約束

まんまるムーン

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 私は学校のような場所にいる。そして何かを箱に入れて他の女の子と一緒に別の建物に持っていく。階段を上がって指示された部屋へ持って行った時、ふと窓の外を見ると、真っ赤に燃え上がるような空が見える。夕焼け程度ではない。炎で燃え上がるような赤だ。そしてしばらくすると、窓の横の方から真っ黒な巨大な飛行船のような物が通り過ぎる。

 私はハアハア言いながら飛び起きた。まただ!またあの悪夢だ!額には汗をかいている。心臓がまだバクバク言っている。私はいつの頃からか分からないが、昔からこの同じ夢を何回も見る。夢の内容が抽象的過ぎて何なのか全くわからないけど、私にとってこの夢は恐怖でしかない。夢から覚めても恐怖が私を襲ってくる。夢は私にとって呪いのような物だった。子供の頃は、この夢を見ると必ず祖母の部屋のある離れに走って行って抱きついて泣いたものだ。自分の住んでいる母屋から祖母の部屋のある離れに繋がっている渡り廊下を無事抜けることが出来たら私は安全圏に入った、と子供心に信じていた。祖母が頭を撫でて「大丈夫よ、それはただの夢よ」と言うと、私は夢の中から現実世界に帰って来れる、そう感じていた。
 祖母はいつも私のシェルターで、呪いを解いてくれる魔法使いのような存在だった。



 祖母は、幼い頃から私の憧れだった。優しくて凜として昭和の女優さんみたいだ。詳しくは知らないけど昔はかなり苦労したらしい。しかし自分の苦労を話すのは、祖母の美学に反するのか、祖母から苦労話を聞いたことは無い。いつも穏やかに微笑んでいるイメージの祖母だが、時々一人の時、とても悲しい目をして窓の外を見ているのを私は知っている。 
 父は代々続いた裕福だった材木店を継がず、建築士の資格を取って他所で修行し、その後小さな工務店を始めた。父と祖父は仲が悪かったそうだ。祖父は私が生まれる前に亡くなっていたので、どんな人だったのかは、あまりよく知らない。でも、家族はみんな祖父の事を良く思っていないようだ。親への反発心からなのか、父は祖父を一切頼らなかった。真面目で仕事もできる人だったので、工務店は順調に大きくなり従業員も増え、自社で建てたアパートやマンションなどの賃貸を始めたことから不動産の別会社も経営するようになったそうだ。
 母は、裕福な家庭で苦労とは無縁に育ったお嬢さんだったが、父が会社を経営するようになってからは事務を手伝い、今では陰の経営者と呼ばれる程会社を仕切っている。母自身も自分にこんな一面があったことを自分が一番驚いているらしい。従業員は社長である父よりも、専務の母を恐れている。若い社員には叱咤激励、と言うより、叱咤叱咤…な感じの鬼専務だ。でも、会社に一人くらい鬼のような人が居た方がいいんだ、と父はいつも言っているので、そんなもんなんだろうと私は思っている。実際会社はかなりうまくいっているみたいだ。母の実家は所謂家柄が良い家庭で、親族ほとんどが有名大学卒、一流企業、医者、弁護士で、そんな一族に育った母は当然娘の私もそれなりの進路に進むのだと信じて疑わない。母の指導の下、幼い頃から私は塾や習い事漬けの毎日だ。私は家族みんなの期待を一身に受け、それを裏切らないように日々精進している。


 そんな家族のもとに私、水原ノエルは生まれた。


 幼稚園に入る前からピアノとバレエを習わされた。本当は水泳とか卓球をやりたかったのだけど、結局言い出せなかった。ピアノは好きだったけど、正直バレエは苦手だった。私は体が硬いのだ。幼児のころからそれは自覚していた。しかし母は、
「ノエルにはバレエが似合うわ。ロマンチックチュチュで踊るとこ、早く見たいな。」
と、言うので、母の期待を裏切ってはいけないと思い、硬いからだにムチ打って歯をくいしばってがんばった。だけど、もともとバレエの才能のカケラもない私は、後から入ってくる子たちにどんどん抜かれて劣等感の塊になった。練習はがんばっているのに先生からは練習不足だと怒られた。たまに手を上げられたり足で蹴られたりすることもあった。私は先生とその教室に対して恐怖しか感じなくなった。
その精神的悲しみがピアノにも響いたのか指もあまり動かなくなった。発表会では緊張のあまり演奏中に曲が思い出せなくなって途中退場した。家では最後まで弾けるのに、ステージにあがってライトを浴びると頭が真っ白になって、曲を覚えているはずの指が全く動かなくなってしまったのだ。私はトイレに走って行って一人で声も上げずに泣き続けた。恥ずかしい、情けない、という気持ちもあったが、それよりも家族、特に母親に恥をかかせてしまってどうしよう、という気持ちでいっぱいで、みんなのところに戻っていけなかった。私がしばらくトイレに篭っていると、何故わかったのか、こっそり祖母が迎えに来てくれた。
「ノエル、ここにいるの?大丈夫よ。出ていらっしゃい。」
そっとドアを開けると、祖母が優しく微笑んで立っていた。
「おばあちゃん…。」
私は祖母に抱きついて泣いた。祖母は何も言わず私の髪を優しく撫でた。そして祖母は私の手を引いて表へ連れて行き、自販機で暖かいココアを買ってくれた。二人で椅子に座ってそれを飲むと、体が温かくなって心が落ち着いてきた。
「お父さんとお母さん、大丈夫かな?私があんなことしちゃったから、恥かいて会場にいられなくなってないかな?」
私は泣きながら祖母に聞いた。
「あら、この子は…。自分が一番辛い思いをしてるのに、お母さんとお父さんの心配をしてるの?」
祖母は冗談まじりに笑って言った。
そっか、一番辛いのは私か…。
「おばあちゃん、私、バレエ、やめてもいいかな?ほんと言うと、そんなに好きじゃないの…。」
「あら、ピアノじゃなくてバレエなのね?」
「うん。」
「そうね…、好きでもない事はするもんじゃないわ。子供ってのはね、ある程度の我がままは許されるものなのよ。」
おばあちゃんは私にそう言うと、遠い目をしてどこでもないどこかを見ていた。


 その後、私は母にバレエをやめたいと言った。母も私の才能の無さに薄々気付いていたので、しょうがなく認めてくれた。その代わりに塾に行かないかと薦めてきた。私立の小学校を受験しましょうと言ってきたのだ。正直私は、小学校は近所の公立の学校に行きたいと思っていた。幼稚園も家から離れたところにあるキリスト教系のセレブっぽい園に通っていたので近所に友達がいなかった。お友達と遊ぶには、まず母親同士がアポを取り合い、それから日程や場所を決めて、オシャレなお菓子やおつまみなどを持ち寄り、親は子供たちを見守りつつ横でママ会を楽しむ、そのそばの限られた空間で子供たちを遊ばせるという感じだった。だから小学校は家の校区内の公立小学校に通って、近所に友達を作って、一緒に帰ったり自分達だけで遊んだりしたかったのだ。子供達だけで探検をしたり宝探しをしたりスリルを味わってみたかった。そんなささやかな私の望みも、期待に満ち溢れる母親の威圧感の下では消えうせてしまうのだった。私は両親の喜ぶ顔が見たくてがんばって期待に応えようとしてしまうのだ。
 私は一生懸命がんばった。テストの勉強だけでなく、生活そのものも観察されるようなテストがあるので、日々の生活そのものがテストだと思って、朝起きてから寝るまで、受験に受かる素晴らしい子供を演じる練習をした。その甲斐あって、受験は成功、見事名門私立小学校へ入学できた。小学校に入学してからはお受験の塾に行かなくてもよくなったので、母親はまた他の習い事を探し出した。私は勇気を振り絞って、前から習いたかった英会話教室に行きたいと言った。これには母親も賛成してくれた。
「これからは国際化社会になるし、英語は話せるようになった方がいいわ。」

 私は週に2回、英会話教室に行けるようになった。英会話教室は、初めて自分から言い出して始めた事だったこともあって、すごく楽しかった。普段日本語で話している時は、あまり自分の意見を言えないタチなのに、英語は「私」で言い始めることが多いせいか、英語で話すと、私はどう思うのか?私はどうするのか?改めて自分の思いを考えるようになって、その自分の考えを抵抗無く話しているのに気付いた。話しているうちに、自分でも気付かなかった気持ちを発見したりすることもあった。


 小学校、中学校までは、血の滲むような努力の甲斐あって、成績は上位をキープしていた。母に成績表を見せると、とても喜んでくれた。中学が終わり高校に入った頃、母は私に更なる期待を抱いた。大学はさらにハイレベルなところを目指してみたら、と薦めてきた。旧帝国大学レベルの工学部建築学科に入って、父の跡を継がせたいというのだ。私の通っている中学は地方の私立に多いタイプの学校で、大学まで直結しているが大学はそんなにレベルが良くなくて、ほとんどの優秀な生徒は関東や関西の有名大学や、その他国立大学に進学する。母は私にもっと頑張れば更なる飛躍を遂げられると信じて疑わなかった。母の期待を裏切りたくない一心で、私は受験を決意した。すると母は張り切って、親戚の知り合いの大学生を私の家庭教師につけた。


 家庭教師は安藤雅人という地元国立大の医学生だった。


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