いのちだいじに~美食貴族かくあれかし~

手鳥 鮮

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第二章 寸胴一つあれば大抵どうにかなります

オーク、そして伝令

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 魔物の領域とも人の領域とも定かでない領域がある。緩衝地帯などという生易しいものでは決してなく、ただ単に定まっていないだけ。不定で未定。つまり、日夜縄張り争いに派手な火花を上げているということだ。

 ライゼ村などはその最たる例で、オークが生息する地域の側に敢えて拓かれたというのだから、ご先祖様もなんとまぁ挑戦的なことをするものだと心底呆れ果てる。

 人の欲というのは始末に負えないなと嘆息しつつ馬車に揺らていると、水平線に同化するようだった件の山も今や足下。割り膝に吐いた溜息は、幸せが逃げる代わりに作用反作用か何かで馬車を進ませたようだ。

 光陰矢の如しと言うにはあまりに短い時間、――おそらく三時間程度、で視界は薄すらと木暗がりに包まれた。むんむんと立ち込める木々の香りに突っ込むと、馬車の心地が柔らかくなる。腐葉土のクッションは優しくもあり、深潭に向けて歩みを進める一団を招く残酷なカーペットでもあった。

 街道はカンパーニュで止まり、ライゼ村へ至るにはか細い山道を通る他ない。

 梢の春とはこれほど嫌らしいものだったか。街道は怪道へと姿を変え、前後左右を取り囲む背の高い木々は遥か高みから梢の腕を組み、矮小な人間の行く末を見下ろしている。車輪や蹄の鳴らす賑々しい音の塊を森は底無しに呑み込み、俺は心胆を寒からしめた。

 「ハティ、オークと戦った経験は有るか?」

 心細さの霧を払わんと、傍らの能天気に声をかける。戦闘経験が有れば相棒として頼もしく、無ければ気晴らしがてら説明をするのだ。何方へ転ぼうとも今よりはマシに思える。名案ここに極まれり。

 「子供となら、有るよ」

 ハティは小さい鼻をぴすぴす震わせ、辺りを警戒しているようだ。

 オークを監視していた兵士が殺害されたということは、あちらさんも偵察に人員を割いているということ。先に見つけた側が戦略上の圧倒的なアドバンテージを得ることは明白。そのためにこちらも先見を放っている。

 「成体とはやりあったことは無いんだな?」

 ハティはこちらに一瞥もくれず「そう言ってる」と簡単明瞭な一文で答えた。余裕が無いのだ。真剣なのだ。生き死に。

 それに比べ数瞬前までの自分、小市民の肝っ玉を持ったマック・キュイジーヌなぞガッカリだ。笑止千万。心の中で両の頬を張ると、気持ち背筋も伸びた気がする。

 「オークは身長というべきか体高というべきか、人の大人より頭一つ二つ高い。もちろん多少の個体差は有るだろうが。下顎から突き出た二本の牙。腕周りはお前の腰ほどに太い。短い体毛が密集している下は厚い皮下脂肪が有るそうだ」

 「そうなんだ。子供は可愛かったのに、大人は可愛くなさそう…」
 
 おそらくオークの幼体はウリ坊のような外見なのだろう。それと戦ったというのだから、なりは小さくとも魔物は魔物。気を抜くことなかれ。

 「続けるぞ。奴らは、偉大なる首長【ホグジラ】の旗下、バークシャー族、ランドレース族、デュロック族の三部族が存在する」

 「えっと、バー……ラー……どう違うの?」

 周囲の警戒に用心しつつも、指折り覚えようとした努力に敬意を表して、講義の続きをする。

 「主な違いは毛色だな。バークシャー族は黒で四肢や尾の先が白い。ランドレース族は顔立ちがスッと通っていて全体が白い。デュロック族は赤褐色の垂れ耳が特徴だ」

「マック詳しいんだね。勉強したの?」

 ハティから始めて感じる敬意の眼差しが胸にぐっと来る。

「あぁ、死ぬほど勉強したさ。死ぬまで勉強して、死にたくないから今も勉強する毎日だ」

「たいへんだね」

「本当にそう思うか? なら、もう少し敬って、仰ぎ見て、慕ってくれてもいいのだが」

 このファン王国において、敬われる貴族というのは、強い貴族ということに等しい。

 戦場で人を殺せば英雄になる。

 そんな発言を前世の何某かが残していたらしいが、俺の耳に名前が届いていないのだから、大した奴ではないのだろう。人を殺すなんて最低の悪行だ。人の命を軽率に扱うなんてどうかしている。何様のつもりなのだろうか。

 その点、この世界は良い。大手を振って動物を殺して称賛を得ることができる。正しい英雄とはこうあるべきだろう。

 「ハティは強い雄がいい」

 違和感と裏腹の真剣さが声色に滲む。自分に素直なハティの話題は四方八方取っ散らかっているのが常だが、そうだとしても先程の表明は唐突だった。

 「ほう? まだ御眼鏡に適っていなかったか。こいつは失敬。――それにしても、どうした藪から棒に」

 警戒色を強めていた彼女は、何時の間にか俺に柳腰を向け、眉を八の字に落とした。

 「マックは強い? ハティと一緒に戦える?」

 問うが早いか、ハティの顔が眼前に迫りギョッとする。その子細思案の表情が、誘うような怪しい魅力を以って俺から瞳を逸らす選択肢を奪った。

 咄嗟に、ソファの残り僅かなスペースに後ずさる。三脚のように体重を預けた掌から伝わる皮の冷たさに、対照的な顔の熱を自覚する。緑と土の混沌とした森の空気の中で、彼女の甘い爽やかな体臭が微かに香った。
 
「どうしたんだ、さっきから――」

誤魔化すように下手糞な笑顔で、しかし焦りを隠しきれない情けない声色が漏れ出た。



「何が――」言い終える寸前、腑に落ちる。

――あぁ、そうか。なんで気付かなかったんだろう。彼女がこの表情を浮かべる時は……

 ――――――!

進行方向から響く早駆けの音が遠雷のように脳を打った。

「報告致します! この先の野営予定地にてオークを確認! 馬車が襲われています!」
 
風雲急を告げる。既に雷の音が聞こえる距離で。
 
「ほらね」

 木漏れ日の下、伝令の赭顔を汗の雫が伝う様がやけにゆっくりと見えた。感覚が冴え、組んだ両掌の爪先が力みに白む。気が急く速度よりなお速く、脊髄で思考された言葉が口を衝いた。

「大至急馬を寄こせ!」

 森に緊張の一滴が落とされた。報告が伝わるにつれ、紙にインクが滲むように、むっとするような人熱れが広がる。移動の騒々しさを貪欲に平らげた陰森は、動揺だけは消化しないようだった。
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