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4.潰れた果実
ナディアは軽やかな足取りで、整備された学園の石畳の上を歩いていた。
ナディアは真面目で勤勉だった。
全ての王子妃教育をすでに終えている。
作法も、教養も、王子妃としての教育を全て完璧にこなしてきた。
だからこそ、今日の「授業」は彼女にとって自由時間のようなもの。
王宮のシェフが作るスイーツを食べながら、教育係と王国の歴史や未来について語らう。
紅茶の香りに包まれながら、甘いものを口に運ぶあの時間だけは、勉強嫌いのイサークは寄りつかない。
無料という言葉ほど怖いものはないと言うけれど、偽りの婚約者というやりたくない役を演じなければならない。
これぐらいは、報酬として許されてもいいはず。
そんなことを考えていると、ナディアの身体に衝撃が走る。
ベチョッという音と共に、真っ赤に熟れた果実が足元に落ちた。
突然のことに驚いて固まっていると。
遠ざかる足音と、女子生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
紺色の制服のスカートに、赤い果汁がべっとりと飛び散っている。
ほんっとう……。くだらない。
こんな嫌がらせは初めてではない。
これまでだって何度もあった。
教室に閉じ込められたり、私だけ休講の連絡がなかったりもした。
ナディアは嫌がらせだとは気付いていなかったけれど……。
以前の私は、イサークの気を引こうと必死だったから。
だけど、今は違う。
ナディアは無表情のまま、ゆっくりとスカートの裾を払う。
甘い果実の香りと、足に垂れる果汁の不快感に目をひそめる。
赤い果汁が血のように滴るその姿は、はたから見れば転けて怪我をした人のように見えそうだ。
ナディアが歩き出そうとした瞬間。
低い声が背後から響いた。
「そこで何をしている」
振り返ると、そこに立っていたのは兄――ルペルトだった。
灰色がかった水色の髪を風に揺らし、いつもの冷徹な表情。
制服の上に羽織った生徒会役員のマントが、威圧感を増している。
ナディアは一瞬、目を細める。
ルペルトはナディアが女子生徒たちから嫌がらせをされていても、気にかけることなどなかった。
むしろ、自業自得だと吐き捨てるような視線を向けてきたことすらあった。
それなのに、今。
彼の視線は、ナディアの汚れたスカートに向けられている。
紺色のスカートに赤色が不気味に広がっているのを、じっと見つめている。
「……別に。何でもありません」
ナディアは淡々と答えて、再び歩き出す。
だが、ルペルトの声がそれを止めた。
「待て」
背を向けたナディアの背中を追い越し、前に立ち塞がる。
その動きは、いつもよりわずかに速かった。
「そのまま王宮に行くつもりか?」
「ええ。そのつもりです」
「その格好で?」
ルペルトの視線が、再びスカートに落ちる。
そこには、隠しようのない苛立ちのようなものが灰色の瞳に混じっていた。
ナディアは小さく息を吐く。
「着替える時間などありません。それに、さほど目立っていないので、誰も気付きません」
「――馬鹿か」
ルペルトの声が低く掠れた。
「公爵家の令嬢が、そんなみっともない姿で王宮に行くなど、父上の顔に泥を塗る気か」
いつものような冷たい言葉。
でも、どこかいつもと違う。
ナディアは兄の顔を、じっと見上げる。
ナディアの瞳に映る兄からは、感情を読み取れない。
「……お兄様は昨日。『一人で帰れ』とおっしゃいましたよね。それに、『これ以上騒ぎを起こすな』とも」
ルペルトの表情がわずかに強張る。
「それは――」
「だから、もう関わらないでください。私は一人で大丈夫です」
ナディアは静かに、しかしはっきりと告げて、兄の横をすり抜けようとする。
その瞬間、ルペルトの手がナディアの腕を掴んだ。
強く、だが、掴まれた腕は不思議と痛くない。
「……放してください」
ナディアの声は氷のように冷たい。
ルペルトは一瞬、目を伏せた。
手の力が緩んだかと思うと、掴んだ手に力がこもる。
「――着替えろ。俺の私室に予備の制服がある」
ナディアは、初めて兄の顔に驚きを浮かべた。
それは、ほんの一瞬。
すぐに無表情に戻る。
「……必要ありません」
「必要だ」
抑揚のない声。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「お前が、そんな姿で王宮に行くのは……許せない」
その言葉に、ナディアの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
でも、彼女はすぐにそれを押し殺す。
愛されたいなんて、もう捨てたはずだ。
なのに、なぜか――兄の瞳に、今まで見たことがない「何か」が宿っているように見えた。
ナディアは真面目で勤勉だった。
全ての王子妃教育をすでに終えている。
作法も、教養も、王子妃としての教育を全て完璧にこなしてきた。
だからこそ、今日の「授業」は彼女にとって自由時間のようなもの。
王宮のシェフが作るスイーツを食べながら、教育係と王国の歴史や未来について語らう。
紅茶の香りに包まれながら、甘いものを口に運ぶあの時間だけは、勉強嫌いのイサークは寄りつかない。
無料という言葉ほど怖いものはないと言うけれど、偽りの婚約者というやりたくない役を演じなければならない。
これぐらいは、報酬として許されてもいいはず。
そんなことを考えていると、ナディアの身体に衝撃が走る。
ベチョッという音と共に、真っ赤に熟れた果実が足元に落ちた。
突然のことに驚いて固まっていると。
遠ざかる足音と、女子生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
紺色の制服のスカートに、赤い果汁がべっとりと飛び散っている。
ほんっとう……。くだらない。
こんな嫌がらせは初めてではない。
これまでだって何度もあった。
教室に閉じ込められたり、私だけ休講の連絡がなかったりもした。
ナディアは嫌がらせだとは気付いていなかったけれど……。
以前の私は、イサークの気を引こうと必死だったから。
だけど、今は違う。
ナディアは無表情のまま、ゆっくりとスカートの裾を払う。
甘い果実の香りと、足に垂れる果汁の不快感に目をひそめる。
赤い果汁が血のように滴るその姿は、はたから見れば転けて怪我をした人のように見えそうだ。
ナディアが歩き出そうとした瞬間。
低い声が背後から響いた。
「そこで何をしている」
振り返ると、そこに立っていたのは兄――ルペルトだった。
灰色がかった水色の髪を風に揺らし、いつもの冷徹な表情。
制服の上に羽織った生徒会役員のマントが、威圧感を増している。
ナディアは一瞬、目を細める。
ルペルトはナディアが女子生徒たちから嫌がらせをされていても、気にかけることなどなかった。
むしろ、自業自得だと吐き捨てるような視線を向けてきたことすらあった。
それなのに、今。
彼の視線は、ナディアの汚れたスカートに向けられている。
紺色のスカートに赤色が不気味に広がっているのを、じっと見つめている。
「……別に。何でもありません」
ナディアは淡々と答えて、再び歩き出す。
だが、ルペルトの声がそれを止めた。
「待て」
背を向けたナディアの背中を追い越し、前に立ち塞がる。
その動きは、いつもよりわずかに速かった。
「そのまま王宮に行くつもりか?」
「ええ。そのつもりです」
「その格好で?」
ルペルトの視線が、再びスカートに落ちる。
そこには、隠しようのない苛立ちのようなものが灰色の瞳に混じっていた。
ナディアは小さく息を吐く。
「着替える時間などありません。それに、さほど目立っていないので、誰も気付きません」
「――馬鹿か」
ルペルトの声が低く掠れた。
「公爵家の令嬢が、そんなみっともない姿で王宮に行くなど、父上の顔に泥を塗る気か」
いつものような冷たい言葉。
でも、どこかいつもと違う。
ナディアは兄の顔を、じっと見上げる。
ナディアの瞳に映る兄からは、感情を読み取れない。
「……お兄様は昨日。『一人で帰れ』とおっしゃいましたよね。それに、『これ以上騒ぎを起こすな』とも」
ルペルトの表情がわずかに強張る。
「それは――」
「だから、もう関わらないでください。私は一人で大丈夫です」
ナディアは静かに、しかしはっきりと告げて、兄の横をすり抜けようとする。
その瞬間、ルペルトの手がナディアの腕を掴んだ。
強く、だが、掴まれた腕は不思議と痛くない。
「……放してください」
ナディアの声は氷のように冷たい。
ルペルトは一瞬、目を伏せた。
手の力が緩んだかと思うと、掴んだ手に力がこもる。
「――着替えろ。俺の私室に予備の制服がある」
ナディアは、初めて兄の顔に驚きを浮かべた。
それは、ほんの一瞬。
すぐに無表情に戻る。
「……必要ありません」
「必要だ」
抑揚のない声。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「お前が、そんな姿で王宮に行くのは……許せない」
その言葉に、ナディアの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
でも、彼女はすぐにそれを押し殺す。
愛されたいなんて、もう捨てたはずだ。
なのに、なぜか――兄の瞳に、今まで見たことがない「何か」が宿っているように見えた。
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