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ケジメをつける
しおりを挟むケジメをつけに、華月は帝一と共に婚約発表パーティーの会場へと向かっていた。華月が身に着けているスーツは、生前の悠がデザインしたものを元にして作られたオーダーメイドの代物だ。
これを用意したのは帝一だった。
これから皇司への想いを清算して、帝一と共に歩いて華月が決意することをわかっていたような準備の良さに感服してしまう。申し訳なさそうにしていながら、帝一は華月の二歩も三歩も先を予測しているのだから、大したものだ。
そんな風に感心している中、華月は目の前の男に感情のない視線を送っていた。
「お前はどれだけ氷見の名を貶せば気が済む!!」
会場のロビー。着物姿の初老の男――氷見家の現当主であり華月の父は、華月の首に首輪がないことを目の当たりにすると、開口一番に怒鳴り声を上げ、掴みかからんばかりに手を伸ばしてくる。
だがその手は華月に届くことはなく、帝一によって止められた。
「暴力は良くないですね」
冷静な帝一の態度とは裏腹に父の腕を掴むその手は、ギリギリと音を立てていた。力では敵わないと悟ったのか、氷見家当主の顔が真っ赤に染まっていく。
「離せ! 君も君だ!! 勝手にコレを連れ出したかと思えば……!」
「お言葉ですが、最初に彼を要らないものと捨てたのはあなた方でしょう」
本当にその通りだ、と嘲笑しそうになり、口の筋肉に力を込めた。
「今更、どのような理由で彼を望むというのですか?」
「ソレには代議士の家に嫁いでもらう。これは決定事項だ」
「――おじさん。あなたも身勝手な人ですね」
帝一の声音が低くなる。父がビクリと後ずさりをしたことで、一歩前に出た帝一が今どんな顔をしているのかは見なくても容易に想像がついた。
「あなたも知っているでしょう。オメガとアルファが一度番の契約をすれば、容易く解消することはできない」
「キミがソレを捨てれば良いだけの話だろ!」
「愚かですね。私がそんな無責任なことをすると思っているのですか?」
一人称が「私」になると、帝一の言葉の鋭さが増すことを、華月は初めて知った。
赤の他人の中でも、どうでもいい人間に向ける侮蔑の視線が男を射抜くと、その場にいたすべてのアルファが本能的にザッと後ずさった。
「傷物でも構わん! すでに融資を受けているんだ。今更……」
「融資ですか……。その代議士の方には早々にお断りの連絡をした方が賢明だと思いますよ。番の契約をしてしまったオメガを差し出せば、反感を買うことくらい馬鹿でもわかる」
「っ……!」
帝一の言葉は耳を疑うほどに辛辣だった。華月が金と引き換えに取引されたことが気に障ったのか、それとも父の浅慮さに苛立っているのか、おそらく両方だろう。
「それに、彼のことは既に勘当しているのではありませんでしたか? それを今更、政略のために使おうとするなんて。本当に、目も当てられないくらい、恥ずかしい人ですね」
帝一の冷静かつ辛辣な言葉は治まることを知らない。
押し黙った氷見家当主は何も言わず、怒りで小刻みに震えながら帝一を睥睨している。
帝一の後ろから、そんな父を黙って見つめていた華月は、心から軽蔑していた。要らないと、必要ないと、生まれたことすら否定し、『どこぞかで野垂れ死ね』と勘当まで言い渡しておきながら、今更華月が言う通りにすると本当に思っていたのだろうか。
冷ややかな視線を送り一言も発さない華月を、父はギロリと睨みつけた。
「貴様……! いなくなったと思えば、勝手なことを……!!」
勝手なことを言っているのはどちらだろうか。
自分の都合のことしか考えていない人というのは、自分が言ったことすら都合の良いように忘れてしまうのか。
「――あなたは、もう僕の親ではありません。三年前、あなたは確かに僕を勘当すると、二度と氷見の敷居へ足を踏み入れることを許さないと言いましたよね?」
既に縁は切れている。
どんなに脅されようとも、言うことは聞かない。そう態度で示した。
「あなたは僕を捨てたのだから、僕がどこで何をしようと、あなた方には関係ない。その逆も同じではありませんか?」
「オメガ風情が偉そうに……!」
怒り心頭、といった風に戦慄く男を、帝一は鼻で嗤った。
「そのオメガの力がないと家を維持できなくなったあなたが、それを言うとは……。おかしくてたまりませんね」
嘲笑を浮かべる帝一に、父はまた押し黙る。
「三年前の一件で、色々と大変な思いをされたそうですが、自業自得ですね。あなた方の人を見る目がなかったことが元凶ですし」
本来縁を切らねばならない者を庇い、縁を切ってはいけなかった者を手放した。
逃がした魚が大きかったことに気づくのは、逃がした後だからだ。
悔しそうに父は華月を睥睨した後、会場内にアナウンスが響き渡った。皇司の婚約披露パーティーが始まることを知らせるものだ。それを聞き、氷見家当主は憎々し気に華月たちの前から立ち去っていく。
完全に姿が見えなくなってしばらくしてから、ぽんと頭を叩かれた。
「俺たちも、もう行こう」
「――うん、そうだね」
返事はするものの、足が言うことを聞かない。
「――少し休んでからにするか」
「ごめんね……」
「いや、どうせ少し顔を出したら帰るんだ。開始と同時に会場にいなくても問題ないだろ」
帝一にフォローされ、華月は情けなさに自嘲気味な笑みを零し、近くにあったソファに腰を下ろした。
静かなロビーには帝一と華月と、他の客たちがまばらにいるだけで、とても静かだ。どれくらい時間が経っただろう。やっと動けるようになり、顔を上げたその時、華月は目を大きく見開き固まった。
「え……?」
視線の先に、いるはずのない人物の横顔があったのだ。
出来れば一生会いたくなかった人物が、華月の目の前にいる。
その顔を見るだけで、ガタガタと震えが止まらなくなる。それほどまでに華月の中にトラウマを残したその人物、それは――。
「あいつ……、三竹がどうしてここにいるんだ? 刑務所にいるはずじゃ……」
忘れたくても忘れられるわけがない、三年前の事件を引き起こした張本人であり、皇司が記憶を失うきっかけにもなった男。
華月を隠すように一歩前に出た帝一は、ふらふらとホテル内の廊下を歩いていく三竹を目で追った。三竹はこちらに気づいていないようで、華月たちの前を通り過ぎていく。
「どうしてあいつがここにいるんだ……」
強姦未遂と違法薬物の輸入と使用、そして殺人未遂によりかなりの懲役刑を科せられており、やり方が悪質ということで執行猶予もついていないはずだ。刑務所にいなければならない男が外に出ていること自体、ありえないことだった。
怯えながら帝一のジャケットの裾を握りしめながらも、華月は勇気を振り絞って男を凝視する。
「っ……!」
するとあることに気づき、華月の顔は真っ青になった。
「て、帝ちゃん……! 早く、警察……ッ!!」
ガタガタと震えながら、華月は三竹を指さし言い放った。
「あの人、銃を持ってる……!!」
白昼堂々手に握りしめられているサイレンサー付きの銃。遠目だから確かではないが、返り血もついているように見える。
声を失った華月たちの耳に、次の瞬間、つんざくような悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあああああああ!!!」
女性の悲鳴がロビーに響き渡り、辺りは騒然となった。
「ボーイが血まみれで倒れてるぞ!」
「すぐに救急車を……!」
「お客様の身の安全を最優先にしろ!!」
「これは銃痕か!? いつ撃たれたんだ!!」
その場に居合わせた客とホテルのスタッフたちの慌ただしい声が華月たちまで聞こえてくる。何が起こったのかわからず固まっていた華月だったが、しばらく立ち尽くしてからハッと我に返った。
「皇ちゃん……!!」
頭に浮かぶは、皇司の顔だった。
三竹が向かっているのは彼がいる会場の方だ。なぜ今日この場に三竹がいるのかはわからないが、恐らくあの男の狙いは皇司だろう。脱獄してまで皇司を殺したいほど憎んでいたのかもしれない。
このままでは彼が殺されてしまう。
そう思ったら居ても立ってもいられなかった。
「華月!?」
帝一の静止を振り払い、衝動のまま走り出す。
あの男を止めなければ。
今度こそ本当に皇司を失ってしまう。
忘れられても、拒絶されていても、魂が彼を失いたくないと悲鳴を上げている。
もう二度と、自分のせいで皇司を傷つけられたくない。そもそも皇司が記憶を失ってしまったのも、華月のせいなのだ。華月がもっと三竹に対して警戒していれば、自分が崖から落ちなければ、皇司が記憶を失うこともなかった。
すべては幼少期、アルファであった彼等兄弟の優しさに甘えて、いつまでも傍に居ようとした自分が引き起こしたことだ。
もっと早く、離れるべきだった。
オメガである自分に差し出された小さな二つの手を、振り払うべきだった。
後悔しても後悔しきれない。
「こんなことになるなら、僕は……!」
閉じられた大きな扉を勢いよく開けると、会場の中には皇司に銃を突きつける三竹と、怯える招待客たちが一か所に集まっていた。
「――やぁ、華月くん……」
「……三竹さん。お久しぶりです」
ニィ、と笑う三竹が顔だけで振り返る。その男を前にして、華月は冷静だった。
「おかしいな、君はそこの如月家次期当主である次男坊の番なんだろう? どうして番である君ではなく、そこの女と彼が婚約パーティーを執り行っているんだい……?」
誰も教えてくれないんだよ、と三竹はおかしそうに声を立てて笑った。
「――僕とそこにいる如月家の方とは無関係です」
「あぁ、そうか……、君は捨てられてしまったんだねぇ……、可哀そうに……」
言葉ではそう言ってはいるが、声は嬉しそうに弾んでいる。
ケラケラと笑う三竹は、壊れた人形のように見えた。否、もう彼は壊れているのだろう。
地位や権力を奪われ、犯罪者となったこの男に未来はない。多くの物を持っていた者がすべてを失ったら、恐らく皆こうなってしまうのだろう。
華月も失ったときの気持ちはよくわかる。何もかもどうでもよくなる感覚を知っていた。
「……可哀そうなのは、あなたですよ」
「――なに?」
「本当に可哀そうな人」
「黙れ! オメガの分際で……!!」
皇司に向けられていた銃口が華月へと向けられる。
内心ホッとしながらも、華月はさらに続けた。
「撃ちたければ撃ってください。僕を殺すことで気が晴れるのであれば、構いませんよ」
「華月様……!」
怯える招待客の最前列で母たちを守るように立っていた高崎が声を上げる。
「うるさい黙れっ!!」
三竹の意識が一瞬だけ高崎の方へと向けられた、その瞬間を見逃さなかった。
華月は力いっぱい床を蹴り、銃を持つ三竹の腕に抱き着いた。揉み合いながらもなんとか銃を奪おうとしたとき、ドンッ、と腹部に衝撃を受けた。腹から焼かれるような痛みとドクドクと流れる熱いものを感じながらも、それでも華月はその腕を離さなかった。
「今だ! 取り押さえろ!!」
華月の勇姿に感化されたのか、会場内の誰かがそう叫ぶ。
それを号令のようにして、恐らく如月家や他の客たちのSPだろう黒スーツを着た男たちが三竹から銃を奪い、ふたりを引き剥がす。
目の前で三竹が拘束される姿を眺めながら華月は自分の腹を手のひらで抑え、茫然と立ち尽くしていた皇司へ視線を向ける。彼に怪我はなさそうだ。
次にパチリと目が合う。皇司は信じられないものを見るような目をしていた。その双眸に華月は笑顔を向ける。
「よか……っ……」
安堵した途端、華月の体は力をなくし、その場に倒れ込んでしまった。
瞬く間に床には真っ赤な鮮血で大きな水たまりができていく。
不思議と痛みはなかった。
けれど耳が遠くなって、目がかすんでいく。
三年前と似ている。
あの時も華月はかなりの出血でこんな風に横たわっていた、でも今回違うことは、皇司が無事ということだ。
でもやはり、この手は彼に届くことはなかった。
もう指先ひとつ動かせそうにない。
「――き……づ、き……!!」
瞼を落とすと、幻聴まで聞こえてきた。誰かに……皇司に名前を呼ばれているような、幸せな幻聴。
「華月!!」
泣きそうな声で名前を叫ばれ、闇の中に堕ちそうになった意識が浮上していく。
「起きろ! 目を覚ませ!! 華月!!!」
「…………」
ドクドクと血が流れる腹部に、大きくて温かい、懐かしいぬくもりを感じた。
わずかに瞼を押し上げると、目の前には真っ青な顔をした皇司の顔が視界いっぱいに広がっている。皇司は自分が着ていた着物の袖を引き裂き、華月の腹部に押し当てていた。
「死ぬな! 華月……!!」
「こ……ちゃ……」
「喋らなくて良い。すぐに救急車が来るから……!」
死に際には生前の記憶が走馬燈となって蘇るというが、それは誤りのようだ。華月の記憶がない皇司が、今にも泣きそうな顔で止血などするはずもない。だからこれは夢なのだろう。だがそれでもよかった。最期に見る夢くらい、幸せを噛みしめたって良いだろう。
「うれ……しい……なぁ……」
「華月……! だから喋るなって……!!」
「皇ちゃんだぁ……」
あの頃のように名前を呼ばれ、心配されている。
彼の瞳に自分が映っていることが、心から嬉しかった。握りしめてくれる手の暖かさも、自分を見つめる瞳の優しさも声も全部、彼が記憶を失う前のものだ。
「最後……に、こん……な……幸せ……夢……、見れ……なんて……」
「ごめん……、華月……ごめん……!!」
どうして謝るのだろう。夢なら、これが最期だというなら、こんなときくらい優しい笑顔の彼が見たかった。そんな我儘を口にすると、皇司の顔がくしゃくしゃになって、より一層悲壮な表情へと変わってしまう。
「わら……って……?」
せめて笑ってほしい。
悲しい彼の顔は見たくない。
笑顔でほほ笑む彼の腕の中で死ぬなら本望なのに、どうやらこの夢は華月の思い通りにはならないようだ。
「笑っ……た、皇……ちゃ……すき……だった……」
「……ッ!!」
大人びていて強面ではあるが、笑ったときだけは年相応な彼の笑顔が好きだった。
もう何年もあの笑顔を見ていない。
太陽のように輝く笑顔が、今は恋しい。
悲し気な彼の顔を見ながら、華月の意識は遠のいていく。ゆっくりと闇に包まれていく視界の中、皇司は泣いていた。その涙を拭ってやりたかったが、徐々に視界は闇の中へと沈んでいく。
彼の笑顔を見ることなく、華月の意識は完全に途絶えてしまった。
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