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浮かぶ男
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おおらかに、朗らかに。青き空は、目の前に大きく広がっている。
いくつかの、点々と浮かぶ雲をコントラストとするその姿は、地球上に巣くうどの生物よりも美しい。
「……あぁ」
気の抜けた声を口の中から外へと押し出し、透明な水に浮かんだ男は瞬いた。パチリと一度、閉ざされ、開かれたその視界の中に、写り込む景色は変わらない。
感情と感覚。その両者に任せて塗り潰されたかのような、透明な空の色。今にも溶けてしまいそうな危うさすら感じられるそれに、男は小さな息を吐き出した。共に、白い雲を突き抜けて、一つの機械が飛び出してくる。
尾を引くように、雲で直線を描くそれは、飛行機だった。恐らくはその中に、大量の乗客を乗せているであろうことはなんとなくだが想像に容易い。
男の視界の中でピタリと動きを止めて停止する飛行機。翼を広げる真っ白な機体に、ゆっくりゆっくりと書き込まれていく影の色は、どこか繊細でほの暗い。
いっそ自分にもその色を授けてくれと、そう、思えるほどに……。
──バシャッ
近くで水が、大きく跳ねた。ちらりと横を見てみれば、いつの間にやら自分の傍には船がある。
どこぞで刈り取ったらしき木材を使用し、簡単に作成されたそれは小舟だ。見た限りではぎりぎり二人、乗れるか乗れないかの大きさである。
揺らめく波に押されるように、浮かんだ船と、男の体が僅かに動いた。されど起き上がることをしない彼は、ただそこで、プカプカと浮いているだけ。その間にも船には次々と小物や道具が追加されているので、時に忘れ去られた気分になってくる。
寂しいような。悲しいような。
とりあえず、不思議な感覚に襲われる。
「やっほー、おにいさん!」
声がした。底抜けに明るい声が。
目を向けた先、立派になりつつある船にひとりの少女が乗っている。
茶の髪を一つに纏め、頭の上でくるりと結い上げているその少女。にっこにっこと邪気のない笑顔で浮かぶ男を見下ろすその姿は、どこか楽しそうで、そして悲しそうだ。
「もうすぐ完成するね」
少女は言う。
「……あぁ」
男はそれに短い返事を返すと、雲の足されていく空に目を向けた。
ポツンと寂しく空を飛ぶ飛行機の周りに、小さな鳥類の姿が描かれていく。
「完成したら、私たちどうなっちゃうんだろうね」
「……さあな」
「いっそこのまま中途半端だったなら、もっと良かったのかもしれないのに……」
「そんなのは嫌だろう。アイツは特にそうだ。神経質で負けず嫌いだから、きっと意地でも完成まで持っていくさ」
「まあ、そうなんだろうけど……」
どこか不貞腐れたような少女の様子に目を瞬いてから、男は視線を再び上空へと戻した。耳元で鳴る水の音に、若干の心地よさを感じつつ呼吸をすれば、新たに追加された明るい球体が眩しく鮮やかに空を彩る。
「ねえ、おにいさん。この世界が“完成”したら、私たちはこうしてお話することも出来なくなるのかな……?」
「多分な」
「それって、なんだか寂しいね」
でも、嬉しいね。
そう言って無邪気に笑う少女に影がつく。ほんのりと、青や紫と言った色を使って上手く描かれた影は、まるでそう、ひとつの絵画に出てくる描写のよう。
男はぼんやりと少女を見つめた。
少女は依然、笑顔で男のことを見下ろしている。
「ねえ、上手くいったらさ、おにいさんは次、何になりたい?」
少女の髪に色が、線が、書き込まれていく。そうして立体感を持ち出したそれを視界、男は少し考えこう返す。
「俺は……またこんな世界に生まれたい」
「え!? ほんとに!? 自分勝手に動き回ることも出来ない窮屈な世界なのに!?」
「別にいい。ただ、そう……俺は見たいんだ。この世界の先にある、“彼”の芸術的な作品を、この目で……」
「……変わってるね、おにいさん」
どこか感心すら含んだ声色で告げた少女が、そこで一時停止よろしく動きを止める。船の手すりに寄りかかり、笑顔を浮かべるその顔に小さく笑い返し、男もゆっくりと己に近づいてくるペン先に目を向けた。
淡い、ガラスのような透明なペンがゆっくりと空間をなぞっていく。その軌跡に合わせるように、空の色がまた一段、深みを増した。
少女は固まったままそっと目を伏せ、それから息を呑むように言葉を吐く。
「……そろそろだね」
男は答えない。
彼は、ただ静かに、
近づいてくるペン先を見つめている。
水面に、静かな波紋がひとつ広がる。
それに呼応するように、空の青が、完成へと近づいていく。
少女は小さく息を呑む。
「……来ちゃうね」
男は答えない。
ただ静かに、近づいてくるペン先を見つめている。
水面がわずかに揺れた。
少女の輪郭がほんの少しだけ歪む。
「……あ、時間だ」
少女が言ったと同時、彼女はその場に固定されたように動かなくなった。上空の飛行機と同じように時を失ったように停止する彼女に、男はちらりと向けていた目を背ける。
ペン先がさらに近づく。
世界の色が完成へと収束していく。
男は水に浮かんだまま、少しだけ困ったように笑った。
「キミの思う通りに、描けていたらいいな」
男は空を見上げる。
描き込まれていく、完璧に近づく青。
そして自分。
完成品としてそこに存在するために、彼は一度深く息を吐き出すと、そのままゆっくりと目を瞑る。
男の腕の輪郭が、わずかにノイズを走らせる。水面には小さな波紋。そして、ゆっくりと時を止めていく心の音。
それでも男は――静かに、その青色に染まる目を閉じた。まるで、これで良いと言うように……。
水面に、静かな青だけが残る。
「青い水に染まる、ちっぽけな世界」
名付けられたその世界の名は、あまりにもちっぽけで、そして──
あまりにも儚く、美しい世界へと成り果てた。
いくつかの、点々と浮かぶ雲をコントラストとするその姿は、地球上に巣くうどの生物よりも美しい。
「……あぁ」
気の抜けた声を口の中から外へと押し出し、透明な水に浮かんだ男は瞬いた。パチリと一度、閉ざされ、開かれたその視界の中に、写り込む景色は変わらない。
感情と感覚。その両者に任せて塗り潰されたかのような、透明な空の色。今にも溶けてしまいそうな危うさすら感じられるそれに、男は小さな息を吐き出した。共に、白い雲を突き抜けて、一つの機械が飛び出してくる。
尾を引くように、雲で直線を描くそれは、飛行機だった。恐らくはその中に、大量の乗客を乗せているであろうことはなんとなくだが想像に容易い。
男の視界の中でピタリと動きを止めて停止する飛行機。翼を広げる真っ白な機体に、ゆっくりゆっくりと書き込まれていく影の色は、どこか繊細でほの暗い。
いっそ自分にもその色を授けてくれと、そう、思えるほどに……。
──バシャッ
近くで水が、大きく跳ねた。ちらりと横を見てみれば、いつの間にやら自分の傍には船がある。
どこぞで刈り取ったらしき木材を使用し、簡単に作成されたそれは小舟だ。見た限りではぎりぎり二人、乗れるか乗れないかの大きさである。
揺らめく波に押されるように、浮かんだ船と、男の体が僅かに動いた。されど起き上がることをしない彼は、ただそこで、プカプカと浮いているだけ。その間にも船には次々と小物や道具が追加されているので、時に忘れ去られた気分になってくる。
寂しいような。悲しいような。
とりあえず、不思議な感覚に襲われる。
「やっほー、おにいさん!」
声がした。底抜けに明るい声が。
目を向けた先、立派になりつつある船にひとりの少女が乗っている。
茶の髪を一つに纏め、頭の上でくるりと結い上げているその少女。にっこにっこと邪気のない笑顔で浮かぶ男を見下ろすその姿は、どこか楽しそうで、そして悲しそうだ。
「もうすぐ完成するね」
少女は言う。
「……あぁ」
男はそれに短い返事を返すと、雲の足されていく空に目を向けた。
ポツンと寂しく空を飛ぶ飛行機の周りに、小さな鳥類の姿が描かれていく。
「完成したら、私たちどうなっちゃうんだろうね」
「……さあな」
「いっそこのまま中途半端だったなら、もっと良かったのかもしれないのに……」
「そんなのは嫌だろう。アイツは特にそうだ。神経質で負けず嫌いだから、きっと意地でも完成まで持っていくさ」
「まあ、そうなんだろうけど……」
どこか不貞腐れたような少女の様子に目を瞬いてから、男は視線を再び上空へと戻した。耳元で鳴る水の音に、若干の心地よさを感じつつ呼吸をすれば、新たに追加された明るい球体が眩しく鮮やかに空を彩る。
「ねえ、おにいさん。この世界が“完成”したら、私たちはこうしてお話することも出来なくなるのかな……?」
「多分な」
「それって、なんだか寂しいね」
でも、嬉しいね。
そう言って無邪気に笑う少女に影がつく。ほんのりと、青や紫と言った色を使って上手く描かれた影は、まるでそう、ひとつの絵画に出てくる描写のよう。
男はぼんやりと少女を見つめた。
少女は依然、笑顔で男のことを見下ろしている。
「ねえ、上手くいったらさ、おにいさんは次、何になりたい?」
少女の髪に色が、線が、書き込まれていく。そうして立体感を持ち出したそれを視界、男は少し考えこう返す。
「俺は……またこんな世界に生まれたい」
「え!? ほんとに!? 自分勝手に動き回ることも出来ない窮屈な世界なのに!?」
「別にいい。ただ、そう……俺は見たいんだ。この世界の先にある、“彼”の芸術的な作品を、この目で……」
「……変わってるね、おにいさん」
どこか感心すら含んだ声色で告げた少女が、そこで一時停止よろしく動きを止める。船の手すりに寄りかかり、笑顔を浮かべるその顔に小さく笑い返し、男もゆっくりと己に近づいてくるペン先に目を向けた。
淡い、ガラスのような透明なペンがゆっくりと空間をなぞっていく。その軌跡に合わせるように、空の色がまた一段、深みを増した。
少女は固まったままそっと目を伏せ、それから息を呑むように言葉を吐く。
「……そろそろだね」
男は答えない。
彼は、ただ静かに、
近づいてくるペン先を見つめている。
水面に、静かな波紋がひとつ広がる。
それに呼応するように、空の青が、完成へと近づいていく。
少女は小さく息を呑む。
「……来ちゃうね」
男は答えない。
ただ静かに、近づいてくるペン先を見つめている。
水面がわずかに揺れた。
少女の輪郭がほんの少しだけ歪む。
「……あ、時間だ」
少女が言ったと同時、彼女はその場に固定されたように動かなくなった。上空の飛行機と同じように時を失ったように停止する彼女に、男はちらりと向けていた目を背ける。
ペン先がさらに近づく。
世界の色が完成へと収束していく。
男は水に浮かんだまま、少しだけ困ったように笑った。
「キミの思う通りに、描けていたらいいな」
男は空を見上げる。
描き込まれていく、完璧に近づく青。
そして自分。
完成品としてそこに存在するために、彼は一度深く息を吐き出すと、そのままゆっくりと目を瞑る。
男の腕の輪郭が、わずかにノイズを走らせる。水面には小さな波紋。そして、ゆっくりと時を止めていく心の音。
それでも男は――静かに、その青色に染まる目を閉じた。まるで、これで良いと言うように……。
水面に、静かな青だけが残る。
「青い水に染まる、ちっぽけな世界」
名付けられたその世界の名は、あまりにもちっぽけで、そして──
あまりにも儚く、美しい世界へと成り果てた。
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