銀獅子と緋薔薇の王

菫城 珪

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銀獅子と緋薔薇の王

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 銀獅子と緋薔薇の王
 
 昔々から始まる数多の口承、伝聞、物語り。
 星の数程の吟遊詩人や歴史家達が歌い語り書き綴り、継承してきた歴史は時に歪み、ねじ曲がるものだ。
 権力者に都合の良いように創られたものは時として真実を呑み込み、塗り潰す。
 そうして埋もれた歴史の中に、一つの物語りがあった……。
 
 
 遥か昔。まだ国も数える程しか存在していなかった頃の事。大陸の南方にルスキニア王国という国があった。
 温暖な気候に豊富な資源で長らく栄えたその国は美しく、洗練された風土を持つ国であり、歴史の中に幾度もその名を残していた。
 優れた芸術や医学、建築に哲学と学術や文化の幅は広く、ルスキニア王国は今日に至る人類に於ける文明の礎を築き上げた国の一つと言っても過言ではないだろう。
 しかし、栄華を極めたルスキニア王国にも斜陽は訪れる。どんなに栄えたものでも、滅びの時はいつかやってくるものだ。
 それは麗しの薔薇王として、そして謎多きミステリアスな存在として名高き第81代国王、エリアス・アエテルニタス・ルスキニアの治世である。
 エリアスは若くして即位した王であった。政治に秀で、戦でも活躍したと言われるがその人柄は非常に穏和であり、麗しい見目をしていたと残された数少ない伝承では伝えられている。近年発掘されたばかりのルスキニア王国の遺跡から発掘されたモザイク画に、初めてその絵姿が認められた事でエリアス王が歴史の表舞台に久々に名を知らしめる事となったのは記憶に新しい。また、伝承を裏付けるようにそのモザイク画は非常に美しいものであった。
 細やかに砕かれたタイルやガラス、時には宝石をふんだんに使用したそのモザイク画は非常に写実的であり、それまでに数少ないながらも発見されていた摩耗した金貨の肖像と併せて数少ないエリアス王の遺物だと認められた。今世紀における最大の発見とまで謳われる程にエリアス王に関わる遺物は大変貴重な品である。実際、そのモザイク画もルスキニア王国の聖堂跡と思しき遺跡の地下深く、大切に隠すようにして石櫃に納められていたものであった。発見した者の歓喜は計り知れないものであっただろう。
 長らく栄えたルスキニア王国と最後の王エリアス。その終焉についてははっきり分からない事が多い。分かっているのは隣国であったアスラーン帝国が突如としてルスキニア王国へと攻め入り、ありとあらゆる都市を破壊し尽くし、民衆を根絶やしにした事だけだ。この事はいくつかの口承にも遺されているし、当時別の国に存在していた著名な歴史家が自らの著書の中に僅かながらに記述を残している事から確かとされている。
 問題はエリアス王の最期とその遺体の行方、そしてアスラーン帝国が突如として攻め込み蛮行を犯した理由だ。
 アスラーン帝国はルスキニア王国の者を文字通り皆殺しにした。その所業はまさに鏖殺であり、近年起きた大きな世界大戦が起きるまで人類史上最大数の死者を出した戦争であると言われている。ルスキニア王国人はこの戦争で殆ど死に絶え、他国にいたほんのひと握りの者が生き残っただけ。特にエリアス王に関わる物は徹底的に破壊、抹消され、かの王は長らく名前のみの存在として歴史の彼方に埋もれた存在となっていた。
 ルスキニア王国の領地はアスラーン帝国統括となり歴史の表舞台から消え失せ、当時のアスラーン帝国皇帝、銀獅子と呼ばれたマフムート・ギュミュシ・アテシは稀代の惨殺王として歴史にその名を刻んだ……。
 
 
 ……とまあ、ここまでが世の中の人間が知っている「歴史」というやつだ。「俺」の知る事実とは異なる部分があるし、秘匿されたものもある。
 あの日、あの時。
 俺の腕の中でエリアスは永遠に俺だけのものになったはずだった。
「まさかまだ遺していたとはなぁ……」
 それも、よりにもよってこんな美しい逸品を。『昔』の俺が知ったら奪うか粉々に砕くかのどちらかだったろう。
 苦々しく思いながら目の前にある壮麗なモザイク画を睨み付ける。分厚い硝子の壁の向こう、絞られた仄かな照明に照らされて浮かび上がる麗しき緋薔薇のモザイク画は俺の記憶にある姿とほぼ相違ない、素晴らしい出来だ。エリアスについて記したものやその絵姿を描いたものは当時徹底的に破壊した筈だったが、どうやらまだ甘かったらしい。
 そう、現代に生きる俺には「マフムート・ギュミュシ・アテシ」としての記憶がある。いわゆる、「生まれ変わり」というものなのだろう。
 不思議な事に銀色の髪、浅黒い肌、蒼い瞳と容姿も当時とほぼ同じで、ないのは戦場と暗殺未遂で負った傷跡くらいだ。確かに一度この世を去った身としては鏡を見る度に未だに不思議な気分になる。感覚的にはもう一度別の時代で「マフムート」として人生を生き直していると言った方が正しいのかもしれない。
 物心ついた頃から転生した事を察した俺は成長し、自分の意思で動けるようになった頃にまず確認した事は俺の死後、エリアスがどうなったか、だ。
 結果的に言えば、俺の目論見通りにエリアスの事は悲運の薔薇王の名と共に長らく歴史の謎として語り継がれていた。
 回収が難しかったが故に目溢ししてやった小さな金貨に刻まれた摩耗した肖像と僅かに残された歴史書、それから伝承だけがエリアスが確かにこの世界に存在していたという証であったというのに。当時の俺の妄執を掻い潜って生き延びた立派なモザイク画はかの人のかつての美しさをそのままに表している。
 漆黒の髪に理知的で優しい柘榴色の瞳。優しげな笑みを浮かべる麗しい相貌。瞳の部分はガーネットだろうか、鮮やかな柘榴色はあの時の彩を思い出した。
 悲壮に暮れたあの瞳を思い出すだけで背筋がゾクゾクする。それ故に、この美しさを他の人間が知る事が許せなかった。
 沢山の人々に囲まれ、賞賛される麗しの薔薇王。当時もこの光景を疎ましく思いながら眺めたものだ。
 モザイク画の美しさと相俟って忌々しいまでに当時を再現した状況に破壊衝動に襲われるが、ここは戦乱に明け暮れた時代でもなければ俺は暴虐が赦される皇帝でもない。今居るのは人類がそれなりに平穏な時代を謳歌している博物館で、周りには戦を知らぬ只人が沢山いる。更には当時と違って現代は人類皆平等などと生温い事を尊んでいるのだ。
「失われしルスキニア王国」と銘打たれた企画展の目玉としてチラシやポスターにも大々的に印刷されたエリアスのモザイク画は大いに人目を惹き、初めて一般公開されるとモザイク画はより多くの者に賞賛されている。モザイク画に群がる人の多さに辟易して、俺は少しばかり離れたところからゆっくり見物する事にした。
 その資料の多くが失われし謎の古代王。栄華を極めた国と共に滅んだ悲劇の美貌。
 どうやら人間という生き物は今も昔もこういったものに弱いらしい。しかし、俺は俺の薔薇を見る下賤で好奇に満ちた不躾な目が気に食わなかった。当時の俺ならば、俺の薔薇を穢した罪でこの場にいる全員の目を焼き潰すか抉り出していただろう。
 しかし、厚い硝子の向こうに凛と佇む薔薇は今となっては俺の手には届かない存在になってしまった。その事を忌々しく思う反面、エリアスの最期は永遠に俺だけのものであると思い直して溜飲を下げる。
 栄華を極めた古代ルスキニア王国。そして、その国を治めていた麗しき緋薔薇の王。
 その終焉を招いたのは、一人の男が抱えた狂愛だった。
 
 昔々というのも憚れる程昔の話。
 当時は人類はまだまだ発展の途中で文化レベルも現代と比べればずっと未熟だった。身分の差はもっとはっきりしており、現代では疎まれるような奴隷なんて制度が普通に横行して権力者以外の人の命なんてずっと軽かった、そんな時代の事だ。
 マフムートの齢は15程だったか。皇帝であった父に連れられてルスキニア王国に外交に行った時、その薔薇を初めて目にした。謁見用に設られたホールで待つ間、視界に入る白い大理石と青いタイルで彩られた空間の鮮やかさとその美しさに感嘆の息をついたものだった。
 マフムートは美しいものが好きだ。それは宝石や芸術品、景色といったものから人に至るまで多岐に渡る。この世の美しいものを全て手中にしたい、などと思っていた時期があったがアスラーン帝国の現状ではそれもなかなか難しかった。
 ルスキニア王国の北東に存在するアスラーン帝国の歴史はルスキニアに較べればまだまだ浅く、乾燥し痩せた土地ではなかなか食料となる作物が育たない。交易を主にして栄えた国ではあるが、更に北方に領土を構える蛮族の脅威に常に晒されていた。
 だからこそ、南方にあり豊かなルスキニアとの関係は重要でこうして定期的にアスラーン帝国の皇帝はルスキニアを訪れている。後継者として初めて連れて来られたマフムートは目にする全てが目新しく、また感激していた。
 永い歴史を持つルスキニアの文化は洗練されていて、それは人々にも建物にも如実に現れている。通りを埋め尽くす人々の色鮮やかな衣服、建物一つにしてもどれも素晴らしい出来だった。ルスキニアの豊かさと文明として熟達されたその光景にマフムートは心を奪われ続けている。
 こんな素晴らしい国を治める王は一体どんな人なのだろうか。そう思いながら待っていると、近衛から「お成りになりました」と声が掛けられる。
 やがて、白と蒼に染められたホールにゆっくりと現れたのはそれはそれは美しい人だった。
 濡れたように艶やかな漆黒の長い髪に優しげな柘榴色の瞳。
 ゆったりとした衣服は真紅と金糸で彼を彩る。
 涼しげな面立ちに浮かぶのは穏やかな笑み。
 まるで生きた薔薇だ。
 うっとりと見惚れながらそう思った瞬間だった。
 かの人はマフムートの視線に気が付くと、まるで蕩けるような優しい笑みを浮かべてマフムートを見る。その笑みはマフムートが歩んだ人生で与えられたものの中で最大の下賜だった。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、思わず一歩踏み出しそうになるのを必死で踏み止まる。
「バルラス殿、マフムート殿ようこそおいでくださいました。我がルスキニアはお二人を歓迎致します」
「エリアス殿、壮健そうでなにより。お気遣い痛み入ります。此奴は儂の後継者です。マフムート、挨拶を」
 当たり障りのない挨拶をしている父親とエリアスの様子に見惚れていると、急に名を呼ばれて慌てて姿勢を正す。そんなマフムートの様子を見て小さくくすりと笑みを零す姿に羞恥を覚えて顔が熱くなるのを感じた。
「……マフムート・ギュミュシ・アテシと申します。エリアス陛下に御目通り出来で光栄です」
 跪いて名乗れば、エリアスが慌てた様子でマフムートの元へと近付いてくる。
「そんなに畏まらないで欲しい。アスラーンとルスキニアは対等な同盟関係にあるのだから」
 そっと肩に置かれたその手は指先まで磨かれて洗練されていた。香を使っているのか良い香りがする中、マフムートはエリアスに手を取られて立ち上がる。
「御身はいずれアスラーンを継ぐ身。ならば、バルラス殿と同じく私の盟友だ。もっと気軽に接して欲しい」
 優しくマフムートの手を握る温もりと与えられる優しい言葉に、まだ幼かったマフムートの心は呆気なく奪い去られた。当時のエリアスは24歳、即位してから9年目であり、既に王者としての風格を備えていた。成人したばかりのマフムートから見れば、あまりにも遠い存在で、その時の訪問では上手く話せないまま終わったように思う。
 それから何度か顔を合わせたが、初めて会った時以来、エリアスはマフムートを「盟友の息子」、マフムートが皇帝に即位してからは「盟友の皇帝」としてしか扱わなかった。あの時見た優しく甘い笑顔が見たいと思うのに、訪ねた時或いは訪ねられた時に出る話題といえば、政の事ばかりだ。
 ある日、宴を抜け出してバルコニーから眼下に広がるルスキニアの街並みを見せられた事がある。
「これが私が守るべきものだ」
 心底愛おしそうにそう呟きながら柘榴色の瞳が甘くその街を見つめる様子に、湧き上がるのは烈火の如き嫉妬心だった。その瞳の一欠片でも、その声音の一節でもマフムートに向けられていれば、歴史は大きく変わっていたのかもしれない。
 だが、終ぞエリアスの瞳が声がマフムートに向く事はなかった。だからこそあの夜、ルスキニアの命運を決める悪魔が、確かにマフムートの中に産声を上げたのだ。
 マフムートは美しいものが好きだった。
 数多の自然や芸術品を愛でてきたというのに、あの日出逢った薔薇を目にしてから世界の全てが色褪せて見えるようになってしまった。
 麗しき薔薇に焦がれ、褪せた世界の中で砂を噛むような日々を過ごすうちに、16になる目前で父が病を患い呆気なく身罷った。生前から後継者として指名されていたマフムートは何の苦労もなく皇帝となり、その手腕を奮い出す。
 まずした事は北方の蛮族を喰らい尽くす事だ。南に征く為には後顧の憂いを絶っておきたかった。長らく続いてきた筈の蛮族との小競り合いは西方から雇い入れた傭兵団によって呆気なく終焉を迎える。
 蛮族には忠誠を誓えば、それまで通りの生活を保障した。彼等の蛮勇は時として武器となる。存分に使ってやろうと表面上は友好的に接してやった。
 蛮族との関係を築き、ルスキニア周辺にある少数民族達に領地を与えるとを丸め込みながら、着々とマフムートはルスキニア攻略の足掛かりを築いていった。あの薔薇を手にする為なら、とどんな労力も惜しまず、マフムートは精力的かつ速やかに動き続けた。
 そして、マフムートが即位して5年目の早春。遂にルスキニアを攻略する為の大軍を率い、マフムートはアスラーン帝国を出た。
 永らく栄えてきたルスキニア。されど、その国力は全盛期には及ばない。突如攻め込んできたアスラーン帝国の焔のような進撃に、ルスキニアはなす術もなく一つまた一つと都市を失っていった。
 また、マフムートは一切容赦をしなかった。
 陥とした都市に暮らす者は兵士だけではなく、病人も年寄りも女子供も関係無く皆殺しにし、首を次の都市の者達へと送り付けてはその心を砕いた。その蛮行に恐れを成して降伏し門を開けた所でルスキニア国民達を待ち受けていたのは凶刃の風と矢の雨だった。
 味方であるアスラーン帝国の者すら畏怖したその進軍は速やかに、そして確実にルスキニアを喰らっていく。そして、アスラーン帝国による侵攻が始まって僅か1ヶ月でルスキニア王都は陥落した。
 王都に辿り着いたマフムートは使者から懇願された降伏を無視し、兵達に二つ命令を下す。
 一つ、ルスキニア王エリアスを生かして捕らえ、マフムートの元へと連れてくる事。
 二つ、好きに奪い破壊し、この麗しい国を踏み躙る事。
 王都が惨劇と絶望に見舞われる中、エリアスを見つけたという報せが入ったのは王都が陥落したその日のうちだった。彼はこの王都で一番大きな聖堂にてマフムートを待っているのだという。
 逸る心を抑えながら向かうのは盟友と言われていた時代に幾度も訪ねた聖堂だ。精緻な細工の施された石柱の間を抜けて足早に向かうのは最奥にある祭壇。そこに待ち人はいるのだ。
 聖堂の中にも市民の死体が溢れている。どうやらここは避難所として使っていたようで女子供の姿が多い。着いてきていた側近や護衛達が折り重なり互いを守るようにして息絶えている者達の姿を見て、何とも言えない顔をしていた。
 まさに悪魔の御業。神は決してこの身勝手で残虐な所業を赦しはしないだろう。だが、ひとときでもあの薔薇が手に入るなら例え地獄に墜ちようともマフムートは一向に構わなかった。
 祭壇の間へと続く扉の前で一度立ち止まり、呼吸を整える。いよいよあの薔薇が手に入るのだ。逸る心に急かされるまま、扉に手を掛けて押し開く。
 祭壇の間は緩やかな登り階段が設られており、その先に荘厳な祭壇が造られていた。そして、求めて止まなかったマフムートの緋薔薇はその祭壇の前に佇んでいた。
 その腕には子供を抱いているようだが、抱き締める腕の合間から滴り落ちるのは真紅の雫。子供の細くか弱い腕は不自然にだらりと垂れ下がっていた。まるで聖母のように息絶えた幼な子を抱き抱えながらステンドグラスから降り注ぐ光の下に佇む姿は壮絶なまでに美しかった。
 これが、マフムートが心の底から求めた麗しの薔薇王だ。
「……我々は降伏した。それなのに、何故幼な子にまでこのような仕打ちを?」
 静かに問い掛けてくるエリアスの声に、以前のような覇気はない。ぐったりとした幼な子の遺体を傍らの長椅子にそっと横たえると、彼はマフムートやアスラーン帝国兵と相対する。
 悲壮に濡れる美しいルスキニア王の姿に、その場にいたアスラーン帝国の者達は思わず息を呑んだ。
 しかし、その事がマフムートの怒りを買い、隣でエリアスに見惚れていた側近の首が一瞬の内に飛ぶ。噴き出す鮮血に、その場にいたアスラーン帝国の兵達は悲鳴を挙げて萎縮する。
 彼らには自分達の皇帝の考えている事が全く分からなかった。何が彼の機嫌を損ねるのか。何が彼をここまで凶行へと駆り立てたのか。ほんの数ヶ月前まではこのような事はなかったというのに。
 皇帝の変貌ぶりについて行けない帝国兵はただ皇帝と距離を置いて小さくなるしかなかった。
「……下がれ」
「し、しかし」
「二度も言わせるな」
「っ……!」
 低く威圧する声に今し方飛んだ首を思い出し、我先にと逃げるようにアスラーン帝国の兵士達は祭壇の間を出て行く。
 荘厳で厳粛な空気の満ちた聖堂の中、二人の王は対峙した。
 一方は亡国の王として最期の責任を果たすべく階上に設られた祭壇の前に。
 また一方は望み続けた者を手に入れる為に祭壇に続く緩やかな階段の袂に。
 最後の一人が聖堂を出て、重厚な扉が締まる。その音を聞き届けてからマフムートはゆっくりとエリアスの方へと歩き出した。
 エリアスにはもう逃げる意思も抵抗する気もないらしい。ただ静かに柘榴色の瞳でマフムートを哀しそうに見つめるだけだ。
 その瞳はマフムートを映してなどいない。エリアスが見ているのは踏み荒らされ蹂躙され滅び逝く自分の国だ。亡国を憂う姿も美しいが、それすらマフムートには許せなかった。
 こつりと靴音を響かせながら、マフムートはエリアスに一段ずつ近付く。
「お前の心を奪うものが許せなかった」
「……? どういう事だ?」
 マフムートの呟きに困惑した様にエリアスの緋色の瞳がマフムートを見、尋ね返す。
 やっと、かの薔薇が俺を見た!!
 突き抜ける狂喜はマフムートの心を逸らせ、階段を上がるペースが少し速くなる。
「お前の目に映るものなど俺のほかには要らぬ。お前の心を他のものが占める事も許さぬ。民であれ、国であれ、お前の目を心を他所に向ける事は赦さない。お前は俺のものだ。俺だけがお前を見、触れ、奪う!! お前は未来永劫に俺のものだ!!」
「まさか……私一人の為にこの国を滅ぼすのか…?」
 愕然と呟くエリアスの声はマフムートには届かない。
「ああ、ルスキニアの麗しの薔薇よ。やっと手に入る」
 陶酔したマフムートの目に浮かぶのは色濃い狂気だった。その眼にマフムートの言葉が真実だと悟り、唇を噛み締めるとエリアスは怒りに燃える柘榴色の瞳で階下にいるマフムートを睨み付ける。
「なんと愚かな……! 私の祖国は、民はそんな下らぬ理由の為に蹂躙されたのか!?」
 エリアスの悲痛な叫びが聖堂内に響く中、ゆっくりとマフムートがエリアスに近付く。こつりと靴を鳴らしながら一段一段噛み締める様に祭壇に向かって低くなだらかな階段を上がる。
 それはまるでこれから婚姻を交わす花婿が見ている光景のようだった。花嫁の代わりに祭壇前に待つのは求めて止まない麗しの薔薇だ。
 しかし、その薔薇は再びマフムートから目を逸らし、祭壇の前に跪いている。
「嗚呼、神よ」
 手を結び、真摯に神へと呼び掛ける後ろ姿すら美しいが、マフムートを見ない事に苛立ちを覚えた。
 何故だ、何故お前は俺を見ない!
「エリアス」
「国を、民を守りきれなかった罪を……私は、どう償えばいいのだ……」
 階段を昇り切り、名を呼べどエリアスは振り返る事すらしない。
「俺を見ろ、エリアス!!」
 必死に神に赦しを乞う薔薇王の姿に烈火の如き怒りを覚え、衝動のまま跪くかの王の長い黒髪を根本から掴んで無理矢理自分の方へと顔を向けさせた。痛みに顔を顰めながらも、なおもエリアスの柘榴色の瞳はマフムートを映さない。
「おのれ! 何故俺を見ない!!」
 怒りに任せて叫べども、柘榴色の瞳は先程の苛烈さなどなりを潜めて酷く静かに凪いだままだ。
 せめて怒りでも憎しみでも、何かしらの感情を向けられればそれだけで荒ぶる心は幾らかは満たされただろう。しかし、マフムートに向けられるエリアスの眼には何もなかった。
 今にして思えば、エリアスは意識して心を殺していたのだろう。
 胸中には憎悪も怒りも抑え難い程に渦巻いていただろうに。何かしらの感情を向ければ、それこそマフムートの思う壺であったから。だからこそ、彼はただ静かな瞳をマフムートに向けた。
 当時のマフムートにはそれが分からなかったのだ。ただ、エリアス王の視線が自らを見ない事に対してまるで子供のように癇癪を起こすしか出来なかった。
 衝動に任せるまま、掴んだ髪を引っ張り大理石の床へとエリアスの体を叩き付ける。小さく呻き声を漏らすがエリアスはゆっくりと体を起こし、マフムートに視線を向けた。
 柘榴色の瞳はやはり穏やかに凪いでいる。
「何故だ! お前の目を、心を奪うものは全て壊してやったというのに!! 何故お前は俺を見ない!?」
 銀の髪を掻き乱しながら血を吐くように叫びを上げるマフムートは焦っていた。
 関心を向けるモノを破壊すれば、あの柘榴色の瞳が自分に向けられると信じて止まなかったのだから。だからこそ、このけだものの所業に至った。
 美しかったルスキニアの都は今や見る影もない。あれ程賑わっていた通りに流れるのは人々の上げる楽しげな喧騒や穏やかな音楽ではなく、折り重なった怨嗟と悲鳴と血河。荒廃した街に溢れるのは平穏ではなく、暴虐の嵐と屍だ。
「……貴様の欲しいものはもう手に入らない」
 ぽつりと零れた呟きに、マフムートはゆらりとエリアスへと視線を向ける。滅び逝く国の至高の薔薇は、それでも凛と気高くそこに佇んでいた。
「……抜け殻なら呉れてやる。貴様の好きにすれば良い。だが、幾年月が流れようとも私の魂が貴様を赦す事など永遠に、ない」
「……っ!」
「神よ、我が罪を赦したもうな!」
 憎悪に燃える瞳と呪詛をマフムートに遺し、隠し持っていた短剣を高々と掲げるとエリアスは何の躊躇いもなくそれを自らの胸に深々と突き立てた。
「っ……! エリアス!!」
 それは止める間もない一瞬の出来事。崩れ落ちる体を慌てて抱き止めるが、鋭い切先が一突きに心臓を貫いていてはもう手の施しようがなかった。
「あ、ぁあああ!!! 何故!? 何故だ!!」
 やっと手に入ると思ったのに!!
 マフムートの上げる悲痛な叫びが聖堂に響き渡る中、血を流し脱力していく薔薇は、それでも壮絶な迄に美しい。
 そして、仇敵の腕の中でエリアスはそのまま息を引き取ったのだ。
 それがかの麗しのルスキニアの、そして薔薇王の最期だった。
 
 ……その後、エリアスを生かして捕らえ損ねたマフムートは秘密裏にエリアスの遺体をアスラーン帝国にある自らの邸へと運ばせ、エンバーミングを施した。
 アスラーン帝国の気候が適していたのか、はたまた気高き薔薇王に与えられた神の奇跡なのか。エリアスの遺体は腐敗する事なく、生前の美しい姿を留めたままマフムートの寝所に安置され続けた。繊細な細工を散らし、贅の限りを尽くした硝子の棺に眠るエリアスの姿は薔薇を喪ったマフムートの心をいくらか慰めたものだ。
 そして、ルスキニア王国の滅亡から数十年後。稀代の凶王マフムートにも死の翼が訪れる。
 マフムートは死の床で次期皇帝である息子に対して寝所にあるエリアスの亡骸を自らの棺の横に納める事と墓所を決して暴かないようにと強く言い残し、そのまま長き眠りに就いた。
 ルスキニアでの凶行の後、善政を布いたマフムートは教会に対しても多大な寄付と保護を行った。その甲斐あってマフムートの墓所として造られたクルム・ギュル大聖堂の地下深くにマフムートは人知れずエリアスと共に永遠の眠りに就いている。
 今日までその墓所が暴かれた事はない。そうさせない為に、当時のマフムートは教会に莫大な金を積んだのだから。決して暴くなと強く言い残した遺言は数十世紀経った今でも無事に効力を発揮しているようだ。
 エリアス・アエテルニタス・ルスキニア。
 彼はまさに「王」だった。その治世は遍く人々に賞賛され、歴史にその輝かしき名を遺すに相応しい気高き王。
 だからこそ、マフムートは……俺はエリアスに関わる何もかもを破壊し尽くした。
 他の誰かが、エリアスを語る事が許せなかったから。
 他の誰かが、エリアスを知る事が許せなかったから。
 思えばあれは酷く若く短絡的で愚かな所業だった。マフムートの人生を語る上で必ず語られる蛮行。後にどれ程の善政を布こうとも、一つの大国を無辜の民ごと握り潰したというその瑕疵は決して消える事はなく、現代まで残虐な皇帝として滔々と語り継がれている。あの時代を生き抜き、思考も老成した今であればもっと他の良いやり方があったといくつも考え付くが、あの頃はあの方法しか考えられなかった。
 栄華を極めしルスキニア王国とその国を治める麗しの薔薇王。その華々しい歴史は、愛に狂った若い男の短絡かつ愚直な、私欲に塗れた劣情の果てに滅んだのだ。名だたる歴史家や考古学者達がその事実を知ったらどう思うのだろうか?
 目の前にあるモザイク画のように俺が取り零したものがいずれ世に出て、真実が暴かれる日は必ず来る。俺とエリアスが共に眠るあの安息の地もやがては掘り返され、不粋な光の下に晒されるのだ。
 だが、いずれ墓所が暴かれるその日まで、麗しの薔薇は俺だけのもの。少し離れた所からモザイク画に群がる連中を眺めながらそう優越感に浸っている時だった。
 ふと大勢の人並みの中である者に視線が止まる。じっと懐かしげにモザイク画を見上げる麗しき横顔に驚愕し、目を見開く。
 忘れる筈がない、狂おしいまでに愛しい面影に思わず身震いが起きた。
 嗚呼、神よ。この奇跡を与えたもうた事に感謝を!
 記憶のものよりも短くなっているがあの艶やかな黒い髪を、美しい柘榴の瞳を見忘れるものか。
 なんとか近付こうと人垣を掻い潜りながらその者の方へと向かう。
 胸の奥から突き上げる懐かしきこの狂喜と狂気!
 本能からくる根源的な欲求に突き動かされるまま、手を伸ばす。不意に、近付こうとしていた者が俺に気が付き、俺を見て驚愕したような顔をした。
 その直後に愛しい秀麗な顔と柘榴色の瞳に浮かぶのは深い怒りと強い拒絶だ。
 嗚呼、なんて事だ!お前にも記憶があるのだろうか!
「エリアス!」
 名を叫び、追い掛けようとするが、お前はふいと視線を背けて人ごみへと紛れていく。80年近く前世を生き、20年程今世を生きて老練した筈の思考があっという間に真っ赤に染まる。
 欲しい! ほしい!! ホシイ!!!
 嗚呼、どれ程長く生きて人生を識ろうとも俺という人間は彼を目の当たりにするとやはりこうなるようだ。
 我が魂が求めて止まぬ麗しの緋薔薇。
 あの華を手折るという妄執の為に俺は生かされ、奔らされている。人を掻き分け、その背を追いながら次こそはと心に誓う。
 あの時は死なれてしまったが、今度こそ逃しはしない。
 かの薔薇は俺のものだ。
 未来永劫、俺だけの……!!
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