またあした(改訂版)

もやもやし

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またあした

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「それじゃあまた明日ね!おやすみっ!」
これが彼女から送られた最後のメッセージだった。

あれは僕が高校3年生の秋のことだった。
「おはよっ、君いつも本読んでるよね?それってなんの本?」
「えっ…」
唐突になんの本かと聞かれても、著者を答えればいいのか、題名を答えればいいのか。それともジャンルを答えればいいのか。というか誰?僕が答えられずにいると
「へー。なになに?『その夏にするべきこと』?初めて聞いたー。ってか今秋だよ?え、なんの本?」
彼女は笑いながら尋ねてきた。
だからなんの本とは一体何なんだ。まあ確かにタイトルはよく分からないものだし、内容もよく分からないものだった。僕がこの本を読んでいる理由はもちろんなんとなくだ。
「この本は…」
言いかけたところでチャイムがなった。
「あ、次の授業移動教室だった!ごめん、またね!」
いきなり話しかけられて、いきなり別れた。いや、どうした?
それにしても、先のまたねという言葉は、どういうことを意味して言ったんだろうか。別に僕はクラスで大して目立つ方でもないし、それこそ彼女とは今まで1度も話したことがなかった。もちろん名前すら知らない。学校に入学してすぐの自己紹介なんかずっと本を読んでいて聞いていなかったし、自分の番が回ってきたら名前を名乗り、趣味は読書だと告げるだけだった。そんな僕になぜいきなり話しかけてきたのかは見当もつかなかった。まあ、なんの本と訊かれたからには、それに対して答えを提供しなければいけないのは、自分がただ感じた責任感みたいなもので。けれど義務ではなくただの気分だった。

翌日学校へ行くと僕の元にまた例の彼女が来た。
「おはよー。あ、そういえば名前言ってなかったや、私、小原紗希ねよろしくー」
「おはよう。」
さすがに挨拶すら返さないのは失礼だと感じたので挨拶だけは返したが、しかしそこまでの必要性も感じられなかった。まず名乗ってすらいない僕も昨日の彼女もどうかと思うが。まあ、仲良くするつもりもないので僕は名乗らないのだけど。
先日とも同じく、彼女が話しかけてきたので理由は何故かとまた僕が考えていると、次はこう言ってきた。
「あれ?昨日の本は読んでないの?」
確かに僕は今、本を読んでいない。というのも、僕はついさっき登校したばかりなのだ。玄関で靴を履き変え、教室に入って自分の席に着く。そして授業のためにそれぞれを準備して、ひと段落着いたところで本を開き読む。というのが僕のルーティンみたいなものだった。僕はすぐに本を取り出そうとしたが、ただ一つ気になることがあった。もちろん彼女のことだ。いくらクラスメイトの自己紹介を聞かなかったからと言っても、2年間も同じクラスだと顔と名前くらいは覚えている。しかし彼女の顔だけは見覚えがないのだ。先日の『あ、次の授業移動教室だった!ごめん、またね!』という捨て台詞もまた、同じクラスメイトなら不思議だった。同じ授業を受けるはずなのに、移動教室?僕はこの教室で次の授業を受けるのだが?なんてことだ。まあ普通に考えてみれば隣のクラスの住民だったという可能性もあるわけだし、特にそれに関して深くは考えないようにした。
「ねえ、私の話聞いてる?」
「ああ、ごめんなんの話しだっけ」
「昨日の本は読んでないの?って」
そうだ。僕としたことが人の話を聞いてなかった。彼女にまだ僕は来たばかりだからと訳を話すと納得したように
「あーそゆことかー!まあ、まだ朝早いしねー。そりゃ着いたばっかりじゃまだ読まないかー。へはっ」
へはっ?笑い方のくせが凄いな。でも昨日は触れもしなかったし、今日も突っ込むつもりは無いのだけれど。とりあえずいつも通り準備を済ませ、いつも通り本を出して読もうとした。すると彼女はまた
「あ、昨日の本だー!ねね、それ何か教えてよ!」
なんで人の読む本を見るだけでここまでテンションが上がるのかは分からない。傍から見ればどうにも小学生にしか見えない。
「これは君が昨日言った通りの内容が書いてある本だし、それ以上でもそれ以下でもないよ」
「えーなにそれ面白くなーいもっとさぁ?面白くさぁ?言えないかなぁ?」
面白くない3段活用をされたところで返す気にもなれないし、まずこれが3段活用かと言われると違うかもしれないが、僕自身も面白いことを言える自信が無いので
「別に面白いものとかそういうんじゃないよ」
とだけ言い放った。彼女につまらないと思わせたかった。そのはずなのに
「えーそんなの読んでみなきゃ面白いななんて分からないじゃん!」
とか彼女は反論してくる。
「君は面白いことを言うね。でもこれ普通の小説とかじゃなくて実用書とか参考書みたいなもので、ほんとにこういう内容に興味がなければつまらないものだと思うよ。」
事実僕は暇つぶしに読んでいるだけで、内容には興味がないのでとてもじゃないが読んでいて面白い本だという印象はなかった。だから嘘はついていない。
「じゃあ興味持つもんねー!あ、そろそろチャイム鳴るから私もうHR行くねー!へははっ」
相変わらず癖の強い笑い声だが、先程立てた仮説はどうやら正解のようだ。彼女は隣のクラスから来たようだった。僕のクラスメイトではない。それが分かった理由は、リュックを背負ったまま僕に挨拶をした後に教室を出て行ったからである。けれどそれを知ったところでどうということは無い。僕は僕なりに授業を受けて、彼女は彼女なりに授業を受けるのだし、今後これ以上関係が深まることも無い。無いと願いたい。
そうしているうちにも時間は進み、やがて昼休みになった。僕の通っている高校は、購買か持参した弁当で昼食を取り、その後各自休みに入るのだが、僕の場合は大体前者だ。今日も購買のおばさんに挨拶をしていつものカレーパンを手に取り購入する。だがひとつだけいつも通りじゃないことがあった。そう、彼女が購買の列に並んでいるのだ。
そうは思ったものの、別におかしいことでもないので特に追求もしないし、もちろん僕から話しかけもしないが、当然のように彼女は僕に気づき話しかけてくる。パンの支払いをしている途中なのに、だ。
「あー!須能くんじゃん!また会ったね!へはっ」
「どうも」
挨拶はしたものの、なんで僕の名前を知っているかは知らない。まじ怖い。
「須能くんも購買なんだ?」
「うちの親、大体の日は朝から忙しいからね」
「大体の日ってことは、たまにお弁当も食べるの?」
「まあ、1週間に1回くらいは」
「お仕事大変だもんねー。週一でお弁当作ってくれるなら休日は大体他の人とも同じか」
「とりあえず土日と木曜日は休みだよ」
なんで詳しく彼女に僕の家族の情報をつらつらと話しているのかは、僕自身でも理由ははっきり分かってはいないし、多分なんとなくだと思うが、不思議と話してしまっていた。
「じゃあ僕は教室に戻るから」
「はーい。また後でねー」
また後でという言葉を彼女は何度言うのだろうか。僕なんかと話すよりも彼女という人種は、もっと明るい人と関わるべきなはずなのだ。しかしよく僕の元へ来るので、実はああ見えて友達がいないんじゃないかなんて心配もしてしまった。廊下で彼女がほかの女子と仲良さそうに話しているのを見て、そんな心配は一瞬で消えたけど。なんで僕なんかがそんなことを思っているのだろう。
そう考えているうちに自分の教室へと着いたので、カレーパンの袋を開けて頬張った。うまい。僕は少食なので、1つカレーパンを食べただけで満足はする。食べたあとにいつも通り図書室へ向かう。
というところで例の彼女が前の廊下から曲がってきたのでUターン。当然彼女にはバレるので、早歩きで逃げる。廊下は走っちゃダメなんだぞ。とか念じながら。けれど案の定彼女は走って追いかけてきてしまったので、僕は呆気なく彼女に捕まってしまった。
こんな僕みたいな地味な男になんで興味を持ち続けられるのかと疑問が生まれ、それを叫んでやりたかったが、当然僕にそんな勇気は無いので諦めた。ただ、純粋に先の疑問は大きくなるばかりだった。
「なーんで逃げるのかなー?」
もちろんなるべく関わって欲しくないからだ。名前もいつ知られたか分からないし、普通に怖い。
「あ、そうだよね。いきなりこんなにくっついたらそりゃ嫌か。へははっ」
しまった。声に出てしまっていた。けれど見るに彼女はあまり気にしていないようだった。僕はそのまま教室の方へ歩いていったから顔は良くは見れなかったが。ただ、それが本心なのか、誤魔化しなのかは定かでなく、僕の抱える不安はこうしてまた1つ順調に増えてしまった。僕からしたら以降絡まれることも減り、少しは元の生活に戻れるのではないかと考えながらもいたが、少しばかり良心が傷ついている自分がいた。
先の件で今日は図書室に行けず、騒がしい教室の中で読むこととなったので当然読書に集中することは出来なかった。
翌日また僕はいつも通りの登校、読書、授業、食事を済ませたが、彼女が僕の前に現れることはなかった。恐らく昨日の言葉が効いたのだろう。ただいつもあそこまで元気が溢れかえっている彼女があの一言でしょぼくれるような人だとは思っていないので、大丈夫だと過信しておく。らしくないが、改めて思い返せば謝ればよかったな、あの時。なんてことも思っていた。しかし、謝らずには納得がいかないのでもし次に彼女に会うタイミングがあればそこで謝ろうと心の片隅にしまっておいた。片隅に。多分忘れるけれど。

しかしあの日から4日間、彼女は姿を現さなかった。僕は元々体が強いほうではなかったのでこの件でストレスが溜まってしまったのか、体調を崩してしまって一度近くの病院まで行くことになった。
診察の結果は、特にこれといった点もなく、ただの疲労による風邪だと診断された。僕にとってはよくあることなので、いつも通り会計を待っていると、何故か彼女を見つけた。それも病衣の姿で。僕は最近彼女を最近見ていないせいで一瞬錯覚でも起こしたかと思ったが、それもただの勘違いだということにすぐ気づく。向こうもこちらに気づいたようで、すぐさま駆け寄ってきた。
「あれ?君も病院来てたんだ!なにー?私の事心配してお見舞いにでも来てくれたのかなー?」
断じてそんなことは無いのだけれど、今の言葉で確信した。
「そんなんじゃないよ。ただの風邪。そういう君は入院でもしているのか?」
「うん、そうだよ。みんなには入院のことも秘密にしてたんだけど見られちゃったし、君だけには私が特別に教えて差し上げよう!ありがたく思いたまえ!」
「いや、そんなのありがたくないんだけどさ、なんで君こそ入院なんか…。ついこの間まであれだけ元気だったじゃないか?」
「あー、そりゃね。まあ表向きは元気な女の子を演じてますとも」
「演じてるだって?なんで一体そんな」
「話聞いてなかったの?秘密だからだよ」
「そもそも秘密にする必要なんてあったのか?」
「だってそりゃ私が大きな病気抱えてるってみんな知っちゃったら、変に気遣いとかしちゃうでしょ?私はそれが嫌だからみんなには秘密にしてるのー」
「なんで僕にだけこんな…」
「ホントに質問ばっかりだね?私は質問箱じゃないんだよ?へはっ」
確かに言われた通りだが、疑問は絶えない。いつも僕は日々色々な疑問を抱えて生きているし、勿論それを彼女に向けることが最近は出来なかったのでこのタイミングで問い詰めた。
「うーん、君と仲良くなれそうだったからかな?」
「そんなの他の周りにだっていたじゃないか」
「君は特別なのー!」
「なんだって一体僕なんかに…」
「それさっきも聞いて、今答えたんですけど?」
「答えになってない」
「そうかな?あ、ごめん担当の人に呼ばれたから先いくね!」
そういった彼女は担当の人とやらの方へ駆けようとしたので、最後にひとつ質問をぶつける。
「君はいつ学校に戻ってくるんだ?」
「なにー?私がいなくて寂しいの?へははっ」
「別にそんなんじゃない。ただ心配になっただけだ」
「照れちゃってー。んとね、あと3日くらいかな?だからもう少し待っててー」
そう言って彼女は軽い足で弾むように去っていった。結局病気の詳細は聞き出すことが出来なかったけれど、それは良しとしよう。良くないけど。ただ、彼女の帰りを心待ちにしているような発言をしてしまったことに気がつき、少し気に食わなかった。

「須能さん」
受付に呼ばれたので仕方なく会計を済まし、処方箋を発行し、薬局へ向かい、薬を処方してもらってから帰路へとつく。
今日はなにか大事なものを失った気がするけれど彼女の行方と現状を把握できたので、まあ良しとしよう。とにかく今日で今週が終わるので、翌週の火曜にまた会うことになるはずだ。そう思いながら僕は家で薬を服用する。
翌週1度目の登校をする。もちろんのこと今日も彼女の姿は見えない。けれど僕は構うことなく、授業も寝ることなく受け、購買でパンを買い、図書室で本を読み、あとは一日が終了するまで下校してから家では読書で暇を潰す。
さらに翌日、彼女が学校へ戻ってくると言っていた日になった。しかし彼女が顔を出すことはなく一日が過ぎた。別に入院の期間が伸びることくらいある。僕はそう気が付き、一旦冷静になる。つい最近まで他人のことを考えることなどほとんどなかったのに、いつからだろう。彼女のことを考えるようになったのは。きっと疲れているのだろう。そうに違いない。そう考えることにした。この時は気づいていなかったが、僕は多分、彼女に少なからず何か好意を抱いていたのだろう。

そして彼女が登校してくるのには、予定の日から10日ほど遅れていた。もちろんその間僕は彼女を心配していたし、それをらしくないとも思っていた。それとは裏腹に彼女はいつの日か僕に接してきたものと変わらない態度で話しかけてきた。しかし僕はあの日に訊きそびれたことがある。そう。彼女の病気についてだ。そのことについて彼女に問うと彼女は困惑した様子で言葉を探していた。やがて彼女は意を決したのか、自身の病についてぽつりぽつりと話し始めた。
それは普段からは考えられないほどに小さく、弱々しい声だった。
全てを話し終わると、目から何か液体が流れ、静かに彼女の頬をキラキラと照らせた。一瞬何かわからなかったけれど、僕がそれがすぐに涙だと理解するのには数える程も要らなかった。慌ててそれを誤魔化そうとしたのか彼女は後ろを向いたが、直ぐにまたこちらへと顔を向けた。先程の涙の気配はなくなっていた。
「っていうのが、私の病気の全て。」
「本当に君は…死ぬのか…?」
彼女は真面目な表情でいたが、何も言わなかった。
「余命は宣告されたのか?」
「うん。今年度のうちにはって。まあ3月くらいまでの命だね」
「そんな…」
「だからっ!そんな可哀想な私のために!唐突だけど君には私のやりたい事に少し付き合ってもらおう!」
「は…?そんなどこぞの小説じゃないんだから」
なんでこんな流れになったのかも意味不明だし、そもそもそんな気にはなれなかったので、僕は抵抗を試みた。しかしそれも虚しく失敗に終わり、半ば強引に彼女のしたい何かに僕は付き合わされることになってしまった。
「言っておくが僕はまだ君の病気についても完全には理解出来てないし、付き合わされるのも納得してないからな。しかしやりたいことと言っても具体的に君は何をしたいんだ?内容によっては却下させてもらう」
「うーん…それはあとから決めるとしてー」
「決まってなかったのかよ」
「へははっ!うん、決めてない。あ、でもとりあえず先にLINEちょうだいよ。まだ君の持ってなかったからさ?」
「まあ、今後の予定を組む時に必要だろうから…仕方ない。いいよ」
そう言って彼女とLINEを交換した。その数瞬後に着信を知らせるバイブレーションが鳴り、スマホの画面を見るとLINEの通知が来ていた。開いてみると目の前の彼女からのもので、頭の悪そうなスタンプが送られてきていた。
「スタンプ送るの速すぎない?」
「でしょ?追加した人は直ぐにトークを表示させなきゃ、どこにいるか分からなくなるからねー。へはっ」
「人を放っておいたらすぐ迷子になる小さな子供みたいに言うのやめてくれない?」
「ほんの冗談じゃーん」
「冗談には聞こえなかったけど?」
ということで迷子の子認定された僕は、仕方なくもLINEを交換してしまった訳だが、果たしてこれからどんなことが待ち受けているのかは彼女がこんな性格だから、それはもう誰にも分からないわけである。さすがに学校がある間は予定を組めないので特に何も無かったが。

やがて息も白くなりふゆやすみも近くなる頃、それまでは今まで通り彼女と僕の関係が続き、予定も組み込まれて行った。
しかしまあその予定の数が多いこと。冬休み自体1ヶ月くらいあるのだが、そのうち20日くらい予定をぶち込んできたのだ。さすがにそれら全てをやるには厳しいものがあるので、何個かは却下せてもらったがそれでも10日は彼女のために使われる期間となった。冬休みの1/3も使われるとなると、課題が終わらない予感がするので、早めに終わらせるよう計画を立てなくてはいけなくなった。どうしてくれるん?
まあ、勢いで予定を了承してしまった僕も悪いのだが、彼女の脳みそでこんなに予定を組み、その中で課題を終わらせられるか不安になった。
僕は高校を卒業してからは大学へ進学するので勉強は疎かにできない。試験は合格さえしたが、進学後の授業について行けるか不安であるからだ。
彼女の進路についてはまだ聞いたことがなかったから一応次に会う時に聞こうと思った。

そうこうしながらとうとう、冬休み前最後の登校日となった。もちろん朝の彼女の挨拶と僕の読書は変わらず続いていた。今日は授業はなく、初めから全校集会だったので、校長の長話しから始まる。
「えー、本日をもって一旦は学校に来なくはなりますが、高校生でなくなる訳では無いので、節度を持って生活をしてください。3年生はもう進路が決まったと思います。なのでそれへ向けての学習を怠らずに、規則正しい生活をしましょう。1,2年生の皆さんは…」
校長の話が長すぎるのでカット。内容もテンプレだったし。多分僕は途中から気を失ってたかもしれない。午前中しか学校に居ないはずなのに、校長のせいで一日中学校にいる気分だった。

そして冬休みへと僕達は踏み込んだ。彼女との予定はもう今日から始まっているので指定された場所へと向かう。一応集合時間の10分前に到着したのだが、そこには既に彼女がいた。
「あー、やっと来たー!もう!遅いよー」
「予定していた時間には遅れていない。君こそ来るのが早すぎるんじゃないのか。一体何時からここにいたんだ?」
「12:20くらいかな?」
「いや、いくらなんでも1時間以上待つのは馬鹿だろ…」
それだけ今日が彼女は楽しみだったのだろう。
「これくらい待つのが普通なのー!へははっ!」
「全然普通じゃないと思うけど…」
確かに彼女の普通は普通じゃないので、とりあえず仕方なく普通ということにしておいてこれからは予定通り集合をしたいところだ。
「とりあえず揃ったし…じゃあさ、カフェ行こ!カフェ!」
「そんなところでいいのか?せっかくテーマパークも近いんだし、そこで遊んだ方が君にとっても楽しいんじゃないのか?」
「そんな所って何?立派なお店ですけどー!つっても男子と2人でカフェに入るのが夢だったからいいのー!」
とよく分からない理由でカフェに入ることになったのだが、そういえば彼女はコーヒーを飲めるのだろうか?いちごミルクしか飲んでるところを見た事がないから。
「すいませーん!えーと、ベリーワッフル1つと、このよーろぴあんぶれんど?1つ下さい!君は?」
「アイスコーヒー1つ。」
「以上でよろしかったですか?」
「ほんとにそれだけでいいの?」
「別に僕は構わない。」
「つまんないのー。じゃあそれでお願いしまーす」
「ベリーとヨーロピアン、アイスコーヒーがそれぞれおひとつですね。かしこまりました」
「それにしても君ヨーロピアン・ブレンドなんて頼んで飲めるのか?」
「飲んだことないからわかんない!でも響きが美味しそうだったからなんとなく頼んでみた?かな」
「確かコーヒーの中でも結構苦いはずなんだけど…本当に大丈夫なのか?」
「全然へーきだって!ワッフルもあるし!」
「お待たせしました。ベリーとヨーロピアン、アイスコーヒーです。」
「ありがとうございますっ!」
彼女の目はもうそれは少女漫画かと言わんばかりにキラキラさせていた。僕はコーヒーはブラック派で。もちろん美味しく飲めるので問題はなく、実際ここの店の味も美味しかったのでいいのだが、彼女の反応がどうにもやっぱりおかしかった。
「にがぁ…なにこれ!にっが!もっとミルクとかでまろやかだったりしないの普通!?」
一気に彼女の目のハイライトが減った気がした。
「普通の店で出るコーヒーはカフェラテなんかじゃない限り、だいたいブラックだと思うんだけど…」
「先に教えてよー!」
と言いながら彼女はワッフルにむさぼりついていた。
「カフェでそんな常識を教えてる人なんかいる?」
と言いながら僕はアイスコーヒーを啜る。これに対して彼女は図星だったようで、沈黙してただひたすらワッフルを食べ、時にコーヒーを飲み、苦い顔をしていた。途中で僕がスティックシュガーとミルクを奨めたが、何故か頑なにそれらを拒否するため、全てを飲み干すのにはかなりの時間を要した。しかし彼女は最後はぷっはー!と勢いよくコーヒーカップを皿に置いて満足そうな顔をしていた。きっと酒かなにかと勘違いしてるんだろうってくらいの勢いだった。
まあしかし飲んでいる間も何も話してない訳ではなくて、進路の話だったり、家庭の話や、彼女自身の病気についての話もしていた。話し終わる頃に会計を済ませて店を出、見ると日が暮れかかっていたので、今日はひとまず家に帰ることにした。家に着いてからは彼女から連絡があった。
「今日は付き合ってくれてありがと!また直ぐにお出かけの予定入ってるからその時は君も予定を空けておくようにっ!それじゃおやすみ!」
朝から夜までほんとにテンションが高い彼女だが、やはり僕はこのようなイベント事にこれからも巻き込まれるようだ。

やがて予定の日となり次はどこへ行こうかと提案をし、やっと先日挙げたテーマパークの名前が出たので、そこへ向かうとした。昼過ぎに先日のカフェ前で待ち合わせをしたが、しかしいざテーマパークに着いてみるとそれぞれ長い行列ができており、アトラクションひとつに乗るにも時間がかかりそうだった。
「うひゃー!人がいっぱいいるや、こりゃ大変だね!」
「先に空いているアトラクションを回らないか?」
ここで当たり前の訂正を勧めたが何故か彼女は
「じゃあ時間つぶしにクレープの屋台行こ!」
とか言い出したので、さっきお昼ご飯を食べたのに大丈夫なのかと少し心配しながらも従うことにした。彼女の胃は宇宙ということにしておいて―実際俺の胃は宇宙だとか言ってる奴は大体少食だ―数分も歩かないうちに屋台へたどり着いた。そこで彼女は
「チョコバナナとストロベリーとマンゴーお願いします!」
相変わらずめちゃくちゃなことを言い出した。
「そんな3つも食べて大丈夫なのか?昼ご飯も食べたんじゃないのか?」
「甘いものは別腹なのー!君もなにか頼めば?」
「僕はいいよ」
「じゃあさっきの3つくださーい」
僕は甘いものは少し苦手だが、クレープは嫌いでは無い。しかし別に好んで食べる程でもないので今日はやめておくことにした。
「じゃあ私3つも持てないから君ひとつ持ってよ」
「僕は荷物持ちじゃないぞ」
そう反論したもののやはり結局持たされる羽目になったので、クレープ男子みたいになった。アトラクション待ちの時間をクレープを食べながら歩く彼女はやっぱり途中からくどくなったようで、ひとつは何とか食べきったものの、チョコバナナクレープに口をつけて少ししたところでその手が止まってしまった。
「んあー!甘ったるい!てかおなかいっぱい!もう食べれない!」
「だから言ったじゃないか…言っておくが僕は」
「余ったやつ勿体ないから君が食べて!」
彼女は言いかけた僕の言葉を遮り、彼女の持っていた食べかけのクレープを押し付けてきた。食べる気は無かったのだが、さすがにクレープを約2個も無駄にするのは勿体ないので、先に持っていたマンゴーから食べることにした。甘い。しかしそこまで食べ切るのに時間はかからなかった。
「食べ終わるの早くね!」
「そうでも無いと思うけど?というかさっき残した分は責任もって君が食べてね」
「私さっき食べれないって言ったじゃーん!あ、もしかして関節キスとか気にしてるー?えっちだなー。私は全然気にしないってー。ほら、関節じゃなくても普通にキスもできちゃうと思うよ?ちゅっちゅー!ってへははっ」
「そういう問題じゃなくて、出されたら責任もって食べるのが道理だと思うんだけど?というかからかわないでくれ」
「じゃあその責任は今、君にあるっ!私が君に提供したものだから、君が食べる責任があるよー!異論は認めない!からかうのもやめない!」
「第1に僕はそんなに甘いものは好きじゃないんだ」
「じゃあそのクレープ捨ててきたら?私はおなかいっぱいだから」
なぜか彼女はこの会話を楽しんでいるようで、顔がにやけていた。僕としてはしっかり断ったつもりだったのだが、彼女が拒否し続けるせいで、アイスが溶けてきてしまい、結局1部少し口紅が着いて赤くなった、食べかけのチョコバナナクレープも食べることになってしまった。
「甘いなぁ…」
「なんか言った?」
「いや、なんでもない。それよりさっき言ってたアトラクション、少しは空いたんじゃないのか?」
「そうかもね行ってみよっかー!」
先程乗ろうと思っていたアトラクションの行列は、先の1/5程になっており空いていたので、少しの間並ぶことにした。そして数分後僕たちの順番が回ってきたので、お金とチケットを交換し、観覧車に乗車した。ん?アトラクション?
「うわっ、高すぎだろこれ!」
なんで並ぶまでこれが観覧車だと気づかなかったのだろう。僕は馬鹿だ。
「なにー?高所恐怖症さんかな?」
「ごめん、僕まじで高いとこ苦手なんだ。終わったら教えてくれ」
そう言って僕は目を瞑り、頭を抱えてうずくまる。我ながら意を決した後にこうして怯えるのは悪い癖だと思う。というか情けない。
「じゃあ乗らなきゃ良かったのに!へははっ」
「それは…君の勢いに負けてチケットを買ってしまったから仕方なく…」
「言い訳はいりませーん」
パシャリ。シャッター音のような音が響く。一体なんだと思って顔を上げると、彼女がこちらにスマホを向けていた。
「面白いから撮っちゃった。へははっ」
「直ぐに消してくれないか頼む」
「じゃあこの景色を楽しんでくれたら考えてあげてもいいよー?」
「さっき僕が高いところが苦手だって言ったの聞いてなかったの?」
「つまんないのー!人生の半分損してるよ?」
「僕の人生はそんなことに半分も取られるほど悲しいものじゃないよ」
暫くして信じられないほど長い一周が終わった。結局撮られた写真は消してもらったけれど、(実は今はゴミ箱にあるだけで後ですぐに復元される)恥ずかしい姿を見られたので、見られたこと自体あまり納得はいっていない。そこいらのラブコメとかならあの狭い箱の中でいい雰囲気になったり、あるいはキスの一つや二つくらいあったのかもしれないが、別に食べただけだから僕はもちろん潔白だし、第1高所恐怖症なのでそんな余裕はなかった。―あれ?さっきのクレープの件は?関節キスの件は?口紅の後気にしてたあれは?ってなったそこの皆さん。はい、須能君、やらかしてます。気づいてないだけです。―

そして観覧車以外にもゴーカート(楽しい)やジェットコースター(怖すぎ)など、色々なところを回って日が傾き始めた頃―ちなみに彼女は一日中おかしいくらい笑っていた―そろそろ閉園の時間が近づいてきたため、閉園のアナウンスが流れてきた。
「それじゃあそろそろ帰ろうか。もう十分色んなところを回ったんだから君も満足だろ?」
そう後ろを歩く彼女に言って振り返ると、彼女が地面に倒れていた。
「おい!大丈夫か!だれかっ、救急車!」
僕は直ぐさま彼女に駆け寄って声をかけたが、彼女からの返事はない。彼女は気を失っていて、弱々しく息をしていた。やがて直ぐに救急車が駆けつけ、彼女をストレッチャーで救急車に乗せ、病院へと運んで行った。僕はその光景をただ、呆然と見ていることしか出来なかった。立ち上がると僕の足は酷く震えていた。
そのまま僕は家へ帰ったが、このことがショッキングで上手く食べ物が喉を通らなかった。

翌日、彼女から連絡があった。あの日は薬を飲むのを忘れていてそれで倒れてしまったという内容だった。それだけで倒れてしまうほどに病は彼女の体を蝕んでいたことに、改めて気付かされた。
その日、彼女が運ばれた病院へと向かう事にした。彼女に見舞いへ向かうという趣旨の連絡を入れ、自転車で向かった。道中の坂はきついものがあったけれど、そんなこと気にしてられなかった。僕は受付を済ませ、彼女の病室へと向かった。扉を開ける手がとても重かったが、開けてからは拍子抜けしてしまった。彼女がベットから離れ、体操をしていたからである。
「え!?ほんとに来ちゃったの!?」
「心配だったから当たり前だろ!というか何やってるんだ君は!」
「何って…ただの体操だけど?」
「あまり無理だけはしないでくれ…体の調子は?」
「ぜんっぜん大丈夫!ほら見て?こんなことも出来ちゃう!」
そう言って彼女は飛び跳ね始めたので無理やり止めた。さすがに僕が怒っていることを彼女は悟ったようで、しょんぼりとした様子でベッドに戻った。
「なんであんなことしてたんだ、君の体に何かあったらどうする?」
「だから大丈夫だってー。ていうかもう色んなこと起きてるんですけどー?」
「ふざけないでくれ、僕が一体どれだけ心配したか…とにかく頼むから安静にしていてくれ。それよりあの時なんでいきなり倒れたりしたんだ」
「だから言ったでしょ?薬を飲むの忘れてたーって」
「本当にそれだけなのか?」
「…ちょっと、無理しちゃったかな。」
「とにかく、もうこんなことがないようにしてくれ。明日から毎日にでも見舞いに来てやるから」
「うん…ありがと。」
こうして僕は病室を出たが、やはり彼女は大事なことを隠している気がする。彼女の余命が今年度中だということもあり、そろそろ近づいてきているのかもしれない。そう感じながら毎日病院へと通った。

「また来てくれたんだ。ありがと」
「今日はリンゴ持ってきた。食べるだろ?」
彼女は静かに頷いた。僕はリンゴを8等分にし、うさ耳もつけてやった。
「わぁ、上手だね!私より女子力あるんじゃない?」
「からかわないでくれ。それより君に聞きたいことがあるんだ。」
「そんな改まっちゃってなに?」
「君…なにか隠してるだろ?」
「やだなー。何も隠してないよー?倒れた原因はだいぶ前説明した通りだし」
「ほら、どこを隠してるか聞かなかったのに倒れた日のことを説明し出す。あの日のこと、いや、病院に運ばれてからのこと。なにか僕に隠してるんだろ?」
「君は変なところには気がつくなーへははっ!ほんっと、そういうところだけ敏感なんだから…。そうだよ。今まで隠してた。」
「話してくれないか?」
「うん。私ね、予定より余命…縮まっちゃったの。だから、今年でもう最後の命。年越しそば、食べられないんだ。」
「…。」
「だから、君との楽しい日々も、今月まで。ほんと今まで色々ありがとね」
「何言ってんの?まだ2回しか遊んでないでしょ。もっと他のところ行って楽しむんじゃないの?それに、これで最後みたいな言い方すんなよ。ってか死ぬから年越しそば食べれないとかどこまで食い意地張ってるんだよ。」
「ごめんごめん。でも私往生際悪いからさ、最後の最後まで抗って今年も年越しそば食べて、来年も君と遊ぶんだ!って。だから、頑張る。延命治療も受けるし、絶対冬休み明けには学校も行く!」
「うん、絶対また学校来いよ。僕のこと連れ回すんだろ?」
「任せて!へははっ」
そう彼女は言ったが、以前よりも元気がないのは僕でも簡単にわかった。きっと彼女は今かなり無理をしている。しかし僕には毎日彼女と連絡を取り、病院へ向かい、安心させることしか出来ないため、どうにも出来なかった。この日のあとも何度も何度も病院へ向かい、今日は冬休み中にも関わらず、冬季の講習があったので仕方なく学校へ行ったのだが、クラスからは変な目で見られた。あいつはどこへ向かってるんだ、あいつはどうして入院中―ここでは骨折で入院中ということにしている―の彼女ばかり気にするのか。段々とその疑問はみんなの中で大きくなって行き、問い詰められたりもした。恐らく休み中に病院へ向かう姿を見られていたらしい。もちろん僕はそれを受け流した。正直に話すと彼女からの約束を破ることになると思ったからだ。なんでこんなにいつも彼女のことばかり考えているのだろう。ああ、そうか。僕はきっと彼女のことが…

今日は放課後すぐに僕は彼女からのメッセージの内容を見て戦慄した。入院中の彼女から異常値が検出されたと、彼女から連絡があった。僕はもちろんすぐに駆けつけた。病室に入り彼女を見ると、体は起こしているものの、昨日までからは考えられないほどに弱って見え、その細い腕からは何本もの管が伸びていた。
「あ、今日も来てくれたんだ。ありがと。毎日毎日優しいねえ、へははっ」
「それ、どうしたんだ?しかも異常値って…」
「うん…なんかちょっとやばいみたいで、まあ今はこれのおかげで何とかって感じ」
彼女は腕から伸びた管を指さしている。その先には見慣れない機械があった。
「とにかくまぁ私は何とか生きてるし、病気も治すつもりだからっ、全然元気なんだけどね!」
「紗希」
「ふぇ?え、やだ名前呼んだ?私の聞き間違い?」
「紗希、僕は君のことが好きだ」
「ねえちょっとーなんでこのタイミングでそんな恥ずかしいこと言えるわけー?」
「本当は、治らないんだろ…?」
「なっ、そんな、泣かないでよー大丈夫だって」
僕は気がつくと涙を流していた。ああ、何故だろう。彼女はいつまでも生きていると、僕は勘違いしていたようで、今改めて現実を突きつけられると、腹の底から嗚咽が漏れている自分がいた。なぜ泣いているのか自分では分からなかった。それは今まで彼女への気持ちを隠していたからだ。自分でも気づかないほどに。
「名前、やっと呼んでくれたね。一生呼んでくれないのかと思ってた」
「僕を、置いて行かないでくれ…」
「私だってまだ遊びたかったけど、それは無理だよ。」
僕はどうしても彼女を手離したくない。けれどそれは届かない願いだと、神様には一蹴される。
「ほんと今日はありがとね、いきなりだったのにすぐ来てくれてびっくりしちゃったよーへははっ」
「僕が絶対に君を行きたい所へ連れていく、いや、連れてってもらうんだ、だから頼む、生きてくれ…!」
「私はまだ死なないよ」

今までにないほど自分の感情を露わにしてぶつけたせいか、いつもより時間の進みが早く感じたようで、直ぐに面会終了の時間になってしまった。僕は名残惜しくも彼女に別れを告げ、明日も来る約束を交した。帰宅後はいつもの通り彼女からメールが届いた。内容は今日初めて名前を呼んでくれたこと、初めて気持ちをぶつけてくれたこと、初めて素直になってくれたことに感謝される文で、それらを読んで僕はらしくないことをしたなと少し恥ずかしくなったが、正直に思ったことを言っただけだったから、後悔はしていない。

「それじゃあまた明日ね!おやすみっ!」と寝る前最後にいつも送られてくるメールに「おやすみ」とだけ返して床に就いた。今日も冬休み中にもかかわらず、また学校側からの講習があったので、朝起きていつも通り学校へ行き、今日も彼女の居ない教室で1人本を読み、1人で弁当を食べて―購買は冬休み中は無い―1人で家まで帰る。入学当初や中学も似たような1人の生活をしていて、それに慣れていたのに、最近はどうも彼女がいないと落ち着かない。「それってなんの本?」「へはっ!」「にがっ!」そんな耳に残る彼女の声は学校や家では聞こえない。そして今日も病院へ向かう。今日はたまたま家にあったリンゴを持っていく。前にうさ耳をつけたリンゴを作ってやったら、彼女が喜んでくれたのを思い出したからだ。そして自転車を漕ぎ病室の前へたどり着いた。
そこで僕は初めて違和感を持つ。病室の中から人の泣く声が聞こえてくるのだ。僕以外にこの時間、見舞いに来ている人がいることにも驚いたが、何より泣いていることに焦った僕は急いで引き戸を引いた。いつも通り彼女のベッドの方へ視線を移すと、そこには彼女の家族と思しき人達が泣き崩れていた。まさかと思い僕は彼女に近づく。そして、手に持っていたリンゴを床に落とした。それはぐしゃりと音を立てた気がした。しかしそれは僕の心が潰れる音だった。僕が見た彼女の姿は、仰向けになり、とても落ち着いた表情で眠っているものだった。しかし、彼女の体はピクリとも動いていない。胸も、腹も形を維持するばかりで膨らみも、縮みもしなかった。昨日彼女の腕から伸びていた幾本もの管や周囲にあった機械は全て姿を消し、ただ彼女、小原紗希の遺体がベッドに横たわっているだけだった。
「そんなっ…」
僕は泣いた。身体中の水分が全て流れ出たんじゃないかと思うほど泣いた。涙は全て彼女の寝ているベッドに吸われていき、濡らした。現実を受け止めきれない僕は彼女の手を取る。冷たくて、硬い。それは、生物が活動を停止した時にのみ感じとれる、無くなった体温だった。ひとしきり泣いて落ち着いた頃、正気を取り戻した僕は周りに紗希の家族がいた事を思い出し、慌てて取り繕った。家族を見ると涙の気配は消えて、ただ暖かく紗希を見ているようだった。
「あの…取り乱してすみません。彼女の、紗希さんの御家族ですか?」
紗希の顔とよく似た女性が柔らかい口調で話してくれた。
「ええ、そうよ。あなたは…」
「生前の彼女と、仲良くさせていただいた者です。彼女とはクラスは違うんですけど、たまたま病院で出会ったんです。前から何故か彼女には話しかけてくれていたのですが、その日から特に話す機会が増えたりして、本当に彼女には良くしていただきました」
「そうだったのね…あの子、今までいつも家では病院で何かある度に泣いていたのに、いつからか泣かなくなったのよ。きっと、あなたのおかげだったのね…ありがとう」
どうやら僕は、紗希の力になれていたようだった。この後ご家族と数分間、僕が過ごした日々や、紗希の行動や印象などを話した。彼女らはどこか安心した様子で少し涙を流しながらも、僕の話を聞いて頷いてくれていた。
やがて紗希にもご家族にも別れを告げて帰った。後日には葬儀が執り行われた。きっと最期くらいはと神様も思ったのだろう。たくさんの人に綺麗な花をたむけられて見送られ、雲ひとつない晴れ渡る空へと高く高く昇っていった。僕は特別仲が良かったようだからと、特別に遺骨を骨壷へ運ばせてもくれた。彼女の遺骨を全て詰め終わったあとは家へ帰り、まだ読み終わっていない本を読む。そう、彼女が話しかけてきてからどうにも集中して読むことが出来なかったあの本だ。しかし今は特に悲しい内容でもないのに、涙を落としてしまい、ページを濡らすことが増えた。きっとあいつのせいなんだろうと思い、結局この本を読むことはやめて、自分の棚へ大切に保管することにした。

気がつけば年も明けて、雪も溶けてきた頃、僕は大学へと足を進める。住み慣れた部屋は捨てて、今は地元と比べれば少し都会の狭い部屋に大量の既読の本たちを収めている。家には彼女の声はもちろん、聞きなれた親の声も響いていない。僕はいつものルーティーンで、1冊だけ未読のある本に「行ってきます」とだけ声をかけて登校する。キャンパスライフを迎えて少し僕は明るくなれただろうか。高校までは周りの近い距離に対していなかった友達も、今では多分人並みくらいにはいる。ただ友達だった紗希を除いて。僕はいつまでも彼女に囚われたままだった。きっとあの日の僕の発言に答えを返してもらっていなかったからだ。しかし今それを気にしていては、彼女にまだなにか小言を言われる気がするし、言えたことに後悔もしていないから忘れることにする。歩いているうちに大学へ着く。教室に入り本を開く。講義を聞く。購買でカレーパンを買う。そして家に帰る。僕は今日も「ただいま」と少し声を張って僕の帰宅を知らせる。やはり帰ってくる声はなかった。
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2021.08.24 ユーザー名の登録がありません

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