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19章 明子の松野の章

一時の安定

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彼が生きていたのをちゃんと、この目で、この腕で確認した。
私は、本当に安心した。
ただ彼が生きていただけなのに、もうこの世は救われたような思いだった。
彼は休む間もなく、気を違えた人を治す薬の研究を確認しに行く。
研究室には、彼の元奥さん、ゆり子さんがいた。
ゆり子さんは、喋ることなく、ずっと大人しくしゃがんでいるだけだった。
彼の元奥さんは、今の状態でいる事が凄く嫌みたいで、ずっと泣きながら、しゃがんでいた。
本当に、気を違えた人を治す薬なんて出来るのだろうか。

彼も戻って来たから、そろそろ船に行く人を決めて、重屋を安心させてあげなければいけない。
今、ここにいる男と言えば、彼、歴、塁、木林、田山、福山、松村、金木。
ちゃんと戦力になりそうな女の人は、加藤さん、朱里ちゃんだけ。
田山は研究があるから船に向かわせる訳にはいかない。
木林は、彼を厚く信頼している。
木林なら、彼の為にも、船を守り続けてくれるだろう。
でも、やっぱり木林だけでは不安。
加藤さんにも船に戻ってもらって、船を安心出来る場所にしてもらおう。
歴と私で二人に話した。
二人とも喜んで承諾してくれた。
加藤さんと木林が研究している場所を出ていった。
これでどちらの場所も、現状安心出来る。

彼が帰って来てから、歴も塁も子供に戻ったように彼に甘えている。
微笑ましい。
彼と歴と塁は、毎日、彼の元奥さん、歴と塁の母親に話しをかけに行く。
三人が居ない時の彼の元奥さんは、とても悲しそうだが、彼等が話しをしに行く時は、気を違えた人なのに、とっても嬉しそうに話しをしているように見える。
と言っても、気を違えた人なのでほとんど無表情なのだが。
少し、私は嫉妬する。
もし、本当に気を違えた人を治す薬が出来たら、歴も塁も母親にベッタリになってしまう。それは仕方ない。
でも、彼まで、元奥さんにベッタリになってしまうんじゃないかと、私はとても不安になる。

彼と福山、松村、金木が話している。
彼の元奥さんと谷川さんをここに連れて来てしまった以上、ここも安心出来る場所ではなくなってしまったと。
私は、彼がいる幸せの中にいたから考えもしていなかった。きっと、歴も塁も考えもしていなかっただろう。
確かに、ここは凄く危険。気を違えた人達からではなく、人間に襲われる危険がたくさんある。
今や、彼等にとって、気を違えた人達なんて、危険の内に入らない。
人間と戦う事の方が今の彼等には、恐ろしい事になっていた。
そこで彼が皆に提案していた。
ここには必要最低限の人だけを残し、皆は船に行ったらどうかと。
ここまで、研究する環境を整えて、途中で移動するのも確かに勿体ない。
だからと言って、必要最低限の人となると必ず、私は外される。
せっかく、彼の近くにいられるのに。
私の中では大反対だった。
こんな世の中になってしまった今、離れ離れになったら、次にいつ会えるかもわからない。
私は、離れたくない。
でも、彼の思いは、決まっていた。
ここでこれ以上、無駄に人を失いたくないから。
夜な夜な、男達で勝手に話しを詰めている。

翌朝、彼が話しを始めた。
ここは今、とても危険な場所になっているかも知れない。
苦渋の選択だが、必要最低限の人だけをここに残し、皆で船に向かって貰いたい。
福山君、金木君、谷川さん、朱里ちゃん、そして、塁。
五人は、船に向かって貰いたい。
私達が入っていなかった。
彼も私を必要としてくれていたのだ。
私は、凄く安心した。どんなに危険な場所でも、彼が居れば、私は安心出来る。
逆に、彼が居ない所は、どんなに安全であっても不安でしょうがない。
彼は私の気持ちをわかってくれていたのだ。
五人は、納得の上、研究をしている場所を後にし、船へと出発した。

彼が私に話してくれた。
なんで危険なのに、明子さんを残したか、わかるかい?
もうすぐ、薬が出来そうなんだ。昨日、田山君が、身体を張って、試したんだ。
まったく無茶をして、ゆり子さんに自分を噛ませて、完成した薬を自分に打っていたんだ。
昨日の朝に、試して、今日、まだ田山君は気を違えた人になっていないし、なる様子もない。
後数日、様子を見て、問題なかったら、元妻とゆり子さんに打って、皆で船に行くんだ。
私は喜んだ、だけど、なんで、なんの相談も無く、そんな危険な実験をしたの?
田山が気を違えた人になってしまったらどうするの?と問い詰めた。
彼が言った。
一昨日の夜に田山君に薬の処方を渡された。
最初から自分で試すつもりだったのだろう。
でも、俺が、明日皆に言ってから、俺で試すと言ったら、田山君は納得してくれたと思っていた。
翌朝、研究室に行くとすでにゆり子さんに噛まれた田山君の姿があった。
俺は、田山君に言われた通りに、田山君に薬を打った。
そしたら、苦しそうだった田山君が普通になったんだ。
俺は、なんで勝手な事をしたのか問い詰めたら、俺がやるってなったら、明子さんに怒られるからと答えたんだと彼は笑いながら言った。
よかった。彼が笑っている。いつも通り。
後は、田山の様子を見るだけ。
私は希望に満ち溢れた。

やっぱり、彼が居るとこの世は救われる。

19章終
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