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お風呂と添い寝?
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「ハッピーバースデー!!」
皆でクラッカーを鳴らすと、頭にパーティーハットを被った優は驚いたように目を真ん丸にした。
だが一斉に拍手が起こると、嬉しそうに自分もぱちぱちと手を叩く。
今夜は優の誕生日会。
実際の誕生日は先週だったそうだが、雅が実家でも祝いたいからとこの日にパーティーを計画し、朱里も招いてくれた。
「優くん。はい、朱里お姉ちゃんからのプレゼントだよー」
そう言って朱里が、ふわふわとした手触りのぞうのぬいぐるみを渡す。
優は早速手を伸ばし、ぞうの長い鼻をむぎゅっと掴んで笑っている。
「気に入ってくれたかな?良かった!」
朱里がホッとしていると、雅がケーキを切り分けながらお礼を言う。
「ありがとね、朱里ちゃん。プレゼントまで用意してくれて」
「いいえ。私が優くんにあげたくて、勝手に買って来ちゃっただけなの」
「嬉しいわ!良かったわねー、優」
ママに顔を寄せられ、優は「あー!」とにこにこする。
「朱里ちゃん、本当にありがとう。ほら、お料理もどんどん召し上がれ」
瑛の母に言われて、朱里ははいと頷く。
目の前に所狭しと並べられた料理は、まるでホテルのパーティーメニューのように豪華だ。
どれもこれも、桐生家の料理人達が腕によりをかけて作ったものらしい。
早速鴨肉のローストを頬張っていると、瑛の父がふと朱里に声をかける。
「朱里ちゃん。菊川に聞いたよ、泥棒のこと。怖い思いをさせて本当に申し訳なかったね」
「いえ、私はなんともありませんでしたから」
「無事でいてくれて何よりだ。君に危害が及ぶようなことがあってはならない。でもご迷惑をかけたね。今度ご両親にも謝罪しておくよ」
「おじ様、そこまでして頂かなくても大丈夫ですから。それに両親には、この件は話していないんです」
「そうなのかい?それはやはり、心配をかけたくないから?」
「え?まあ、そうですね」
すると瑛の父は、うーん、と腕組みをする。
「朱里ちゃん。実は来週からしばらく、今度はイタリアに夫婦で出張に行くことになっているんだ」
「そうなんですか?アメリカから帰って来たばかりでお忙しいですね。どうぞお身体お気をつけてくださいね」
「ありがとう。我々のことはいいんだけど、やはり朱里ちゃんのことが心配だ。どうだろう、朱里ちゃん。その間うちに泊まってくれないか?」
思わぬ言葉に、朱里はえっ!と真顔で驚く。
「私がこちらに泊まるんですか?」
「ああ。菊川も泊まらせて君の安全を守る。君が自宅にいるよりは守りやすい。それに警備員も多く雇って24時間屋敷を監視させる。だから君もここにいてくれないだろうか?」
「え、でも…。お世話になるなんて、ご迷惑では?」
朱里が迷っていると、瑛の母も身を乗り出してくる。
「朱里ちゃん、私達の為にもそうしてくれない?でないと私、心配で。あなたの身に何か起きてからでは遅いもの」
「ああ、そうだな。それに前回のアメリカと同じく、イタリアでもリゾートホテル開発に関する記者会見を行う予定なんだ。我が家が手薄だと公表するのと同じことだ。前の泥棒を真似て、他にもここに忍び込もうとするやつがいるかもしれない」
それを聞いて朱里が提案する。
「それなら、瑛も菊川さんも、ここから離れて別荘で過ごした方が安全なのではないですか?」
「だがそうすると、それこそ泥棒の思う壺だ。もぬけの殻の屋敷を、片っ端から荒らされてしまう。そして隣の君の家に逃げ込むかもしれないだろう?その時に菊川もいないのでは、想像するだけでも恐ろしい」
確かに、と朱里も頷く。
「分かりました。ではお言葉に甘えて、おじ様達がご不在中はこちらでお世話になってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ、ありがとう!」
瑛の両親は揃ってホッとしたように笑顔になる。
「菊川、そういう訳だ。しっかり朱里ちゃんをお守りしなさい」
「はい、かしこまりました。必ず」
部屋の片隅で話を聞いていた菊川が、キリッとした顔で大きく頷く。
「瑛、お前もだぞ」
父に話を振られ、絨毯の上で優と遊んでいた瑛が、はーいと間延びした返事をする。
「瑛!あなた本当に分かってるの?菊川にばかり任せてないで、今度こそ男らしく朱里ちゃんを守るのよ?」
雅に釘を刺された瑛が、ふと顔を上げて朱里を見る。
「まあ、か弱い女の子なら守るけどな」
「ど、どういう意味よ?」
思わず朱里が聞き返す。
「いや別に。朱里には必殺平手打ちっていう技があるしな。俺が守るまでもないって思っただけだ」
「なによそれ?!いいもん、瑛には期待してないから。菊川さんがいてくれるもん!」
そう言ってお互い、ふん!とそっぽを向く。
「あらあら、お兄ちゃんもお姉ちゃんもケンカばっかりですねー。仲良くしなきゃ、ね?優」
雅が困ったように優に笑いかけた。
*****
次の週。
朱里は瑛や菊川と一緒に、イタリアへ出発する瑛の両親を屋敷で見送った。
「じゃあ朱里ちゃん、行ってくるわね。身の回りのことは全部スタッフがやるから、朱里ちゃんはどうぞごゆっくりね」
「はい、ありがとうございます。おば様もおじ様も、どうかお気をつけて」
「ありがとう朱里ちゃん。瑛、菊川、くれぐれも朱里ちゃんのことを頼んだぞ」
「かしこまりました。お任せください」
「はいよー、分かってるって」
菊川の返事には頷き、瑛の返事にはため息をついてから、瑛の両親は大きな黒塗りの車に乗って出発した。
「さてと!しばらくはのびのび過ごせるなー」
そう言って屋敷に入る瑛を、やれやれと朱里が見送っていると、菊川が声をかけてきた。
「朱里さん、早速お部屋にご案内しますね」
「あ、はい。ありがとうございます」
朱里が手にしていた大きなボストンバッグをさり気なくスッと持ち、菊川は朱里を2階へと案内する。
「こちらのお部屋でいかがでしょうか?バスルームもついていますし、ソファやデスクもあります」
通された部屋は、明るいベージュの壁紙に優しい色合いの家具が置かれたホテルのスイートルームのように豪華な部屋だった。
「うわー、こんな素敵なお部屋を使わせてもらってもいいの?」
「もちろんです。私はこのお部屋の隣に泊まりますので、何かあればいつでもお知らせください」
「とっても心強いです。ありがとうございます、菊川さん」
お礼を言う朱里に笑いかけてから、菊川は部屋を出ていった。
残された朱里は、部屋で一人荷物をしまっていた。
クローゼットに服を掛け、机にテキストやノートを立てて置く。
バスルームに洗面用具を並べていると、部屋のドアをノックする音に続いて瑛の声がした。
「朱里ー、俺。入るぞ」
「うん、どうぞ」
朱里はバスルームから出て返事をする。
入ってきた瑛は、部屋の様子をぐるっと見ながら話し出す。
「なんか足りないものあるか?」
「ううん、何も。こんな素敵なお部屋をどうもありがとう」
「いや、それはいいんだけど。俺、今から出かけるんだ。朱里は?」
「今日は土曜日だから大学もないし、特に外出する予定もないよ。瑛は?どこへ行くの?」
「ん、ちょっと会社にね」
瑛は大学に通う傍ら、父の会社の仕事も手伝い始めていた。
「そうなんだ。大変だね」
朱里がそう言うと、いや、と視線を落として瑛は何かを考え込む。
「いつもなら菊川と行くんだけど、今日は俺一人で行ってくるわ」
「え?どうして?」
「だって、お前を一人に出来ないから」
ええ?!と朱里は驚く。
「何言ってるの?瑛。まだ昼過ぎよ?それに家政婦さんだっているし、私一人じゃないわよ」
何より、瑛がそんなふうに自分のことを心配してくれることに朱里は驚いた。
「どうしたのよ、瑛。私のこと、必殺平手打ちで泥棒を撃退できる怪力女だと思ってるんでしょう?」
「お、お前…。さすがにそこまでハッキリと名言してないぞ、俺は」
「でも心の中ではそう思ってるでしょ?大丈夫だってば!ほら、菊川さんと一緒にお仕事行ってきな。早く!」
「あ、ああ、うん。じゃあ何かあったらすぐに電話してこいよ」
まだ何か言いたげな瑛の背中を押して、朱里はドアの横で見送る。
「はいはい。行ってらっしゃーい!」
*****
瑛が菊川の運転する車で出かけ、部屋の片付けを済ませた朱里は、1階の調理場を覗いた。
「まあ、朱里お嬢様。どうかなさいましたか?今ちょうど紅茶とケーキをお部屋にお持ちしようと思っておりましたのよ」
ティーポットやケーキをトレイに載せながらそう言うのは、桐生家で長く働いている家政婦の千代だ。
朱里や瑛が生まれる前から働いていて、ここに遊びに来るたび、朱里にも瑛や雅と同じように接してくれる。
朱里にとって、優しいおばあさんのような存在だった。
「ありがとう!千代さん。せっかくだから、ここで千代さんと一緒に頂いてもいい?」
「え、ここで?!まさかそんな。朱里お嬢様はこんな厨房にいらしてはいけませんわ」
「私、この家のお嬢様じゃないわよ?」
「いいえ、朱里お嬢様はこの家の大切なお方です。さ、ではせめてリビングにどうぞ」
千代に押し切られ、朱里は仕方なくリビングのソファに座る。
千代が朱里の前に、美味しそうなケーキを置いてくれた時、玄関からバタバタと物音がしたかと思ったら、雅が息せき切ってリビングに入って来た。
「朱里ちゃん!」
「お、お姉さん?一体何が…」
優を抱いた雅は、今にも泣き出しそうに不安そうな顔で朱里に話し出す。
「さっき、主人の秘書から電話があったの。主人が…」
声を詰まらせて目を潤ませる。
「お姉さん、落ち着いて。ご主人に何か?」
「う、うん。今日、静岡の工場の視察に行ってたんだけど。主人、高所作業台から足を滑らせて落ちたらしくて」
「えっ!」
驚いて大きな声を出してしまったが、すぐさま朱里は落ち着いて雅の背中をさすった。
「それで?ご主人は今どちらに?」
雅は、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸う。
「静岡の病院に運ばれたって。今は色々検査中みたい。私、急いで車で向かおうとしたんだけど、感染症対策で付き添いは私一人じゃないとだめって言われて」
朱里はすぐに察して頷いた。
「優くんは私が。お姉さんはすぐにご主人の所へ行って」
そう言って朱里は、優ににっこり笑いかける。
「優くん、一緒に遊ぼうか。おいで!」
優は素直に朱里に抱かれる。
「朱里ちゃん、ごめんね!優のおむつとか着替えとかは、全部このバッグに入ってるから」
雅は床にバッグを置いてから優に話しかける。
「優、ママちょっと行ってくるね。朱里お姉ちゃんと遊んでてね」
優は、あーうーと機嫌よく笑っている。
雅はホッとしたように頷いた。
「お姉さん、さあ早く!」
「うん、ありがとう!朱里ちゃん」
バタバタと雅は玄関から外に出ると、待たせていた車に乗り込んで去って行った。
*****
「ただいまー」
「お帰りなさい」
「うおっ?!朱里?」
夜になって屋敷に戻って来た瑛は、リビングのドアを開けた途端、優を抱いてこちらに笑いかけてくる朱里に驚いて後ずさる。
「び、びっくりしたー。ホームドラマの新婚さんごっこかと思ったぞ」
「は?何よそれ。優くん、おじさん変ですねー」
首をかしげながらそう言うと、優はキャキャッと笑った。
「おじさんって言うな。そしたら朱里もおばさんだぞ」
「あら、瑛は優くんの叔父でしょ?私は隣の家の綺麗なお姉ちゃんだもん。ねー、優くん」
優はにこにこと朱里を見て笑っている。
生後すぐの頃からしょっちゅう優と一緒に遊んでいたせいか、優は母親がいなくても朱里になついて機嫌よく過ごしていた。
「ところでなんで優がいるんだ?姉貴は?」
リビングを見渡しながら瑛が言う。
「あれ?瑛はお姉さんから連絡来てないの?」
「うん、何も」
そっかと、朱里はいきさつを話す。
「え?それでお義兄さん、大丈夫なのか?」
「うん。病院に着いたあとお姉さんから電話があってね。検査の結果も異常なかったって」
「そうか、良かった」
瑛と、部屋の隅にいた菊川がホッと息をつく。
「しばらく入院するみたいだけど、お姉さんは優くんのこともあるから、明日帰って来るって」
「え?じゃあ、優はひと晩ここで預かるのか?」
「うん、そうよ。優くん、お姉ちゃんと一緒に寝ようねー」
「ちょ、ちょっと待て」
にこにこと笑い合う朱里と優の間に、瑛は戸惑ったように手を伸ばす。
「あ、朱里。お前が優と一緒に寝るのか?」
「うん、そうよ」
「そ、それはその、さすがにアレだな。家族でもないのに、申し訳ない」
「別に構わないけど…。でもそうよね、優くんは1歳になったばかりだもの。何があるか分からないわよね。じゃあ瑛も私と一緒に寝て」
ね、ね、寝??と瑛はうろたえる。
「お前、何を言って…」
「瑛こそ何を勘違いしてるの?優くんの横で寝てってことだよ?」
「あ、ああ!そうだよな。うん、分かった」
まだドギマギしている瑛をよそに、朱里は千代に聞く。
「千代さん。和室に布団を二人分敷いてもらえないかしら?」
「ええ、かしこまりました。それと今夜は何かありましたら、いつでも千代にお電話くださいね。真夜中でも駆けつけますからね」
「ありがとう!」
朱里は千代に笑って頷く。
「じゃあ瑛。夕食の前にお風呂入っちゃおうか」
「は?ふ、風呂?!」
瑛はまたもや勘違いして顔を赤らめる。
「瑛、先に入って自分の身体と頭を洗ったら呼んでくれる?そしたら私もあとから入るから」
「ちょ、あ、あの、それは一体…」
「瑛さん、とにかく行きましょう」
妄想が膨らむ瑛を、菊川が遮ってバスルームに促した。
「優くん、ちゃぷちゃぷ入ろうね。えーっとおもちゃはこれね。ほら!アヒルさん。ピーッて鳴くよ。可愛いね」
「あー!」
脱衣所で優に話しかける朱里の声を聞きながら、瑛は急いで頭を洗った。
リンスをするはずがもう一度シャンプーをしてしまい、あーもう!と慌てる。
身体も急いで洗ってから、タオルを腰に巻いて湯船に浸かり、恐る恐る声をかける。
「あ、朱里ー。入ったぞ」
「はーい。今行くね」
優くん、バンザーイ!と服を脱がせる朱里の声がする。
やがてタオルを身体に巻いた優を抱き、朱里がバスルームに入って来た。
(あ、服着たままなんだ…)
心の中で呟いてから、当たり前だろ!と瑛は自分に突っ込む。
朱里は優を下ろして湯船の縁に捕まらせると、自分のジーンズの裾を折り、シャワーを弱めに出した。
「はーい、優くん。シャワシャワするよー」
そう言ってまずは、優の手にシャワーをかける。
優は手を伸ばし、シャワーの感触を楽しんで笑顔になる。
「気持ちいいねー。じゃあお腹にもかけちゃうよ。シャワシャワー」
優は自分のお腹を見下ろし、じっと見つめてから朱里を見上げてキャッと笑い声を上げた。
「ふふ、優くんシャワー上手だねー。そしたら今度はアワアワだよ。ほら!触ってごらん」
雅が置いていったベビーソープのポンプを押し、朱里が手のひらに載せた泡を優に見せる。
優はベタッと自分の手を重ねた。
「お、優くんのおててにアワアワが付いたよ。そしたらそのアワアワ、優くんのお腹にも付けちゃおうか。ほら、ペタ!」
朱里が優の手を取ってお腹に付けると、優は楽しそうに笑う。
見つめ合う朱里と優の横で、湯船に浸かったまま瑛は真っ赤になっていた。
「瑛?ちょっと大丈夫?のぼせた?」
朱里に顔を覗き込まれ、瑛は急いで否定する。
「いや、違う。大丈夫だから」
「そう?でも瑛、一回出てくれる?」
「で、出る?!って、湯船から?」
「そう。それでここに座って」
「ちょ、ま、待て!そんなことしたら…」
瑛は、頭から何かが噴火するような気がして必死に首を振る。
「ほら、早く!あ、ちゃんと腰にタオル巻いてから出てよ?」
「そそそ、それはもちろん」
朱里が優に話しかけている間に急いで湯船から上がり、瑛は洗い場の椅子に座る。
「はーい、優くん。おじさんに抱っこしてもらおうねー」
そう言って朱里は、瑛の膝の上に優を半分寝かせるように座らせた。
そして手早く優の頭を洗うと、顔にお湯がかからないよう注意しながらシャワーで泡を洗い流す。
「はい!綺麗になったよ。じゃあおじさんとチャプチャプ入ろうね」
湯船に浸かってからも朱里は優に、アヒルさんだよーとおもちゃを近づけたりする。
瑛はひたすら、自分の腰を覆うタオルがめくれないように必死で押さえていた。
風呂から上がりなんとかTシャツと短パンを履くと、バタン!と、瑛は和室に敷かれた布団の上にうつ伏せで倒れ込む。
もはや身体は完全にのぼせ上がり、顔はタコのように真っ赤だった。
菊川はそんな瑛にクスッと笑って麦茶を差し出す。
「瑛さん、どうぞ」
瑛は少し顔を上げるとコップを受け取り、一気に飲み干した。
「麦茶、美味しいねー」
朱里の可愛らしい声が聞こえ、瑛はまた真っ赤になる。
「瑛さん、朱里さんは優くんに話してます」
菊川に冷静に教えられ、瑛はグッタリと布団に横たわる。
「菊川、俺のことはしばらく放置してくれ」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
菊川は笑いながら立ち上がった。
*****
「朱里お嬢様。優坊っちゃんのお食事はこちらに用意いたしました」
「ありがとう、千代さん。わあ、お子様ランチね!あ、夕食だからお子様ディナーか。うふふ」
明るく笑って、朱里は優の前に新幹線のプレートに盛り付けられた食事を置く。
優は身を乗り出して早速手を伸ばす。
「美味しそうだねー。ハンバーグにオムライス、バナナもあるね!あ、優くん。エプロン付けさせて」
優の隣で世話をしながら、朱里も美味しい夕食を頂く。
満腹になり目をトロンとさせた優に慌てて歯磨きをすると、そのまま優はコテンと眠ってしまった。
布団でスヤスヤ眠る優にふふっと笑いかけてから、朱里は思い立って写真を撮る。
メッセージを添えて雅に送った。
『瑛おじさんとお風呂に入り、千代さんお手製のお子様ディナーを食べて歯磨きをしたら、コテンと眠ってしまいました。とっても良い子にしていますよ。お姉さん、ご主人のご回復を心よりお祈りしています』
するとすぐに返信がくる。
『ありがとう!朱里ちゃん。優のこと、良くしてくれて助かります。主人も思ったより元気そうよ。明日は昼過ぎにはそちらに優を迎えに行きます。朱里ちゃん、本当にありがとうね』
優の隣に添い寝しながらメッセージを読んだ朱里は、ホッとしてそのままスーッと眠りに落ちていった。
*****
「朱里、朱里!」
瑛に揺すり起こされ、朱里はうーんと気だるそうに目を開ける。
「大丈夫か?朱里、あれから2時間も寝てたぞ」
「え、ほんと?優くんは?」
慌てて身体を起こして隣の優を見る。
「大丈夫。一度も起きずにぐっすり寝てるよ」
「良かったー」
朱里は瑛に続いて和室の隣のリビングに行く。
千代はもう帰ったらしく、菊川が紅茶を淹れてくれていた。
「朱里さん、どうぞ。ロイヤルミルクティーです」
「わあ!ありがとうございます」
朱里は早速ソファに座ってカップを手にする。
「美味しい!」
「それは良かった。朱里さん、優くんのお世話でお疲れでしょう?」
「ううん。優くんと遊ぶのはとても楽しいです。可愛くて、私も早く赤ちゃんが欲しくなっちゃう」
「朱里さんなら、きっと優しいお母さんになりますよ」
微笑み合う朱里と菊川の横で、瑛は黙って紅茶を飲む。
「ねえ、瑛」
急に朱里に話しかけられ、瑛はドギマギした。
「な、なに?」
「私、これからお風呂に入って寝る支度してくるね。それまで優くんのことお願いしてもいい?私もすぐに和室に戻るから」
「あ、うん。分かった。ゆっくりしてきていいぞ」
「ありがとう」
朱里はロイヤルミルクティーを最後まで味わってから、2階の部屋へ上がった。
部屋のお風呂に入り、パジャマに着替えて髪を乾かす。
歯磨きも済ませてから1階に下りると、菊川が冷たい麦茶を出してくれた。
夜中に優が目を覚ました時の為にと、ベビー麦茶も渡してくれる。
「さすが菊川さん。ありがとうございます!菊川さんも良いパパになりますね、きっと」
ふふっと朱里が笑うと菊川も微笑む。
朱里は菊川に、おやすみなさいと挨拶してから和室に戻った。
そっと部屋の様子をうかがいながら入っていくと、優の隣に横になっている瑛が、曲げた右腕で頭を支えながら優の寝顔を見ていた。
「お待たせ。どう?優くん」
「ああ、良く寝てるよ」
「そう。良かった」
朱里も優の隣の布団に入る。
優を挟んで瑛が朱里に声をかけてきた。
「悪いな、朱里。こっちの都合でここに泊まってくれって言った挙句に、子守りまで頼んじゃって」
「ううん、そんなことない。優くんと過ごせて楽しいし」
「朱里。お前、早く結婚して子ども欲しいのか?」
「え?なに、急に」
「いや、なんとなく」
瑛は腕を外すと枕に頭を載せて天井を見上げる。
「朱里はさ、普通に結婚して普通に幸せに暮らすんだろうな。可愛い赤ちゃんや優しい旦那さんと一緒に、毎日普通に楽しく暮らすんだろうな」
「ん?なあに?そんなに普通って連呼されると、なんだか意味深に聞こえてくるんだけど」
「違うよ。普通に幸せって、最高にいいことだよ」
朱里は返事もせずに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「瑛?どうしてそんなに普通にこだわるの?」
「んー、俺が手に出来ないからかな」
思わず朱里は、顔を横に向けて瑛を見つめる。
「俺さ、普通って最高に幸せなことだと思うんだ。人と普通に話せる、友達も普通に出来る、普通の生活を送れる、同じ感覚で普通に相手が接してくれる。それってさ、もの凄く幸せなことだよ、俺にとっては」
「瑛…」
朱里は以前、菊川が話してくれた言葉を思い出す。
何でも話せる友人が出来ない瑛と雅。
今の瑛の言葉がそれを物語っていた。
「ねえ、瑛」
「ん?なに」
「私はね、瑛もお姉さんも普通に大好きだよ。何でも話せるし、小さい時からいつも一緒にいた大切な親友だよ。瑛は違うのかもしれないけど、私は瑛にもお姉さんにも何の隔たりも感じない。何も身構えずに話が出来るし、話題が噛み合わないなんてこともない。普通におもしろいことを一緒に笑い合えるし、からかわれたら普通に怒るしね。あ、そうそう。驚いて思わず引っ叩いちゃったりもね」
ふふふっと朱里は思い出したように笑う。
瑛は何も返事をせずにじっと耳を傾けていた。
「んー、ただそれを伝えたかったの。ごめんね。じゃあ、おやすみなさい」
そう言って目を閉じた朱里の耳に、おやすみという瑛の言葉が聞こえてきた。
その声は、少し涙でかすれていた。
皆でクラッカーを鳴らすと、頭にパーティーハットを被った優は驚いたように目を真ん丸にした。
だが一斉に拍手が起こると、嬉しそうに自分もぱちぱちと手を叩く。
今夜は優の誕生日会。
実際の誕生日は先週だったそうだが、雅が実家でも祝いたいからとこの日にパーティーを計画し、朱里も招いてくれた。
「優くん。はい、朱里お姉ちゃんからのプレゼントだよー」
そう言って朱里が、ふわふわとした手触りのぞうのぬいぐるみを渡す。
優は早速手を伸ばし、ぞうの長い鼻をむぎゅっと掴んで笑っている。
「気に入ってくれたかな?良かった!」
朱里がホッとしていると、雅がケーキを切り分けながらお礼を言う。
「ありがとね、朱里ちゃん。プレゼントまで用意してくれて」
「いいえ。私が優くんにあげたくて、勝手に買って来ちゃっただけなの」
「嬉しいわ!良かったわねー、優」
ママに顔を寄せられ、優は「あー!」とにこにこする。
「朱里ちゃん、本当にありがとう。ほら、お料理もどんどん召し上がれ」
瑛の母に言われて、朱里ははいと頷く。
目の前に所狭しと並べられた料理は、まるでホテルのパーティーメニューのように豪華だ。
どれもこれも、桐生家の料理人達が腕によりをかけて作ったものらしい。
早速鴨肉のローストを頬張っていると、瑛の父がふと朱里に声をかける。
「朱里ちゃん。菊川に聞いたよ、泥棒のこと。怖い思いをさせて本当に申し訳なかったね」
「いえ、私はなんともありませんでしたから」
「無事でいてくれて何よりだ。君に危害が及ぶようなことがあってはならない。でもご迷惑をかけたね。今度ご両親にも謝罪しておくよ」
「おじ様、そこまでして頂かなくても大丈夫ですから。それに両親には、この件は話していないんです」
「そうなのかい?それはやはり、心配をかけたくないから?」
「え?まあ、そうですね」
すると瑛の父は、うーん、と腕組みをする。
「朱里ちゃん。実は来週からしばらく、今度はイタリアに夫婦で出張に行くことになっているんだ」
「そうなんですか?アメリカから帰って来たばかりでお忙しいですね。どうぞお身体お気をつけてくださいね」
「ありがとう。我々のことはいいんだけど、やはり朱里ちゃんのことが心配だ。どうだろう、朱里ちゃん。その間うちに泊まってくれないか?」
思わぬ言葉に、朱里はえっ!と真顔で驚く。
「私がこちらに泊まるんですか?」
「ああ。菊川も泊まらせて君の安全を守る。君が自宅にいるよりは守りやすい。それに警備員も多く雇って24時間屋敷を監視させる。だから君もここにいてくれないだろうか?」
「え、でも…。お世話になるなんて、ご迷惑では?」
朱里が迷っていると、瑛の母も身を乗り出してくる。
「朱里ちゃん、私達の為にもそうしてくれない?でないと私、心配で。あなたの身に何か起きてからでは遅いもの」
「ああ、そうだな。それに前回のアメリカと同じく、イタリアでもリゾートホテル開発に関する記者会見を行う予定なんだ。我が家が手薄だと公表するのと同じことだ。前の泥棒を真似て、他にもここに忍び込もうとするやつがいるかもしれない」
それを聞いて朱里が提案する。
「それなら、瑛も菊川さんも、ここから離れて別荘で過ごした方が安全なのではないですか?」
「だがそうすると、それこそ泥棒の思う壺だ。もぬけの殻の屋敷を、片っ端から荒らされてしまう。そして隣の君の家に逃げ込むかもしれないだろう?その時に菊川もいないのでは、想像するだけでも恐ろしい」
確かに、と朱里も頷く。
「分かりました。ではお言葉に甘えて、おじ様達がご不在中はこちらでお世話になってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ、ありがとう!」
瑛の両親は揃ってホッとしたように笑顔になる。
「菊川、そういう訳だ。しっかり朱里ちゃんをお守りしなさい」
「はい、かしこまりました。必ず」
部屋の片隅で話を聞いていた菊川が、キリッとした顔で大きく頷く。
「瑛、お前もだぞ」
父に話を振られ、絨毯の上で優と遊んでいた瑛が、はーいと間延びした返事をする。
「瑛!あなた本当に分かってるの?菊川にばかり任せてないで、今度こそ男らしく朱里ちゃんを守るのよ?」
雅に釘を刺された瑛が、ふと顔を上げて朱里を見る。
「まあ、か弱い女の子なら守るけどな」
「ど、どういう意味よ?」
思わず朱里が聞き返す。
「いや別に。朱里には必殺平手打ちっていう技があるしな。俺が守るまでもないって思っただけだ」
「なによそれ?!いいもん、瑛には期待してないから。菊川さんがいてくれるもん!」
そう言ってお互い、ふん!とそっぽを向く。
「あらあら、お兄ちゃんもお姉ちゃんもケンカばっかりですねー。仲良くしなきゃ、ね?優」
雅が困ったように優に笑いかけた。
*****
次の週。
朱里は瑛や菊川と一緒に、イタリアへ出発する瑛の両親を屋敷で見送った。
「じゃあ朱里ちゃん、行ってくるわね。身の回りのことは全部スタッフがやるから、朱里ちゃんはどうぞごゆっくりね」
「はい、ありがとうございます。おば様もおじ様も、どうかお気をつけて」
「ありがとう朱里ちゃん。瑛、菊川、くれぐれも朱里ちゃんのことを頼んだぞ」
「かしこまりました。お任せください」
「はいよー、分かってるって」
菊川の返事には頷き、瑛の返事にはため息をついてから、瑛の両親は大きな黒塗りの車に乗って出発した。
「さてと!しばらくはのびのび過ごせるなー」
そう言って屋敷に入る瑛を、やれやれと朱里が見送っていると、菊川が声をかけてきた。
「朱里さん、早速お部屋にご案内しますね」
「あ、はい。ありがとうございます」
朱里が手にしていた大きなボストンバッグをさり気なくスッと持ち、菊川は朱里を2階へと案内する。
「こちらのお部屋でいかがでしょうか?バスルームもついていますし、ソファやデスクもあります」
通された部屋は、明るいベージュの壁紙に優しい色合いの家具が置かれたホテルのスイートルームのように豪華な部屋だった。
「うわー、こんな素敵なお部屋を使わせてもらってもいいの?」
「もちろんです。私はこのお部屋の隣に泊まりますので、何かあればいつでもお知らせください」
「とっても心強いです。ありがとうございます、菊川さん」
お礼を言う朱里に笑いかけてから、菊川は部屋を出ていった。
残された朱里は、部屋で一人荷物をしまっていた。
クローゼットに服を掛け、机にテキストやノートを立てて置く。
バスルームに洗面用具を並べていると、部屋のドアをノックする音に続いて瑛の声がした。
「朱里ー、俺。入るぞ」
「うん、どうぞ」
朱里はバスルームから出て返事をする。
入ってきた瑛は、部屋の様子をぐるっと見ながら話し出す。
「なんか足りないものあるか?」
「ううん、何も。こんな素敵なお部屋をどうもありがとう」
「いや、それはいいんだけど。俺、今から出かけるんだ。朱里は?」
「今日は土曜日だから大学もないし、特に外出する予定もないよ。瑛は?どこへ行くの?」
「ん、ちょっと会社にね」
瑛は大学に通う傍ら、父の会社の仕事も手伝い始めていた。
「そうなんだ。大変だね」
朱里がそう言うと、いや、と視線を落として瑛は何かを考え込む。
「いつもなら菊川と行くんだけど、今日は俺一人で行ってくるわ」
「え?どうして?」
「だって、お前を一人に出来ないから」
ええ?!と朱里は驚く。
「何言ってるの?瑛。まだ昼過ぎよ?それに家政婦さんだっているし、私一人じゃないわよ」
何より、瑛がそんなふうに自分のことを心配してくれることに朱里は驚いた。
「どうしたのよ、瑛。私のこと、必殺平手打ちで泥棒を撃退できる怪力女だと思ってるんでしょう?」
「お、お前…。さすがにそこまでハッキリと名言してないぞ、俺は」
「でも心の中ではそう思ってるでしょ?大丈夫だってば!ほら、菊川さんと一緒にお仕事行ってきな。早く!」
「あ、ああ、うん。じゃあ何かあったらすぐに電話してこいよ」
まだ何か言いたげな瑛の背中を押して、朱里はドアの横で見送る。
「はいはい。行ってらっしゃーい!」
*****
瑛が菊川の運転する車で出かけ、部屋の片付けを済ませた朱里は、1階の調理場を覗いた。
「まあ、朱里お嬢様。どうかなさいましたか?今ちょうど紅茶とケーキをお部屋にお持ちしようと思っておりましたのよ」
ティーポットやケーキをトレイに載せながらそう言うのは、桐生家で長く働いている家政婦の千代だ。
朱里や瑛が生まれる前から働いていて、ここに遊びに来るたび、朱里にも瑛や雅と同じように接してくれる。
朱里にとって、優しいおばあさんのような存在だった。
「ありがとう!千代さん。せっかくだから、ここで千代さんと一緒に頂いてもいい?」
「え、ここで?!まさかそんな。朱里お嬢様はこんな厨房にいらしてはいけませんわ」
「私、この家のお嬢様じゃないわよ?」
「いいえ、朱里お嬢様はこの家の大切なお方です。さ、ではせめてリビングにどうぞ」
千代に押し切られ、朱里は仕方なくリビングのソファに座る。
千代が朱里の前に、美味しそうなケーキを置いてくれた時、玄関からバタバタと物音がしたかと思ったら、雅が息せき切ってリビングに入って来た。
「朱里ちゃん!」
「お、お姉さん?一体何が…」
優を抱いた雅は、今にも泣き出しそうに不安そうな顔で朱里に話し出す。
「さっき、主人の秘書から電話があったの。主人が…」
声を詰まらせて目を潤ませる。
「お姉さん、落ち着いて。ご主人に何か?」
「う、うん。今日、静岡の工場の視察に行ってたんだけど。主人、高所作業台から足を滑らせて落ちたらしくて」
「えっ!」
驚いて大きな声を出してしまったが、すぐさま朱里は落ち着いて雅の背中をさすった。
「それで?ご主人は今どちらに?」
雅は、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸う。
「静岡の病院に運ばれたって。今は色々検査中みたい。私、急いで車で向かおうとしたんだけど、感染症対策で付き添いは私一人じゃないとだめって言われて」
朱里はすぐに察して頷いた。
「優くんは私が。お姉さんはすぐにご主人の所へ行って」
そう言って朱里は、優ににっこり笑いかける。
「優くん、一緒に遊ぼうか。おいで!」
優は素直に朱里に抱かれる。
「朱里ちゃん、ごめんね!優のおむつとか着替えとかは、全部このバッグに入ってるから」
雅は床にバッグを置いてから優に話しかける。
「優、ママちょっと行ってくるね。朱里お姉ちゃんと遊んでてね」
優は、あーうーと機嫌よく笑っている。
雅はホッとしたように頷いた。
「お姉さん、さあ早く!」
「うん、ありがとう!朱里ちゃん」
バタバタと雅は玄関から外に出ると、待たせていた車に乗り込んで去って行った。
*****
「ただいまー」
「お帰りなさい」
「うおっ?!朱里?」
夜になって屋敷に戻って来た瑛は、リビングのドアを開けた途端、優を抱いてこちらに笑いかけてくる朱里に驚いて後ずさる。
「び、びっくりしたー。ホームドラマの新婚さんごっこかと思ったぞ」
「は?何よそれ。優くん、おじさん変ですねー」
首をかしげながらそう言うと、優はキャキャッと笑った。
「おじさんって言うな。そしたら朱里もおばさんだぞ」
「あら、瑛は優くんの叔父でしょ?私は隣の家の綺麗なお姉ちゃんだもん。ねー、優くん」
優はにこにこと朱里を見て笑っている。
生後すぐの頃からしょっちゅう優と一緒に遊んでいたせいか、優は母親がいなくても朱里になついて機嫌よく過ごしていた。
「ところでなんで優がいるんだ?姉貴は?」
リビングを見渡しながら瑛が言う。
「あれ?瑛はお姉さんから連絡来てないの?」
「うん、何も」
そっかと、朱里はいきさつを話す。
「え?それでお義兄さん、大丈夫なのか?」
「うん。病院に着いたあとお姉さんから電話があってね。検査の結果も異常なかったって」
「そうか、良かった」
瑛と、部屋の隅にいた菊川がホッと息をつく。
「しばらく入院するみたいだけど、お姉さんは優くんのこともあるから、明日帰って来るって」
「え?じゃあ、優はひと晩ここで預かるのか?」
「うん、そうよ。優くん、お姉ちゃんと一緒に寝ようねー」
「ちょ、ちょっと待て」
にこにこと笑い合う朱里と優の間に、瑛は戸惑ったように手を伸ばす。
「あ、朱里。お前が優と一緒に寝るのか?」
「うん、そうよ」
「そ、それはその、さすがにアレだな。家族でもないのに、申し訳ない」
「別に構わないけど…。でもそうよね、優くんは1歳になったばかりだもの。何があるか分からないわよね。じゃあ瑛も私と一緒に寝て」
ね、ね、寝??と瑛はうろたえる。
「お前、何を言って…」
「瑛こそ何を勘違いしてるの?優くんの横で寝てってことだよ?」
「あ、ああ!そうだよな。うん、分かった」
まだドギマギしている瑛をよそに、朱里は千代に聞く。
「千代さん。和室に布団を二人分敷いてもらえないかしら?」
「ええ、かしこまりました。それと今夜は何かありましたら、いつでも千代にお電話くださいね。真夜中でも駆けつけますからね」
「ありがとう!」
朱里は千代に笑って頷く。
「じゃあ瑛。夕食の前にお風呂入っちゃおうか」
「は?ふ、風呂?!」
瑛はまたもや勘違いして顔を赤らめる。
「瑛、先に入って自分の身体と頭を洗ったら呼んでくれる?そしたら私もあとから入るから」
「ちょ、あ、あの、それは一体…」
「瑛さん、とにかく行きましょう」
妄想が膨らむ瑛を、菊川が遮ってバスルームに促した。
「優くん、ちゃぷちゃぷ入ろうね。えーっとおもちゃはこれね。ほら!アヒルさん。ピーッて鳴くよ。可愛いね」
「あー!」
脱衣所で優に話しかける朱里の声を聞きながら、瑛は急いで頭を洗った。
リンスをするはずがもう一度シャンプーをしてしまい、あーもう!と慌てる。
身体も急いで洗ってから、タオルを腰に巻いて湯船に浸かり、恐る恐る声をかける。
「あ、朱里ー。入ったぞ」
「はーい。今行くね」
優くん、バンザーイ!と服を脱がせる朱里の声がする。
やがてタオルを身体に巻いた優を抱き、朱里がバスルームに入って来た。
(あ、服着たままなんだ…)
心の中で呟いてから、当たり前だろ!と瑛は自分に突っ込む。
朱里は優を下ろして湯船の縁に捕まらせると、自分のジーンズの裾を折り、シャワーを弱めに出した。
「はーい、優くん。シャワシャワするよー」
そう言ってまずは、優の手にシャワーをかける。
優は手を伸ばし、シャワーの感触を楽しんで笑顔になる。
「気持ちいいねー。じゃあお腹にもかけちゃうよ。シャワシャワー」
優は自分のお腹を見下ろし、じっと見つめてから朱里を見上げてキャッと笑い声を上げた。
「ふふ、優くんシャワー上手だねー。そしたら今度はアワアワだよ。ほら!触ってごらん」
雅が置いていったベビーソープのポンプを押し、朱里が手のひらに載せた泡を優に見せる。
優はベタッと自分の手を重ねた。
「お、優くんのおててにアワアワが付いたよ。そしたらそのアワアワ、優くんのお腹にも付けちゃおうか。ほら、ペタ!」
朱里が優の手を取ってお腹に付けると、優は楽しそうに笑う。
見つめ合う朱里と優の横で、湯船に浸かったまま瑛は真っ赤になっていた。
「瑛?ちょっと大丈夫?のぼせた?」
朱里に顔を覗き込まれ、瑛は急いで否定する。
「いや、違う。大丈夫だから」
「そう?でも瑛、一回出てくれる?」
「で、出る?!って、湯船から?」
「そう。それでここに座って」
「ちょ、ま、待て!そんなことしたら…」
瑛は、頭から何かが噴火するような気がして必死に首を振る。
「ほら、早く!あ、ちゃんと腰にタオル巻いてから出てよ?」
「そそそ、それはもちろん」
朱里が優に話しかけている間に急いで湯船から上がり、瑛は洗い場の椅子に座る。
「はーい、優くん。おじさんに抱っこしてもらおうねー」
そう言って朱里は、瑛の膝の上に優を半分寝かせるように座らせた。
そして手早く優の頭を洗うと、顔にお湯がかからないよう注意しながらシャワーで泡を洗い流す。
「はい!綺麗になったよ。じゃあおじさんとチャプチャプ入ろうね」
湯船に浸かってからも朱里は優に、アヒルさんだよーとおもちゃを近づけたりする。
瑛はひたすら、自分の腰を覆うタオルがめくれないように必死で押さえていた。
風呂から上がりなんとかTシャツと短パンを履くと、バタン!と、瑛は和室に敷かれた布団の上にうつ伏せで倒れ込む。
もはや身体は完全にのぼせ上がり、顔はタコのように真っ赤だった。
菊川はそんな瑛にクスッと笑って麦茶を差し出す。
「瑛さん、どうぞ」
瑛は少し顔を上げるとコップを受け取り、一気に飲み干した。
「麦茶、美味しいねー」
朱里の可愛らしい声が聞こえ、瑛はまた真っ赤になる。
「瑛さん、朱里さんは優くんに話してます」
菊川に冷静に教えられ、瑛はグッタリと布団に横たわる。
「菊川、俺のことはしばらく放置してくれ」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
菊川は笑いながら立ち上がった。
*****
「朱里お嬢様。優坊っちゃんのお食事はこちらに用意いたしました」
「ありがとう、千代さん。わあ、お子様ランチね!あ、夕食だからお子様ディナーか。うふふ」
明るく笑って、朱里は優の前に新幹線のプレートに盛り付けられた食事を置く。
優は身を乗り出して早速手を伸ばす。
「美味しそうだねー。ハンバーグにオムライス、バナナもあるね!あ、優くん。エプロン付けさせて」
優の隣で世話をしながら、朱里も美味しい夕食を頂く。
満腹になり目をトロンとさせた優に慌てて歯磨きをすると、そのまま優はコテンと眠ってしまった。
布団でスヤスヤ眠る優にふふっと笑いかけてから、朱里は思い立って写真を撮る。
メッセージを添えて雅に送った。
『瑛おじさんとお風呂に入り、千代さんお手製のお子様ディナーを食べて歯磨きをしたら、コテンと眠ってしまいました。とっても良い子にしていますよ。お姉さん、ご主人のご回復を心よりお祈りしています』
するとすぐに返信がくる。
『ありがとう!朱里ちゃん。優のこと、良くしてくれて助かります。主人も思ったより元気そうよ。明日は昼過ぎにはそちらに優を迎えに行きます。朱里ちゃん、本当にありがとうね』
優の隣に添い寝しながらメッセージを読んだ朱里は、ホッとしてそのままスーッと眠りに落ちていった。
*****
「朱里、朱里!」
瑛に揺すり起こされ、朱里はうーんと気だるそうに目を開ける。
「大丈夫か?朱里、あれから2時間も寝てたぞ」
「え、ほんと?優くんは?」
慌てて身体を起こして隣の優を見る。
「大丈夫。一度も起きずにぐっすり寝てるよ」
「良かったー」
朱里は瑛に続いて和室の隣のリビングに行く。
千代はもう帰ったらしく、菊川が紅茶を淹れてくれていた。
「朱里さん、どうぞ。ロイヤルミルクティーです」
「わあ!ありがとうございます」
朱里は早速ソファに座ってカップを手にする。
「美味しい!」
「それは良かった。朱里さん、優くんのお世話でお疲れでしょう?」
「ううん。優くんと遊ぶのはとても楽しいです。可愛くて、私も早く赤ちゃんが欲しくなっちゃう」
「朱里さんなら、きっと優しいお母さんになりますよ」
微笑み合う朱里と菊川の横で、瑛は黙って紅茶を飲む。
「ねえ、瑛」
急に朱里に話しかけられ、瑛はドギマギした。
「な、なに?」
「私、これからお風呂に入って寝る支度してくるね。それまで優くんのことお願いしてもいい?私もすぐに和室に戻るから」
「あ、うん。分かった。ゆっくりしてきていいぞ」
「ありがとう」
朱里はロイヤルミルクティーを最後まで味わってから、2階の部屋へ上がった。
部屋のお風呂に入り、パジャマに着替えて髪を乾かす。
歯磨きも済ませてから1階に下りると、菊川が冷たい麦茶を出してくれた。
夜中に優が目を覚ました時の為にと、ベビー麦茶も渡してくれる。
「さすが菊川さん。ありがとうございます!菊川さんも良いパパになりますね、きっと」
ふふっと朱里が笑うと菊川も微笑む。
朱里は菊川に、おやすみなさいと挨拶してから和室に戻った。
そっと部屋の様子をうかがいながら入っていくと、優の隣に横になっている瑛が、曲げた右腕で頭を支えながら優の寝顔を見ていた。
「お待たせ。どう?優くん」
「ああ、良く寝てるよ」
「そう。良かった」
朱里も優の隣の布団に入る。
優を挟んで瑛が朱里に声をかけてきた。
「悪いな、朱里。こっちの都合でここに泊まってくれって言った挙句に、子守りまで頼んじゃって」
「ううん、そんなことない。優くんと過ごせて楽しいし」
「朱里。お前、早く結婚して子ども欲しいのか?」
「え?なに、急に」
「いや、なんとなく」
瑛は腕を外すと枕に頭を載せて天井を見上げる。
「朱里はさ、普通に結婚して普通に幸せに暮らすんだろうな。可愛い赤ちゃんや優しい旦那さんと一緒に、毎日普通に楽しく暮らすんだろうな」
「ん?なあに?そんなに普通って連呼されると、なんだか意味深に聞こえてくるんだけど」
「違うよ。普通に幸せって、最高にいいことだよ」
朱里は返事もせずに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「瑛?どうしてそんなに普通にこだわるの?」
「んー、俺が手に出来ないからかな」
思わず朱里は、顔を横に向けて瑛を見つめる。
「俺さ、普通って最高に幸せなことだと思うんだ。人と普通に話せる、友達も普通に出来る、普通の生活を送れる、同じ感覚で普通に相手が接してくれる。それってさ、もの凄く幸せなことだよ、俺にとっては」
「瑛…」
朱里は以前、菊川が話してくれた言葉を思い出す。
何でも話せる友人が出来ない瑛と雅。
今の瑛の言葉がそれを物語っていた。
「ねえ、瑛」
「ん?なに」
「私はね、瑛もお姉さんも普通に大好きだよ。何でも話せるし、小さい時からいつも一緒にいた大切な親友だよ。瑛は違うのかもしれないけど、私は瑛にもお姉さんにも何の隔たりも感じない。何も身構えずに話が出来るし、話題が噛み合わないなんてこともない。普通におもしろいことを一緒に笑い合えるし、からかわれたら普通に怒るしね。あ、そうそう。驚いて思わず引っ叩いちゃったりもね」
ふふふっと朱里は思い出したように笑う。
瑛は何も返事をせずにじっと耳を傾けていた。
「んー、ただそれを伝えたかったの。ごめんね。じゃあ、おやすみなさい」
そう言って目を閉じた朱里の耳に、おやすみという瑛の言葉が聞こえてきた。
その声は、少し涙でかすれていた。
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