天下算用 ~彦坂元正、地を喰らう~

秋澄しえる

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第三章

第三章 風魔の影、相模の悲歌

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 戦場の喧騒の中、元正の耳に、ある奇妙な噂が届き始めた。

「彦坂様、相模の山中に、風魔と名乗る忍びの一党が潜んでおるとの噂が、まことしやかに囁かれておりまする。彦坂様は、その名をお聞きになったことがございますか」

 藤七が、いつになく深刻な顔つきで、元正にそう伝えてきた。

「風魔か…名くらいは、聞いたことがあるわい。確か、北条に古くから仕えておる、影の者どもじゃったかな」

「はい。その者どもが、夜陰に紛れて、我らが陣に近づき、陣幕を切り裂いて食料を奪ったり、井戸に毒を投げ込んだり、あるいは馬の腹帯を切断したりと、様々な悪質な妨害工作を行っておるとのことで。しかも、その姿を見た者は誰一人としておらず、ただ、風のような気配だけが残るのみとか。まさに、風の魔物とでも申しましょうか」

 風魔。相模の足柄山や箱根の険しい山々に、古来より潜み住み関東に覇を唱えた北条家に影の如く仕えてきたという、謎に包まれた一族。

「風魔か」

 元正は、陣幕の中で、揺れる灯明の炎を見つめながら、低く呟いた。もし、その風魔とやらが、組織的に夜襲や流言飛語といった攪乱工作を行っているのであれば、この戦は、単なる力押しだけでは、容易に決着がつかぬやもしれぬ。小荷駄を預かる自分にとって、それはまさに悪夢のような事態であった。補給線が伸びきったところで、神出鬼没の風魔に襲われたら、ひとたまりもない。味方の士気にも、深刻な影響を与えるであろう。

 元正は、すぐに藤七に命じ、五感の鋭い、経験豊富な物見を数名選ばせ、夜間の陣営周辺の警備を、これまで以上に厳重に強化させた。同時に、風魔に関するあらゆる情報を手段を選ばず収集するよう厳命した。

「藤七、よいか。決して、深追いはするでないぞ。奴らは、ただの野盗や落ち武者狩りの類とは訳が違う。下手に獣を狩るつもりでかかれば、逆にこちらが狩られることになる。もし、危険を感じたならば躊躇うことなくすぐに退け。おみゃあたちの命は、あの北条の堅城よりもずっと大事なものなんじゃからな」

 藤七は、主君のその背中に、「はっ」と短く、しかし力強い返事を返した。その声には、武士としての、そして元正の腹心としての、揺るぎない緊張と覚悟が滲んでいた。若いながらも、元正の片腕として、数々の修羅場を潜り抜けてきた藤七は、主君の言葉の真意を、的確に汲み取る鋭さも持ち合わせていた。

「はっ、畏まりましてございます。すぐに腕利きの物見を集めまする。その風魔とやらの情報、必ずや掴んでご覧にいれまする」



 数日後、月も隠れた闇夜。徳川の陣から、およそ一里ほど離れた、うっそうとした森の中を、藤七と二人の物見が、息を殺し、忍び足で進んでいた。昼間の小競り合いで、この森の奥深くの沢筋に北条方の残党が潜んでいるという情報がもたらされたからであった。三人は、闇に溶け込む黒い着物を身にまとい、足音を完全に消すために柔らかい革で作られた足半を履いていた。

 突然、藤七の全身の毛が、まるで針のように逆立った。獣の匂い。いや、これは、ただの獣ではない。研ぎ澄まされた、冷たい殺気を放つ危険な獣の気配。木の葉を踏む微かな音とも違う、まるで空気が歪むような、あるいは蜘蛛の糸が音もなく頬を撫でるかのような異様な違和感。

「…いる…!」

 藤七は、腰の刀の柄に、音もなく手をかけた。背後の二人の仲間に、指先だけで、素早く合図を送る。三人は、一瞬にして身を屈め、傍らの、闇に沈む大木の深い影の中へと滑り込んだ。どくどくと自分の心臓の音が、やけに大きく耳に響く。

 やがて、深い闇の中から、まるで地面を滑るかのように、黒い影が三つ、四つと現れた。彼らは一切の物音を立てず、その動きは熟練した武士のそれとも明らかに異なっていた。もっと野性的で予測不能。そう、まるで、風の魔物、闇の住人。

「…あれが、風魔か…」

 藤七の額から、玉のような汗が、止めどなく噴き出してきた。

 風魔と思しき者たちは、徳川の陣のある方角を、闇夜に光る猛禽の眼のように鋭く窺っていた。その中の一人が他よりもやや体格が大きく、周囲に指示を与えるような統率者らしい雰囲気を醸し出していた。

 やがて、その統率者らしき男が、まるで夜鳥の鳴き真似のような、甲高い、しかしどこか不気味な音を発すると、他の者たちは、それに無言で頷き、再び、闇の中へと、まるで水が土に染み込むかのように音もなく消えていった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、森は、再び深い静寂を取り戻した。ただ、微かに、獣とも人ともつかぬ、異様な残り香だけが湿った夜気に漂っていた。

 藤七たちは、彼らが完全に去ったと確信するまで、身動き一つせず、息を殺して待ち続けた。やがて、藤七が、こわばった顔を上げると、仲間の一人が蒼白な顔で小刻みに震えているのが目に入った。

「…わ、わしゃあ、見たぞ、藤七…あれは、人の成せる技ではねえ…まるで、天狗か、狐か、何かの化け物じゃわい…」

 もう一人の物見も恐怖で声が上ずっていた。藤七もまた、その二人と全く同じ思いであった。

 直接、刃を交えたわけではない。だが、あの殺気、あの気配の消し方、そして何よりも、あの人ならざる者のような不気味さ。もし、不用意に飛び出していたならば生きてこの場を帰ることはまずできなかったであろう。

 翌朝、藤七からの詳細な報告を受けた元正は、厳しい表情で腕を組み、深く沈思した。

「奴らは、間違いなく動いとるな。それも、我らが陣の目と鼻の先まで。これは、ただの物見や斥候ではあるまい。何かを確実に狙っとる。食料か、武器か、それとも、将の首か…あるいは、もっと大きな何かを…」

 元正は、その風魔という存在を、もはや単なる噂や、あるいは無視できる小さな脅威としてではなく、この戦全体の行方を左右しかねない、現実的で、そして恐るべき脅威として認識せざるを得なかった。彼らの真の目的は何なのか。徳川の陣に大規模な夜襲をかけるつもりなのか。あるいは、もっと巧妙な方法で我らを混乱に陥れようとしているのか。もしかすると、家康の寝所に忍び込み、その首を狙うことすら、彼らにとっては造作もないことなのかもしれない。そう考えただけで、元正の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。

「この戦は、表に見える敵だけでなく、闇に潜む、裏の敵にも十二分に備えねばならんということか…やっかいなことよのう…」

 元正は、小荷駄の守りを、これまで以上に厳重に固めると共に、風魔の忍びの動きに最大限の警戒を怠らぬよう、全隊に、改めて厳しい触れを出したのであった。



 小田原城を包囲する豊臣方の大陣営。夜ごと、丘という丘に、無数の篝火が赤々と焚かれ、その光景は、遠く小田原城の城壁からも、はっきりと見て取ることができた。そして、その篝火の照らし出す、小田原城を正面に見下ろす丘の上では、まるで戦勝祝いでもするかのような賑やかな宴が連夜繰り広げられていた。

 笛や太鼓の音がけたたましく鳴り響き、陽気で下卑た歌声が、夜の静寂を無遠慮に破り、風に乗って籠城する北条方の将兵たちの耳にも嫌でも届いてくる。それは、圧倒的な兵力と、そして何よりも尽きることのない物資の余裕を、これでもかと見せつけ、北条方の士気を根底から打ち砕こうとする太閤秀吉の冷酷にして巧妙な心理戦であった。

 元正は、自らが不眠不休で確保し、前線へと送り届けた兵糧や酒が、このような非人道的な「戦意を削ぐための宴」に使われているという現実に、割り切れない思いを抱かずにはいられなかった。彼は、長柄奉行として、徳川家の小荷駄の総元締として、前線の諸将をもてなすための上質な酒や肴も当然のことながら調達し送り届ける立場にあったからだ。

 ある夜、陣中に響き渡る、遠い宴の喧騒を他人事のように聞きながら、自らの陣幕の中で揺れる灯明の炎を見つめ誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。

「…関白殿下のお考えは、まっこと、常人の及ぶところではねえな。あの宴は、小田原の城に籠る者どもにとっては地獄の釜の蓋が開いたような心地であろう。力攻めだけでなく兵糧攻め、それに加えてあの仕打ちか。戦は力だけでは勝てん。相手の心を完全に折り砕くことこそが肝要だ。その理屈はわしにもよう分かる。じゃが、しかしよ…」

 元正は、手酌で注いだ酒を、ぐいと一気に飲み干した。決して美味い酒ではなかった。

「あまりにも酷い。あまりにも人の心をもてあそぶやり方だわ。わしは好かん。戦は勝つか負けるか、生きるか死ぬか、ただそれだけのことじゃ。あのようなやり方で、武士としての誇りまで土足で踏みにじる必要が、一体どこにあるというのじゃ」

 その、誰に聞かせるでもない独り言は、元正の、心の奥底からの、偽らざる心情の吐露であった。



 その頃、小田原城内では日に日に絶望の色が濃くなっていた。城壁の外からは、豊臣方の大軍が発する大地を揺るがすような鬨の声や、鉄砲の一斉射撃の轟音が昼夜を問わず鳴り響き、城兵たちの心をじわじわと蝕んでいく。兵糧は、もはや底を突きかけ、井戸の水さえも枯れ始めている。傷つき、あるいは病に倒れた兵たちの苦痛に満ちた呻き声が、薄暗く湿っぽい城内のそこかしこから聞こえてくる。もはやこれまでか、という諦めの空気がまるで不治の疫病のように城内全体に蔓延し始めていた。

 当主である北条氏政、氏直親子は、連日、重臣たちを集めて評定を開いてはいたが、もはや名ばかりの評定であった。降伏か、玉砕か、あるいは当主氏直の切腹と引き換えに家名だけでも存続させるか。重臣たちの意見は、まとまるどころか互いの責任をなすりつけ合うような、醜い言い争いに終始していた。かつて関東に武威を轟かせた北条家百年の結束も、今やほぼ崩壊寸前であった。松田憲秀のような、豊臣方に内通を疑われる重臣も現れ、城内は疑心暗鬼の闇に包まれていた。

 そんな、出口の見えない絶望が支配する城の一隅、奥向きの御殿では、さらに陰惨な、あまりにも理不尽な悲劇が人知れず進行していた。

 北条氏直の正室は、徳川家康の娘である督姫であった。その督姫の威光は、小田原城内においては絶対的なものであったと言ってよい。だが、氏直には、督姫の他にも数人の側室や、それに近い立場の女たちがいた。

 その中に、風魔の頭領の娘であると噂される、桔梗という名の、際立って美しい女がいた。彼女は、正式な側室として認められていたわけではなく、その出自の故か、あるいはその類稀なる美貌故か、督姫からは蛇蝎の如く嫌われ、常に監視され、奥向きでは肩身の狭い息の詰まるような日々を送っていた。

 その桔梗には、氏直との間に生まれた娘が、一人だけいた。名を沙耶といい、この時、十一歳。年の割には聡明で、大きな瞳には、母親譲りの、強い意志の光を宿していた。そして、日に日に母の美貌を受け継ぎ、花のように瑞々しく成長していくその姿は、かえって督姫の狂おしいまでの嫉妬心を煽るだけであった。

 桔梗は、その出自ゆえの不遇と、督姫からの執拗な嫌がらせに、ただひたすら耐え忍びながら、愛する娘の沙耶だけを、この世の何よりも大切に守り育ててきた。彼女にとって、沙耶の屈託のない笑顔と、その健やかな成長だけが、この息の詰まるような城での唯一の生き甲斐であり、そして希望の光であった。

 沙耶もまた、母である桔梗を心の底から慕い敬愛していた。母から聞かされる風魔の隠れ里の不思議な物語や夜空に輝く星々の伝説、そして母が密かに教えてくれる薬草の知識や、いざという時に身を守るための体術などを彼女は何よりも楽しみにしていた。

 その、どんな苦境にあっても失われることのない、天真爛漫な明るさは、桔梗にとって、乾いた心を満たす清らかな清水であると同時に、この娘の過酷な天命を予感させ、その将来を深く案じさせるものでもあった。

 だが、豊臣の大軍による小田原包囲が始まり、落城がもはや時間の問題となるにつれ、奥向きの女たちの世界の空気は一変した。督姫の、桔梗と沙耶に対する長年鬱積してきた憎悪と嫉妬心は、この北条家滅亡という未曾有の混乱と絶望を隠れ蓑とするかのように、ついにその醜い牙を剥いたのであった。

「…あの、使えぬ風魔どもめ。そして、その血を引く、忌まわしき売女めが。その腹から生まれたという、あの小生意気な小娘もまた同罪よ。この北条家が、今まさに滅びようとするこの時に、これ以上生かしておいては我が夫の名誉を汚し北条家末代までの恥となる。今こそ、あの忌まわしい母娘を始末し、北条家の血筋を清めねばならぬ…!」

 督姫の狂気に満ちた囁きは、彼女に盲従する女中たちや血気にはやる分別もない若侍たちの間に、まるで毒のように、静かに、しかし確実に広がっていった。それは単に嫉妬に狂った一人の女の癇癪というだけではなかった。その背後には、北条家の血筋から、風魔という異質にして得体の知れぬ血の混じったものを、この機会に根絶やしにしようとする、もっと冷酷な、そして組織的な意志が蠢いていたのかもしれない。

 そして、天命の夜は、あまりにも静かに、そして残酷に訪れた。

 冷たい雨が、小田原の町を、そして城壁を、音もなく濡らし続けていた。雨に打たれる松明の炎が弱々しく揺れている。風の音に混じり、遠く豊臣方の陣からは、いつものように陽気な酒盛りの唄声や威嚇のための鉄砲の音が途切れ途切れに聞こえてくる。城内には夜襲を警戒する足軽たちの張り詰めた声も今は途絶え、まるで墓場のような不気味な静けさが支配していた。

 沙耶は、母である桔梗の温かい腕の中で、いつものように子守唄を聞きながら、どこか不安な眠りに入ろうとしていた。母の優しい匂い、母の確かな温もり。それが、この出口の見えない不安な日々の中で、沙耶に唯一安らぎを与えてくれるものであった。

 突然、障子の向こうで、複数の男たちの、押し殺したような低い声と、雨に濡れた草鞋が、板敷の廊下をぎしぎしと踏みしめる音がした。

「…ここか。あの風魔の女狐と、その仔が隠れ住むという、離れ座敷は」

「ああ、間違いない。督姫様からは、決して生かして返すなとの厳しいお達しだ。手早く済ませろ。誰にも見られるなよ。事が済んだら、適当に火でも放って焼死に見せかけるのがよかろう」

 獣じみた、下卑た囁き声であった。

 桔梗は、弾かれたように、その美しい身を起こした。その顔から、さっと血の気が引き、全身が、目に見えぬ恐怖で氷のように強張るのが、抱きしめられていた沙耶にも痛いほど伝わってきた。

「沙耶…決して、声を上げてはなりませぬぞ…。何があっても、この母の側を、決して離れぬように」

 その声は、か細く、そして絶望的に震えていた。

 次の瞬間、障子が獣の爪で引き裂かれたかのように、荒々しく蹴破られた。月明かりさえも届かぬ、深い闇の中に、ぼうっと幽霊のように浮かび上がったのは、獣のようなギラギラとした目を光らせる覆面姿の男たちであった。その手には、鞘から抜き放たれた鈍い光を放つ刀が固く握り締められている。部屋の中に、男たちの汗と酒の匂いとむせ返るような殺気が一瞬にして充満した。

「きゃっ…!」

 沙耶は短い悲鳴を上げ、母の震える着物の袖に必死に顔を埋めた。

「…何者かっ!何用あって、このような夜更けに押し入るか!」

 桔梗は、恐怖に震える沙耶を細い背中にかばい、毅然として立ちふさがった。大きな瞳には、恐怖と怒り、そして何よりも、愛する娘を命に代えても守り抜こうとする、母としての強い意志が宿っていた。だが、か弱い女の細腕一本で、殺意に満ちた数人の男たちにどうして敵うというのであろうか。

「ふん、風魔の売女めが。今更、命乞いか。遅いわ!」

 男の一人が下卑た嘲るような笑い声を上げながら、桔梗に容赦なく斬りかかった。

「母様っ…!」

 沙耶の目の前で、母の清らかな白い寝間着が、鮮血で見る見るうちに赤く染まっていく。桔梗は、苦悶に満ちた声にならない呻き声を上げ、それでもなお、沙耶を守ろうとするかのように両腕を庇うように広げたまま、沙耶の目の前にゆっくりと崩れ落ちた。

「…さ、や…逃げ…なさい…生きて…生き…」

 それが、母の最後の言葉であった。その美しい瞳から、光が永遠に失われていくのを、沙耶は、ただ、なすすべもなく見つめているしかなかった。

「母様…母様…いやぁ…!いやぁぁぁっ!」

 沙耶は、まだ微かに温かい母の亡骸に必死に取りすがり、この世の終わりのように泣き叫んだ。つい先刻まで、あんなにも温かかった母の体が氷のように急速に冷たくなっていく。口の中に広がる、生臭い血の匂いと鉄錆のような味が沙耶の五感を完全に麻痺させた。

 男たちは、沙耶の姿を道端の虫けらでも見るかのように、何の感情も浮かばない目で見下ろしていた。

「督姫様の厳命だ。風魔の血は一滴たりともこの世に残すな、とな…」

 一人の男が、母の血で濡れたおぞましい刃を沙耶に向け、にやりと獣のような笑みを浮かべながらじりじりと迫ってくる。その目は、飢えた獣が無力な獲物を前にした時の残忍な光を宿していた。

「…死ぬ…私も、母様のように、この汚い、醜い男たちに、なぶり殺されるのだ…いや…死にたくない…死にたくないよう…母様、助けて…助けてえええ…」

 沙耶の、まだ幼い心は、言葉にできぬほどの恐怖と底知れぬ絶望と、そして燃えるような激しい怒りで今にも張り裂けそうであった。父であるはずの北条氏直の顔、優しかった母の笑顔、いつか母と訪れた風魔の隠れ里の深い緑の木々、そして目の前の非情にして醜悪な男たちの顔が、まるで走馬灯のように、彼女の頭の中をめまぐるしく駆け巡った。

 その時であった。部屋の隅の深い闇の中から、闇そのものが人の形を取ったかのように、音もなく一人の男がすっと現れた。

 全身を闇に溶け込む黒装束に包み、その顔は、深い覆面で隠されている。だが、その覆面の下から覗く両の眼だけが、闇夜に光る猫の目のように鋭く、そしてどこか、深い悲しみを湛えているように沙耶には見えた。

その男の背後には、さらに数人の、同じ黒装束の者たちが、まるで影のように、音もなく控えていた。

「…!? き、貴様ら、何者だ!」

 沙耶を殺そうとしていた男たちが、この予期せぬ闖入者の出現に一瞬驚き、慌てて身構えた。

 だが、次の瞬間には、彼らは、もはや声を発することもできなかった。その黒装束の男が動いたのは、ほんの一瞬。闇夜を疾駆する黒豹のように、風のように、男たちの間を音もなく駆け抜けた。閃光。肉を断つ、鈍い音。そして骨の砕ける乾いた音。覆面の襲撃者たちは、一体何が起こったのかを理解する間もなく、次々と操り人形の糸が切れたかのように、その場に崩れ落ちていった。その手際はあまりにも鮮やかで、神業としか言いようのない凄まじい技であった。

 部屋には、先ほどまでの生々しい血の匂いに加え、さらに多くのおぞましいまでの血飛沫と、死だけがもたらすことができる、冷たく絶対的な静寂だけが残された。

 沙耶は、あまりの出来事に泣くことさえも忘れ、ただ呆然と黒装束の男を見つめていた。男の体からは、微かに深い森の木々の匂いや湿った土の匂い、そして、どこか懐かしい獣の匂いがした。

 男はゆっくりと沙耶に近づき、その前に音もなく、すっと片膝をついた。

「沙耶姫。お迎えに参りました。風魔、不知火の沢、玄斎の命により、玄丞、ただいま参上つかまつりました」

 玄丞と名乗ったその男は、低く、しかし芯のある、落ち着いた声でそう言った。その声には、一切の感情が込められていなかったが、沙耶を見つめる、その覆面の下の瞳の奥には、微かな、しかし確かな憐憫の色が浮かんでいるように、沙耶には見えた。

沙耶は、震える唇で、かろうじて、途切れ途切れの言葉を紡いだ。

「…玄丞…?…お、叔父上…?…母様を…母様を助けに、助けに来てくださったのですか…?」

 だが、桔梗は、もう二度と動かない。その美しい顔は安らかとは程遠い、深い苦悶に歪んだままであった。

「…申し訳ございませぬ、姫。お母上のことは…我らの力が、及びませんでした。…じゃが、もはや、ここに一刻たりとも留まるのは危険にございます。姫のお命もまた風前の灯火。どうか我らと共にお越しください。必ずや風魔の者どもが、姫をこの手でお守りし、安全な場所へとお連れいたします」

 玄丞は、有無を言わせぬ、しかしどこか優しい気迫で沙耶を促した。沙耶は、母の亡骸から小さな体を引き離されそうになるのを必死に抵抗した。

「いや…いやだっ!母様と一緒がいい!母様と離れたくないよう!母様を、一人にしないでえええっ!」

 だが玄丞は、沙耶の言葉に構うことなく、意外なほど優しい腕にそっと抱きかかえた。沙耶の幼い体は羽毛のように軽かった。

「姫、しっかりとお掴まりくだされ。これより少々荒っぽい道行きとなりまする故」

 そう言うと玄丞は、沙耶をその背中に赤子を負うように軽々と背負うと、闇夜を駆ける鳥のように軽やかに部屋を飛び出し、複雑に入り組んだ城内の闇を音もなく駆け始めた。

 他の黒装束の者たちもまた、一切の物音を立てず影のように玄丞の後に続いていく。彼らは小田原城内の秘密の通路や警備の薄い場所を隅々まで熟知しているかのようであった。

 時折、督姫の手の者や、豊臣方の油断しきった巡邏兵と遭遇することもあったが、玄丞たちは風のように巧みにその場をやり過ごし、あるいは一瞬にして相手を無力化しながら闇の中をひたすらに進んでいく。

 玄丞の広く温かい背中の上で、沙耶は母を失った深い悲しみと圧倒的な恐怖、そして自分を助け出してくれたこの叔父に対する戸惑いと、まだ拭いきれぬ不信感とが幼い心の中で激しく揺さぶられるのを感じていた。

「…私は、これからどこへ連れて行かれるの…?…この人たちは本当に私の味方なの…?…それとも、もっともっと恐ろしいことが私を待っているの…?…母様…一人にしないで…置いていかないで…」

 玄丞の背中で、沙耶はとめどなく涙を流しながら、いつしか疲労のあまり深い眠りへと落ちていった。その小さな手は、母の血で濡れた着物の袖の切れ端を唯一の形見であるかのように固く握りしめていた。

 こうして、北条の血を引く一人の幼い姫は、風魔の手によって歴史の表舞台から忽然と姿を消した。彼女の数奇な天命を知る者は、この世にごく僅かしかいなかった。そして、その天命の糸が、遠く三河の地からやって来た、一人の型破りにして異能の「算用師」のそれと、複雑に深く絡み合い、思いもよらぬ壮大な紋様を織りなし、新しい時代の扉を開くことになるなどとは誰も知る由もなかったのである。



 小田原城の攻防戦は、いよいよ最終局面を迎えていた。七月に入り、ついに北条氏政・氏照兄弟は、豊臣秀吉の厳命により無念の切腹を遂げた。
 当主である北条氏直は、その正室が徳川家康の娘である督姫であったことへの配慮からか一命だけは助けられ、高野山への追放と決まった。

 こうして、戦国乱世に関東百年の覇を唱えた、相模の獅子と恐れられた名門・北条氏は、その栄華の歴史に静かに、そしてあまりにもあっけなく幕を下ろしたのであった。

 戦が終われば、論功行賞である。徳川家康の元に、太閤豊臣秀吉から届けられた沙汰は、家康にとって、ある程度は予想していたものの、その過酷さと非情さにおいては、まさに青天の霹靂とも言うべき衝撃的なものであった。

 それは、北条氏が遺した旧領である、武蔵、伊豆、相模、上野、下野、上総、下総、常陸の、いわゆる関八州、およそ二百五十万石を与えるという、表向きは、これ以上ないほどの大幅な加増であった。だが、その代償として、徳川家が、長年、骨身を削り血と汗を流して治めてきた、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の東海五カ国を、全て召し上げるという、あまりにも厳しいものであったのだ。

 家康の脳裏には、この、一見すると破格の恩賞に見せかけた、しかしその実、徳川家の力を削ぎ、そして中央から遠ざけようとする、秀吉の周到綿密が痛いほどに感じられた。それは、豊臣政権下における、徳川家の多難な行く末を暗示しているかのようでもあった。



 元正は、夕焼けに赤く染まる相模灘を見つめた。その瞳には、間もなく始まるであろう、新たな、そしておそらくはこれまでにないほど困難な「算用」への静かな決意の光が宿っていた。

「藤七、九蔵」

 元正は、傍らに控える忠実な二人の配下に低く力強い声で呼びかけた。

「はっ」

「いよいよ我らが骨を埋めるべき土地が決まったようじゃわい。じゃが、おみゃあら覚悟はよいか。我らは二度と、あの三河の土を踏むことはできんやもしれんぞ」

「彦坂様…やはり、関東へ、でございますか」

 藤七が、緊張した面持ちで問い返した。その声には、故郷を離れることへの一抹の寂しさと、しかしそれ以上に、彦坂と共に新たな道を切り開くことへの確かな覚悟が感じられた。

「うむ。関八州、およそ二百五十万石。これまで、我らが見たこともないほどの広大にして荒れ果てた土地を、殿は我らに任せると、そう仰せられた。その地を一から開墾し民を安んじ、徳川家の新しい世の礎とする。そのための準備を抜かりなく進めるのじゃ」

「畏まりましてございます!」

 藤七と九蔵は、元正のその言葉に力強く応え、深々と頭を下げた。彼らの目にも主君と同じ、新しい挑戦への熱い炎が燃え上がっていた。

 その夜、元正は陣屋の一室で、灯明の揺れる炎の下、深く沈思黙考していた。突然、陣屋の外で慌ただしい馬蹄の音が響き、程なくして家康からの使者が息を切らして元正の前に参上した。

「彦坂様、殿より急ぎの御用にてございます。明後日、殿と共に江戸へお立ちとの儀にてございます。急ぎ支度をとのこと」

 元正の顔に、一瞬驚きの色が浮かんだが、すぐに強い決意の光が瞳の奥に宿った。江戸。これまで、その名を噂で聞くことはあっても、実際にその地を見たことはない。そこが彼の、徳川家の新たな戦場となるのだ。

「よし、わかった。殿には、この彦坂元正、必ずやお供つかまつると、そう伝えよ」

 元正は立ち上がり、使者に力強くそう応えると、窓から月明かりに照らされた相模灘の方をじっと見つめた。漆黒の海の上には、水軍の無数の船影が次の戦いを待つ獣のように静かに浮かび上がっていた。

「…時代は変わる。北条は滅び、そして徳川は関東へ。我らも否応なく大きな流れの中に飲み込まれていくのじゃな…」

 元正の誰に言うともない呟きは夜風に乗り、音もなく闇の中へと吸い込まれていった。

「次なる『算用』は、まだ見ぬ関東の江戸の地で。面白い。やってやろうではないか!」

(第三章 了)
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