れた美怜に戻っていた。
「相変わらずイケメン好きなのね、おばあ様」
「それはそうでしょう?見目麗しい方に心がときめくのは、いつの時代も変わらないものよ」
「私は見た目で好きになった訳じゃありませんからね。お人柄に惹かれて、この人ならって結婚を決めたの」
「でもかっこいい人に愛をささやかれるから、余計にときめくのよ」
「はいはい。おばあ様のイケメン好きはよく知ってます」
「美怜。はい、は一回です」
「はーい」
成瀬は会話についていくこともできずに、ひたすら身を固くする。
「本部長、すみません。祖母は昔から気が強くて厳しくて…」
「美怜!その殿方に私のことを悪く言うのは許しませんよ」
「本当のことではありませんか。それにこの方は私の恋人です。おばあ様には渡しませんからね」
美怜!と鋭い声が飛んできて、成瀬はヒエッと首をすくめた。
「もう行きましょう、本部長」
美怜に促されてようやく成瀬は我に返る。
「いや、きちんとご挨拶させて」
そう言うと成瀬はもう一度両手をつき、頭を下げた。
「改めてご挨拶させていただきます。美怜さんと同じ会社に勤める成瀬と申します。この度は美怜さんとの結婚をお許しいただきたく、お願いに上がりました。おばあ様におかれましても、大切な美怜さんを私のような若輩者に嫁がせるのは大変ご心配かと存じます。まだまだ半人前の私ですが、美怜さんを愛する気持ちは誰にも負けないと自負しております。どうか私と美怜さんの結婚をお許し…」
そこまで言った時、キャーッと裏返った声がして、成瀬は思わず顔を上げる。
「あ、愛するだなんて、そんなストレートに。もう心臓がバクバクよ」
「おばあ様、それはお年のせいでは?」
「美怜!あなたは黙ってなさい。せっかくの良い気分が台無しではないの」
「おばあ様。愛されているのは私です」
「美怜!少しくらい夢見させてくれても良いではないの」
成瀬はもう、何も口を挟めなくなる。
(美怜の気が強くて頑固な性格のルーツ、ここにあり)
二人のやり取りを聞きながら、成瀬は妙に納得していた。
***
夕方になり、美怜と成瀬は東京への帰路に着く。
ハンドルを握りながら、成瀬は美怜に疑問のあれこれをぶつけた。
「美怜、一体何がどういうことか説明してくれる?」
「ん?何がどうって?」
「まず、なんであんなに家が大きいの?」
「さあ、田舎だからじゃないですか?」
あっけらかんとしている美怜に、成瀬はため息をつく。
「いくら田舎でも、あの家はすご過ぎる。美怜、前にお父さんのこと、ずっと家にいてあんまり働いてない、みたいに言ってたよね?それって本物のお金持ちだよ」
「ええー?あんなに冴えない感じなのに?着てる服も、ちょっとそこまで~のコンビニファッションですよ。本部長のお父様みたいな方が本物のお金持ちです」
「いや、違う。絶対に違う」
きっぱり否定すると、次の質問に移った。
「美怜、実はお嬢様育ちだろ?」
「ぶっ!どこがですか?」
「普段はそんな面影はないけど、急にスイッチが入ったみたいに人が変わった。品が良くて立ち居振る舞いも美しくて」
「それはあのガミガミうるさい祖母のせいですよ。小さい頃からしつけにはうるさくて、いっつもケンカしてました」
「あのおばあさんも、普通の方ではないな」
「え?じゃあ、何者?」
「家柄の良いお嬢様だ」
またしても美怜は吹き出す。
「あんなにミーハーで口うるさいおばあ様が?そんな訳ないですって」
あはは!と笑う美怜に、成瀬は信じられないとばかりに眉根を寄せた。
(とにかく色々あり過ぎた。もう俺、今夜は一人で頭を冷やそう)
まずは安全運転で、と成瀬はそれ以上美怜を追求するのは諦めた。
5
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